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左京区黒谷町にある金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は京都では「黒谷さん」と親しまれている大寺院です。(金戒光明寺という正式名より「黒谷」という通称名の方がずっと有名です。)
ブログを始めた頃に、何となく散歩の感想程度を書きましたが、もう少しきちんと書きたいと思っていました。現在、山門&庭園の特別拝観が行われているのでこの機会にもう少し書いてみます。
金戒光明寺は、山号を紫雲山という浄土宗鎮西派寺院で浄土宗七大本山の一つ(他の大本山は、京都の清浄華院と知恩寺、東京の増上寺、長野県の善光寺、神奈川県の光明寺、福岡県の善導寺になります。総本山は京都の知恩院です。)で、通称「黒谷」の名で親しまれています。法然上人の貴重な遺跡として、「法然上人二十五霊場」の一つ(24番)としても知られます。(「法然上人二十五霊場」は法然上人の誕生から入滅に至る主な遺跡二十五ヶ所になります。京都には13寺あります。)
浄土宗の開祖・法然上人源空は、美作国久米(岡山県久米郡)の押領使・漆間時国(うるまときくに)の子として生まれ、13〜15歳の時、比叡山の源光法師、皇円阿闍梨空に師事して得度。その後、久安六年(1150)に比叡山黒谷青龍寺の叡空上人(太政大臣九条伊通の子とも)に入門し、「法然房源空」と名のりました。ただ叡空上人との間には宗論をめぐって意見の相違があったと伝えられます。尚、法然入門後の保元二年(1157)には叡空上人と親交のあった中納言藤原顕時(藤原顕時)の孫(後の浄土宗第二世・信空上人)も叡空の弟子となっています。
さて、金戒光明寺は、寺伝によれば、承安五年(1175)、法然上人が43歳の時、比叡山西塔の黒谷を出てこの地に草庵を結んで、浄土宗最初の念仏道場を開いたことが起こりと伝えられます。元々この地は元上栗田の「栗原の丘」と呼ばれた丘陵地で中納言・葉室顕時の別荘がありました。先程書きましたが、顕時は叡空上人と親交があり、幼少の孫(信空上人)を叡空上人に預けると共に、この別荘を寄進していました。法然上人は、比叡山を去った際に、叡空上人から黒谷の里坊となっていたこの草庵を本尊と共に譲られて、新黒谷、または白河禅坊と称した浄土宗最初の念仏道場を開きました。
さらに法然上人は、西山広谷、東山吉水へと移って念仏を広めていきますが、新黒谷(白河禅坊)も浄土教念仏道場として栄え、法然上人の没後に「紫雲山 光明寺」として、弟子の信空上人以降の代々のその弟子に引き継がれ伽藍を整えていきます。
尚、「紫雲山・光明寺」の名は法然上人が比叡山を下りてこの地で念仏を唱えた際に、紫の雲が全山に広がり、光明が辺りを照らしたという伝説に由来します。
南北朝時代に第八世・運空上人が、北朝・後光厳天皇に円頓戒を授けて「金戒」のに二文字を賜って、それ以来「紫雲山 金戒光明寺」と称し、また正長元年(1428)、後小松天皇から、「浄土真宗最初門」の勅額を下賜されています。第十世の恵照上人の時代には堂塔伽藍を完成し、多くの塔頭を持つ大寺院となりましたが、応仁の乱で全て灰燼に帰し、さらに数回の火災に遭って堂塔を焼失し、織田信長や豊臣秀吉、さらに江戸時代に、徳川家の援助で復興しました。
また、幕末の文久二年(1862)、京都守護職に任命された松平容保以下の会津藩士千二百余名が本陣を置いて活動拠点としたことでも有名です。明治維新後に衰退しますが、昭和になって復興。昭和九年(1934)の火災で御影堂(大堂)と大方丈を焼失しますが、昭和十九年(1944)に再建され、以降境内が整備されてきました。
御影堂(大殿 だいでん)は、内陣正面に、宗祖 法然上人の七十五歳の時の御影座像が安置されています。現在の建物は、昭和九年(1934)の火災により焼失後、昭和十九年(1944)に京大名誉教授天沼俊一博士の設計により再建されたもので、堂内は明るく、音が響くように一本々の木材を選定して設計建造されています。円光大師(法然上人)二十五霊場第二十四番、円光大師京都二十五処第七番霊場になっています。
阿弥陀堂は、慶長十年(1605)に豊臣秀頼により再建されたもので、山内で最も古い建物です。本尊の阿弥陀如来は、恵心僧都源信の最終の作とも伝えられ、腹中に、彫刻に用いられたノミ等の器具が納められており、「おとめの如来」「ノミおさめの如来」と称されています。また洛陽四十八願所の第二十五番札所、善光寺四十八ヶ所になっています。
山門(京都府文化財)は、元々第九世・定玄上人の時代(1398〜1415)の応永年中(1394〜1427)に建立されましたが、応仁の乱で焼失しました。その後、約三百五十年後、文政十一年(1828)に徳川幕府の命により再建にかかり、万延元年(1860)に落慶された三間三戸の二階二重門で、桜上正面には後小松天皇(在位1382〜1412)の宸翰「浄土真宗最初門」の勅額が掲げられ、楼上の壇上正面には、等身大の釈迦三尊像(宝冠釈迦如来像、文殊菩薩、普賢菩薩)と十六羅漢像が安置されています、尚、この山門の完成により、それまでは西口が正門でしたが、御影堂(大堂)から石階段を降って、この巨大な山門に続くことから、南西口を正面としました。そして、玄関口として現在の高麗門が造られました。
文殊塔(三重塔 国の重要文化財指定)は、江戸時代初期の寛永十年(1633)に将軍徳川秀忠の菩提のために建立されたもので、本尊で運慶作とも伝わる文殊菩薩(中山文殊 京都指定文化財)と四脇侍が安置されていましたが、この菩薩像は現在は御影堂に移されています。この文殊菩薩は、「日本三文殊(宮津・知恩寺の切戸文殊、奈良・安倍文殊院の安倍文殊と並んで・・但しもう1つ体は山形大聖寺の亀岡文殊が入る場合が多いです)」に数えられています。
観音堂には、京都七観音の一つ吉田寺(廃寺)の旧本尊と伝える千手観音立像(重要文化財 高さ2m60cm)を安置しています・・現在御影堂で拝観できます。
この素晴らしい千手観音像は「吉備観音」と呼ばれています。伝説によると、奈良時代の学者・吉備真備(きびのまきび)が遣唐使として帰国の際、船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、たちまちその難を免れることができたことでたということです。真備は、その時に唐より持ち帰った栴檀香木で、行基菩薩に頼んで観音像を刻んだものと伝えられ、以来「吉備観音」と呼ばれています。
元々は吉田中山の吉田寺に祀られていましたが、江戸時代の寛文八年(1668)に吉田寺が廃寺となったために幕府の命により、金戒光明寺へ移されました。この観音像を信仰した聖武天皇が勅願所として定めて以来、歴代天皇の信仰篤く、特に宮中での御懐妊の際には、勅使を立てて安産祈願を行うなど安産守護の本尊として知られていました。
また江戸時代中期以降は、「道中守護」「交通安全」「諸願成就」の御利益があると信仰を集めています。「吉備観音」は、平安時代末期に後白河法皇が西国三十三ヶ所巡礼に代わるものとして定めた洛陽三十三所観音巡礼の第六番札所にもなっています。また鎌倉時代の文献では、京都七観音(革堂行願寺、清和院、吉田寺、清水寺、六波羅蜜寺、六角堂、三十三間堂)の一つにも数えられています。
大方丈は昭和九年(1934)の火災による焼失後、昭和十九年(1944)に再建されたもので、仏間中央には恵心僧都源信の作と伝わる阿弥陀如来像を祀ります。
また、右には当山第二世・法蓮坊信空上人像を祀ります・・信空上人(1146〜1228)は、比叡山の叡空上人の弟子となり、師の死後は兄弟子の法然上人に従って最初の弟子として法然門下を統率して浄土宗を発展させた人物で、法然上人が「黒谷上人」と呼ばれたのに対し、「白河上人」と呼ばれました。この像は、幾度かの火災で堂塔が焼失した際にも、不思議にも唯一無事だった尊像ということです。
また左手には、「親鸞上人そば喰いの像」が安置されています・・親鸞上人が比叡山との決別を決め、六角堂に百日参籠していた頃です。比叡山で大事な法事があり、全ての僧は参加する義務がありました。六角堂に参詣して不在の親鸞を気遣った同士の僧が智恵をはたらかせて、親鸞の身代わりの像を置いて出席を装いましたが、そばの食事接待があるので身代わりがばれると心配します。ところが像の前に置いたそばがいつの間にか無くなっていました・・こうして木像が食べたと、後世の語り草になったということで、この親鸞伝説に基づく木像になります。
また大方丈には、京都守護職松平容保と新撰組の近藤勇が謁見した部屋が再現されています。当時の建物は昭和九年(1934)の火災で焼失しましたが、当時の図面通り同じ間取りで同じ位置に再建されています。
その他、寺宝としては、恵心僧都源信の最後の作と伝わる「山越阿弥陀図(重要文化財)」、「地獄極楽図(重文)」、 法然上人の御真影「鏡の御影(みえい)(毎年四月二十三日の御忌法要において一般公開されます)」、法然上人が入滅する二日前、建暦二年(1212)正月二十三日に筆をとって弟子の勢観房源智上人に与えたと伝えられる「一枚起請文(毎年四月二十四・五日の御忌法要において一般公開されます) 等が有名です。
また、方丈前庭は昭和十九年(1944)に方丈が再建された際に、昭和を代表する造園家・庭園研究家として知られる中根金作が作庭した落ち着いた枯山水庭園です。
次回は新しく近年作庭された「紫雲の庭」の様子です。
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