京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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下京区松原通烏丸東入因幡堂町にある平等寺(びょうどうじ)は、山号を福聚山という真言宗智山派の寺院で、一般に「因幡堂(いなばどう)」、「因幡薬師」の通称名で知られています。
「京都十三仏霊場第七番札所」、「洛陽三十三所観音第二十七番札所」でもあり、本尊の重文・薬師如来像は、信濃善光寺の阿弥陀如来像、京都嵯峨の清涼寺の釈迦如来像と並んで「日本三如来」の一つに数えられています。本堂に比べ境内が狭いのが残念ですが、下京区では良く知られた、また庶民的で親しみやすい寺院の一つでしょう。(お寺で販売されている「京都因幡堂平等寺略縁起」と「狂言における因幡堂の位相」という小冊子を参照し書いてみます。また、雨の降りそうな夕暮れのため写真が良くないです。機会があれば撮り直す予定でしたが、何時になるかわかりませんので掲載します。)



因幡堂(平等寺)は、長保五年(1003)四月八日に、従四位上中納言・橘行平(たちばなのゆきひら)によりその邸宅に創建されたと伝えられます。

寺伝によると、平安時代の天徳三年(959)、橘行平は、時の村上天皇の勅使として因幡国(鳥取)の一ノ宮へ代参しました。行平が神事を終えて帰京しようとしたところ、急に病気になりました。行平が神仏に病気平癒を祈っていたところ、ある夜、夢の中に異形の僧が現れてこう言います・・「この因幡国の賀留津(かるつ)の海中に一つの浮木がある。その浮木は人々を救って悟りを得させる(衆生済度)ために、遠い仏の国から来たものである。そなたは、速やかにその浮木を求めて供養しなさい。そうすれば、病気は治り、さらにあらゆる願いが成就するだろう」と。

行平は不思議な夢に驚き、一日がかりで賀留津に到着してみると、そこには安太夫(やすだゆう)という老人がいて、老人は「この海底には、四十年程前から、四方に不思議な光を放つ物がありまして、人々は恐れて心が安まらないのです。」と言います。そこで、行平は早速、人々を集めて大網で海底を探らせました。すると、確かに一つの浮木が引き上げられました。よく見ると、それは身の丈五尺(165センチ)余りの薬師如来の尊像だったのです。行平は喜んで信心し、尊像を供養する草堂をこの浦に建て、薬師如来像を安置しました。すると行平の病気はたちまち治ったということです。そして、行平の帰郷後も、地元の人々はこの一堂を守り、座光寺と名付けたと言うことです。(現・鳥取県高草郡大字菖蒲浦の座光寺)

さて、京都へ戻った行平は、ある夜再び不思議な夢を見ました。夢に一人の異形の僧が現れて、「私は西の天から来て、東の国の人々を救おうとしてやってきた。そなたとは宿縁があるので、重ねて事を示そう」と言います。行平は夢から覚め、正夢だと思いました。
その時、ちょうど行平の屋敷の西門に、因幡の僧と名乗る人物が訪ねてきたと家来が告げに来ました。驚いた行平は、西門を開けさせたところ、そこには因幡で出会ったあの薬師如来の尊像が立っていたのでした。行平は驚いて尊像を碁盤の上(台座を残して都に飛来したため、代用に碁盤を用いたといいます)に安置しました。時に、長保五年(1003)四月八日の明け方のことと伝えられます。行平はすぐに屋敷を改造してお堂を造り、因幡堂と名付けました。これが、因幡堂平等寺の創建ということです。


この霊験あらたかな話は平安京で話題となり、当時の一条天皇(在位986〜1011)は、因幡堂に八ヶ所の子院を建立し、皇室の勅願所としたと伝えられ、その後も歴代の天皇の崇敬を受け、天皇の即位毎に祈祷し、「薬師もうで」と呼ばれる勅使の月参りもあったということです。また、源平の争乱時の承安元年(1171)、高倉天皇は因幡堂に勅額を賜り「平等寺」と命名しました。高倉天皇は因幡堂のすぐ南「東五条院」に住んでいたため、関係は深かったようで、天皇が寵愛した小督局の琴などが寺に伝来しています。

その後、因幡堂の境内は、京の人々が賑やかに集まる「市のお堂(町堂)」として、上京の六角堂や、下京の革堂(六角堂や革堂については以前にブログに採り上げています)と共に京の町衆に親しまれました。鎌倉時代の弘安七年(1284)頃、時宗の開祖・一遍上人も、因幡堂を京での布教の起点としてその教えを説いています。室町時代には足利将軍家も、度々因幡堂に参詣して、境内で猿楽興行も行われました。また、浄瑠璃発祥の地ともいわれています。
尚、因幡堂は、応永年間(1394〜1428)に天台宗に属しているという記録があり、応永二十五年(1418)七月には、寺門派総本山園城寺(三井寺)の末寺から同派大本山聖護院の末寺へと鞍替えしています。この時、鞍替えに怒った園城寺(三井寺)が因幡堂を攻撃してくるという噂が流れ、付近の町衆が因幡堂を守ろうと昼夜警護したという記録もあり、町衆の篤い信仰を集めていた寺院だったということがわかります。

その後、江戸時代初期には真言宗に属したようですが、天台宗の聖護院との関係は維持され、寺務は天台聖護院門跡 、寺僧は真言宗という両宗相乗りの珍しい寺院だったようです。また、江戸期を通じて、北側芝居・南側芝居に次いで、因幡堂芝居と言われた歌舞伎興行も行われ、出店も並んで大いに賑わったと伝えられます。そして、幕末には、新撰組の隊士が、壬生の屯所から因幡堂に来て見世物小屋の虎を見て、虎に吠えられた芹沢鴨が、「シシ(獅子・勤皇の志士)より怖い」とおどけたという話も伝わっていて、宗派に関係なく、町衆の集まる憩いの場だった当時の因幡堂の姿を想像させます。





さて、京都の多くの寺院と同様に、因幡堂も度々兵火や火事に遭っています。貴族の日記等から、平安時代の永長二年(1097)一月、康和五年(1103)十一月、嘉承三年(1108)二月、康治二年(1143)十月、仁平三年(1153)四月、平治元年(1159)十一月、安元三年(1177)四月、鎌倉時代の建長元年(1249)三月、室町時代の元中八年(1391)十一月、永享六年(1434)二月に類焼したことが判明しています。その後、近世にも火災に遭ったようで、現在の建物は、幕末の禁門の変(1864)で消失した後、明治維新の廃仏毀釈の後(廃仏毀釈の影響で、その後、堂宇も再建されないまま、何とか子院を本堂として本尊を守っていました。)、ようやく明治十九年(1886)に京の有志の援助もあって再建されたものです。

こうして、町堂として復興された因幡堂は、戦前までは毎月の縁日に夜店も並んで賑やかだったようですが、大戦の影響で夜店も消え、戦後は徐々に町衆とのつながりも薄れて衰微し、門も閉じられた時代が続いたということです。しかし、昭和五十四年(1979)に再びお寺は開かれて参拝も可能となり、徐々に復興してきました。平成十三年(2001)からは、毎月8日に境内で「因幡薬師てづくり市」も開催され、かつての京の町衆に愛された町堂を目指しておられるということです。


度々の火災に遭った因幡堂は、寺院の所蔵記録が失われたために歴史的には不明な点も多く、また中世には広大だった寺地も縮小しましたが、創建当時から伝わるという本尊薬師如来立像(藤原時代一木造、国指定重要文化財)は因幡薬師として知られ、現在まで大切に守られてきました。そして、信濃善光寺の阿弥陀如来像、京都嵯峨の清涼寺の釈迦如来像と並んで「日本三如来」の一つに数えられています。(通常は非公開ですが、八月八日、四月八日の午後に特別公開されます。)
その他、釈迦如来立像(重文)、如意輪観音像(重文)、小督局の愛用の品とされる琴、同じく小督の局ゆかりの硯箱、同じく、小督局の髪の毛で作ったと伝えられる光明真言の織物(毛織込み光明真言)といった寺宝が所蔵されています。他に大黒天像(忿怒形三面六臂大黒天)、毘沙門天像、弘法大師像、神変大菩薩(役長者)像、不動明王像、また歓喜天、地蔵菩薩等が境内諸堂に祀られています。

最後に、上記したように、因幡堂では、浄瑠璃の発祥の地ともいわれ、室町時代には猿楽がしばしば奉納上演されてきました。そして、「因幡堂」、「鬼瓦」、「仏師」、「六地蔵」、「金津(金津地蔵)」といった狂言の曲目にも登場しています。
その後、因幡堂が衰退したことにより、因幡堂狂言は消滅してしまっていましたが、平成十五年(2003)五月、長保五年(1003)の薬師如来の到着から千年になる因幡堂の開山千年法要に際に、因幡堂保本堂で狂言「因幡堂」「鬼瓦」が上演されました。これが多くの人々の支持を集め、因幡堂狂言を今後も続けてほしいとの声が全国の狂言ファンから集まったことにより、平成十七年(2007)に再び因幡堂狂言が復活されることになり、因幡堂狂言会が成されました。(詳細な公演情報等は、因幡堂狂言会のHPでご覧ください)

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上京区堀川通下立売上がる東側にある「伊藤仁斎宅(古義堂)跡並びに書庫」は、江戸時代の儒学者・伊藤仁斎(いとうじんさい)が自宅に開いた私塾「古義堂」跡で、仁斎時代の土蔵造の書庫が現在まで保存されていることから、国の史跡に指定されています。(かなり前に少し採り上げましたが、改めて書いてみます。)


さて、京都には数多くの史跡がありますが、今では街角に石標が立っているのみといった場所が多いのが残念です。このブログでは、基本的に記念碑等が建てられ整備されている場所のみを採り上げていますが、今回の「伊藤仁斎宅(古義堂)跡並びに書庫」は、非公開ではありますが、京都では、「荷田春満旧宅」、「頼山陽書斎(山紫水明処)」、「岩倉具視幽棲旧宅」と並ぶ数少ない国の史跡に指定されている古住宅になります。



伊藤仁斎(1627〜1705)は、寛永四年(1627)、上京区堀川通下立売上る、現在の古義堂のある場所に生まれました。父の了室は学門に熱心で、母は連歌師として有名な里村紹巴(さとむらしょうは)の孫という文化的な家系でした。仁斎は若くして朱子学を学びましたが、後にこれに批判的となり、孔子や孟子の本来の思想に戻るべきと考えて、孔・孟の原典に直接学ぶという古義学派(堀川学派)を創始しました。
寛文二年(1662)に自宅に私塾・古義堂を開き、宝永ニ年(1705)に七十九才で亡くなるまで、多くの公家や武家・町人にわたる門弟を教導し、その門下生は長男東涯(とうがい)をはじめ三千人を数えたといいます。古義堂は、仁斎の死後は東涯に継承され、その地に因んで堀川学派と呼ばれる京都を代表する一大学派となっていきました。そして、代々の伊藤家は永く学派を伝え、明治三十九年(1906)に至るまで実に244年に及びました。近世の有名な学塾で、このように一つの家によって運営継承されたことは極めて稀だということです。



さて、古義堂は、天明八年(1788)の天明の大火をはじめ、何度も火災に遭いました。
現在の建物は、明治二十三年(1890)に遺構をもとに再建したものですが、2階建て土蔵造の書庫は、仁斎が使用していたままの建物で、国の史跡に指定されています。尚、仁斎以降の歴代の当主が遺した著作や蔵書古義堂の蔵書、書画など約五千五百点、一万冊は、昭和十六(1941)〜二十年(1945)に天理大学附属天理図書館に移譲され、古義堂文庫として特別文庫の中に所蔵、公開されています。
古義堂では、京都市指定保存樹のクロマツ(高さ7.2m、枝張10m、幹周13.1m)が白い土蔵を彩っていて良い雰囲気です。

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