京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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前回の島原住吉神社の補足になりますが、今回の主役はイチョウの大木です。

下京区西新屋敷下之町、前回の島原住吉神社の北側には大きなイチョウの木があります。この場所は江戸時代に住吉神社があった旧境内地北端になり、この大銀杏は、明治維新後の廃仏毀釈によって社格株のない住吉神社が廃社になった際も、この地に御神木として遺されたものです。

その後明治三十六年(1903)に住吉神社は再興されましたが、境内は縮小したため、この大銀杏のところまで拡大されるには至りませんでした。その後、昭和五年(1930)にこの樹の根元に弁財天が祀られることにより、さらに神木として崇められています。
現在、イチョウの大木は、樹高20m、幹周3.5mあり、樹齢三百年相応の島原一の巨木ということです。

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今回は下京区西新屋敷下之町にある島原住吉神社を採り上げます。
江戸時代、京都の六花街の一つに数えられたのが下京区西新屋敷一帯の「島原」です。島原住吉神社は、伝統ある島原の鎮守社を復活させようと近年再建整備されたものです。


さて、島原の正式地名は「西新屋敷」ですが、寛永十八年(1641)に幕府の命令により、その前身になる六条三筋町からこの朱雀野に移されたことに始まります。この移転騒動が、当時九州で勃発した「島原の乱」を思わせる騒ぎだと流布したことにより、「島原」と呼ばれるようになりました。
島原は、江戸時代を通じて、公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展しますが、遊宴だけを事とするにとどまらず、和歌や俳諧などの文芸も盛んで、特に江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈しました。閉鎖的な江戸の吉原と違って、女性の出入りも盛んな開放的な町であったと伝わります。明治以降は、立地条件の悪さのため次第に衰退しますが、花街としての営業は昭和五十二年(1977)まで行われていました。伝統ある江戸時代の島原の雰囲気は、観光名所として知られる島原大門や角屋に感じることが出来ます。



さて、島原住吉神社は、元々島原中堂寺町の住吉屋太兵衛という人物の自宅に祀られていた住吉大明神が、霊験あらたかで良縁の御利益があるとして話題となり、多くの参詣者が集まったため、享保十七年(1732)に、島原の西北に祭神を遷座して建立された神社です。
当時の境内は、南は道筋(島原中央の東西道)から、北は島原の北端にまで及ぶ広大なものだったと伝わります。以来、島原の鎮守の神として崇められ、例祭とともに、太夫・芸妓等の仮装行列「練りもの」が盛大に行われていたということですが、明治維新の廃仏毀釈により、神社株を持たないとして住吉神社は廃社となり、祭神は当地の歌舞練場内に祀られることになりました。

しかし、地元住民の住吉大明神への崇敬心は篤く、明治三十六年(1903)に、船井郡本梅村から無格稲荷社の社株を譲り受けて再興しました。しかし、現在のような狭い境内地となリ、正式社名も住吉神社は認められず、稲荷神社とされたということです。ようやく、平成十一年(1999)に社殿と拝殿を改修、社務所も新築して境内の整備を行い、同十三年(2001)には、社名を「島原住吉神社」と改称して江戸時代以来の伝統ある神社に復することが出来ました。

また、住吉神社の境内左にある境内社・幸天満宮(さいわいてんまんぐう)は、元々揚屋町の会所に天神を祀る祠があったものが、享保十九年(1734)に住吉神社に遷座したもので、延享五年(1748)から、筑紫太宰府天満宮にならって「鷽替の神事」が営まれるようになったと伝わります。この神事は、色紙や短冊などを持ち集まって「鷽を替えん」と言いつつ取り交わすというもので、多くの見物人で賑わったようですが、明治以降は完全に廃れてしまったということです。


最後に、神社の前には「島原西門碑」があります。
島原には当初、現在も残る東の大門だけでしたが、享保十七年(1732)に西側中央部に西門が設けられました。両側に門柱を建てただけの簡略なものでしたが、天保十三年(1842)に住吉神社のある現在地に移され、この時、構えも冠木門に切妻屋根、さらに控柱に小屋根を設ける高麗型の門となりました。その後、近年まで島原の西門として堂々とした姿を維持していましたが、昭和五十二年(1977)に自動車の接触事故によって全壊し、三年後に門柱のみが復元されますが、これも平成十年(1998)に再度の自動車事故に見舞われて倒壊してしまいました。そのため、同年(1998)に、島原西門の由来と往時の形容を刻した石碑が建立されました。

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上京区新町通寺之内下る安楽小路町にある光照院は、山号を仏日山という浄土宗知恩院派の門跡尼寺で、「常盤(ときわ)御所」ともいわれています。
山門横に「持明院御所」跡地を示す石標があるように、元々この地には、鎌倉時代の歴代上皇の仙洞御所となった持明院(じみょういん)家の邸宅があり、邸内には安楽光院(あんらくこういん))という寺院がありました。そして、この持明院御所を拠点にした持明院統(第八十九代後深草天皇の系統)と、大覚寺を拠点とした大覚寺統(第九十代亀山天皇の系統)との対立が、南北朝の分裂をもたらした事は良く知られています。
この歴史的な地に建つ光照院は、由緒ある門跡寺院らしい落ち着いた雰囲気のお寺ですが、通常非公開です。(数年前に「京都の冬の旅」で特別公開されています。)



まず、平安時代末期以降に、この地にあった持明院について少し・・・
持明院は、平安時代末期の貴族で諸国の国司を歴任した藤原基頼(1040〜1122)が、康和年中(1099〜1103)にこの地にあった邸宅内に建立した持仏堂の名前に由来します。その後、子の大蔵卿通基は天治年中(1124〜25)にさらに堂宇を整備し、家名を持明院とすると共に寺院は「安楽光院」と称しました。そして、大治五年(1130)には鳥羽上皇が安楽光院の落慶法要に臨幸しています。
さて、持明院家と皇室との結び付きは、通基の子、中納言・持明院基家(藤原基家)の娘陳子(北白河院)が守貞親王(もりさだしんのう 1179〜1223)に嫁いだことから始まります。

守貞親王は、高倉天皇の第二皇子で、安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟にあたります。
兄の安徳天皇が平家と共に西国に逃れた際、七歳の親王は皇太弟として同行し、平家滅亡の際に源氏に救出され都に帰りました。守貞親王が都に戻ると、既に同母弟の尊成親王(六歳)が、祖父の後白河法皇の指示によって天皇に即位していました・・・後鳥羽天皇です。
天皇になれなかった守貞親王は、その後、持明院基家(藤原基家)の娘陳子(北白河院)を妃にして、持明院邸を御所(持明院第)としていましたが、弟の系統が次々と天皇(後鳥羽、土御門、順徳・・)となっていくのに対し、自らの不遇な立場を嘆いて建暦二年(1213)出家してしました。

しかし、再び運命が変ります。弟の後鳥羽上皇が、承久三年(1121)に鎌倉幕府倒幕の兵を挙げ敗北したのです。(承久の変)これにより、後鳥羽、土御門、順徳の三上皇は各々流罪となり、仲恭天皇(順徳上皇の皇子・懐成親王)は退位させられます。
鎌倉幕府は、後鳥羽の血統を全て排除して皇位継承者を探した結果、出家していた守貞親王(行助入道)の子・茂仁王(十歳)を即位させました。(後堀河天皇)そして、後堀河天皇がまだ幼かったために、父の守貞親王(行助)が院政を行うことになりました。
太上天皇の位を賜わった守貞親王(行助)は鎌倉幕府との関係修復に努め、貞応二年(1223)に亡くなりました。(後高倉院と称されます。)しかし、この後高倉上皇(守貞親王)の血統も間もなく跡絶える事になります・・貞永元年(1232)、二歳の四条天皇に譲位して上皇となった後堀川は、天福二年(1234)に二十三歳で崩御。四条天皇も仁治三年(1242)に十二歳で事故死したために、再び後鳥羽の血統から皇位継承されることになりました・・・後嵯峨天皇(土御門天皇の皇子)の即位になります。


仁治三年(1242)に即位した後嵯峨天皇は、寛元四年(1246)に後深草天皇(四歳)に譲位して院政を敷いて実権を握り、正元元年(1259)に後深草天皇に対し、弟・亀山天皇(十一歳)への譲位を促しました。さらに、後嵯峨上皇は亀山天皇後の皇位継承者として、後深草天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を皇太子としましたが、これが後深草・亀山兄弟の、さらに後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立のきっかけになりました。
そして、文永九年(1272)に後嵯峨上皇が鎌倉幕府に皇位決定権を委ねて崩御すると、幕府は亀山天皇を支持し、亀山天皇は後宇多天皇(亀山天皇の皇子)に譲位して院政を行いました。しかし、その後、後深草上皇側が巻き返し、伏見天皇(後深草天皇の皇子)を即位させることに成功します。そして、その後は鎌倉幕府の裁定により、後深草・亀山両帝の子孫の間で約十年ごとに交互に皇位を継承(両統迭立)することになりました。



さて、長くなりましたが、持明院基家邸を里御所とした守貞親王(後高倉上皇)に始まり、さらに妃の北白河院、子の後堀河上皇の仙洞御所(上皇の御所)となった持明院第(持明院御所)は、後嵯峨、後深草両上皇以下の系統の仙洞御所にもなりました。こうして、後深草天皇から後小松天皇に至る系統は持明院統と呼ばれることになりました。しかし、持明院第(持明院御所)は、文和二年(1353)二月四日に炎上して安楽光院を除いて全焼し、その後安楽光院も応仁の乱で荒廃しました。(尚、安楽光院は、「安楽行院」ともいわれ、後に深草に再建され明治に廃寺。ブログの嘉祥寺、深草十二帝陵で少し触れています。)

ようやく光照院です・・・
光照院は、南北朝時代の延文元年(1356)に、後伏見天皇の皇女・進子(ますこ)内親王が二十二歳で得度して自本覚尼と称し、室町一条の北に天台・禅・律・浄土四宗兼学の道場として創建したのが始まりと伝えられます。その後、応仁の乱で焼亡しますが、現在地の持明院旧地に再建され、一時は旧跡から安楽光院と称しましたが、後に光照院に復しています。 そして、以後は代々の皇女が尼門跡となりました。光照院は、享禄二年(1529)に仏殿を残して焼失、さらに江戸時代には享保十五年(1730)の大火以降しばしば火災に遭い再建を繰り返しています。そして、寛政元年(1789)に光格天皇の御下賜金によって復興した際に、「常盤御所」の称号を賜わりました。

現在の本堂は昭和四十三年(1968)に、古建築を改装した入母屋造、軒唐破風付の建物で、書院は京都御苑内にあった旧桂宮御殿の一部を移築したものです。本堂には本尊釈迦如来立像、開山自本覚公像を安置し、また格天井には田能村直外筆による「四君子」(しくんし)が描かれています。また庭園は、樹齢五百年と伝わる五葉の松を配した枯山水庭園です。
また、明治時代に光照院の歴代皇女の墓は同じく皇室とのかかわりが深かった華開院(上京区行衛町 ブログに掲載しています)に移設されています。(華開院内の光照院宮墓地には、後陽成天皇皇女・尊清女王墓、後水尾天皇皇女・文察女王塔、 後陽成天皇皇女・尊英女王墓、後陽成天皇皇女・尊蓮女王墓、霊元天皇皇孫女・尊梁女王墓、後西天皇皇女・尊杲女王墓、中御門天皇皇女・尊乗女王墓があります。)

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