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伏見には数多くの小さな寺院がありますが、宝福寺もその一つです。
伏見区帯屋町にある宝福寺(ほうふくじ)は、山号を久祥山(きゅうしょうざん)という曹洞宗寺院です。
江戸時代の伏見は大阪と京都を結ぶ物流の中継地として栄えましたが、三十石船で伏見港に着いた多くの旅人が、宝福寺で航海の安全を祈願したと伝えられ、この地域の旧名木挽町(こびきちょう)から「木挽町の金毘羅さん」として知られていたということです。
宝福寺の創建等は不明ですが、応仁の乱の兵火によって焼失する前は、「伏見九郷(ふしみくきょう・・伏見地域一帯の九つの村で、後に伏見奉行所が管轄した地域になります。)」の一つ、森村(桃陵町)にあったということです。焼失後は末寺だった瑞応院という寺院に寺号を移します。その後、永禄二年(1559)に出雲国の野崎浦城主・野崎備前守が伏見へ来て、瑞応院が荒廃しているのを知って自身が開基となって久祥院という寺名で真言宗寺院として再興し、富明(ふみょう)法印を住職としました。
桃山時代の慶長四年(1599)になって、薩摩国(鹿児島県)川辺郡の宝福寺の第十一代住職・日孝芳旭(ほうきょく)大和尚を招いて開山とし、薩摩の宝福寺の末寺となって寺号を久祥山宝福寺としました。またこの時に曹洞宗寺院に改めています。
本堂には中国風の釈迦像を中心に十六羅漢像を安置し、脇檀には三栖村(伏見区)にあった旧竜谷寺という寺院の遺物と伝えられる藤原時代風の聖観音立像を安置しています。
また本堂前にある金毘羅堂は、元々は伏見城の学問所前に建立されていたものを、江戸時代の元和六年(1620)伏見城廃城に伴って、寺社奉行の山口駿河守が当寺に移転したものといわれています。また、その際、豊臣秀吉と淀君が「子授け成就」の祈願をして、秀頼を授かったという子育て「陰陽石」や、羅漢像二体等も境内に移されたと伝えられます。
この金毘羅堂内には狐の背中に烏天狗を配した珍しい「合体金毘羅大権現像」を祀っています。この大権現像は、脇檀の羅漢像と共に非常に異国風の特長になっています。また、「豊公・淀君ゆかりの陰陽石」という子育てにご利益があるという自然石も堂内に移されているようです。尚、現在の金毘羅堂は昭和四十八年(1973)に再建されたものです。
他に、境内には、平成十四年(2002)の道元禅師七五〇回大遠忌を前に、宝福寺の大雄慶康住職と檀家有志が、平成八年(1996)に禅師の足跡(そくせき)二百五十km(京都から福井県の永平寺まで)を行脚した「慕古の旅」を記念する顕彰碑が建てられています。この「慕古の旅」は、現在も毎年8月末から9月1日にかけて宗門有志と共に続けられているということです。
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