京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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妙光寺(特別公開)

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五月八日〜十四日まで、臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺では、「妙光寺特別展」と称して、普段は京都国立博物館に寄託されている俵屋宗達の国宝「風神雷神図屏風」が特別公開され、妙光寺に関する寺宝も合わせて公開されました。
有名な「風神雷神図屏風」は、元々京都の豪商・打陀公軌(うだきんのり、うつだきんのり 糸屋十右衛門)が、建仁寺の末寺の妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼し、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈されたものです。
また、この期間に右京区宇多野上ノ谷町にある妙光寺も特別公開されたので、今回再訪問してみました・・・尚、妙光寺に関しては、以前に、「野々村仁清の墓のあるお寺」として採り上げましたが、文章を一部再掲載させていただきます。



右京区宇多野上ノ谷町にある妙光寺は、近年まで無住の状態が続いたため、現在再興中のお寺です。
境内はまだ造成中といった雰囲気で、観光的に魅力のあるお寺ではありません。しかし、歴史的には由緒ある寺院になります。

さて、妙光寺は、正覚山と称する臨済宗建仁寺派に属する寺院です。
鎌倉時代の弘安八年(1285)、内大臣・花山院師継が長男忠季の早世を悼んで、その山荘を寺院として、心地覚心(しんちかくしん 無本覚心とも 法燈国師)禅師を開山に迎えて創建した寺院で、寺号は亡長男忠季の幼名・妙光に由来します。

開山の心地覚心(無本覚心)禅師は、東大寺や高野山で修業し、四十三歳の時、宋に渡って霊洞山護国寺の無門彗開(むもんえかい)禅師に師事しました。帰国後は、多くの学僧を育成して92歳で亡くなるまで日本の禅宗に多くの影響を与え、亀山天皇から「法燈国師」、後醍醐天皇から「法燈円明国師」の称号を賜っています。
また、心地覚心(無本覚心)禅師は、日本の食文化の恩人でもありました。
禅師は宋からの帰国後、紀伊国(和歌山県)由良の西方寺(後の興国寺)の開山となり、入宋中に習得した穀物を材料とした末醤(未醤)の製法を教え、日本人の食生活に欠かせない調味料である味噌・醤油を普及させた始祖とも呼ばれています。また、また尺八を吹きながら旅をする虚無僧(こむそう)で有名な虚無僧宗門(普化宗)の祖でもあります。


妙光寺は、広大な寺域を持った花山院家の菩提寺として栄え、また師継、子の師信、孫の師賢と続く花山院家は、持明院派・大覚寺派の天皇家の継承争いでは、大覚寺派として後の南朝と結び付きます。
こうして妙光寺は、大覚寺派の亀山天皇、後醍醐天皇、後村上天皇の勅願寺となり、その縁で、南北朝の動乱の建武年間には、後醍醐天皇が三種の神器と共に妙光寺に逃れ、また室町時代の足利義教暗殺後の嘉吉年間にも三種の神器が妙光寺に奉安されたため、本堂には「神器の間」があります。(写真)
そして至徳三年(1386)には五山十刹の制度の十刹(等持寺・臨川寺・妙光寺・安国寺・真如寺・宝幢寺・普門寺・広覚寺・大徳寺・龍翔寺)の一つにも選ばれます。しかし、南朝との関係が深く足利政権下で庇護を受けられなかったこともあり、応仁の乱以降の度々の戦乱で荒廃しました。

その後、臨済宗建仁寺派寺院となり、寛永十六年(1639)、中興開山となった三江紹益(さんこうしょうえき)和尚が、敦賀出身の豪商・打陀公軌(うだきんのり 糸屋十右衛門)の援助で再興しました。この時、打陀公軌が再建祝いに俵屋宗達に依頼したのが、国宝「風神雷神図屏風」です。その後「風神雷神図屏風」は妙光寺に伝えられますが、文政期(1818〜29)に本山の建仁寺へ上納されました。
その他、万冶三年(1660)には、妙光寺への後水尾天皇の御幸もあったと伝わります。さらに幕末には、建仁寺の天章慈英(てんしょうじえい)和尚が、妙光寺を勤皇の志士達の密議の場として提供し、天章和尚の工作は明治政府成立の原動力にもなりました。


かつての妙光寺は、内壁に中国渡来の印金裂を総貼りした開山堂があり、別名「印金堂」と呼ばれて広く知られ、与謝蕪村も「春月や 印金堂の木の間より」の句を残しています。しかしこの名所も昭和初期に老朽化によって崩壊し、現在は方丈裏に開山堂を設け開山・心地覚心(無本覚心)禅師像を祀っています。そして、境内の北東のかつての印金堂の跡地には、今も瓦等が散らばっています(写真)また、方丈では当時のものでは無いですが印金裂が展示されていました。

妙光寺は、山沿いのかなり広い境内を有していますが、方丈や開山堂、庫裏等のわずかな建物以外は、本堂跡、印金堂跡、池、応供石(かつての妙光寺八景のようです)が点在している程度です。他には、南北朝時代に三光国師が勧請し、幕末の文久年間に天章和尚が造営した鎮守堂や、南北朝時代に三種の神器が奉安された際に、この井戸水を供えたという甘露水があるだけで、方丈の庭園でさえまだ整備されていない状態です。(特別公開は料金300円で抹茶お菓子付きというのも、見所のないお寺だからでしょう。)




現在の妙光寺で、少しは有名なのは、境内の東端にある小さな墓地にある野々村仁清の墓でしょう。

野々村仁清は、江戸時代初期の慶長頃に丹波の国野々村(現京都府南丹市美山町大野)に誕生したと伝えられ、名を清右衛門といいました。若くして丹波焼きの陶工として、京都に出て東山粟田口で修行を積み、また尾張瀬戸でも数年間技法を学びました。そして、正保四年(1647)頃、京都御室の仁和寺門跡や金森宗和の知遇を得て仁和寺前に窯を築きました。そして、仁和寺の「仁」と、清右衛門の「清」から「仁清」と名乗るようになったといわれます。繊細で優美な仁清の作品は、主に茶道具や懐石道具で、貴族や大名、豪商等に愛用されました。また、弟子のひとりだった尾形乾山にも大きな影響を与えています。ただ、仁清は情報が乏しい人物で、没年も埋葬地も不明です。

妙光寺の墓地には、前にも書きましたが、「仁清之墓」の立て札がある緑系の花崗岩の非常に小さい墓石があります。この墓石はいわばレプリカで、方丈に昭和初期に妙光寺境内から発見された本物の墓石が安置されています。(写真)それまで、仁清が妙光寺に埋葬されたという伝承はあったそうですが、妙光寺の過去帳には仁清に関する記述がない等のため、学会ではこの墓は正式には認められていないとういうことですが。(尚、墓石には没年として「天和二壬戌年(1682)」と刻まれているようです。)

最後に、妙光寺に接する村上天皇陵の参道沿いには、印金堂跡、開山の心地覚心(無本覚心 法燈国師)禅師の墓、また木々の陰には、妙光寺の再建に尽力した豪商・打陀公軌一族の堂々とした墓があります。(写真)

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観光名所として知られる仁和寺の西にある京都市右京区「鳴滝(なるたき)」と呼ばれる地域は、古くは「小松の里」、「長尾の里」とも呼ばれた村里で、この地で滝となった鳴滝川(御室川)の水音が周囲に響いていた事から「鳴滝」と呼ばれるようになったと伝えられます。法蔵寺(法蔵禅寺)のある泉谷町は、鳴滝の周山街道と北の宇多野谷に囲まれた小さな渓谷地の一部で、仁和寺宮覚性法親王(鳥羽天皇皇子)の「泉殿」旧跡から名付けられた町です。


鳴滝泉谷町にある法蔵寺(法蔵禅寺)は、山号を海雲山という黄檗宗寺院です。
山門前に「尾形乾山宅跡」、「尾形乾山陶窯跡地」という石標があるように、この地は、江戸時代中期の陶工・絵師だった尾形乾山の邸宅跡にあたり、乾山がはじめて自身の窯を開いた場所になります。
近年、法蔵寺境内のこの乾山窯跡が発掘調査され、各地の美術館でも乾山展が企画されるなど現代でも斬新な乾山の作品への関心も高まっているようです。また、法蔵寺の門前の「春日潜庵先生墓」といった石標が示すように、境内墓地には幕末の思想家・春日潜庵の墓もあります。



さて、尾形乾山は、寛文三年(1663)に、京の大呉服商「雁金屋(かりがねや)」の当主・尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれ、本名を権平(ごんべい)といい、父の死後に深省(しんせい)と改名しています。また、すぐ上の兄が琳派の大画家となった尾形光琳になります。
尾形家は、雁金屋の初代・尾形道柏(どうはく 光琳・乾山の曽祖父)の代に、当時のファッションの最先端でもあった呉服染色業を始めたといわれます。また、道柏の妻は本阿弥光悦の姉法秀(ほうしゅう)で、その後、尾形家から優れた芸術家が生まれたのは本阿弥家の影響があったのかもしれません。事実、道柏の子・雁金屋二代宗柏や、その子三代宗謙も諸芸に優れた多趣味な人物として知られ、その子、光琳や乾山に至って尾形家は後世に残る偉大な芸術を生み出すことになりました。

貞享四年(1687)の父の死後、権平は深省(しんせい)と称し、遺産を譲られて京都の御室(おむろ)で隠棲生活を始めました。深省(乾山)は、幼少時から書物を好んだ内省的な性格だったといわれ、家業を離れた自由な生活に憧れていたようです。こうして、黄檗宗の独照性円(どくしょうしょうえん)禅師に師事し、また御室焼の陶工・野々村仁清と出会って弟子入りし、その色絵陶技を学びました。

当時、この鳴滝の地には、江戸時代に二条家の山屋敷があり、当主の関白・二条綱平(にじょうつなひら1672〜1732)は、尾形光琳や深省(乾山)の後援者となった人物です。元禄十二年(1699)、この二条綱平から山屋敷を譲り受けた深省(乾山)は、ここにはじめて自身の窯を開きました。また、この場所が都の西北「乾(いぬい)」の方角にあたることから、窯名を「乾山」と名付け、また自らの号としても用いました。

この地では、既に有名画家となっていた兄の光琳の協力のもとに兄弟合作となった数多くの作品を生み出し、制作は十三年に及びましたが、正徳二年(1712)に深省(乾山)が住居を二条丁子屋町(にじょうちょうじやちょう 中京区二条寺町)に移したことで鳴滝乾山窯は終わりを遂げます。
この転居の理由は、鳴滝が市内から遠くて不便だったことや、研究や実験に莫大な費用を投じた放漫経営で財政が逼迫したためといわれています。二条に移ってからの深省(乾山)は、東山の清水等の諸窯に依頼して一般受けする色絵の美しい食器類を多く作って生計を立てました。商売は繁昌しましたが、享保十六年(1731)六十九歳の時、深省(乾山)は江戸へ下って入谷に住居を移し、以来京都に戻ることはなく、寛保三年(1743)に八十一歳の生涯を閉じました。晩年の深省(乾山)が、なぜ江戸に移り住んだのかは今もわかっていません。




さて、法蔵寺です。
深省(乾山)が二条に移った後、鳴滝乾山窯旧地は、書家・桑原空洞(1673〜1744)の山荘となったと伝わります。(最近の研究によると、乾山の後、幾人かの町人がこの土地を転売していた記録が判明したということですが)、その後、書や茶道等に通じた文化人としても知られる関白・近衛家煕(予楽院)と親交のあった百拙元養(ひゃくせつげんよう)禅師が、享保十六年(1731)に近衛家煕(予楽院)の資金援助を受けて桑原空洞の旧宅を譲り受け、黄檗宗の寺院に改め創建したと伝えられます。

法蔵寺の方丈は、近衛家煕(予楽院)永代祈願所として寄進したものを改めたものと伝えられ、幾度かの修理を経て現在の建物となっています。近年まで無住の時代が続いたため、今では小さなお寺に過ぎませんが、趣のある門前は楓が映える隠れた紅葉の小さな穴場です。寺宝としては、近衛基煕の念持仏観音菩薩像、百拙元養禅師が描いた自画自賛像や黄檗高泉像、釈迦・文殊・普賢・十六羅漢図十九幅や七条仏師作の十六羅漢像、鳴滝乾山窯時代の陶片等があります。

乾山ゆかりの鳴滝窯跡は、境内背後の墓地の一角にあります。
昭和五年(1930)に発見されて以来、正式な発掘調査が行われて来ませんでしたが、平成十二年(2000)から「法蔵寺鳴滝乾山窯址発掘調査団」が結成され、約五年間に及んだ発掘調査が行われました。1980年代以降に法蔵寺の北側は宇多野霊園という墓地造成が進められて地形が大きく改変されてしまったために、窯跡の正確な位置は不明のままですが、それでも多くの乾山焼陶辺が出土しています。

また、法蔵寺の墓地には、幕末の儒学者・春日潜庵(1811〜78)の墓が、春日家一族の墓に囲まれてあります。
春日潜庵は、文化八年(1811)、公家久我家に仕える諸大夫の家に生まれました。潜庵は久我通明・建通に仕え、また陽明学を学んで私塾を開いて弟子の教育を行いました。幕末期には尊皇譲位論者として横井小楠や梁川星巌、西郷隆盛らと交流し、安政の大獄(1858)で捕えられますが、後に赦免されています。明治元年(1868)五月、奈良県初代知事となりますが、僅か二ヵ月後に旧幕府との通謀罪で逮捕され辞官。疑惑が晴れて出獄した後は教育に専念し明治十一年(1878)に死去しました。

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