京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都というのは、歴史の重層性を常に感じさせてくれる都市です。
同じ場所が、ある時代には御所となり、ある時代には戦場となった・・今回の史跡もそういった重層性を感じさせる史跡です。

上京区大宮通中立売上る(大宮通一条下る)梨木町、西陣と呼ばれる地域の一角にある「名和児童公園」は、南北朝時代の南朝の忠臣として知られる名和長年の戦死の地と伝えられています。
また、この地域一帯は平安時代には一条院御所があった場所でもありました。
(京都では「源氏物語千年紀」を記念して「源氏物語」ゆかりの各地に表示パネルが設置されていますので、転載させていただきます。)


まず、一条院跡(平安京左京北辺二坊一町・四町跡)についてです・・
一条院は、平安京の北東に隣接した邸宅で、一条天皇(在位986〜1011)の里内裏として知られています。東西二町の敷地があり、その内、御所として用いられたのは西側一町で、東側は財政や物資の調達を担当する別納が附属していました。
一条院は十世紀前半の右大臣・藤原師輔(もろすけ)から子の摂政・伊尹(これただ)、為光(ためみつ)兄弟へと相続され、その後富裕な受領の佐伯公行(さえきのきんゆき)が入手して、東三条院(円融天皇女御・藤原詮子(ふじわらのせんし あきこ)に献上されました。東三条院は、子の一条天皇の御所として修造し、長保元年(999)六月の内裏焼失(一条天皇の時代には内裏は三度焼失しています。)から寛弘八年(1011)の天皇の崩御までの間、里内裏として使用されました。また、東の別納には、藤原道長、中宮藤原彰子(ふじわらのしょうし あきこ)父娘の直盧(宿泊所)が設けられていました。
中宮藤原彰子に仕えた紫式部が日記に書いている内裏とは、この一条院内裏のことで、平安時代といえば思い浮かぶ、一条天皇時代の文化サロンの舞台となった場所でした。



さて、この華やかな一条院の跡地は、南北朝時代には京都支配を賭けた南北両軍の激戦の地となり、ここで南朝の武将・名和長年が戦死しています。


名和長年(なわながとし 生年不詳〜1336)は、村上源氏の出身とも、伯耆国(鳥取県)名和で海運業や漁業で富を築いていた豪族という説等がありますが、楠木正成等と共に後醍醐天皇の建武の新政が無ければ世に出ることも無かった新興勢力を代表する人物と考えられています。

名和長年が歴史に登場してくるのは、元弘元年(1331)に起こった「元弘の乱」以降です。
同年八月、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕計画が再び発覚し、天皇は京を脱出して笠置山に篭城します。これに呼応して吉野では大塔宮護良親王、河内では楠木正成、備後では桜山茲俊らが挙兵します。しかし幕府軍の攻撃で笠置山と吉野は陥落、赤坂城で幕府軍と奮戦した楠木正成も一旦撤退して、畿内の天皇方の敗戦を知った備後の桜山茲俊は一族と共に自害してしまいます。
元弘二年(正慶元年 1332)三月、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐に流され、側近の日野俊基や北畠具行、正中の変で流罪となっていた日野資朝らは処刑されました。

しかしこれで倒幕運動が終息したわけではなく、隠岐に流された後醍醐天皇は再び倒幕のために山陰の諸勢力に協力を求め、ここに名和長年が登場してきます。
畿内では元弘二年(正慶元年 1332)十一月、吉野山で護良親王、河内和泉では楠木正成が再び挙兵し、播磨の赤松則村(円心)、肥後の菊池武時、伊予の土居通増、得納道綱等も各地で挙兵します。こうした中、名和長年は、元弘三年(正慶二年 1633)二月に隠岐を脱出した後醍醐天皇を船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に迎えて討幕運動に参加、幕府軍を撃退します。またこの頃に長年は伯耆守に任じられています。その後、播磨の赤松則村(円心)が京都に迫る勢いを見せ、同年五月に足利尊氏が則村(円心)に呼応して鎌倉幕府への反旗を翻して六波羅探題を攻略して京都を制圧。そして、上野国(群馬県)で挙兵した新田義貞によって、五月二十二日に鎌倉幕府はついに滅亡しました。六波羅探題滅亡後、後醍醐天皇は京都に向かって進軍し、名和長年はこれを護衛して随行しています。


さて、長年は、後醍醐天皇による建武の新政において、従四位下の位に叙せられ、京都の左京の市を管轄する東市正に任じられています。長年は、後醍醐天皇が隠岐から脱出した際に最も頼りにした武将でした。そして、長年はその後、常に後醍醐天皇を護衛して身近に接してきました。このため、天皇が長年に、鎌倉幕府を滅ぼした功績のある尊氏や義貞に次ぐ官職を与えたのは当然といえます。(また、楠木正成が護良新王に近い存在だったことも、長年が正成の上位だった理由の一つかもしれません。)
当時の人々は、長年が伯耆守であったことから、楠木正成、結城親光、千種忠顕と合わせて四人を「三木一草」と呼んで、その栄達振りを噂したと伝わります。こうして、長年は、天皇近侍の武士として、北条氏の残党と結んだ幕府派の公卿・西園寺公宗を逮捕処刑し、足利尊氏との対立を強めていた護良親王を結城親光とともに捕縛しています。

その後、建武二年(1335)に足利尊氏が反旗を翻して京都への進軍を開始すると、長年は、楠木正成や新田義貞らと京都を防衛するために出陣します。建武三年(延元元年 1336)一月、いよいよ京都に迫った敵の大軍に対し、天皇側の諸軍は京都への防衛戦を張って待ち受けます。
「太平記」によると、長年は瀬田方面を、楠木正成は宇治方面、新田義貞が大渡方面、義貞の弟・脇屋義助が山崎方面を防衛しますが、公卿等で構成された山崎の守りが突破されたため、足利軍は京都に入り、後醍醐天皇は比叡山に逃れました。
しかし、足利軍を追って奥州から進軍してきた北畠顕家軍が来援したことから、後醍醐天皇側の諸軍が反撃に転じ、京都の奪回に成功します。尊氏は、一旦丹波へ逃れ、再び摂津、西宮で、新田・北畠・楠木軍と交戦して敗れ、建武三年(延元元年 1336)二月、九州へ落ち延びます。
その後、多々良浜の戦いで菊地氏を破って九州を制圧した足利軍は、四月、水陸両軍に分かれて東上を開始、五月に湊川の戦いで勝利して、京都に入りました。
長年は、新田義貞らと内野(平安京大内裏跡地)で防戦し、六月三十日、三条猪隈付近で討死したと伝えられます。





さて、明治時代の天皇制下で、名和長年の評価は急速に高まり、後醍醐天皇を助けた南朝の忠臣として、その名前を知らない者はいない存在となっていきます・・・国の英雄として教科書に掲載され、明治十九年(1886)に正三位、昭和十年(1935)に従一位を追贈されています。

今回の名和長年を顕彰する遺跡も、そうした時代が生んだものになります・・・
「名和公園」という児童公園の名前も、もちろん長年戦死の地に由来していて、公園の入口にある鳥居の脇には、「名和長年公遺蹟」という大きな石標(昭和十四年建立)と、「此附近名和長年戦死の地(昭和十一年建立)」という小さな石標があります。
さらに、公園の奥には、明治十九年(1886)に正三位を贈られた事を記念して同年に建てられた「贈正三位名和君遺蹟碑」という石標があり、碑文は太政大臣公爵三条実美の筆によります。さらに、その後、その横に「贈従一位名和長年公殉節所(なわながとしこうじゅんせつのところ)」という高さ約三メートルもの巨大な石標が昭和十四年(1939)に建てられました。これは昭和十年(1935)に従一位を追贈されたことを記念して建立されたもので、碑文は海軍大将・有馬良橘の筆です。
この場所は、鳥居があることからもわかるように、戦前は英雄を祀る聖地として、立派な囲いに囲まれ、白砂が敷かれた神聖な場所として立ち入ることが出来なかったということです。


戦後は、南朝忠臣の筆頭・大楠公こと楠木正成でさえ評価が分かれるようになり、名和長年の名前もいつしか教科書から消えて忘れられていくことになりました・・・この遺跡も地元の人でも何の史跡か知らない人も増えてきたということです。
実は、私もきれいな桜を見つけてたまたま立ち寄ってみたら、名和長年の遺跡だったことに気づいた程度だったのですが、南朝忠臣にはやはり桜の花が良く似合うとも思いました。

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