京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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上京区七本松通仁和寺街道上る一番町にある立本寺(りゅうほんじ)は、日蓮宗京都八本山の一つとして、西陣を代表する寺院です。

立本寺については、これまでに島左近の墓についてと、毎秋の「立本寺の文化財・名勝庭園を訪ねて」という特別公開の事で二回ブログに登場していますので、今回は桜の様子の写真のみを掲載します。

京都の桜の名所は多いですが、立本寺は西陣屈指の桜の穴場といった感じでしょうか。

船岡山(船岡山公園)

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ずっと前に少しだけ採り上げた船岡山ですがもう少し書いてみます。
北区紫野北舟岡町にある船岡山は、京都の市街地内にある周囲1300m、標高112m(山頂にある三角点で111.89m)、面積2万5千坪の丘陵です。船岡山は、平安京以来の京都の歴史を語る上で貴重な遺跡でもあり、全域が国史跡に指定されています。



京都市街地にある丘と言えば船岡山の他に、双ケ丘や吉田山などがあります。
双ケ丘は山裾が散策路として舗装整備されていますが、丘全体は自然林や植林による森といった印象です。吉田山も吉田神社の神域になり、参道周辺以外は深い森で覆われています。

これに対し船岡山ですが、東南に織田信長を祀る建勲神社の深い森に囲まれた神域がありますが、西側一帯は広い舗装散策路が整備されていて簡単に登ることが出来ます。建勲神社の周辺は、豊臣秀吉の時代から信長を祀る霊地として自然が維持されてきたために、京都盆地特有の樹相が良く保たれている市内有数の貴重な森となっています。また公園部分はウォーキングや自然観察、スポーツ等が幅広く楽しめ、京都市街を一望できる市民の憩いの場になっています。建勲神社と船岡山公園という二つの顔があるところが船岡山の魅力なのかもしれません。



さて、船岡山は平安遷都の際に極めて重要な役割を持ちました。
新都建設に際しては、風水思想によって立地条件に合った土地を探りましたが、船岡山が北方の守護神玄武に例えられ、ここを基準点として平安京が造成され、また船岡山からの直線の延長線上に平安京のメインストリート朱雀大路が作られたといわれます。船岡山が無ければ平安京は無かったかもしれないともいえる訳です。(船岡山にある織田信長を祀る建勲神社境内には、平安遷都に影響を及ぼした船岡山の地の神・玄武大神を祀る船岡山妙見宮があります。)
平安時代初期には船岡山上で祭祀が行われた記録もあり、現在山頂に残っている大きな磐座は、その祭祀の跡という説もあるようです。

さらに平安時代には、船岡山は地形が船に似ているとして「船岡」と呼ばれ、景勝の地として貴族の遊宴や遊猟が行われました。平安文学にも度々登場し、清少納言は「枕草子」に「丘は船岡…」と船岡山が丘として一番だと書いています。平安中期以降は、付近一帯は葬送の地となり、保元の乱で敗れた源為義らが処刑された場所でもあります。

その後、中世後期には丹波から洛中に入る京都への北の入口、戦略の要地としてこの丘をめぐる攻防が行われています。
応仁の乱では、西軍の大内政弘、山名教之らがこの地に陣を布いて小競り合いが行われ、応仁二年(1468)九月には西軍が三方から攻撃し攻め落としました。しかし本格的な陣地は築かれなかったようです。また、足利将軍家と管領細川家の内紛の際も戦場となっています・・永正八年(1511)八月、一旦丹波に逃れた将軍足利義尹が細川高国、大内義興らとこの岡に山城を築いていた細川澄元・細川政賢を攻め京都を奪回しています。現在、船岡山中腹にこれらの古戦場を示す「応仁永正戦跡舟岡山」の標石が建てられています。
また、豊臣秀吉は船岡山を大徳寺に寄進し、この地に主君信長の廟所として天正寺という寺院の建立を計画しますが中断となり、ようやく明治時代になって織田信長を祀る建勲神社(たけいさおじんじゃ、通称、けんくんじんじゃ)が中腹に建立されました。(明治二年(1869)に、明治天皇が東京に創祀、明治八年(1875)に京都の船岡山中腹に遷座、同四十三年(1910)に船岡山東側の山頂付近(現在地)遷りました。尚、建勲神社については別に採り上げます)


そして、船岡山の北西部分に昭和六年(1931)に都市公園として船岡山公園が整備されました。
公園には幾つかの遊歩道があり、運動ができる広場や、児童公園、野外演奏場等があり、あずまやのある休憩所、そして山頂の広場からは京都市街が一望できるようになっています。また、八月十六日の「大文字五山の送り火」では、鳥居形を除く残り4ヶ所の送り火が見られる場所としても知られ、送り火の当日は多くの方が山上に集まります。

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京都府八幡市(やわたし)を流れる木津川の左岸、上津屋地区にあるのが、「木津川の流れ橋」として知られるたいへん長い木造橋です。
この印象的な橋は、時代劇等のロケ地としても知られ、八幡市を代表する観光名所の一つになっています。(流れ橋の側にある「やわた流れ橋交流プラザ・四季彩館」の解説が詳しいので引用させていただきます。)



さて、「流れ橋(やわた流れ橋)」は、正式名は「上津屋橋(こうづやばし)」といって、京都府南部の久世郡久御山町と八幡市の境界線を流れる淀川の支流、木津川に架けられた橋です。
「流れ橋」という通称名は、大雨や台風によって川の水位が上がって橋板に水が達すると、橋板が自然に浮かんで橋全体が八つに分割され、ワイヤーで連結された橋板が流れるという独特の構造に由来します。橋板は橋脚に片方が頑丈に繋ぎ留められているために流失してしまうことは無く、まるで八つの筏を流しているような状態になった後、減水すれば橋板を手繰り寄せて元のように敷き詰めて復原できるようになっています。


構造は74径間の木造橋で、全長は356.5m、全幅員は3.3m、有効幅員3mの日本最長級の木造橋といわれ、昭和二十八年(1953)三月に架橋されました。
橋脚は全体で73基あり、56基は木造ですが、久御山町側の17基は昭和四十年代にコンクリートに改築されました。木造橋脚は多くが末口22cmの杉丸太の杭木3本と控木で、他にワイヤーロープで橋板を繫ぎ留める繋留橋脚が杭木4本になっています。また橋板は厚さ7.5cm、幅20cmのものが敷き詰められているだけの単純な構造です。
そして、上記したように、橋板上まで潅水した場合は、ワイヤーロープに連結された橋板が流れ出るという仕組みになっています。



このような構造の橋が生まれた背景についてです・・
この木津川を挟む両地域は、江戸時代から明治の中頃まで「上津屋村(こうづやむら)」と呼ばれる一つの村でした。日々の生活を送る地元住民はもちろん、石清水八幡宮に参拝する人々も渡し舟を利用して両岸を行き来していましたが、やがて、渡し舟だけでは不便だという地元住民の意見が高まりました。
しかし、戦後間も無い時代、限られた予算内では強固な鉄橋を建造することができず、かといって一般的な木造橋では増水の度に流される危険があることから、水の流れに逆らわないこの独特の橋の仕組みが考えられたということです。
この最初から流れてしまうことを計算して造られた橋は、橋自体が川の増水によって自然と浮き流れることで、流木や漂流物が橋に引っ掛かって起こる堤防の決壊による被害を未然に防ぐことも出来ます。
「四季彩館」の解説文に書かれているように「日本人らしい自然に逆らわないで自然と共生していく生活の智恵が生み出した橋」といえます。



元々、流れ橋というのは、川幅の狭い所に板などを渡し、板が流れないように紐などで結んだ原始的な仕組みが始まりで、その後色々な規模や形式の橋に発展していきました。
この「流れ橋(やわた流れ橋)」は、ワイヤーロープで橋脚としっかり結ばれた大規模なものなので、多小の雨などではびくともしませんが、橋完成後間もなくの昭和二十八年(1953)八月の豪雨で、水位が橋面から三十センチ程度上昇した時には初めて流出したということです。
そして、平成九年七月まで通算十五回の流出の記録があり、その度に復原されてきました。


以下、ややマニアックですが、その流出記録です。

○昭和二十八年(1953)八月十五日の八月豪雨による増水のため

○昭和三十四年(1959)九月二十五日の伊勢湾台風による増水のため

○昭和三十六年(1961)六月二十四日の梅雨の豪雨による増水のため

○昭和四十七年(1972)七月十日〜十七日の七月豪雨による増水のため

○昭和四十九年(1974)七月十日の七月豪雨による増水のため

○昭和五十一年(1976)九月八日〜十三日の台風十七号による増水のため

○昭和五十七年(1982)八月一日〜三日の台風十号による増水のため

○昭和六十年(1985)六月二十一日〜七月十七日の梅雨の豪雨と台風による増水のため

○昭和六十一年(1986)七月二十日〜二十二日の梅雨の豪雨と台風による増水のため

○平成二年(1990)九月十九日〜二十日の台風十九号による増水のため

○平成四年(1992)八月十九日の台風十一号による増水のため

○平成五年(1993)七月五日の七月の豪雨による増水のため

○平成六年(1994)九月三十日の台風二十六号による増水のため

○平成七年(1995)五月十二日の五月の豪雨による増水のため

○平成九年(1997)七月二十六年の台風九号による増水のため




最後に、掲載した写真でもわかるように、橋の付近一帯は、広々とした木津川の砂地の河原が連なり、
のどかな日本の原風景を感じさせる場所になっています。
そのため、橋をバックに時代劇のロケ等に利用され、また毎日多くの地元の方が両岸の行き来に利用しています。そして、休日には家族連れや、若者達がお弁当やバーベキューを楽しんでいる憩いの場ともなっています。
(ただし、数年前から、橋の上で打ち上げ花火を上げたり(かつて時代劇でも同様のシーンがあったようですが)花火遊びを原因とする火災が連発し、焼けた橋板を修復してきています。橋全体が焼失する危険もあり当然ながら厳禁です。また、薄い橋板上をバイクで走るのも危険行為ですが、守らない人もいるようです。)

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