京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都府八幡市内里内にある内神社(うちじんじゃ)は、八幡市東部ではますまずの敷地を持つ神社です。八幡市のこの地域は高い建物が少ないために、遠くからでも田畑の中にこんもりした鎮守の森が見え、この地区では比較的目立つ神社だと感じます。(八幡市観光協会のHP等を参照させていただきます。)



内神社は、平安時代の「延喜式神名帳」に、「内神社二坐」と記されている式内社で、創建年代は不明ですが平安時代初期には既に知られていた古社になります。祭神は、古代の伝説上の大政治家として知られる武内宿禰(たけうちのすくね)の異母弟(讒言により兄の失脚を謀ったという伝承もあります。)と伝わる味師内宿禰(うましうちのすくね)と、その後裔にあたる山代内臣(やましろうちのおおかみ)です。
「日本書紀」によれば、応神天皇の時代、味師内宿禰は兄の武内宿禰が謀反を企てていると讒言し、潔白を主張した武内宿禰と共に礒城川で「盟神探湯(くがたち)」を行ったという記述があります。(盟神探湯の始まりとされます。)「盟神探湯」は、神に誓った後に熱湯の中に手を入れ、事の正否を探る古代の裁判方法で、火傷すれば罪があり、火傷しなければ無罪と判定されたといわれ、この時は武内宿禰の.無罪が証明されたと記述されています。

武内宿禰は紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏等の多くの諸豪族の祖となったという伝承があり、味師内宿禰(うましうちのすくね)も紀氏の祖となったという説もあるようですが、実在の人物というより神話の世界に属し、幾つかの部族集団の事跡を一人の人物に仮託して伝承されている可能性も高く、当然ながら諸説あって実態は不明です。また、内神社のもう一人の祭神、味師内宿禰の子孫とされる山城内臣(やましろうちのおみ)についてもまったく不明ですが、山城南部のこの内里周辺には、奈良時代前期に南九州の隼人たちが征服され移住させられた地域でもあることから、彼らが神社を創建したとも考えられているようです。このように、内神社は、紀氏・内氏など畿内豪族の誕生を探るという古代史的な点で注目される神社のようです。


それはともかく、社伝によると、内里の地には、山代内臣の住居があったとされ、死後に山代内臣を祀る一社が創建され、その後、山代内臣の祖神・味師内宿禰(うましうちのすくね)が合祀されたと伝えられています。中世には内里村の鎮守社として春日宗像神社と称し、現在地の東南700メートル隔てた地にありましたが、室町時代の大永(1521〜27)の兵乱で社殿が荒廃したため(尚、内神社の境内にある由緒書では、平安時代の天永(111〜1112)の乱(西暦1100年)と恐らく誤記されているようです。)、天正年間(天正四年(1576)頃という)に現在地に遷座したと伝えられ、旧社地は現在も「古宮」といわれています。

現在の本殿と境内は、平成十三年(2001)十月から二年かけて内里区造営事業によって整備されたもので、そのためか整った印象のある境内で、日陰の少ないこの地域では、憩いのスポット・・ベンチ等もあり少し休憩したくなる雰囲気です。

現本殿の傍には旧本殿が保存されていて、この旧本殿は、京都府登録有形文化財に指定されてます。旧本殿は、今回の造営事業の際の調査で、外陣右側腰板から寛保三年(1743)の墨書銘が発見されたことによって江戸中期の建物と年代特定されました。一間社流造・銅板葺の建物で、屋根は幅四・七メートル、奥行六・三メートルということです。他に境内には、末社として、厳島神社、奇神社、稲荷神社、他に皇太神宮遥拝所、石清水八幡宮遥拝所が点在しています。

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