京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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前回の続きです。

大宝院の見所は、客殿を囲むように広がる庭園になります。
この庭は「露地庭園」といわれています。露地とは茶室に付随する庭のことですが、実用と美を兼ねて造られます。飛び石、延段(小石を集めて通りとする)、垣、門、燈篭、つくばい、袖擦(そですり)の大木、腰掛待合、蔀戸(ししみど)等を配置して構成されますが、茶の庭は、見て楽しむことを主眼とした一般の庭園と違って用と美の適合を厳しく問われるということです。大法院の庭園は外露地、中露地、内露地の三段構成でまとめられて、庭の南東に茶室、その向かい側には待合いがあり、鑑賞と実用の両方で秀でたものになっています。またこの庭は仏教でいうところの「清浄世界」を表しているということで、大法院のパンフレットには、茶道に関わる人だけでなく、誰もがこの庭を通じて、詫び寂び、禅の世界に触れて欲しいと書かれています。


前回に、大法院はそれ程知られていないかも・・と書きましたが、退蔵院等とセットにしたバスツアーもあるようで、私が訪れた際は、一時観光バスの団体客30人ほどが押し寄せ、それほど広くない本堂に座る事が出来ない状態になり、その後も観光客が次々・・。
大法院は、小さな空間でホッコリした気分を味わえる所が持ち味のお寺で、本当は少人数で静かに庭を鑑賞したい気がします。紅葉時期はどの観光名所も同じですが、出来ればこのお寺も早朝から行った方が良いでしょう。

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現在、妙心寺の塔頭、大法院で秋の庭園特別公開が行われています。(11月1日〜30日)
毎年、春秋に特別公開されている大法院ですが、京都の観光情報サイト等にはあまり出てこないので、京都通の方を除けば、ご存知の方も少ないかもしれません。(妙心寺では非公開塔頭が特別公開される機会が度々ありますので、要チェックです。)

抹茶と茶菓子(拝観料に込み)を頂きながら、客殿を囲む庭(少し大原の宝泉院を連想させます)を眺めて心地よい一時を味わえる大法院ですが、やや知られていないと思われるので、2回に分けて写真を掲載します。



大法院は、江戸時代の寛永二年(1612)、松代藩主だった真田信之(大阪の陣で知られる真田幸村の兄)の孫・長姫(信之の長男・信吉の長女で、千種大納言有能(ちぐさありのり)の正室でした。)が、信之の遺命により菩提寺として妙心寺山内に創建した塔頭です。
長姫の夫・千種有能は名僧・一糸文守禅師(いっしぶんしゅ 仏頂国師)と俗縁があったということですが、それとは別に、長姫は妙心寺四派の一つ東海派玉浦下(ぎょくほか)の妙心寺百七十五世・絶江紹堤(ぜっこうしょうだい)禅師に禅を学んでいたことから、その法嗣にあたる淡道宗廉(たんどうそうれん 大転法輪禅師)を開祖としました。院号は真田信之の法名「大法院殿徹岩一明大居士」に因んでいて、松代藩主真田家からは毎年五十石が施入され、藩寺として外護された塔頭でした。尚、真田家の他に長姫の縁で久我、千種、内藤家の香華寺にもなっています。

また、幕末に活躍した思想家・兵学者として知られる佐久間象山(1811〜64)は、松代藩主真田幸貫の儒臣だったため、元治元年(1864)に京都三条木屋町で攘夷派の熊本藩士・河上彦斎らに暗殺された後、この大法院に墓が造られました(墓所は非公開)
元々妙心寺寺四派の東海派に属した大法院は、その後、光国院の梁南禅棟(りょなんぜんとう)禅師が中興して龍泉派に変わり、またこの時に塔頭・盛徳院を併合しています。
成徳院というのは徳川家康の長女・亀姫の法名にあたり、その菩提寺の盛徳院を併合して以来、大法院には亀姫の像「盛徳院殿像」が安置され、本堂に位牌等が祀られています。


方丈の襖絵は、江戸中期に絵師・土方稲領(ひじかたとうれい)が描いたもので、「叭叭鳥図(ははちょうず)」という名前が付いています。
土方稲領は鳥取池田藩に仕えた画家で、雲谷派(雲谷等顔を開祖とする流派。山口毛利家に仕え、その後西日本では狩野派と二分する一大勢力となります。)の系統に属するようです。「叭叭鳥」というのは中国に生息するカラスに似た鳥で、カラスに似た嘴の許に飾り毛があるのが特徴ということです。人の言葉を真似するともいわれ、九官鳥に近い鳥とされます。
「叭叭鳥図(ははちょうず)」は、梅の老木に群がり飛ぶ有様を現していて、禅語の「長空鳥任飛(長空鳥飛ぶにまかす。)」という言葉・・「自らの心境の思うがまま、自由自在の有様」の意を表現したものということです。




次回に庭園の様子を掲載します。

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上京区新町通今出川下ル徳大寺殿町にある霊光殿天満宮は、徳川家康を合祀する珍しい天満宮です。

平安時代中期の寛仁二年(1018)、菅原道真の六世の孫にあたる菅原定義(義郷とも)が、後一條天皇の勅命により、道真が九州に左遷された際に立ち寄った河内国若江郡の霊跡に神殿を建てたのが始まりと伝えられます。河内若江の地では、天から一条の光とともに天一神・帝釈天が降臨して、「お前に罪は無いので落胆するな。お前が天に召された後、敵たちを滅ぼそう。」と道真に告げたといわれ、「霊光殿」はこの伝説に由来した名称です。

天満宮では若江家が代々の祠官を務め、霊験あらたかということで京都に遷座し朝廷の崇敬を集めました。鎌倉時代の元寇の際には、後宇多天皇が当社で蒙古軍退治の祈祷を行わせたところ、敵船が嵐で壊滅したことから、「天下無敵必勝利運」の宸翰の額を賜っています。その後応仁の乱で社殿が荒廃、社領を失って、東寺境内に遷座しました。

その後、元亀元年(1570)には、徳川家康が当社を参拝し、鎧剣を奉納して天下太平の祈願をしています。以後、家康の援助により天満宮は復興します。江戸時代には跡絶えていた若江家が再興され、塔之段(上京区)に再び遷座します。さらに宝暦十一年(1761)に現在の地に鎮座しました。江戸時代には度々火災に遭って、天保十一年(1840)、安政四年(1857)には朝廷からの援助で社殿を再建、現在の社殿は明治五年(1872)に近衛家の旧鎮守社を拝領移築したものです。尚、若江家再興に尽力した徳川家康は寛永十三年(1636)に合祀されています・・・孫の家光が仙洞御所にあった家康像を、生前に信仰していた当社に移し祭神としたと伝えられます。

境内には、菅原定義(義郷)を祭神とする末社の老松(おいまつ)神社があり、それ程広くない境内ですが、区民の誇りの木になっているクロガネモチ(高さ10m、幹周1.3m)、オガタマノキ(高さ13.5m、幹周2.18m)が枝を張り、小さな憩いの空間にもなっています。

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