京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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左京区浄土寺真如町にある陽成天皇神楽岡東陵(ようぜいてんのうかぐらがおかのひがしのみささぎ)は、平安時代の第五十七代・陽成天皇の陵墓です。陵墓のすぐ右手(南東)には紅葉の名所として知られる真如堂の山門が見え、天皇陵に関心が無い人も、ついでに立ち寄りやすい場所にあります。
陽成天皇は、宮中で殺人事件を起こすなどの乱行が伝えられていて、後世の評価が高い天皇ではありません。関係無いとはいえ、その陵墓も天皇陵の中ではやや面積が小さい印象です。



さて、陽成天皇の歴史的実績は乏しいですが、平安時代の天皇の相続形態の変遷を知る上で、その治世は注目しても良いかもしれません。ここで、前に文徳天皇田邑陵などで書いた文章を再掲載させていただいて、少し歴史を遡ってみます・・・

承和九年(842)に絶大な権力を持っていた嵯峨上皇が死去すると、直ちに「承和の変」が起こりました。当時の仁明天皇(嵯峨天皇の子)は、謀反人として伴健岑、橘逸勢らを流刑に処し、事件に関係したとして、皇太子の恒貞親王(淳和天皇の子・仁明天皇の従兄弟)も皇太子を廃されました。この「承和の変」は、平安時代初期の天皇の継承形態に一つの区切りを付ける事件となりました。

平安京の創始者・桓武天皇の子孫たち、いわゆる桓武朝は、親から子へという直系相続ではなく、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立が行われたことが知られています。
「藤原種継暗殺事件」や「平城太上天皇の変(薬子の変)」等の大きな事件が起こると、結果として一時的に直系相続を生みますが、皇位迭立は存続して、特に嵯峨・淳和天皇の時代の皇位迭立は兄弟間で相手の子供に皇位を譲るという複雑なものになりました。

○桓武天皇(弟・早良親王を皇太子にするも、「藤原種継暗殺事件」に連座して廃位。代わって子の安殿      親王(平城天皇)を立太子)
○平城天皇(弟の嵯峨天皇に譲位)
○嵯峨天皇(甥の高岳親王(平城天皇の子)を皇太子にするも、「平城太上天皇の変(薬子の変)」に連      座し廃位。代わって弟・大伴親王(淳和天皇)を立太子)
○淳和天皇(甥・正良親王(嵯峨天皇の子・仁明天皇)を立太子)
○仁明天皇(従兄弟・恒貞親王(淳和天皇の子)を立太子するも、「承和の変」に連座し廃位。代わって      自身の子・道康親王(文徳天皇)を立太子)

「承和の変」の結果として、仁明天皇の外戚・藤原良房は大納言に昇進し、仁明の子・(藤原良房の孫)道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となります。こうして仁明・文徳・清和・陽成と続く直系相続が行われ、政治の実権は完全に藤原北家の藤原良房・基経が握りました。特に第五十六代・清和天皇は祖父でもある良房によって、第五十七代・陽成天皇は叔父でもある基経によって共に僅か九才で天皇に擁立されるという完全な傀儡でした。
そして、今回採り上げた陽成天皇の代で、文徳天皇の直系皇統は断絶し、仁明天皇の三男・光孝天皇に遡った直系皇統が始まることになります。




さて、陽成天皇(在位876〜884)は、第五十六代・清和天皇の第一皇子として、貞観十年(869)に誕生し、名を貞明(さだあきら)といいました。尚、母の女御藤原高子(二条后)は、権中納言・藤原長良(ふじわらのながら)の娘で、同母弟に藤原基経(ふじわらのもとつね)がいます。貞明親王は、生後間もなく立太子され、貞観十八年(876)に、僅か九歳で父帝から譲位され帝位に就きました。

天皇は幼少で即位したため、父清和上皇や母藤原高子、特にその弟の摂政・藤原基経が実際の政治を行いました。当初は基経の政治力もあって政治は安定していましたが、元慶四年(880)、出家していた清和上皇が崩御した後(尚、同年に基経は太政大臣に任じられています。)、元慶六年(882)に陽成天皇が十三歳で元服する頃には、次第に天皇と基経との関係が悪化していったようです。
元慶七年(883)になると、基経は摂政返上を願い出て、これが許されないと、朝廷に出仕しないで自邸に元慶八年(884)正月まで引き籠もっています。元慶七年(883)十一月には、宮中で天皇の乳母・紀全子(きのまたこ)の子・源益が殺害される事件が起こり、犯人は不明とされましたが、人々は陽成天皇の仕業だと噂したと伝えられます。このような騒動の中で、基経は陽成天皇を退位に追い込むように圧力をかけていたのでしょう。

元慶八年(884)一月末頃、陽成天皇が恐らく周囲の説得で退位を考えるようになると、直ちに基経は仁明天皇の第三皇子・時康親王を新帝と定めて、公卿を集めて会議を行い、二月早々には新帝(光孝天皇)擁立を決定しました。(この会議等については、前に「光孝天皇後田邑陵」で少し書いています。)こうして陽成天皇は在位八年、十七歳で退位します。
退位後は、政治に直接関与せず、上皇として歴代最長の六十五年を過ごし、天暦三年(949)に八十二歳で天寿を全うしています。たま、時に歌合を行うなどして歌人としての才能もあったようですが、後撰和歌集に入撰した(小倉百人一首に採録)「つくばねの 峰よりおつるみなの川 こひぞつもりて淵となりける」という一首以外は伝わっていません。


さて、陽成天皇の退位の原因については、近年、従来の暴君説だけでなく、色々な視点から論じられているようです。例えば、基経が天皇に対してどのような不満を持っていたかという点に関して、資料的には明らかではありませんが、当時十四歳の幼帝に対して強い不満を感じるということはあまり考えられず、天皇に大きな影響力を持つ母后高子(基経の同母妹ですが)との対立が原因だったのではないかという説があります。この基経と高子の決定的な関係悪化の原因として、これもあくまで推測になりますが、基経が陽成天皇に自身の娘を入内させようとしたのを、基経が絶大な権力を握ることを危惧した高子が拒否したためではないかとも考えられています。こうして、基経は思うようにならない高子と陽成天皇を追い落とすことを決意したというのです。

もちろん、「日本三代実録」等には、陽成天皇の狂気乱行とされる行為が記されていて、この暴君ぶりに加え、病弱でもあったことから退位させられたというのが、古来通説となってきました。上記した宮中で天皇の乳母・紀全子(きのまたこ)の子・源益が殺害された事件はその最も大きな騒動です。
ただ、先程も書きましたが、陽成天皇は年齢的にも少年に過ぎず、乱行の内容も動物で遊ぶなど、多くは悪戯の類であることから、基経らが帝を退位させた自身の行為を正当化するために天皇の乱行ぶりを誇張し喧伝したとも考えられます。
さらに、陽成天皇が廃位された後、代わって即位した光孝天皇(仁明天皇の子、陽成天皇にとっては大叔父)以下、宇多・醍醐といった光孝系諸天皇が自身の皇統を守るために、「日本三代実録」等の記録を編纂させた際に、陽成天皇の乱行を誇張し、その廃位を正当化するように記述させたのではないかという説もあります。この説の背景として、退位した後も陽成上皇が非常に長命だったため、光孝系諸天皇にとって、皇位継承のライバル的な存在として警戒されていたためとされます。

実際、陽成天皇の場合、退位してからの長い人生の方が興味深い気もします。
記録は少ないですが、歴史書「大鏡」に、陽成上皇が、光孝天皇の崩御後、最初臣籍降下して源定省と称していた宇多天皇が、藤原基経の後援で即位したことを聞いて、「あの者は、以前に私に仕えていた者ではないか」と不満をもらしたという逸話が残っていて、陽成上皇は宇多を正当な天皇として認めていなかったようで、内心、自身の復位を望んでいたのかもしれません。そして、自分を退位に追い込んだ基経が、光孝天皇からは即位させてくれた恩人と感謝され、宇多天皇時代には史上初の関白に任じられるなど権勢を極めていく様子を苦々しく思っていたことが想像できます。


長くなりましたが、少しだけ「陽成源氏」についてです。
後世に武家の棟梁となった清和源氏は、清和天皇の六男・貞純親王の子孫と古来伝えられてきましたが、明治十三年(1900)、歴史学者・星野恒が、清和源氏の祖は、実は清和天皇や貞純親王ではないという説を発表しました。その根拠は、永承元年(1046)に源頼信が石清水八幡宮に納めた願文の記述を根拠としていて、願文の中で頼信は、自身は陽成天皇の末裔であると記して系譜を示しています。
ここから、本来は源氏の祖は、陽成天皇の子・元平親王であり、陽成天皇が暴君で廃位されたために、源氏の祖としては相応しく無いとして、後世、一代遡った清和天皇を源氏の祖に変更したという説になります。(清和天皇−貞純天皇−源経基−満仲−頼信−ではなく、清和天皇−陽成天皇−元平親王−源経基−満仲−になります。)現在も学会ではどちらが正しいのかは定まっていないようです。



さて、陽成上皇は、天暦三年(949)に八十二歳で崩御し、火葬の後、神楽岡(吉田山)の東に陵墓が造られました。この神楽岡の南麓(岡崎付近)には、元慶年間(877〜85)に、陽成帝の母・藤原高子が創建した東光寺(廃寺 その鎮守社であった東天王社=現在の岡崎神社が現在まで残っています)があり、また父清和上皇も、同じく岡崎にあった円覚寺(廃寺)で崩御して、粟田山で火葬されています。(「清和天皇火葬塚」は市左京区黒谷町黒谷墓地内にあります。)神楽岡は陽成帝にとっては縁の深い地だったのでしょう。
しかし、陵墓は多くの天皇と同じく、中世以降はその所在が不明となりました。江戸時代末期に始まった天皇陵の捜査を経て、明治二十二年(1889)に、現在の神楽岡の小丘と定められ、八角岡形の神楽岡東陵が造られました。陵墓の左側には広いスペースがあり、全体に八角に石組みが築かれていることがわかります。

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