京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市上京区には、通常非公開ですが由緒ある門跡尼寺が数多く集まっています。
その中で一つだけ非常によく知られているのは、春秋に特別公開される「人形寺」宝鏡寺(ブログに採り上げています)です。宝鏡寺は「百々(どど)御所」とも呼ばれていますが、その他にも○○御所の異名のある門跡尼寺があります。

○宝慈院(千代野御所)

○三時知恩寺(入江御所)

○光照院(常盤御所)

○慈受院門跡(薄雲御所、竹之御所、烏丸御所とも)

○大聖寺(御寺=おてら御所)



今回は宝慈院を採り上げます。

上京区衣棚町通寺ノ内上る下木下町にある宝慈院(ほうじいん)は、知らない人は気が付かずに通り過ぎてしまうような静かに佇んだお寺です。山号を樹下山(じゅげざん)という臨済宗の尼門跡寺院の一つで「千代野御所(ちよのごしょ)」とも呼ばれています。

さて、前に宝鏡寺の時に書きましたが、鎌倉時代の弘安年間(1278〜87)、現在の上京区西五辻東町には日本で最初に女性として禅僧となったと伝えられる無外如(むげにょ)大禅尼が開山した景愛寺(けいあいじ)があり、宝慈院はこの景愛尼寺の塔頭の一つとして創建されました。
無外如大禅尼は、幼名を千代野(ちよの)といい、鎌倉幕府の有力御家人重臣・安達泰盛の娘と伝えられます。北条氏一族の金沢顕時に嫁いだ後、中国(南宋)より来日して臨済宗を広めた高僧・無学祖元に従って出家し、永仁六年(1298)、七十六歳で死去しました。生涯に不明な点も多いですが偉大な女性宗教者として語り継がれています。

さて、景愛寺の塔頭・宝慈院は、はじめは資樹院と称していいましたが、応仁の乱の後に宝慈院と改められたということです。そして、南北朝時代の光厳天皇の皇女・華林恵厳(かりんえごん)尼(宝鏡寺の創建者でもあります)が住寺の時に、無外如大禅禅尼の幼名に因んで「千代野(ちよの)御所」と号し、紫衣を許され、これ以降は宝慈院の住持は、皇族か公卿の女子と定まり、江戸時代には比丘尼御所の一つに列しました。
(尚、本山の景愛寺は、足利氏の庇護をうけ、「京都尼寺五山(景愛寺・檀林寺・護念寺・恵林寺・通玄寺)」の第一位として、南北朝時代には大いに栄えましたが、応仁の乱以降に衰退消滅します。宝慈院には景愛寺の貴重な寺宝が継承されています。)


現在の本堂は天明八年(1788)の天明の大火後の再建で、収蔵庫に安置されている本尊・阿弥陀如来像(重要文化財)は、平安時代末期の作といわれ寄木造で丈六(約2.8m)の大きな坐像で景愛寺の旧仏といわれています。また脇壇には木造仏光国師像と木像無外如大坐像(共に重要文化財)を祀っています。
また、定説ではありませんが、「千代紙」の名前の由来は、この宝慈院(千代野御所)で尼僧らが書いた絵から始まったために、「千代野御所」から「千代紙」と呼ばれるようになったという説もあります。

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右京区宇多野馬場町にある光孝天皇後田邑陵(こうこうてんのう のちのたむらのみささぎ)は、第五十八代光孝天皇の陵墓です。
光孝天皇は、前回に採り上げた第五十五代文徳天皇の弟で、その陵墓もそれ程離れていません。文徳天皇陵が丘陵に造られた雄大な天皇陵であるのに対し、こちらの方は住宅地に囲まれていて魅力の点では落ちる印象です・・しかし有名観光寺院の仁和寺の直ぐ南西に位置しているので、仁和寺を訪れたついでに訪問しやすい天皇陵ではあります。



光孝天皇(830〜87 在位884〜7年)は、人生も終わり頃になって偶然、皇位を継承することとなった天皇として知られます。

仁明天皇陵、文徳天皇陵を採り上げた時に詳しく書いたので、ここでは簡単に・・
少し遡りますが、承和九年(842)に絶大な権力を持っていた嵯峨上皇が死去すると、直ちに「承和の変」が起こりました。時の仁明天皇(嵯峨天皇の子)は、謀反人として伴健岑、橘逸勢らを流刑に処し、事件に関係したとして恒貞親王(淳和天皇の子・仁明天皇の従兄弟)も皇太子を廃されました。
この「承和の変」の結果、仁明天皇の外戚・藤原良房は大納言に昇進し、仁明の子・(藤原良房の孫)道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となります。
こうして仁明・文徳・清和・陽成と続く直系相続が行われ、政治の実権は完全に藤原北家の藤原良房、基経が握りました。特に第五十六代・清和天皇は祖父でもある良房によって、第五十七代・陽成天皇は叔父でもある基経によって共に僅か九才で天皇に擁立されるという完全な傀儡だったのでした。

しかし、その後、成長した陽成天皇は次第に摂政の基経と対立し、実権を握る基経によって十七才で退位させられました。陽成天皇は宮中で撲殺事件を起こすほど暴君だったために退位させられたとも伝えられて、後世、暴君を倒した基経は王朝を護った忠臣という評価まであったようですが、現在の研究では、思い通りにならない若年の天皇(実際は幼帝を操る皇太后高子(基経の同母妹ですが)の勢力)を追い落とした基経が、自身の行為を正当化するために陽成天皇暴君説を喧伝させたというのが真相に近いと考えられているようです。



こうして、陽成天皇を退位させた基経は貴族たちと会議を開いて、皇位継承者を探しました。
この時、嵯峨天皇の晩年の子で臣籍降下していた源融(源氏物語の光源氏のモデルともいわれます)は、自分も天皇家の出身だから・・と主張しますが、臣籍降下した者が天皇になるなど前例の無いことであると、基経に直ちに退けられたという話も伝わっています。
他に「承和の変」で皇太子を廃されて出家していた当時五十九歳の恒貞親王(淳和天皇の子)にも皇位を要請して拒絶されたともいわれますが、基経の意中では候補者は既に決っていたようです。
(会議の席で参議・藤原諸葛が剣の柄に手をかけ太政大臣(基経)に異論のあるものはこの場で切って捨てると恫喝したとも伝えられますが、そういう脅しが無かったとしても基経に逆らう者はいなかったでしょう。)

基経は、三代溯って仁明天皇の第三皇子で五十五歳の時康親王を担ぎ出します。
基経と時康親王とは母を通じて従兄弟という関係にあり、すでに老境にあった時康親王は、これまで日々の暮らしにも苦労する程だったとも伝えられ、それだけに倹約を旨とした穏やかな性格だったようです。
こうして即位した光孝天皇は、文事を好んで政治には関心が無く「全てを基経に任せる」と語りました。そして皇位に即けてくれた基経に感謝し、また憚って、即位以前の自分の皇子皇女をすべて臣籍に降下させることまでしました・・これは基経の血を引いていない皇子を皇太子にしないためだったいわれています。
このようにして始まった光孝天皇の治世は、基経が政治の全てを仕切っていたこともあってか大きな事件の無い平和な時代だったようです。しかし、仁和三年(887)、在位三年で天皇は新しい女御(藤原佳美子=恐らく基経の娘)との間に子が無いままに病に倒れ、臣籍降下していた源定省(定省親王、後の宇多天皇)を親王に復位させ皇太子にした後に死去しました。もちろん、定省親王を皇太子に推薦したのは基経で、定省親王が基経の異母妹・尚侍藤原淑子(基経の政治的な協力者でもあったようです)の猶子だったことが理由でした。こうして、基経はさらに次代でも権力を握る事になります・・・。



さて、政治は全て基経に任せて、自身は和歌をよくし文事を好んだ光孝天皇は、後世に一つの大きな遺産を残しました・・即ち、仁和寺の建立です。仁和寺は仁和二年(886)に光孝天皇が大内山の麓に「西山御願寺(にしやまごがんじ)」という一寺の建立を発願したことに始まります。
そして光孝天皇の死後、先帝の志を継いだ宇多天皇が仁和四年(888)に完成し、合わせて光孝天皇の一周忌供養が行われました。西山御願寺は光孝天皇の時代の「仁和」の年号を寺号として定められ、大内山仁和寺(おおうちやまにんなじ)と呼ばれるようになりました。


最後に、光孝天皇の陵墓についてです。元々陵墓は仁和寺の西に位置していましたが、多くの天皇陵と同じく、その後所在が不明となりました。平安時代には百余もの塔頭を持っていた仁和寺が、その後火災と戦乱で衰退したために、陵墓を護持していたその塔頭が失われたことが原因と思われます。
ようやく江戸時代末期に始まった天皇陵の捜査を経て、明治二十二年(1889)に全国の天皇陵を、とにかく急いで地定した際に、現在の場所に定められましたが、実際の埋葬地である可能性は低いと考えられています。

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右京区太秦三尾町にある文徳天皇田邑陵(もんとくてんのう たむらのみささぎ)は、第五十五代文徳天皇の陵墓です。
前に、玄武神社の祭神・惟喬親王について書いた時に、親王の父文徳天皇についても少し書きました。文徳天皇は、平安時代に藤原氏によって擁立された多くの天皇の最初期の例という以外に、歴史的にそれ程重要な天皇では無いと思われますが、太秦にあるその天皇陵は見晴らしが良くて、横には文徳池と呼ばれる溜池もあり中々良い雰囲気の天皇陵だと感じます・・・ただし、多くの天皇陵と同じく実際の文徳天皇の埋葬地では無いようですが。


長くなりますが、前に文徳天皇の父の仁明天皇陵について書いた文章を再掲させていただきます・・・
さて、文徳天皇は仁明天皇の第1皇子ですが、父帝の治世に「承和の変」という藤原氏が台頭する切欠となった事件があり、天皇家皇位(王統)の相続形態に変化をもたらした天皇として知られます。


平安京の創始者・桓武天皇の子孫たち、いわゆる桓武朝は、親から子へという直系相続ではなく、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立が行われたことが知られています。「藤原種継暗殺事件」や「平城太上天皇の変(薬子の変)」等の大きな事件が起こると、結果として一時的に直系相続を生みますが、皇位迭立は存続して、特に嵯峨・淳和天皇の時代の皇位迭立は兄弟間で相手の子供に皇位を譲るという複雑なものになりました。

○桓武天皇(弟・早良親王を皇太子にするも、「藤原種継暗殺事件」に連座して廃位。代わって子の安殿      親王(平城天皇)を立太子)
○平城天皇(弟の嵯峨天皇に譲位)
○嵯峨天皇(甥の高岳親王(平城天皇の子)を皇太子にするも、「平城太上天皇の変(薬子の変)」に連      座し廃位。代わって弟・大伴親王(淳和天皇)を立太子)
○淳和天皇(甥・正良親王(嵯峨天皇の子・仁明天皇)を立太子)
○仁明天皇(従兄弟・恒貞親王(淳和天皇の子)を立太子するも、「承和の変」に連座し廃位。代わって      自身の子・道康親王(文徳天皇)を立太子)

さて、兄の平城天皇から皇位を譲られた嵯峨天皇は、その後、兄の上皇が再び政治的野心を抱いために、これを軍事的に圧倒し兄を出家させます。(平城太上天皇の変(薬子の変))その後、兄弟の対立が王統を危うくしたことの反省か、また自身の子を皇太子にすることを憚ったためか、嵯峨帝は、弟の大伴親王(淳和天皇)を皇太子にします。即位した淳和天皇は、今度は甥にあたる嵯峨の子・正良親王(仁明天皇)を立太子し、即位した仁明天皇は、今度は従兄弟にあたる淳和の子・恒貞親王を立太子します。このように、嵯峨と淳和の兄弟帝は、子の代まで交代に皇位を譲り合ったのでした。
しかし、主に上皇として絶大な権力を握っていた嵯峨帝の意思によって行われたこの相続形態は、嵯峨の死によって脆くも崩れます。

承和七年(840)に淳和上皇が死去、承和九年(842)に、嵯峨上皇が重病に陥ると、有力貴族の後ろ盾のない皇太子・恒貞親王(淳和天皇の子)の立場を危惧した皇太子に仕える伴健岑(ばんのこわみね)、橘逸勢(たちばなのおとせ)らが恒貞親王を東国へ移すことを画策します。しかしこの計画は露見し、嵯峨帝が亡くなると陰謀関係者は直ちに逮捕されました。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人として流刑に処し、恒貞親王も皇太子を廃されました。
この「承和の変」の結果、仁明天皇の外戚・藤原良房は大納言に昇進し、仁明の子・(藤原良房の孫)道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となります。こうして、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立は一旦終わって、仁明・文徳・清和・陽成と続いく直系相続が行われます。




「承和の変」は、自身の子道康親王(後の文徳天皇)を皇太子にしたいと内心望んでいた仁明天皇と、道康親王(文徳天皇)に自身の娘明子を入内させて外戚となっていた藤原良房の政治的野心が合致して見事に成功した政変だったともいわれますが、嘉祥三年(850)の父帝の死後、即位した文徳天皇は、当然、自身の即位に力を尽くした良房(太政大臣に昇格)の存在を無視できず、藤原氏の勢力は一段と強まりました。

文徳天皇は、後継者として幼少より聡明だった惟喬親王(母は紀氏の出身)を皇太子にしたいと望んでいましたが、藤原良房の娘明子との間に生まれたばかりの、生後八ケ月の第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子にせざるを得ませんでした。1歳にもならない乳児を皇太子としたことは前代未聞のことで、藤原良房の強い圧力があったことは言うまでもありません。

その後も、文徳天皇は、何とか惟喬親王にも皇位を継承させようと考え、藤原良房との間には暗闘があったと伝えられますが、結局、天安二年(858)に三十一歳の若さで死去してしまいます。
こうして、文徳天皇が死去すると、藤原良房は直ちに僅か九才の惟仁親王(清和天皇)を即位させ、完全に外戚として政治の実権を握りました。その後、院政期までの歴代天皇は、僅かな例を除いて外戚の藤原氏の意向によって選ばれることになります。
その後・・
○清和天皇(9歳で即位。藤原良房が実権を握る。子の貞明親王(陽成天皇)に譲位)
○陽成天皇(9歳で即位。藤原基経により退位させられる。)
陽成天皇を退位に追い込んだ藤原基経は、後継者を探して、再び3代溯った仁明天皇の第3皇子を担ぎ出します。この光孝天皇は、「全てを基経に任せる」と語り、基経の権力は絶大なものとなりました。




さて、文徳天皇陵についてです。
文徳天皇が天安二年(858)に亡くなると、山城国・葛野郡田邑郷にある真原岡という丘陵地に埋葬されたと伝わりますが、その陵墓はその後行方不明となりました。
(天皇陵は古代には大規模な古墳として造られましたが、平安時代になると徐々に小規模となり、やがて仏教思想の影響により火葬が取り入れられ寺院内の御堂に納骨されるようになっていきます。こうして小規模になった京都の大部分の天皇陵は、その後の戦乱の中で管理していた寺院が廃絶したり、都市の発展により山陵の周辺地域が切り開かれていくうちに行方不明となってしまいます。)

江戸時代末期、尊王思想の高まりによって歴代の天皇陵を調査する動きが起こり、文徳天皇の陵墓についても幾つかの候補地が考えられましたが、最も有力候補だったのは、それまで地元で文徳天皇の陵墓として言い伝えられてきた「天皇の杜古墳(西京区御陵塚ノ越町。呼び名は文徳天皇陵と伝えられてきたことから名付けられています。 前にブログに採り上げました。)」でした。
しかし、幕末から明治の国学者で、天皇陵修復に努めた谷森善臣(たにもりよしおみ 1818〜1911)の推定によって現在地と定められ、明治になって円丘の陵墓として整備されました。しかし研究が進んだ現在では信憑性に欠けるものと考えられています。

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