京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市伏見区東大手町、大手筋の商店街アーケードの途中にある本教寺は、山号を福昌山(ふくしょうざん)という日蓮宗・本法寺派に属する寺院です。


本教寺は、文禄三年(1594)、日新上人の法孫・教行院の日受上人により創建されました。
日受上人は当初は西浜堺町(伏見区)に小庵を創建したのですが、徳川家康の第二女・良正院督姫の篤い帰依を受けて、慶長十九年(1614)に、督姫が十六才で姫路城主・池田輝政の令室として嫁ぐことになった際に、その館と敷地を寄進されて現在地に移転しました。当時は広大な敷地を持っていたようです。
督姫は幼少時より、当時伏見城にいた太閤豊臣秀吉に寵愛され、池田家との媒酌も秀吉が自身買って出たとも伝えられます。当時秀吉から督姫が賜ったという伏見城の牡丹は、現在も境内で花を咲かせていることから、本教寺は、豊公遺愛 督姫手植えの牡丹のある寺、「慶長牡丹の寺」として親しまれています。(毎年4月中旬頃に開花)


本堂は、約二百七十年前の建築で、享保年中(1716)、近衛関白家の寄進により「堀川御殿」が移築されたもので、千鳥破風に加え唐風の庇を持った豪壮華麗な建築美を見せています。本堂に祀られる本尊は、妙法蓮華経宝塔1塔、多宝・釈迦 如来、上行・浄行・無辺行・安立行の4菩薩、日蓮大聖人像、持国天・毘沙門天・広目天・増長天の四天王の木造十二体によって構成されています。これらは作者不明ですがいずれも文禄年間の作名があります。
また左側の須弥檀には、大覚大僧正、日親聖人、加藤清正の木像三体、右側には良正院督姫の自画像、鬼子母神像、十羅刹女像が祀られています。

境内には、大きな妙見宮があり、池田家伝来の北辰妙見本尊が祀られています。
建物は元禄年間(1690頃)の建築で「開運処」と呼ばれています。堂内には中央に、北辰妙見大菩薩、左に七面天女と大黒天、右側に鬼子母神が祀られています。
この妙見大菩薩は、日蓮聖人の直弟子で加持祈祷の名手といわれた日法上人直伝のものが、その後池田家に伝わり、池田輝政と良正院督姫の遺言により、本教寺境内に池田家祈願所として祀られたものということで、開運除厄の「大手筋の妙見さま」として「十二支妙見めぐり」の「午(南)」の寺として信仰を集めています。



前に書きましたが、「十二支妙見めぐり」について再掲します。

妙見菩薩とは、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。
奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。
「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、京都の御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まり、江戸時代を通してこの十二のお寺を順番に訪問して、開運や厄除けを祈願することが大いに流行りました。しかし、明治時代になるとやがて衰退してしまったようです。

昭和六十一年(1986)、京都の日蓮宗のお寺を中心として「洛陽十二支妙見会」が発足し、再び「十二支妙見めぐり(洛陽十二支妙見めぐり)」が復活しました。現在の12のお寺は、江戸時代とは大半が入れ替わっているようですが、当時の歴史と伝統を今に伝えようとする試みのようです。

「洛陽十二支妙見めぐり」の12ヶ寺・・・いくつかはこれまでに登場しています。


●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日体寺)

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)

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伏見区深草藪之内町、伏見稲荷大社の外拝殿南にある小さな神社が東丸神社(あずままろじんじゃ)です。伏見稲荷と境内が隣接していますが別の神社です。
東丸神社は、明治十六年(1883)に、江戸中期の国学者で伏見稲荷大社の社家に生まれた荷田春満(かだのあずままろ 荷田東丸1669〜1736)が正四位の追贈を賜ったことを記念に、伏見稲荷大社の宮司らが寄付を募って創建した神社で、もちろん祭神は荷田東丸命(かだのあずままろのみこと)です。


荷田春満(東丸、東麿)は、寛文九年(1669)に、この伏見稲荷神社の社家で御殿預りを務める羽倉主膳信詮の次男として生れました。本名は羽倉信盛といい、幼少より歌道や書道に秀で、神職を継がずその後国史や古典を研究します。元禄十年(1697)から妙法院宮の御学問所に歌道の師として仕えましたが、当時は幕府が朱子学を政治理念としていたために、書を学ぶ者が極端に漢風(中国風)に走ることをみて、古学の廃絶を憂えて古学復興を志します。
その後、荷田春満(東丸)は、江戸に下向して独学で古学を研究し、また門人らに講義を行ってその名声は高まります。その名声を伝え聞いた将軍徳川吉宗は、享保七年(1722)に幕府の蔵書閲覧を頼んでその間違い等を訂正させ、その後も建議並び全ての書籍の推薦検閲の特権を与えています。

この間の逸話として、赤穂浪士と関わりがあります。荷田春満(東丸)は江戸在住時代に多数の門人に古典古学を教えていましたが、吉良上野介もまた教えを受けた一人でした。しかし上野介の振舞いぶりを見聞するに及んで、教えることを止めたということです。たまたま元禄十年(1697)に以前から親交があった大石良雄(内蔵助)の訪問を受け、その後、堀部弥兵衛・安兵衛、大高源吾とも交わり、吉良邸の見取り図を作って大高源吾に与え、また十二月十四日に吉良邸で茶会があることを探って赤穂浪士を援助したということです・・・赤穂浪士伝説の一つといえるでしょう。

その後、荷田春満(東丸)は、享保八年(1723)に京都へ戻り、さらに日夜研究を進め著述を著し、賀茂真淵等多くの門人に講義を行いました。そして東山の地に古学普及のための倭学校(国学校)を創建しようと享保十三年(1728)に、学校創設の必要を説いた「請創造倭学校啓文」を著しますが、享保十五年(1730)に病気にかかり、元文元年(1736)七月二日、68歳で亡くなり稲荷山に葬られました。
春満(東丸)は臨終に際し、その多くの著述の中で、研究途中のものは後世に残すと却って悪影響を及ぼすとして手元にあった書物を焼却させましたが、現在でも神道・日本史・律令・格式・歌道等に関する遺著が多数残されています。そして弟子だった賀茂真淵、その後に続く本居宣長、平田篤胤と並んで「国学の四大人(しうし)」といわれています。



さて、東丸神社は、明治十六年(1883)二月、荷田春満(東丸)が正四位の追贈を賜ったことを記念に、伏見稲荷大社宮司・近藤芳介、同主典・桑田孝恒等が中心となり、五月に政府に神社創建を申請して寄付を募り、荷田春満の旧邸の地の隣りに社を創建し、同二十三年(1890)五月に遷霊の義を行いました。その後、同三十六年(1903)十二月に府社に昇格、昭和十一年(1936)に現本殿に改造されました。荷田春満にあやかろうと学問向上や受験合格を願う多くの方がお参りに訪れています。


また、神社の東にある春満の旧邸は、春満の死後に火災に遭ってその敷地の一部に東丸神社が創建された後も、春満の時代の書院・神事舍・門が現存していて、江戸期の貴重な遺構として国の史跡に指定されています。(以前、文化財特別拝観で公開されています。)
(尚、京都では「荷田春満旧宅」のような国史跡の住宅としては、「頼山陽書斎(山紫水明処)」、「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」、「岩倉具視幽棲旧宅」があります。)

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