京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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建勲神社その2

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建勲神社の祭神、織田信長についてです。
もちろん、信長のような日本史上の巨人については、書かなければならない事も多いですが、ここでは簡単に業績について書いてみます。


建勲神社は明治の天皇制下で造られているので、天皇制を守った信長の功績が強調されています。
その業績は、神社由緒を引用しながら書くと以下のようになります・・・

応仁の乱に始まる戦国乱世の時代、日本中に群雄が割拠し、京都の町も度々の兵火によって焼け野原となりました。人心は荒廃、皇室も衰退して正親町天皇の時代にはその極に達していました・・・ここに登場したのが、織田信長公です。
織田信長公は、永禄三年(1560)五月、駿河の戦国大名・今川義元を桶狭間の戦いで破り、天下統一の志をもって立ち上がりました。永禄十一年(1568)十月、正親町天皇の勅命を拝して上洛し、皇居の修理を行い、関所を廃して道路を修復、また市民の税金を免じ貨幣制度を整えて商工の発展を推進するなど荒廃していた京都の復興に尽くしました。また文化面では能や茶の湯、馬術、相撲等を奨励して荒廃していた人心の安定に力を尽くしました。
こうして、信長公は長かった戦国乱世に終止符を打ち、日本を統一して民衆を疲幣絶望から救ったのでした。そして、忘れられていた日本の伝統文化を甦らせ、遠くヨ−ロッパ文明にも着目して東西文化交流を行い、中世の混乱から近代の新時代への幕を開きました。また、信長公は旧来の古い政治社会秩序や、腐敗した宗教等を果敢に打破し、日本国民を天皇崇拝の理念のもとに導きました。

もし、信長公という傑出した英雄が現れず、その卓越した見識と果断な実行力が無かったならば、日本は古い中世から新しい時代へと進むためにはたいへん長い年月を必要としたでしょう。しかし残念な事に信長公の偉業は、天正十年(1582)六月二日未明、本能寺の変により中道にして倒れたのでした・・



さて、織田信長について個人的な感想を書いてみます。
建勲神社の由緒書きが全てを物語っていますが、応仁の乱から約百年という長く混沌とした戦国時代を終わらせて、天下統一により近世の扉を開いた・・・信長の歴史上の役割というのは理解しやすく、世界中の国で同様な英雄達がいると思います。
実際に天下統一に成功した秀吉や三百年間続いた江戸幕府を築いた家康を、信長より評価する見方もあるでしょうが、信長がいなければ、秀吉や家康が天下を獲ることは無かったでしょうし、信長はその苛烈な性格から、本能寺の変が無くてもいずれ失敗したというのは、歴史の後知恵に過ぎません(秀吉時代や江戸時代に、その配下の大名達や御用学者によって語られた信長像は、自分の主君をも持ち上げるために信長の欠点を誇張したものである可能性が高いことに注意しなければならないでしょう。また、本能寺の変の原因として、明智光秀が理不尽な信長に恨みを抱いたという怨恨説は、現在では野望説にとって変わられつつあるようです。)

そして、現在ほど、信長の評価が高かったことは無かったのかもしれません。
例えば、江戸から明治にかけて講談等で大衆の人気を博した戦国の伝説的英雄は、信玄や謙信、山本勘助、秀吉、加藤清正、真田幸村、後藤又兵衞基次といった人物でした。また、宣伝上手の秀吉が多くの面白い伝説を残したのと比べると、信長に関する伝説といったものはほとんど無く、一般民衆には、太閤出世物語に比べると信長はあまり面白味が無かったのかもしれません。ただ、明治以降、信長の評価は非常に高まりました。
その理由としては、明治維新によって、江戸時代の御用学者による「神君家康伝説」が力を失い、それまで家康の脇役として過小評価されていた信長や秀吉の功績が再認識されたためでしょう。
恐らく江戸時代に中国の「戦国七雄」に倣って、「武田信玄、上杉謙信、今川義元、北条氏康、毛利元就、織田信長、豊臣秀吉」を戦国七雄といっていたのが、信長・秀吉・家康を「戦国三大英雄」というようになったのも、神君家康を別格扱いにしていた江戸時代には考えられないことでした。
さらに、信長の評価の高騰ぶりを印象づけるのは、「世界三代美女(クレオパトラ・楊貴妃・小野小町)と同じく、勝手に日本人が考えた「世界三代英雄(カエサル・織田信長・ナポレオン)」でしょう。アレクサンドロス大王やジンギスカン等ならともかく、日本国内を出てもいない信長が世界三大英雄とはさすがに嘘っぽいので、世界三大美女程には知られていないようですが。



特に、信長の評価が現在非常に高いのは、そのリーダーシップ、革新性が注目されているためのようです。例えば、ライバルの信玄や謙信に比べてどれだけ先進性があったか、後継者の秀吉や家康に比べてどれだけ独創性があり海外に対する視野の広さがあったかという観点で論じられているように思います。ただ、資料的には不明な点も多く、あまりその独創性を強調し過ぎるのもどうかとおもいます。

桶狭間の奇襲戦術や長篠の戦いの鉄砲戦術が後世に誇張されたものであることは近年指摘されるところであり、能力主義による人材登用策や楽市楽座令などの自由経済政策も彼の独自性というより、当時すでに一部の戦国大名が行っていたものを、より大規模、積極的に取り入れたものといえるでしょう。もちろん、西洋へ目を向けたのも特に信長だけでは無かったでしょうし、延暦寺焼き討ち等中世権威への対決姿勢は(立場により賛否両論ありますが)、伝統的な権威や価値観に囚われなかった南北朝時代の婆沙羅大名たちや戦国大名の幾人かにも似た点は見受けられそうです。
全体として、信長の独創性といわれる軍事・経済政策等は、信長が畿内という経済先進地帯を大規模に支配下に置いた最初の戦国大名だったために、必然的に行う事になったという側面も多いと思われます。しかし、もちろん、信長がそれをライバルよりも効率的に素早く取り入れること成功したために、他の戦国大名を圧倒する経済力やマンパワーを得ることが出来たわけで、無能な武将ならすぐに滅亡していたと思います。

この時代には、領国経営能力が勝利の決め手となってきました。信長の生涯で最大の危機といわれる元亀元年(1570)〜同四年(1573)の反織田包囲網勢力との戦いで信長が勝利した大きな理由は、畿内の経済圏を押さえた信長とライバル達の国力的な差がじわじわと広がってきていたことが大きく、情け容赦の無い総力戦を仕掛ける信長の前に各個撃破されてしまったのでした。そして、この最大の危機を乗り切った信長は、以後、圧倒的な軍事経済力を背景に、それ程大きな危機も無く天下統一に向けて邁進することになります。


色々感想を書きましたが、もちろん、織田信長が日本史上の傑出した人物であることは変りません。
その軍事政治政策は、他の大名とかけ離れた程斬新では無かったとは思いますが、日本史上、信長ほど多くの敵から同時に攻撃を受けながら、自らの才能を駆使して危機を乗り切った武将は他にいないようにも思われます。元亀の戦役(1570〜73)は、信長の手法を学んだ秀吉や家康が後に経験した危機とは比べられない、より高度な政治運営と状況判断が必要だったのではないでしょうか。
状況が不利となると、将軍足利義昭や正親町天皇を利用して敵と和睦を結ぶことも厭わず、一方で、利を誘った反間工作を繰り返して敵軍内を切り崩し、相手が弱さを見せると一気に兵力を集中させて力攻めで滅ぼしていきました。結局、反信長勢力は、天下統一のためには手段を選ばないという信長の強い意志力の前に敗れ去ったともいえます。
尾張を統一してから亡くなるまでの統一の先駆者信長の27年の戦歴は、信長から受継いだ巨大な遺産を背景に秀吉が天下統一するまでの8年間よりも、まして、秀吉死後、関が原に至る家康の2年間よりも年月の重みが違うように思うのです。(尚、信長の軍事面についてはかなり前に「歴史の話題」という書庫で採り上げています。)

建勲神社その1

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今回は、北区紫野北舟岡町、船岡山の頂上付近にある建勲神社(たけいさおじんじゃ)です。
通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれ、明治時代に創建された織田信長を祭神とする神社です。
日本の英雄人気ランキングでは常にトップクラスの織田信長を祭神としているため、歴史ファンも多く訪れる場所になっています。
(かなり前に感想程度を書いていましたが、写真数3枚程度で雰囲気も伝えられず物足りなく思っていましたので、写真数を増やして書き直してみます。)



さて、建勲神社のある船岡山については前に書いていますが、神社に関係するために少しだけ触れてみます。
北区紫野北舟岡町にある船岡山は、京都の市街地内にある周囲1300m、標高112m(山頂にある三角点で111.89m)、面積2万5千坪の丘陵です。船岡山は、平安京以来の京都の歴史を語る上で貴重な遺跡でもあり、全域が国史跡に指定されています。

山の西側一帯には、市民の憩いの場である船岡山公園があり、東南側には建勲神社の深い森に囲まれた神域があります。神社周辺は豊臣秀吉の時代から信長を祀る霊地として自然が維持されてきたために、京都盆地特有の樹相が良く保たれている市内有数の貴重な森となっています。船岡山は京都市内有数の丘陵として、聖徳太子の時代の文献にもその名が出ているように古代から知られていたようです。
平安遷都の際は、風水思想によって立地条件に合った土地を探りましたが、船岡山が北方の守護神玄武に例えられ、ここを基準点として平安京が造成され、船岡山からの直線の延長線上に大極殿、さらにメインストリート朱雀大路が作られたといわれています。
また、平安時代には、船岡山は地形が船に似ているとして「船岡」と呼ばれ、景勝の地として貴族の遊宴や遊猟が行われました。平安文学にも度々登場し、清少納言は「枕草子」に「丘は船岡」と船岡山が丘として一番だと書いています。そして、応仁の乱の際は、この船岡山が西軍の陣地となり、以来船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれています。




さて、建勲神社についてです。
建勲神社は、祭神として贈太政大臣正一位・織田信長公を、また配祀として、本能寺の変の際に二条城で亡くなった嫡男の従三位左近衛中将・織田信忠卿を祀ります。
(信長の生涯については、次回に少しだけ書いてみます。)

ご存知のように、織田信長は天正十年(1582)六月二日未明、本能寺の変により天下統一の道半ば亡くなりました。その後、本能寺の変の報せを聞いた豊臣秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を討って主君の怨を報じ、大徳寺で七日間の盛大な大法要を営みました。そして、信長の霊を弔うために、船岡山に寺院を建立しようと考え、正親町天皇より「天正寺」の寺号を賜わりましたが、寺の竣工は中断となり、以来、船岡山は信長の霊地として山全体が保護され明治維新に至りました。

さて、明治二年(1869)、戦国乱世で衰えていた朝廷を復興させ、また天下統一の大事業を推進した織田信長の功績を賛えるために、神社の創建が決定されます。そして、明治天皇から「建勲」の神号を賜って、明治三年(1870)に東京の織田家子孫の邸宅内と信長の次男・信雄を始祖として幕末まで続いた天童藩旧領(山形県天童市)に建勲社が創建され、明治八年(1875)に、別格官幣社に列せられました。そして、東京の建勲社は、本能寺の変後に秀吉が主君の廟所と定めていたこの船岡山に社地を賜って、その東麓に社殿を新営し遷座ました・・・これが現在の船岡山の建勲神社になります。
その後、明治十三年(1880)には、嫡男の織田信忠を配祀し、明治四十三年(1910)本殿拝殿十棟すべてを中腹の地から現在の山上の場所に移建しました。

社宝として、信長愛用の紺糸威胴丸、桶狭間の合戦の際の今川義元の愛刀で、その後信長・秀吉・家康へと伝承した名刀・左文字(建勲神社の創建の際、徳川家から神社に返還されました。)、太田牛一自筆本の「信長公記」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数所蔵しています。

また、十月十九日の船岡祭は、信長が永禄十一年(1568)初めて入洛した日を記念したもので、神殿祭の後、桶狭間の合戦出陣の際、信長公が舞われた仕舞「敦盛」や舞楽奉納・弓取り神事などの様々な行事が行われ、また信長ゆかりの宝物が特別公開されますので、信長ファンは必見です。





さて、表参道は船岡山の東側にあり、白木造の鳥居としては京都府下最大クラスという「木造明神型素木造(もくぞうみょうじんがたしらきづくり)」の大鳥居があります。(高さ最大7.43メートル、幅最大10.3メートル、柱本径0.7メートル、)
明治神宮の大鳥居と共に、この型の鳥居の典型といわれ、明治の新築後、昭和九年(1934)に全面的に建替えられ、平成十二年(2000)に大改修されています。用材は、耐久性ある台湾の阿里山産の樹齢1200年以上の紅檜が用いられていますが、現在では大口径の紅檜は入手困難なため、非常に貴重な文化財といえます。ここから本殿までは約80メートルあり、約百段の石段を登ります。

鳥居を潜って正面の石段を進めば、石段上に「大平和敬神」の神石があります。
これは、大本教の教祖・出口王仁三郎が建勲神社の主典を務めていた縁から、青年時代にこの地で修行した宗教法人修養団捧誠会総裁が昭和四十五年(1970)に建立したものです。そして、建勲神社が船岡山の中腹に創建された際の旧本殿跡でもあります。

その横には、末社の義照稲荷社(よしてるいなりしゃ)と稲荷命婦元宮(いなりみょうぶもとみや)があります。義照稲荷社は、元明天皇の和銅二年(709)に、秦氏が穀物織物の神として祀ったことが起源とされ、今日の西陣織の祖神といわれています。
祭神は、宇迦御霊大神(衣食の神、商工業繁栄の守護神)、国床立大神(住居安泰、病魔退散の神)、猿田彦大神(迷いを正す、交通安全厄除けの神)の三柱神です。また、稲荷命婦元宮は、伏見稲荷大社命婦社の親神である「船岡山の霊狐」を祀っていて、伏見稲荷の元宮として古来より信仰されているということです。両稲荷社が祀られることで、稲荷大神のご利益がますます高まるものとされています。また、両稲荷社の周囲には多くの小祠が祀られています。

渡来系の秦氏は、平安朝以前から京都西部の太秦、嵐山、松尾にかけての広大な地域を治めて、太秦の広隆寺、松尾の松尾大社等のゆかりの史跡が今も残っています。さらに京都東部の伏見、深草周辺も勢力範囲にして、伏見稲荷大社を創建しています。義照稲荷社(よしてるいなりしゃ)と稲荷命婦元宮の伝承は、東西の秦氏領間で稲荷信仰が広まっていったことを窺わせます。



さらに少し石段を登ると、建勲神社の社殿が見えてきます。桜や赤松、楓等の木々に囲まれて本殿・拝殿・社務所などの建物が整然と並んでいて清々しい雰囲気が漂っています。拝殿には、信長公功臣肖像画(木下藤吉郎、柴田勝家、森蘭丸、平手政秀等十八功臣)が掲げられています。

また、手水舎の隣には、船岡妙見社があります。(最後の写真です)
船岡妙見社は、船岡山の地の神・玄武大神を祀っています。
船岡山が平安京造営の際、重要な役割を持っていたことは上記しましたが、風水思想によって、船岡山は大地の生気ほとばしり出る北方の守護神玄武の小山とされ、ここを北の基準点として平安京が造成されました。
この玄武信仰は、古くから広く信仰されていたようで、妙見社の立て札によると、宝永四年(1707)発行の「霊符縁起集説」に、「玄武神は亀なり。北方に鎮り諸厄を祓い給う。玄武神は今の妙見菩薩にして童形なり。玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして宅神なり。病魔退散の神なり。」と記されているようです。北方の守護神玄武が、北極星の化身である妙見菩薩と習合して平安京の北の起点に当るこの地に古くから祀られてきたことが窺われます。そして、船岡妙見は船岡山の地の神として諸厄消除・万病平癒・家宅守護のご利益をもたらすということです。



次回に続きます。

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