京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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上京区出水通千本西入ル七番町にある福勝寺は、山号を竹林山という真言宗善通寺派の寺院です。
毎年の節分に授与されるひょうたんのお守り「宝珠尊融通御守(ほうしゅそんゆうづうおんまもり)」が有名で、「ひょうたん寺」の通称で知られています。また、本堂脇檀に聖観音菩薩が祀られ「洛陽三十三所観音巡礼」の第二十九番札所でもあります。


寺伝によれば、福勝寺は、元々河内国古市郡中村(現羽曳野市)に、弘法大師空海によって創建されましたが、その後衰退したと伝えられます。
その後、鎌倉時代の正嘉年間(1257〜59)に覚済僧正(第八十世東寺長者、第四十五世醍醐寺座主)が中興開山となって、京都の油小路五条坊門に再建されました。以後二度の移転を経て、さらに宝永の大火(1708)後に寺町通丸太町下ルから現在地(出水千本西入る)に移りました。
福勝寺は歴代の皇室の崇敬が厚く、桃山時代の後陽成天皇の勅願寺となっています。また、後西天皇の勅願寺にもなり、後西天皇が観音菩薩を祈願しその願いが成就した後、御所紫宸殿の左近桜を下賜され、以来「桜寺」とも称するようになりました。
勅願寺らしい堂々とした山門は、九条家からの移築と伝えられますが、原則として節分の日のみに開門されます。本堂には中央に本尊薬師如来、脇檀に聖観音菩薩を祀り、本堂前には、十三十塔や御所紫宸殿から下賜された桜(現在は二代目)があります。
また、歓喜天の例日の毎月1日、16日のみ自由に本堂、聖天堂の拝観が出来ます。



さて、「ひょうたん寺」の通称名の由来としては、ふたつの説が伝えられます。
一つは、豊臣秀吉が当寺を信仰し、出陣の際に武運を祈願するため「ひょうたん(ひょうたんは、種が多いことから子孫繁栄や武勲を数多く得る縁起の良いものとされました)」を奉納していたことに由来するといわれます。そして、秀吉はこのご利益により常に勝利したために寺領を寄進したと伝えられ、この奉納したひょうたんで「千成瓢箪」の旗印を作ったとも伝えられます。

もう一つの説は、福勝寺の創建以来伝わる伝統的なお守りが、宝珠(ほうしゅ)を2つ重ねた形をしていることから、ひょうたんの形に似ているとして、鎌倉時代ごろからひょうたんをお守りとして用いるようになったという説です。
この有名なひょうたんのお守りは、正式には「宝珠尊融通御守(ほうしゅそんゆうづうおんまもり)」と言って、開基・弘法大師空海が唐で師として仕えた清龍の三蔵国師・恵果和上より伝授された、貧苦の衆生を救済する不思議な玉「如意宝珠」の修法に由来すると伝えられます。そして、このひょうたんは、朝廷の厚い庇護を受け、明治以前は朝廷と幕府のためだけに祈祷していたということです。

現在、福勝寺では、如意宝珠と歓喜天の秘法を大峰山で七日間行って祈祷したひょうたんを、節分の日に授与しています。このお守りは、商売繁盛や祈願成就等のご利益があるとされますが、今では口コミで人気が出たために、完全予約制をとり、価格は1万円という高価なものです。それでも節分の日には三千人もの方が境内を埋めるばかりに参拝して買い求めてるということです。




最後に、福勝寺は幕末ファンにも知られたお寺です。境内墓地の東側付近に、池田屋事件のきっかけになった攘夷派志士・古高俊太郎の墓があるからです。
古高俊太郎は近江国出身で、京都で枡屋喜右衛門と称して、攘夷派志士のために、情報収集と武器弾薬の調達にあたりました。しかし、元治元年(1864)六月に新選組に襲われて捕縛され、壬生の前川荘司邸の土蔵で土方歳三らによって過酷な拷問を受けました。そして、ついに尊皇攘夷派の計画を自白したと言われ、これが池田屋事件へとつながりました。
その後、古高は六角獄舎につながれましたが、七月の蛤御門の変(禁門の変)による戦火の中で、囚人が逃走するのを恐れた幕吏は、未決のままで、古高俊太郎を含む池田屋事件関係者8名を、同じく六角獄舎に繋がれていた平野国臣ら生野の変の同志5名、天誅組の水郡善之祐以下16名、その他勤皇志士8名と共に(計37名)斬首したのでした。古高俊太郎享年36歳でした。
(尚、墓は、他に京都東山区の霊山墓地、滋賀県守山市の福寿院にもあります。)

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京都には、菅原道真(天神)を祀る天満宮が非常に多いですが、その幾つかは、菅原一族の邸宅跡(道真の誕生地でもあります)に建てられたと伝えられています。
これまでに南区の吉祥院天満宮(きっしょういんてんまんぐう)や上京区の菅原院天満宮(すがわらいんてんまんぐう)をブログで採り上げましたが、今回の菅大臣神社(かんだいじんじんじゃ 菅大臣天満宮(かんだいじんてんまんぐう))も、同じく菅原道真の邸跡に建てられたと伝えられる天満宮です。
小さな祠程度の神社の多い下京区では、まずまずの敷地がある神社らしい神社として、数少ないお勧めできるクラスかもしれません。



下京区仏光寺通新町西入菅大臣町にある菅大臣神社(菅大臣天満宮)は、祭神として天神(菅原道真)、尼神(あまがみ)、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀ります。
社伝によると、この地は、元々菅原道真(845〜903)の邸宅跡で、敷地は現在の仏光寺通を中心に南北二町(約220m)、東西一町(約110m)あったと伝わり、現在の神社は、邸の紅梅殿、白梅殿や菅家廊下(かんけろうか)といわれた学問所の跡地だったということです。また、道真誕生の地とも伝えられていて、境内には産湯に使ったという井戸が保存されています。
そして、道真が大宰府へ左遷される際に詠んだ「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」の歌は、この地の邸の梅を詠んだもので、道真を追って大宰府まで梅が飛んでいったという「飛梅伝説」の地でもあるということです。

さて、菅大臣神社(菅大臣天満宮)の創建年代は不明ですが、道真没後間もなく創建されたと伝えられます。その後度々の兵火にかかり、鎌倉時代には南北両社に分かれ、当社を天神御所「白梅殿社」、北社(現北菅大臣社)を「紅梅殿社」と呼ばれていたようです。応仁の乱で焼失したのと、慶長十九年(1614)に、管家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興されました。
江戸時代には、天明八年(1788)の大火、元治元年(1864)の禁門の変の兵乱で焼失再建されています。現本殿は天保六年(1835)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を、明治二年(1869)に移築したもので、その後建立された幣殿と合わせて八棟造(やつむねづくり)となっています。
境内には本殿、幣殿他、火御子社、白太夫社、老松社、福部社、春崎稲荷社、三玉稲荷社など多くの摂末社があります。



さて、菅原一族代々の邸跡で「白梅殿社」と呼ばれた菅大臣神社に対し、仏光寺通を隔てて北側にあるのが「紅梅殿社」こと北菅大臣神社です。
北菅大臣神社は、道真自身の邸として有名な「紅梅殿」があった場所に建つ神社といわれ、「東風吹かば・・」の有名な歌も紅梅殿で詠まれたとされています。現在の北菅大臣神社は、菅大臣神社と違ってたいへん小さなものになっていますが、道真の父是善を祀っています。

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