京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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伏見区観光協会のHPを参照して、JR藤森駅付近にある西福寺について書いてみます。
伏見区深草大亀谷西寺町にある西福寺は、如意山光厳院と号する浄土宗寺院です。


西福寺は、南北朝時代(1336〜92)に、北朝初代の光厳天皇が念仏堂として創建したと伝えられ、光厳院と称しました。伏見は平安時代中期に鳥羽殿や伏見殿が創建され政治の中心地となった地で、伏見殿はその後、持明院系(後深草・伏見・後伏見・花園天皇)の皇室領として受け継がれ北朝の歴代天皇に継承されました。伏見には南北朝時代に大光明寺(前に掲載しています)など北朝ゆかりの寺院が建立され、光厳院(西福寺)もその一つだったようです。その後、文禄年間(1592〜95)に豊臣秀吉が伏見築城に際して現在地に移転し、寺名を西福寺と改名しました。

平成十三年(2001)年に360年ぶりに改修された本堂には、中央に本尊・阿弥陀如来像、脇仏に観音菩薩と勢至菩薩が祀られています。また境内には、歌人・田中常憲の石碑があります。

田中常憲(たなかつねのり 1873〜1960)は、明治六年(1873)に鹿児島県に生まれ、上京して落合直文に歌を学びました。長野、大阪、大分を経て福岡県田川、京都府福福知山、桃山の各中学校で校長として教育に献身しながらも歌人として作歌も続け、晩年に歌誌「新月」を創刊し多くの人材を育てました。昭和三十五年(1960)にこの西福寺の傍に住み八十八才で死去しました。
西福寺にある歌碑には「ふかくさの 野辺の雲雀(ひばり)よ 春たたば わが墳の上の雲にきてなけ」と刻まれています。

最後に、西福寺は伏見を中心とした「洛南七福神」の一つでもありました。大正時代には盛んに巡拝されたそうですが、現在は行われていないということです。

以下は、伏見区各地にある「洛南七福神」です。
(法性寺以外は、このブログにも採り上げています。)

金札宮(恵比須)
大黒寺(大黒天)
長建寺(弁財天)
海宝寺(福禄寿)
西福寺(寿老人)
石峰寺(布袋尊)
法性寺(毘沙門)

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伏見稲荷大社、伏見観光協会のHPを引用させていただいて、伏見稲荷と東福寺の間にある小さな2つの寺社について書いてみます。

まず、田中神社です。
京阪電車の鳥羽街道駅からすぐ近く(東山区本町二十丁目)、伏見街道沿いにある田中神社は、伏見稲荷大社の境外摂社で、祭神は田中大神(たなかおおかみ)です。田中大神は伏見稲荷大社の五祭神の一つでもあり、伏見稲荷が創建される以前から稲荷山周辺に祀られていた神と考えられています。(尚、田中神社という神社は京都市内に3ヶ所程あるようです)

創建年代は不明ですが、かつては田中明神とも呼ばれていました。「古今著聞集」には和泉式部が伏見稲荷に詣でた際に田中明神付近で時雨に遭って、田を刈っていた一人の童が雨具を貸してくれたという逸話が残っていることから、平安時代にはすでに現在の地にあったと考えられています。
また、室町時代の享徳三年(1454)の稲荷祭で無法者から矢を射かけられた稲荷大社の神輿が、この社に避難したという記録があるそうです。今ではたいへん小さな神社ですが境内は緑が多く、特に大きなクスノキは高さ13.1m、幹周1.7mあり区民の木に選ばれています。



続いて、極楽寺です。
東山区本町二十二丁目にある極楽寺は、浄土宗西山禅林寺派に属する小さな寺院です。
前にも何度か書きましたが、この東福寺から伏見稲荷に至る地域は、平安時代中期の延長三年(924)に関白藤原忠平が氏寺として法性寺を建立した場所でした。現在、極楽寺のある辺りは、法性寺の塔頭・十王堂の旧地と伝えられ、江戸時代の古地図には十王堂と記されているということです。

極楽寺という寺名は、伏見区深草にあった大寺極楽寺(現在の宝塔寺の前身。宝塔寺に関しては後日ブログに採り上げます。)の名を受継いでいるということで、本尊阿弥陀如来立像は、鑑真和上の作、或いは行基菩薩の作といわれています。その他、閻魔大王をはじめ、秦広王から五道転輪王までの十王像が祀られていて、これら土製の十王像は、後にこの伏見から発展し全国に広まった伏見人形の原形の一つともいわれています。また丈六の薬師如来座像は、旧法性寺中堂の本尊といわれ、法性寺が衰退した後に現・東福寺の三ノ橋北詰にあった薬師堂に移され、明治十年(1877)以降に極楽寺で祀られるようになったものということです。

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東福寺の塔頭、最勝金剛院(さいしょうこんごういん)は、九条家の墓所を管理する非公開寺院ですが、秋には長い参道付近が紅葉に色付いて、東福寺を訪れた観光客にもお馴染みの場所かと思います。


さて、最勝金剛院は、東福寺山内の最も西(伏見区深草車阪町)にあり、東福寺創建以前に遡る由緒ある寺院の名を継いでいます。
現在の東福寺のある地域一帯は、平安時代中期の延長三年(924)に関白藤原忠平が氏寺として法性寺を建立した場所でした。代々の藤原氏は法性寺の造営に努め、平安末期の藤原忠通とその子兼実の頃に全盛期を迎えました。(忠通は法性寺の傍に別荘を構え「法性寺殿」、その子・兼実(九条兼実)は「後法性寺殿」と呼ばれました。)当時の法性寺は、現在の東福寺の約5倍という広大な寺域(南北は稲荷山〜東福寺周辺、東西は鴨川〜山科に至る)に多くの大伽藍を構えていました。
最勝金剛院は、久安六年(1150)、この法性寺の山内東方一帯に、摂政藤原忠通夫人・宗子が建立した塔頭寺院で、法性寺山内で最大の面積を持つ寺院でした。

しかしその後、法性寺は鎌倉時代初期には衰退して、嘉禎二年(1236)に摂政九条道家(九条兼実の孫)は、法性寺跡地に19年の歳月をかけて東福寺を建立しました(建長七年(1255)完成)
その後の最勝金剛院は、東福寺に吸収されてその塔頭となり、代々の九条家に継承されましたが室町時代に衰退してしまいました。

現在の最勝金剛院は、九条家一族の墓の管理と由緒ある寺院の復活を兼ねて、昭和四十六年(1971)、旧地付近の現在の地に再興され、東福寺の特別由緒寺院となっています。中央の八角堂が兼実を祀る廟で、その他九条家以下歴代十一人の墓がその東方に有ります。

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