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京都市上京区寺町広小路上る北之辺町にある廬山寺は、紫式部の曽祖父にあたる権中納言・藤原兼輔の邸宅跡と伝えられ、紫式部もここで「源氏物語」を執筆したともいわれています。
この廬山寺については以前に少し書きましたが、今回はその境内墓地について書いてみます・・・
さすがに採り上げるには地味過ぎるかとも思いましたが、観光で廬山寺を訪れる人は多くても、墓地に行かれる方も少ないかと思った次第です。また、豊臣秀吉が築いた「御土居(おどい)」の一部がこの墓地にあることも注目されます・・・つまりこの廬山寺の東側は、秀吉の時代には京都郊外(洛外)と考えられていたのでしょう。
さて、廬山寺の墓地には40人程の皇族をはじめ公家等の墓がありますが、その中で最っとも目立つのが慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのうろざんじりょう)で、15人の皇族の墓と共に管理されています。慶光天皇というのは、江戸時代末期の閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう 1733〜94)のことで、明治時代になって「慶光天皇(慶光院)」の諡号と太上天皇の称号が贈られたことから、天皇に準じたこの御陵が造られました。
閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう 慶光天皇)は、幼名は寿宮(ひさのみや)といい、元禄時代の東山天皇が宝永七年(1710)に皇子・直仁親王に創設させた新宮家、閑院宮家の第二代当主になります。閑院宮家は、伏見宮・有栖川宮・桂宮と並んで四宮家と呼ばれ、その屋敷は現在の京都御苑の南西(当時は公家町)にありました。(明治時代に宮家が東京に移った後、近年は閑院宮邸跡として整備され一般公開されています。ブログで採り上げました)
典仁親王(慶光天皇)は、歌道や書道に優れた人物で、短冊等が残されていますが、特にその子が天皇になったことで歴史に名を残すことになりました。閑院宮典仁親王(慶光天皇)自身よりも、その息子の天皇の方が話題性のある人物なので、長くなりますが続けます・・・
さて、第百十八代・後桃園天皇(在位1770〜79)は、病気がちで安永八年(1779)に二十二歳で崩御しました。天皇には男子が無く、宮家の中から閑院宮家の美仁親王(はるひとしんおう 閑院宮第三代)やその弟・師仁親王(もろひとしんのう)、伏見宮貞敬親王(さだゆきしんのう)といった候補者の中から、先帝の皇女・欣子内親王を妃にするという条件で、当時九歳の師仁親王が選ばれ、既に亡くなっていた後桃園天皇の養子という形で皇位を継承しました・・これが第百十九代・光格天皇(在位1779〜1817)です。
九歳で即位した光格天皇は、南北朝時代の後花園天皇が伏見宮から皇位を継承した時以来の宮家(閑院宮)出身の天皇だったこともあって、周囲から軽く扱われる経験をしたこともあったようです。そのためもあってか、長じては朝廷権威の復権に務めました。幕末に尊皇運動が盛んになりますが、光格天皇は自らその先駆者として民衆たちに天皇の存在感を示し、明治時代の王政復古を準備した人物とも評されています。
ここで話は変わりますが、江戸時代初期に幕府が定めた「禁中並公家諸法度」は、日本史上初めて天皇の身分や立場さえも法律で規定されたたもので、朝廷が徳川幕府(直接は京都所司代)の実質的制約下に置かれたことを意味します。
禁中並公家諸法度は、宮家(親王)の宮中での地位を三公(太政大臣・右大臣・左大臣)より低く定め、三公を独占する五摂家(近衛家・一条家・九条家・二条家・鷹司家)が朝廷内の実権を握るように定めていました。そして、この三公の選出権は江戸幕府が握り、幕府の推薦・任命を受けた者のみが選出されていました。また、同じく幕府が任命した上流公家が務める武家伝奏職があり、主に幕府の意を受けて、政治的要求等を朝廷に取り次ぐ役割を持っていました。このように、五摂家や武家伝奏が幕府の威光を背景としていたために、天皇でさえ、五摂家当主達の決定事項に異を唱えることが出来ない場合が多かったのでした。
さて、天明七年(1787)六月、民衆達が天皇に救済を求める運動が起こりました・・御所千度参り(ごしょせんどまいり)です。
御所千度参り(ごしょせんどまいり)というのは、天明の飢饉(1782〜88)のために食糧難で苦しんだ民衆が、彼らの訴えを聞こうとしない京都所司代に見切りを付けて、御所の周囲を廻って、御千度参りをした事件です。京都だけでなく大阪等諸国から多くの人々が集まり、その数は七万人に及びました。人々は御所の築地塀の周囲を廻り、御所を向いて祈りながら、門から訴えや願い事を記した紙で包んだ賽銭を投げ込みました。また、この参拝者を目当てに物売りの出店が数百件も出て、非常に賑わったということです。
御所では後桜町上皇がりんご三万個を民衆に配らせたり、有栖川宮や五摂家らが茶や握り飯を振舞うなどの対応を行いました。光格天皇は、食糧難で苦しむ民衆をなんとか救済したいと考え、「禁中並公家諸法度」に反する行為ではあるものの、朝廷が民衆に直接米を配るか、それがだめなら幕府が米を配って救済することは出来ないかと考え、京都所司代を通じて幕府へ民衆救済の申し入れを行いました。幕府はこの法度への違反行為に対して対応を検討しますが、結局、緊急時の非常措置として、八月、救済米を約千石を放出することが決定しました。こうして、民衆救済に消極的だった幕府に対し、天皇や朝廷が民衆の救済運動を推進したことは、それまで幕府の統治下で忘れられていた天皇・朝廷の存在を民衆に強く印象付けることになり、やがて尊皇運動が高まる原因となりました。
また、天明八年(1788)の「天明の大火」によって御所が焼失した際は、光格天皇は、幕府と交渉して、新御所を平安京大内裏の古様式に則って再建しました。(現在の京都御所は、安政元年(1854)の火災の後に復興されたものですが、光格天皇時代の御所を事実上再現しているといえます。)さらに、伝統ある古来の朝儀の復興を図りました。これらもまた民衆の注目を集め、尊皇思想を高めていきます。
さて、先程書いたように、禁中並公家諸法度は、天皇の身分を法律で規定し、幕府の任命した五摂家当主達や武家伝奏が実質的に朝廷の権力を独占していました。これに対し、天皇や他の中小公家が反抗する事件も幾つか起こっています。そして、光格天皇も幕府とある問題で対立することになります・・・「尊号一件」と呼ばれる事件です。
元々、禁中並公家諸法度では、宮家(親王)の宮中での地位を三公(太政大臣・右大臣・左大臣)より低く定め、事実上、宮家(親王)は、三公を独占する五摂家(近衛家・一条家・九条家・二条家・鷹司家)の下と考えられていました。光格天皇は、何とか父親の閑院宮典仁親王の地位を高められないかと考え、「太上天皇(上皇)」の尊号を贈ろうとしました。
しかし、天明八年(1788)天皇の意を受けた公家・中山愛親らが幕府に通達すると、老中松平定信によって、天皇に即位していない人間に天皇号を贈ることは前例の無いことであるとして却下されます。
歴史的には、鎌倉時代の承久の乱後に即位した後堀河天皇が幼かったために、その父・守貞親王が「後高倉院」として政治を行ったこと、南北朝時代末期の後花園天皇の父・伏見宮貞成親王が、子が天皇に即位したことで「後崇光院」と尊号を贈られたことなどの前例があり、朝廷ではこれら前例を持ち出しましたが、幕府はこれまでの前例は戦乱時等の臨時措置であると主張して認めませんでした。(尚、守貞親王については、以前に「光照院門跡」を採り上げた際に、伏見宮貞成親王については「後崇光太上天皇伏見松林院陵」を紹介した際に詳しく書いています。)
朝廷と幕府の尊号論争は結論を得ず、寛政三年(1791)、光格天皇は上級公卿の多数決を得て尊号宣下を強行しようとします。この幕府との決定的対立になるかもしれない事態を憂慮した前関白・鷹司輔平の斡旋で、結局、幕府は閑院宮典仁親王が光格天皇の父であることを考慮して千石の特別加増等を行うことを認め、光格天皇は周囲の説得で仕方なく父への尊号贈与を諦めることになりました。
尚、光格天皇自身は、文化十四年(1817)に子の仁孝天皇に譲位して太上天皇(上皇)となりました・・歴史的に最後の太上天皇(上皇)になります。そして、天保十一年(1840)に六十九歳で崩御し、京都市東山区今熊野泉山町の後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)に葬られました。一方、光格天皇の父・閑院宮典仁親王は、寛政六年(1794)に亡くなりましたが、明治十七年(1884)に明治天皇(光格天皇の曾孫)の直系の祖先でもあることから、慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られることになりました。
さて、慶光天皇廬山寺陵には、慶光天皇(閑院宮典仁親王)の他に、
慶光天皇妃 成子内親王、
東山天皇後宮・新崇賢門院藤原賀子、
東山天皇皇子・直仁親王、
東山天皇皇子直仁親王妃・脩子、
東山天皇皇曾孫・美仁親王、
東山天皇皇曾孫美仁親王妃・因子、
東山天皇皇玄孫・孝仁親王、
東山天皇皇玄孫孝仁親王妃・吉子、
東山天皇五世皇孫・致宮、
東山天皇五世皇孫・愛仁親王、
光格天皇皇子・俊宮、
光格天皇皇子・猗宮、
光格天皇皇女・多祉宮、
光格天皇皇女・治宮、
仁孝天皇皇子・胤宮の墓があります・・・
つまり、ここには、「慶光天皇」の諡号を贈られた、二代・典仁親王の陵を中心に、閑院宮歴代当主の墓(初代・直仁親王、三代・美仁親王、四代・孝仁親王、五代・愛仁親王)とその妻子の墓が集められているわけです。敷石の敷き詰められた中心が慶光天皇(典仁親王)の陵です。(ただし、距離があるので手前の墓数基のみ撮影)
他に墓地内には、
土塀で仕切られた仁孝天皇皇子・鎔宮と孝明天皇皇女・壽萬宮の墓があります。(写真)
他に墓地には、後水尾天皇皇女・永光院墓、
後水尾天皇皇子・霊照院墓、
後水尾天皇皇子・若宮墓、
後水尾天皇皇女・宗澄女王墓、
後西天皇皇女・円光院墓、
霊元天皇皇子・嘉智宮墓、
光格天皇皇女・受楽院墓、
霊元天皇皇女・智光院、
霊元天皇皇子・三宮墓、
光格天皇皇女・開示院墓、
東山天皇皇子・寿宮墓、
中御門天皇皇女・三宮墓、
中御門天皇皇子・信宮墓、
中御門天皇皇女・周宮墓、
東山天皇皇孫女・蓮香院墓、
東山天皇皇曾孫女・弥数宮墓、
東山天皇皇孫・梅芳院墓、
東山天皇五世皇孫女・茂宮墓、
東山天皇皇玄孫女・鎮宮墓、
東山天皇五世皇孫女・永宮墓、
東山天皇皇玄孫女・苞宮墓、
東山天皇皇玄孫女・敬宮墓があるということです・・・あまりの数の多さに、その幾つかのみの写真を掲載します。
最後に、豊臣秀吉が洛中を囲むように造った土塁「御土居(おどい)」の一部が、廬山寺の墓地に残っています。(写真)「御土居(おどい)」については、京都市内に10ヶ所程度残っていて、多くは国史跡に指定されています。これまでも一部採り上げていますが、また機会があれば書いてみます。
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