京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市上京区浄福寺東入る大黒町の東側は、現在新興住宅地となりつつあります。
その住宅地の中に近年綺麗に整備された小さな祠と鳥居があり、大きな約1.8mのやや赤みを帯びた巨石が御神体として祀られています・・・これが岩神です。「岩神祠(いわがみのほこら)」、「岩上(いわがみ)神社」、「石神(いわがみ)」、「岩神神社」と色々な呼び名で書かれていて、地元では親しみを持って「岩神さん」とも呼ばれているということです。


さて、この地には江戸時代に、山号を有乳山という岩神寺という寺院があり、乳の出が良くなるという授乳の神として、特に乳母や保母等に深く信仰されていたということです。その後、享保十五年(1730)の大火「西陣焼け」、天明八年(1788)の「天明の大火」で類焼した後に岩神寺は衰退して、明治になって廃寺となり、この石だけが残されていたということです。
その跡地は、岩上座という芝居小屋になりましたが、それでもこの巨石は地元住民から「岩神」として崇められていたようで、大正六年(1917)に岩上座の跡地を所有した織物会社が祠を建てて神社として岩神を祀って神事を行うようになったということです。そして、その建物が取り壊された後、現在のように整備され道路からも御神体が見られるようになりました。


少し時代を遡りますが、元々、岩神は二条堀川付近(二条城の南 二条通猪熊)の冷泉院の鎮守社にあったといわれ、慶長七年(1602)の徳川家康による二条城築城の際に、岩上通六角下る(中京区岩上町・・現在は中山神社があります)へ運ばれたとも、或いは、寛永年間(1624〜43)に岩上通六角へ神社を遷座する際、この大石だけは大きすぎて引く事が出来ないために、旧地に残したとも伝わります。ともかくその後、形の良い石ということで、後水尾天皇の女御中和門院の御所の庭へと移されました。

ところが、御所内に安置された岩神は、内裏の築山に引こうとしたら吠えたとか、小僧に化けて神泉苑で怪をなしたとか様々な怪異を起こしたと伝えられ、子供に化けたこともあったようで「禿童(かぶろ)石」とも呼ばれました。変身パフォーマンスを繰り返す元気いっぱいの岩神に、御所もあきれ果てたのか疲れ果てたのでしょう・・・.その後、御所の北門の辺りに置きっぱなしにしていたようです。
寛永七年(1630)、雲乗院(蓮乗院とも)という御所でしばしば祈祷を行っていた真言宗の僧が大石が置かれているのを見つけて、御所からもらい受け現在地に安置して祠を建てて祀ったのが、岩上神社(=神宮寺として岩神寺)の始まりといわれます。

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出水通六軒町東入る七番町にある玉蔵院は、ごく普通の寺院という印象で、書くネタもあまり無いので採り上げようか迷ったのですが、京都市上京区のHPに出ているので写真を掲載して、上京区のHPの引用を中心に書いてみます。


西陣の出水通の周辺には、一番町から七番町という町名があります。これは、天正十五年(1587)、豊臣秀吉が聚楽第を築いた際に、平安京の大内裏址の内野の地に一番から七番の組屋敷を置いたことによるといわれています。
聚楽第の外郭範囲としては、北は元誓願寺通(もとせいがんじどおり)、東は堀川通、南は押小路通(おしこうじどおり)、西は千本通に至る東西約600m、南北約700mという大きさで、周囲には幅30m以上にも及ぶ堀をめぐらしていたと考えられているので、千本通の西にある一番から七番の組屋敷は聚楽第の西の守りでもあったのかもしれません。
そして、聚楽第が廃絶された後の荒地には、多くの寺院が立ち並ぶことになりました・・・一番町には大寺院の立本寺があります。二番町には安養寺。三番町には観音寺や福寿院、大雄寺。四番町には報土寺。五番町には長徳寺、国生寺。七番町には福勝寺、華光寺、慈眼寺、本昌寺、光清寺、五却院等。
その後、江戸時代末期からは水上勉の小説で映画化もされた「五番町夕霧楼」で知られるように、五番町には遊郭が建ち並び(昭和三十三年(1958)の売春防止法施行により廃止となりました。)また新しい娯楽として映画館も増え一大歓楽街となりました。



さて、七番町にある多くの寺院の中でも、玉蔵院はかなり地味なお寺です。臨済宗妙心寺派の寺院で、江戸時代初期の寛永十一年(1634)、仏頂上人により創建されました。重要文化財指定の絹本著色芦葉達磨図は、南北朝時代の道釈人物画で、東福寺の禅僧固山一鞏(こざんいっきょ)の賛のあることで知られるということです。

前に書きましたが、この上京区出水通の「出水(でみず)」周辺の寺院には、「出水の七不思議」という伝説が残っています。

幾つか諸説あるようですが、
○観音寺の泣く山門(伏見城の牢獄の門を移建したと伝えられ、夜には泣き声を発したと伝わります。)

○地福寺の日限薬師(小さな穴の開いた小石を奉納して、日を決めて祈願すると、耳の聞こえないのが治ると伝わります。)

○光清寺の浮かれ猫(絵馬の猫が、絵馬から抜け出して遊んだと伝わります。)

○五却院の寝釈迦(門の潜り戸の木目が釈迦が横たわる姿に見えるということです。)

○極楽寺の両袖の潜り戸(山門の潜戸が左右二つ有ります。)

○極楽寺の金谷水(秀吉が茶会に用いた勝負に勝つという名水)

○華光寺の時雨の松(秀吉の手植えといわれ、晴れた日でも枝から雫を落としたと伝わりますが、大正五年に枯死しました。)

○華光寺の五色椿(五色の花を付けたといわれますが、枯死しました)

○玉蔵院の円山応挙の幽霊掛け軸

この「出水の七不思議」になっている玉蔵院の円山応挙筆の掛け軸は、肺病で瀕死の遊女を描いたもので、その姿が幽霊に見えるというものだったそうですが、数十年前から行方不明になってしまって残念ながら今では見ることは出来ないということです。

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千本通や七本松通と並んで西陣を南北に抜けるメインストリートに智恵光院通があります。この通りの名前で知られるのが、今回採り上げた智恵公院(ちえこういん)です。
西陣地域の中央、千本通と堀川通の間では浄福寺(前に採り上げています)に次いで大きな寺域を持つ寺院ですが、残念ながら度々の火災により記録類を失いその歴史には不明な点が多いようです。



さて、智恵光院通一条上る智恵光院前之町にある智恵光院は、称念山平等寺(しょうねいざんびょうどうじ)と号する浄土宗知恩院派のお寺です。
創建は鎌倉時代の永仁二年(1294)、藤原北家の流れを組む近衛家の出身で、鷹司家(たかつかさ・・兼平の住居が鷹司室町にあったことから 五摂家の一つ)の始祖となった関白・鷹司兼平(1228〜94)が、一条の北にある花園を献じて自家の菩提寺院として創建し、如空(にょくう)国師を開山に迎えたと伝えられます。当初は岡崎(左京区)に寺地があったと伝えられますが、何時頃に現在地に移ったのか、経緯も時期も伝えられていないようです。それはともかく、その後、聞益(もんえき)上人によって山内に塔頭・要終院、芳秀院、智福院、吟松院の四院を建立して、京師七光院の一つとして隆盛を極めたということです。

その後、江戸時代の享保十五年(1730)の大火「西陣焼け」や天明八年(1788)の両大火で全焼して、その後、徐々に再建されましたが、第二次世界大戦中の強制疎開により、塔頭四院も廃寺とされ、現在の規模に縮小されてしまったということです・・・それでもこの地区では大きなお寺ですが。

現在の建物は全て天明八年(1788)以降の建物で、安政二年(1855)に再建された本堂には有名な鎌倉時代の仏師・安阿弥快慶作と伝わる本尊阿弥陀如来像を祀っています。また広い境内には、小野篁作と伝えられる六臂(ろっぴ)地蔵像を安置した地蔵堂をはじめ、智徳弁財天や金ぎょく龍王神、智恵姫稲荷大明神を祀った小堂等があります。


この内で有名なのは、六臂地蔵尊です。

ここで、「六地蔵」について再掲載します・・
平安時代初期に、歌人の小野篁が一度息絶えて冥土に行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後、一木から刻んだと伝わる六体の地蔵菩薩像のことです。その後保元二年(1157)後白河天皇が平清盛に命じて、京都に疫病が侵入しないようにと祈願させ、京都周辺の交通要所の六ヶ所に一体ずつ地蔵を安置させたと伝えられ、京都では「京都六地蔵巡り」といって、毎年8月22・23日に京都周辺のこの六ヶ所の地蔵菩薩を巡って、無病息災や家内安全等の祈願をこめてお参りする行事があります。

六地蔵です・・

○鳥羽地蔵(浄禅寺)(南区上鳥羽岩ノ本町・旧大坂街道)

○伏見地蔵(大善寺)(伏見区桃山町西山・旧奈良街道)

○山科地蔵(徳林庵)(山科区四ノ宮泉水町・旧東海道)

○桂地蔵(地蔵寺)(西京区桂春日町・旧山陰街道)

○常盤地蔵(源光寺)(右京区常盤馬塚町・旧周山街道)

○鞍馬口地蔵(上善寺)(北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町・旧鞍馬街道)

智恵光院の地蔵堂に祀られている六臂地蔵尊は、小野篁が、各地の六地蔵をそれぞれ巡礼するのも大変でもあり、これら六体を一体に刻んで礼拝すると功徳も非常に大きいだろうと考え、六地蔵の夫々の腕を取り入れた六つの手を持つ尊像を一刀三礼で彫り上げたものということです。
その後、六臂地蔵像は御所近くの知恩寺に祀られましたが、疫病を治め「厄よけ地蔵」と庶民から親しまれたということです。その後、知恩寺第六世・如一国師が智恵光院を建立した縁で、南北朝時代に当寺に移されたと伝わります。六臂の地蔵損は日本唯一ということですが、地蔵像は堂内にかなり厳重に封印されていて見ることはできません。

最後に、智恵光院の境内には季節の色々な花も植えられていて、ベンチなども置かれているので、ちょっとした休憩スポットにもなりそうです。

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中京区烏丸二条西入る東玉屋町にある薬祖神祠(やくそじんし)は、大巳貴命(おおなむちのみこと=大国主命(おおくにぬしのみこと))、小彦名命(すくなひこなのみこと)に加え、中国の医薬神・神農、西洋医学の父とされるギリシャの哲学者ヒポクラテスを祀るユニークな神社です。


さて、平安京時代以来、都として発展してきた京都では、他の地域に先駆けて商業活動が盛んでしたが、鎌倉、さらに室町時代には市内各地域に同業者が集まった同業者町が生まれ発展していきました。応仁の乱以降の戦乱や、江戸時代の大火等によって大きな打撃を受けながらも幾つかの同業者町は存続し、現在まで継承されてきたものもあります。
今回採り上げた薬祖神祠(やくそじんし)のある二条通周辺は薬業者の町として発展した地域です。
二条一帯は、豊臣秀吉による京都市街地の地区改正と、江戸時代初期の二条城造営により、各種の業者が集まった同業者町が生まれていきます・・特に二条通には薬業者が集まる同業者町が誕生しました。江戸時代の民謡には「一条戻り橋、二条きぐすり屋、三条みすや針、四条芝居・・・」と歌われるほど二条通は薬の町として知られたということです。


薬祖神祠は、この薬の町の薬業者達が、商売繁盛を願って江戸時代後期の嘉永年間(1848〜53)に薬師如来、住吉大名、神農を祀ったのが始まりとされ、この時に始まった「薬師講」は現在まで「薬祖神祭(11月開催)」として続けられています。この「薬祖神祭」は、「二条の神農さん」と呼ばれ、京都の年中行事の一つに数えられるほど盛大だったということですが、明治維新の廃仏毀釈の影響を受けて、(祭神の薬師如来、住吉大名、神農など日本や中国の神仏混交が否定されたのでしょう。)一時中断することになりました。
その後、明治十三年(1880)に祭神を変え(大巳貴命=大国主命・小彦名命・神農神像)復興しました。この時には既に西洋医学も浸透していたことから、西洋の医学神としてヒポクラテスを祖神に加え、明治三十九年(1906)に現在地に祠を移しています。

以前は五十数件あった二条通の大小の薬問屋や関連企業は、近年は大手企業に吸収合併されて現在は十軒ほどに減ったということです。また、京都の年中行事として知られ、近年まで多くの夜店が立ち並んだという「薬祖神祭」も、現在はそれ程知られない行事となっていますが、毎年11月の第1金曜には神事を行って神楽を奉納し、参拝者には薬効のある笹の葉が配られます。(笹にはお守り袋と陶製のトラが付けられているということです。)

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京都市中京区麩屋町通二条上ル布袋屋町にある大福寺は、民家と変らない非常に小さいお寺ですが、京都七福神の第七番札所、京都十二薬師の第十番霊場として知られるお寺で、通称「菩提薬師(ほていやくし)」と呼ばれ親しまれています。
創建は飛鳥時代に遡るというあたり(聖徳太子創建伝説のある多くのお寺と同様)、どうかな?とも思ってしまいますが、ともかく由緒ある寺院だったようです。


大福寺は、正式には「瑠璃光山利生院大福寺」という天台宗寺院です。
寺伝によれば、創建は非常に古く、飛鳥時代の推古天皇の六年(594)、大和国宮田郷(ごうり)に建立され、聖徳太子自身が刻んだ薬師如来像を祀ったということです。その後、天台宗寺院となったようで、平安時代末期の後三条天皇の勅願に依り鎮護国家の道場となり、室町時代初期の延文元年(1356)に勅詔により京都に移転して方八丁(約880m四方)の寺域を賜わって七堂伽藍を建立したと伝わります。代々の皇室朝廷の崇敬は極めて篤かったということですが、天明年間(1781〜88)の火災(恐らく天明八年(1788)の大火)により焼失し現在のような僅かにその面影をとどめる小さな寺院になったということです。

境内は幕末の勤王志士・梅田雲濱の遺蹟でもあります。
梅田雲浜(1815〜59)は若狭小浜藩の藩士の家に生まれました。儒学者として大津に湖南塾を開き小浜藩の塾望楠軒の講主として迎えられますが、海防策の意見書を藩主に提出したのが、藩政批判とみなされ版籍を剥奪されます。こうして浪人となった雲濱は、妻を抱えてその日の暮らしも出来ないほど困窮しましたが、ペリー来航時には尊皇攘夷を唱えて同志たちの精神的な指導者として活躍します。しかし、安政の大獄により吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等と共に捕えられ、獄死しました。大福寺は雲濱が仮寓して妻女を迎えたところということです。



さて、本尊の菩提薬師像は聖徳太子の作と伝えられ、大福寺は「京都七福神」の第七番と「京都十二薬師」の第十番霊場に数えられます。
江戸時代から大福寺界隈の商家では、正月に金銭出納帳に縁起の良い「大福」寺の宝印を授与する慣わしがあって、これが「大福帳」という言葉になったということです。現在も正月に大福帳に宝印を押してもらうと、その一年商売繁盛がかなうといわれます。(尚、本尊は毎年1月17日に開帳)


「京都七福神」です・・・

布袋尊(大福寺 中京区)
寿老神(革堂(行願寺 中京区)
えびす神(護浄院 上京区)
毘沙門天(廬山寺 上京区)
弁財天(妙音堂 上京区)
大黒天(妙円寺 左京区)
福禄寿(遣迎院 北区)
(尚、京都には、他に京洛七福神・都七福神・泉涌寺七福神・天龍寺七福神など幾つかの七福神巡りがあります)



「京都十二薬師」です・・・

第1番 因幡薬師(平等寺 下京区)
第2番 金剛薬師(東寺 南区)
第3番 水薬師(水薬師寺 下京区)
第4番 歯痛止薬師(壬生寺 中京区)
第5番 日限薬師(地福寺 上京区)
第6番 峰薬師(福勝寺 上京区)
第7番 脚気薬師(雙林寺 東山区)
第8番 鍬形薬師(大超寺 左京区)
第9番 不来乎薬師(薬師院 中京区)
第10番 菩提薬師(大福寺 中京区)
第11番 寅薬師(西光寺 中京区)
第12番 蛸薬師(妙心寺 中京区)

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