京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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上醍醐の続きです・・
(いつもながら多くの写真で煩わしいかと思いますが、様々な角度から撮った40枚を掲載します)


前回に書きましたが、醍醐寺(下醍醐)から女人堂を経て、西国三十三観音巡礼の最難所とも呼ばれる山道を約50分程を登って行くと、ようやく上醍醐にたどり着きます。

この「上醍醐=醍醐寺発祥の地」には、西国三十三観音霊場第十一番札所の准胝堂(じゅんていどう)を中心に五大堂(不動堂)、薬師堂(国宝)、開山堂(重文)、如意輪堂(重文)、清瀧宮(せいりゅうぐう)拝殿(国宝)、社務所等が点在しています。
さすがは京都を代表する大寺の醍醐寺だと感じるのは、これら国宝、重要文化財に指定されている数々の堂宇の規模です・・・平坦地の下醍醐の建物(五重塔、金堂等)が立派なのは当然としても、険しい山上の上醍醐の建物も堂々とした立派なものが多いです。(これらの建物の多くは、山上の限られた狭い土地ぎりぎりに建てられているために、建物の全景を写真撮影する場所が少なく撮影はやや困難です。)




さて、寺務所客殿の傍を進むと、道は左右に分かれ、まず右手に現れるのが醍醐寺の鎮守社・清瀧宮です。また、開けた空間の正面に「醍醐水」があります。

枯れた趣のある「清瀧宮拝殿」は国宝に指定された貴重な建物です。
この拝殿は、元々平安時代末の寛治二年(1088)に建てられましたが、室町時代の応永十七年(1410)に焼失し、現在の建物は、同じく室町の永享六年(1434)に再建されたものです。
寝殿造りの邸宅風の建物で洗練された気品が感じられます。上醍醐のほとんどの建物に共通することですが、山腹をわずかに切り開いて建てられていて、前面が崖のために建物床面を同じ高さにそろえる懸造(かけづくり 京都の清水寺等で用いられています)という様式になっています。また、拝殿の向こうの断崖上には清瀧宮の本殿があります。
本殿は残念ながら昭和十四年(1939)に上醍醐国有林より出火した山火事で焼失し、昭和三十二年(1957)に再建されたものです。また傍には横尾大明神の小さな祠があります。(尚、下醍醐にも清瀧宮本殿(重文)がありますが、これは永長二年(1097)に上醍醐から分霊されたものです。)



清瀧宮拝殿の右に見える「醍醐水」は、醍醐寺発祥の霊泉です。
平安時代の貞観十六年(874)、山岳信仰の霊山だったこの笠取山(醍醐山)の山中に理源大師聖宝によって草庵が結ばれた際、(醍醐寺の創建)、地主神・横尾明神が白髪の老爺の姿で現われ、「永くこの地をそなたに献じるので、良く密教を広めて衆生を救済せよ。我も擁護するであろう。」と告げ、落ち葉をかき分けその下から湧き出した泉を汲んで「ああ、醍醐味なる哉」という言葉をのこして忽然と姿を消したと伝えられます。聖宝理源大師は泉の場所を石で囲って閼伽井とし、笠取山の古名を改めて醍醐山と称したということです。
「醍醐」とは現在のチーズのような乳製品で五味の最上のものという意味があることから、「醍醐味」という言葉の語源ともいわれています。また仏教では「醍醐」とは心の糧として仏法が最高であることを意味する悟りの境地を表す言葉ということです。醍醐水の井戸は現在も現役で、その霊水は参拝者の喉を潤してくれます。



「醍醐水」の左右の石段を登ると、ようやく西国第十一番札所として知られる「准胝堂(准胝観音堂)」に至ります。
准胝堂は、貞観十六年(874)に理源大師聖宝によって醍醐寺が創建された際に、大師が自ら刻んだ准胝観世音菩薩を祀って、元慶元年(877)、僧正遍照を導師として開眼法要を行ったのが始まりです。その後何度かの焼失再建を繰り返し、現在の建物は昭和十四年(1939)の上醍醐国有林より出火した山火事で焼失した後に、昭和四十三年(1968)に再建されたものです。
平安時代の醍醐天皇は、准胝観音に皇子の誕生を祈願して二人の皇子(後の朱雀・村上両天皇)を相次いで得ることが出来ました・・以来歴代の天皇はしばしばこの地で安産祈願を行ったということです。そして現在も准胝堂は、険しい山道を登ってきた多くの巡礼者の目的地であり上醍醐の中心地といえます。本尊准胝観音は秘仏ですが毎年五月十八日に御開扉法要が営まれ、前後3日間だけご開帳されています。尚、准胝堂の背後の岸壁には「柏木大明神」の小さな祠があります。



さて、准胝堂からさらに緩やかな山道を登って行くと、薬師堂(国宝)、五大堂(不動堂)、如意輪堂(重文)、開山堂(重文)に至ります。

薬師堂は、上醍醐の伽藍の中央に位置していて、元々平安時代の延喜七年(907)に理源大師聖宝が建立したということですが、現在の建物は保安二年(1121)に再建されたものです。
全体に高さより水平感を強調した落ち着いた雰囲気を感じさせる作風で、山上の伽藍としては最古の建物で数少ない平安時代の遺構として国宝に指定されています。(尚、堂内蟇股は本蟇股の最も古い例の一つということです。)
本尊の薬師如来像は脇侍の日光・月光両菩薩と共に国宝に指定されていて、理源大師聖宝の弟子・会理僧都の作と伝えられる貞観時代後期の優美な作風です。この薬師如来像は歴代の天皇が病気平癒を祈願する度に、金箔を張り加えてきたことで知られ、「箔薬師」の名で厚い信仰を集めているということです。
この醍醐寺の所蔵する最も優れた仏像群は、現在は下醍醐の霊宝館に所蔵されていて春秋の霊宝館冠特別公開等で拝観できます。この薬師堂も狭い土地に建てられているために体像を写真で撮ることは難しいです。


また、薬師堂の山下には経蔵跡があります。
経蔵は、元々建久六年(1195)に東大寺重源が宋版一切経六千余巻を上醍醐に施入した際に建立されますが、文応元年(1260)に焼失。その後再建されますが、昭和十四年(1939)の上醍醐国有林より出火した山火事で焼失し、今は礎石跡が残っているのみです。


薬師堂からさらに奥に進むと、鐘楼があり、その向こうに五大堂があります。
五大堂の正面には主観賢僧正、理源大師、役の行者大菩薩像が並んでいます。五大堂は、元々醍醐天皇の勅願により延喜七年(907)に建立されましたが、文応元年(1260)の焼失など再建の度に火災に遭ったようで、豊臣秀頼により慶長十一年(1606)〜慶長十三年(1608)にされています。しかしその建物は昭和七年(1932)に焼失し、現在の建物は秀頼が再建した様式に基づいて昭和十五年(1940)に再建されたものです。
堂内には本尊不動明王を中心に、降三世夜叉明王、軍荼利夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王が祀られていて、「五大力さん」の通称で崇敬されています。毎年の二月二十三日に行われる「五大力尊仁王会」の大法要は醍醐寺を代表する有名な行事で、この五大堂で一週間に亘って祈願された「御影(おみえ)」は盗難除け、災難身代わりのご利益があり、この霊符を求めて多くの参拝者が集まります。(下伽藍の金堂で授与されます。)



五大堂から少し道を戻って笠取山(醍醐山)山上に向かって歩くと、天気の良い日には大阪・宇治方面が見渡せる展望台のある少し開けた場所に到達します。
ここが笠取山(醍醐山)の山頂450m地点で、ここでお弁当などを広げる方が多いようです。ここには手前から如意輪堂、白山大権現社、その奥に巨大な開山堂、小さな地蔵堂等が点在しています。

傾斜地に建てられた舞台造りの如意輪堂は、元々平安時代の貞観十六年(874)に理源大師、聖宝が、この地に小堂を建立して、如意輪観世音菩薩を安置したのに始まると伝えられる山内最古い建物の一つです。その後、文応元年(1260)の焼失など度々焼失再建を繰り返したようです。
現在の建物は、慶長十一年(1606)〜慶長十三年(1608)に豊臣秀頼が再建したもので、木造りは全て大阪で全て行われたと伝えられ、重要文化財に指定されています。
醍醐寺に残る記録によると、この再建時には昔の簡素な如意輪堂の十倍の規模で建てられたとされていて、再建当時は非常に華麗な建物だったようです。本尊の二臂如意輪観世音菩薩は、豊臣家ゆかりの女房衆の寄進によるものということです。
また、傍には、山岳信仰の霊山だった笠取山(醍醐山)らしく白山大権現を祀る社があり、縁結びにもご利益があるということです。



頂上にある最も目立つ巨大な建物は、開山堂です。
醍醐寺の開山・理源大師聖宝を祀ったお堂になります。最初は御影堂といい、延喜十一年(911)に理源大師の弟子の醍醐寺第一世・観賢座主によって建立され、さらに寛治六年(1092)に改築されましたが、その後焼失。鎌倉時代に再建された建物も文応元年(1260)に焼失し、現在の建物は、慶長十一年(1606)〜慶長十三年(1608)に豊臣秀頼によって再建されたもので重要文化財に指定されています。
開山堂は上醍醐の山上最大の建物で、桃山時代の雄大な特徴を表わしています。外観の特徴として側面前端の間の扉が縁が切断されていて、扉が亀腹上にまで達していることがあるということです。とにかく山上の狭い土地にこのような巨大な建物が建てられていることに驚かされます。(巨大過ぎて全体像を撮影することは難しいです。)尚、堂内には、中央に開山・聖宝理源大師聖宝像、左に弘法大師空海像、右に醍醐寺第一世座主・観賢僧正像が安置されています。
また開山堂の傍には小さな収蔵庫のような地蔵堂があります。


最後に、開山堂から少し南へ降ると、「上醍醐陵」があります。
平安時代中期の白河天皇皇后賢子(藤原賢子)と、その娘になる白河天皇皇女尊称皇后・媞子(ていし)内親王、白河天皇皇女尊称皇后・令子内親王、さらに鳥羽天皇皇女・禧子内親王の陵墓になります。
平安時代の応徳二年(1085)、白河天皇は亡き中宮・藤原賢子のために上醍醐に塔頭・円光院を建立してその遺骨を納めました。尚、白河天皇は賢子をたいへん寵愛していたために、その死に非常に悲嘆したと伝えられます。「上醍醐陵」は明治時代の皇室陵整備により造られ、その際に円光院は撤去されています。


上醍醐の主な堂宇を巡って来ましたが(さらに森の奥には奥の院の修行場等もあります)、ここから滋賀県に抜ければ、三十三観音巡礼の12番正法寺(岩間寺)へ4キロ程度、さらに13番札所石山寺へ向かうことも出来ます。

上醍醐は、開山・理源大師聖宝が、宇多天皇の勅を奉じて役行者以降に跡絶えていた大峰山修行を再興した修験道中興の祖でもあることからも、山岳修行の厳しさを感じさせる自然に囲まれた寺院という雰囲気が感じられます。また一方、西国三十三観音巡礼の全てのお寺に共通することですが、庶民の信仰を集めてきたお寺らしい人間味あふれる親しみやすさも感じられます。
やや体力を要しますが、麓の下醍醐と合わせて醍醐寺という壮大な寺院の奥深さを感じるためにも是非訪れていただきたいと思います。

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