|
東山区東大路通松原西入ル小松町にある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、一般に「六道さん」と呼ばれ、お盆の「六道詣り」で知られる寺院です。珍皇寺の山門前には「六道の辻」という石碑や「小野篁卿旧跡」の石標があり、境内付近一帯は「あの世とこの世(冥界と現世)」の分岐点、地獄(他界)への入り口と考えられてきました・・・長い歴史のある京都らしい伝説に満ちたお寺です。
お盆以外の季節は訪れる人も少なく、境内は静かな雰囲気が漂っています。普段は境内自由で、お盆の「六道詣り」の際や定期的に寺宝の特別拝観が行われています。
六道珍皇寺は、山号を大椿山(たいちんざん)という臨済宗建仁寺の境外塔頭です。
創建に関しては諸説があり、平安初期の延暦年間(783〜805)に、弘法大師空海の師でもあった奈良大安寺の慶俊(けいしゅん)僧都が創建したとも、また承和三年(826)にこの地の豪族・山代淡海(やましろのおうみ)等が国家鎮護の道場として建立したとも、或いは平安以前から東山の阿弥陀ケ峰(鳥部山)山麓一帯に居住した鳥部氏の氏寺「宝皇寺(鳥部寺とも)」の後身とも伝えられます。古くは愛宕寺(おたぎでら)と呼ばれていたとも伝わり、その後の経過からか空海や小野篁が建立したという伝説も残るなど多くの説があって実際の所は一切不明です。
ただ、その後の珍皇寺は、空海との関わりが伝えられるように真言宗東寺の末寺として平安から鎌倉時代には広い寺領と多くの伽藍を持つ大寺院だったようで、周辺の大寺院と境界線を巡ってしばしば争論があったという記録も伝えられています。南北朝時代の兵乱により荒廃しますが、貞治三年(1364)建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)禅師が再興し、建仁寺塔頭・大昌院(だいしょういん)の末寺となり臨済宗に改宗します。
尚、大昌院は播磨(兵庫県)の守護大名赤松氏の菩提寺でもあり、その縁で珍皇寺には赤松政則の肖像画等赤松氏の関する寺宝が多く残されているようです。明治七年(1874)に大昌院に合併されますが、明治四十三年(1910)に独立して、建仁寺の境外塔頭として現在に至ります。
境内正面にある現在の本堂は江戸初期の延宝年間(1673〜81)の建物で、薬師三尊像(薬師如来坐像と日光・月光両菩薩立像 昭和五十三年、京仏師中西祥雲作)や江戸時代の小野篁の肖像画、小野篁の一千百五十年諱を追善して境内の老木から地蔵菩薩を刻んだ平成十九年(2007)の新作「たかむら地蔵尊」等を安置しています。
閻魔堂(篁堂)には、小野篁の作とも伝わる木像閻魔像(室町時代)と等身大の小野篁像(江戸時代)が並んで祀られています。また、昭和五十一年(1976)に建てられた収蔵庫でもある薬師堂に祀られている本尊・薬師如来坐像は伝教大師最澄作とも伝えられる平安時代の作で、重要文化財に指定されています。他に毘沙門天像(弘法大師空海作)、地蔵菩薩(定朝作)を安置しています。その他、寺宝として地獄絵「熊野観心十界図」、「珍皇寺参詣曼荼羅図」や播磨の赤松家ゆかりの寺宝を所蔵しています。
さて、六道珍皇寺といえば「六道の辻」と小野篁について書かなければなりません・・少し長くなりますが何とか書いてみます。
平安時代、清水寺のある五条坂から三十三間堂等がある今熊野辺りまでの阿弥陀ヶ峰(東山三十六峰の一つ)の山麓一帯は、「鳥辺野(とりべの)」と呼ばれる京の都の東に位置する葬送の地でした。(嵯峨野の「化野(あだしの)」、船岡山西一帯の「蓮台野(れんだいの)」と共に都の三大葬送地といわれます。)
六道珍皇寺の門前の松原通(かつては五条通)は、鳥辺野(とりべの)へ亡骸を運ぶ際の通路となっていたために、六道珍皇寺は現世から冥界へ向かう入り口とされていました。平安時代には、都人たちは、人が亡くなると亡骸を棺に納め、鴨川を渡って、鳥辺野へ至る道筋に建つこの珍皇寺で野辺送りの法要を行って最後の別れを行った後、隠坊(火葬場番人)によって鳥辺野まで運ばれていました。(特に鳥辺野の五条通より北は、一般庶民の亡骸が野ざらしで捨てられた風葬の地となっていました。天皇や貴族は「鳥辺野」の南地域や「蓮台野」や「化野」に埋葬されることが多かったようです。)
このような風習のためか、珍皇寺の境内周辺(一般的には珍皇寺門前のT字路付近)は、中世以降、「六道の辻」と称し、あの世とこの世(冥界と現世)の分岐点、地獄(他界)への入り口とされてきました。仏教でいう「六道」とは、人が死んだ後に輪廻転生するという死後の世界とことで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの世界を意味します。人は死んだ後に、生前の善悪の業によって、六道のいずれかに赴くものとされ、珍皇寺の境内こそその分岐点にあたると伝えられてきたために、現在でもお盆には先祖の精霊を迎えるため多くの参詣客が訪れる場所になっています。
小野篁についてです・・・
小野篁(延暦二十一年〜仁寿二年 802〜52)は、嵯峨天皇に仕えた平安初期の政治家で、文人、歌人としても知られます。文章生から皇太子の学問の師である東宮学士などを経て、従三位参議三大弁という高級官僚にまでなり、また乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であったと伝えられます。尚、父は漢詩人・歌人でもあった参議小野岑守(みねもり)で、三蹟の一人小野道風は篁の孫にあたり、小野小町も孫にあたるという説もあります。
篁は不羈(ふき)な性格で、「野狂」ともいわれるように奇行も多く、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔王宮の役人であったという伝説が知られます。この伝説は「江談抄(ごうだんしょう)」や「今昔物語」などの平安時代末期の説話集や鎌倉時代の仏教に関する史書「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」等にも数多く伝えられていることから、平安末期頃には、篁が独特の神通力を持って現世と冥土の間を行き来し、閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことが伺えるようです。
また、篁は承和五年(838)に遣唐副使に任じられながら、大使の藤原常嗣(ふじわらつねつぐ)の専横振りを嫌って出航を拒み、「西道謡」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどによって、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となり、一切の官職官位を奪われたこともあります。しかし、承和七年(840)に帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を昇り、承和十四年(847)には従三位に任じられているように晩年はその才能が認められて成功した人生といえるようです。
さて、六道珍皇寺の本堂裏庭の北東角にある井戸は、平安時代に小野篁が冥府(地獄)の閻魔庁の役人として現世と冥界の間を行き来するのに使った「冥土通いの井戸」であると伝えられています。
(この井戸は普段は格子越しに覗くことしか出来ませんが、特別公開で少し近づけます。パネル写真を参照)
伝説によれば、小野篁は亡き母の霊に会う為に、この鳥辺野にある珍皇寺を訪れ、冥土に通じるというこの井戸を使ったのが最初といわれています。また「矢田地蔵縁起」によると、大和(奈良)金剛山寺(矢田寺)の満慶(まんけい)上人が、篁を通じて閻魔大王の招きに応じて、衆生を救うためにの戒行である菩薩戒を授けに閻魔庁に赴いたのもこの井戸からとされていて、井戸の傍の小さな祠には、篁の念持仏だった竹林大明神が祀られています。
尚、篁が冥土からの帰路の出口として使った場所が、右京区嵯峨の大覚寺南付近の六道町に明治初期まであったという福生寺(ふくおじ)の井戸だったという言い伝えも残っています。
この福生寺というお寺は、冥界から現世に戻った篁が建立し地蔵菩薩を祀ったと伝えられる寺院でしたが廃寺となり、井戸の遺跡も現在は失われてしまいました。しかし、井戸の伝承は福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩と共に嵯峨清涼寺の西隣の薬師寺(右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)に受け継がれているということで、薬師寺には福生寺跡を示す「生(しょう)の六道 小野篁公遺跡」の石標が建てられています・・・珍皇寺の周辺「六波羅(六原)」が冥府への入り口として「死の六道」と呼ばれたのに対し、上嵯峨の福生寺周辺は現世への出口「生の六道」と呼ばれています。
また、六道珍皇寺といえば、お盆の毎年八月七日から十日まで「六道詣り」という精霊迎えが行われることで有名です。普段は静かな境内もこの時ばかりは多くの参詣者で賑わいます。
参拝者は、まず境内の花屋で高野槙の切り枝を買います・・高野槙を用いるのは諸説あるようですが、ここでは平安時代に小野篁が昼間は朝廷に仕え、夜は境内の高野槙の枝をつたって井戸を通って閻魔庁に行き来したとの伝説に由来しているようです。本堂前でご先祖の法名(戒名)を水塔婆に書き入れてもらい、鐘楼で先祖の霊を現世に呼び戻すという「迎え鐘」を撞きます。
「迎え鐘」と呼ばれる鐘楼の鐘は、鎌倉初期の説話集「古事談」によれば、元々珍皇寺の開基・慶俊僧都が作らせたものと伝わります・・慶俊僧都は唐に向かう際に、鐘は3年間はこの鐘楼下の地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立ちますが、留守居の寺僧は待ちきれず1年半で掘り出して鐘を撞いた所、その音色はるか唐にいる慶俊のところまで聞こえたといい、慶俊は「あの鐘は3年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せずして六時になると自然に鳴ったものを、惜しいことをしてくれた」と言って残念がったという話が伝えられます。現在の鐘は後世のものですが、鐘楼の裾にある小さな開口部から延びた綱をたぐり寄せて引いて鐘を鳴らす仕組みになっていて、その音は十万億土に届くといわれ、あの世(冥界)まで響き渡って先祖の霊にも届き、鐘の音に呼び寄せられた霊が現世に戻ってくるということから「迎え鐘」と呼ばれています。(尚、この「迎え鐘」に対して、先祖の霊を冥土に送るための「送り鐘」で知られるのが、新京極にある矢田寺(矢田地蔵尊)になります。)
さて、参拝者はその後、水塔婆を線香で清めてから石地蔵の前の水盤で水をかけて回向します。先祖の霊は、持ち帰った高野槇の穂先を伝わって帰ってくるといわれていて、井戸のある家では井戸の中に穂を逆さに吊しておくと先祖の帰ってくる入り口となるということです。その後、十三日に枝を仏壇(魂棚=たまだな、先祖を迎える棚)に供えて先祖の霊を迎えた後、十六日の「五山の送り火」、さらに十七日の水塔婆供養によって霊は冥界へ帰っていくということです。
最後に「幽霊飴」の伝説についてです。(立本寺の時にも書きましたが、同様の伝説が数ヶ所あるようです。)
江戸時代のはじめ、六道珍皇寺の門前には一軒の飴屋がありました。
ある夏の夜更け、痩せ衰えた女が飴を買いに来て、それが数日間続きました。不審に思った主人が女の後を密かにつけてゆくと、鳥辺野墓地のあたりで消えてしまいました。翌日、主人は珍皇寺の住職にことの仔細を語ったところ、住職は、もしやと最近亡くなった臨月の妊婦の墓へ案内しました。二人が一緒にその墓地に行くと、土の中から赤ん坊の泣き声が聞こえて来ます。急いで土を掘ってみると、女の遺体の傍で赤ん坊が飴をしゃぶっていたということです。母親は自分が亡くなった後も残してきた子供を気遣って、幽霊となって飴を買い求めて育てていたのでした。この出来事に感動した住職は赤ん坊を引きとって養育し、子は後に高名な僧となったということです。
こうして、飴屋の飴はいつしか「幽霊子育飴」と呼ばれるようになり、現在に至っています。(六道珍皇寺前の飴屋さん、みなとや幽霊子育飴本舗)
|