京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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左京区鹿ヶ谷法然院町・西寺ノ前町にある冷泉天皇櫻本陵(桜本陵 れいぜいてんのうさくらもとのみささぎ 後一条天皇皇后威子火葬塚)は、平安時代の第六十三代・冷泉天皇の御陵です。
大文字山を背景とする大きな森に囲まれた天皇陵で、京都にある天皇陵の中ではかなり広い面積を持っています・・ただし参道や入り口も狭く、明治天皇陵や天智天皇陵のような壮大なスケール感は感じません。


冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、精神の異常等もあって在位期間わずか二年余りという歴史的評価の高くない天皇ですが、この陵墓は観光名所として知られる「哲学の道」から五十メートル程東にあって、法然院、安楽寺等のついでに訪問しやすい場所にあります。また、この陵墓は西南部分を後一条天皇皇后威子火葬塚としています。さらに、少し西へ下った鹿ヶ谷通には、門はいつも閉ざされていますが、冷泉天皇火葬塚(鹿ヶ谷西寺ノ前町 写真)もあります。




さて、冷泉天皇(950〜1011 在位967〜969)は、村上天皇の第二皇子として、天暦四年(950)に誕生し、名は憲平(のりひら)といいました。母は藤原師輔の娘、中宮・藤原安子(ふじわらのあんし)で、同母弟として為平親王(ためひらしんのう 村上天皇第四男)、円融天皇(村上天皇第七男)がいました。憲平親王は生後僅か三ヶ月で立太子されます。
この立太子を巡る争いもあって、冷泉天皇は、生まれながらに不幸な運命を背負っていたのだと、後世、まことしやかに語られることになります・・・


村上天皇には憲平親王(冷泉天皇)の誕生の直前に、別に第一皇子が生まれていました・・広平親王(ひろひらしんのう 950〜971)で、母は大納言(民部卿兼任)・藤原元方(ふじわらのもとかた)の娘、更衣・藤原祐姫(ふじわらのゆうひめ)です。
藤原元方(888〜953)は、藤原北家(冬嗣以降、良房、基経、忠平と外戚として宮中に勢力を拡大してきました)のライバルでもある藤原南家の出身でした。宮中での地位は常に大臣職を歴任する北家の後塵を拝してきましたが、もし娘(祐姫)が生んだ第一皇子(広平親王)が皇太子となれば、外祖父として元方も大きな力を持つことが出来るはずでした。
しかし、元方にとって不幸なことに、同年に北家の右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ 藤原忠平の次男)の娘、中宮・藤原安子も皇子(憲平親王)を生みました。こうなると憲平親王は中宮の長男でもあり、外戚として北家にはるかに及ばない元家としてはどうすることも出来ませんでした。

こうして、憲平親王が生後三ヶ月で立太子されることになり、一方、藤原元方は天暦七年(953)に無念の思いを抱いて世を恨みながら病死したと伝えられます。また、皇太子になれなかった広平親王は、兵部卿などを歴任しましたが、天禄二年(971)に二十二歳で亡くなりました。
そして、後年、冷泉天皇が精神に異常をきたしたのは、この藤原元方や広平親王の怨霊がたたったのだと噂されることになります。さらに、この怨霊は、冷泉天皇の子・花山天皇と三条天皇をも苦しめることになったと伝えられます。(花山天皇や三条天皇の陵墓を採り上げた際、少し書いてみたいと思います。)



歴史物語「大鏡」は、この頃の印象的な話を記しています・・村上天皇が、ある時「庚申待ち」を行い、藤原師輔や藤原元方他多数の貴族らも参内しました。
(尚、庚申信仰とは、中国の道教から来た信仰です。庚申とは干支の庚(かのえ)申(さる)の日を意味し、この日の夜に、人の体中にいる三尸の虫が寝ている間に抜け出して、寿命を司る神・天帝にその人間の行った悪行を告げ口すると考えられました。天帝は罰としてその人間の寿命を縮めるため、これを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜する「庚申待ち」という風習がありました。)

さて、参内した人々は、徹夜で朝を迎えるために双六で遊びました。この頃ちょうど、藤原師輔の娘、中宮安子が懐妊中で、もし男子が生まれれば立太子はどうなることかと宮中で噂になっていたようです。師輔は双六の際に「もし懐妊中の御子が男子ならば、重六(二つのさいころの目が共に六となること。勝負では最高の目とされました。)よ出てくれ。」と言って、さいころを振ると、見事に六の目が並びました。これには居合わせた人々も驚いて顔を見合わせながら大いに師輔を褒め称えました。
師輔はもちろん大満足でしたが、その様子を見ていた藤原元方は気分を害し、その顔は非常に青ざめたということです。
その後、藤原元方が怨霊となって現れた際、「あの庚申待ちの重六の事件の衝撃が、私をこのような怨霊にしてしまったのだ。」と語ったと伝えています。




ここで、以前に村上天皇と円融天皇の陵墓を採り上げた際の文章を再掲載しながら書いてみます・・・

さて、冷泉天皇は、父村上天皇の死により康保四年(967)に十八歳で即位しました。
皇太子時代から病弱で精神病の症状があったため、悪霊封じの祈祷も繰り返されたようですが、効果は無かったようです。そこで、政務の補佐が必要と考えられ、村上天皇の時代に途絶えていた関白位が復活され、氏の長者として藤原実頼(ふじわらのさねより 朱雀天皇時代の関白・藤原忠平の長男)」が関白太政大臣に任命されました。同時に左大臣に源高明(みなもとのたかあきら)、右大臣に藤原師尹(ふじわらのもろただ 藤原忠平の五男)が就任しました。
この時、左大臣となった源高明は、「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人とも言われている人物です。そして、高明の妻が村上天皇の中宮安子の妹だったことから、安子やその父の藤原師輔の後援を得て栄達してきましたが、天徳四年(960)の師輔、応和四年(964)の安子の死後は後ろ盾を失っていたようです。

さて、冷泉天皇の病状考えると、その後継者の選定は急がれる問題でした。
冷泉天皇には同母弟としてニ歳下の為平親王、九歳下の守平親王(後の円融天皇)がありました。父の村上天皇は為平親王を愛して、親王を将来の皇位継承候補とも考えていたようです。そして、亡くなる前に村上帝は源高明の娘を為平親王に嫁がせ、高明を親王の保護者としました・・が、これが後で裏目になることになります。

本来なら年長の為平親王が皇太子となるはずでしたが、親王が高明の娘を娶っていたために、将来、高明が天皇の外戚として権勢を振るうことを恐れた関白太政大臣・藤原実頼や右大臣・藤原師尹等(または藤原伊尹(ふじわらのこれただ)が弟兼家らと中心になったとも)が、高明の影響を排除するために守平親王を素早く皇太子としてしまったのでした。すでに宮中で勢力を失いつつあった高明にはどうしようもなかったようで、こうして、守平親王は、康保四年(967)に九歳で立太子されました。そして、さらに二年後の「安和の変(あんなのへん)」で左大臣・源高明は失脚させられます。



「安和の変」は、現在の歴史学では、藤原氏による最後の他氏排斥事件として定義されます。
事件は、安和ニ年(969)三月、宮中に仕える左馬助・源満仲と源満仲(みなもとのみつなか 清和源氏の二代目とされます)や前武蔵介・藤原善時(ふじわらのよしとき)が同じく宮中官人の中務少輔・橘繁延(たちばなのしげのぶ)ら数名の謀反(為平親王を奉じて乱を起こそうとしたとも)を右大臣・藤原師尹(ふじわらのもろただ)らに密告したことに端を発します。
直ちに藤原師尹は公卿達を集めて会議を行うと共に、関係者を逮捕させました。そして、謀反人の中に源高明の家来・藤原千晴(ふじわらのちはる「承平・天慶の乱」で活躍した藤原秀郷の子)が含まれていたことから、主人の源高明も謀反に加担していたとして拘束され、大宰府へ流刑となりました。こうして藤原氏による有力他氏の排斥が完了し、今後は藤原氏一族(北家)内での権力争いが起こることになります。(尚、源高明に代わって左大臣に就任した藤原師尹はその後間もなく死去しています。)

そして、安和の変から間もなく、安和ニ年(969)九月、冷泉天皇は弟の円融天皇に譲位して上皇となりました。また、円融天皇の皇太子としては、先帝冷泉帝の生後間もない皇子・師貞親王(後の花山天皇)が選ばれました。師貞親王の立太子は、その母女御:藤原懐子が藤原伊尹(ふじわらのこれただ 藤原師輔の長男)の娘だったことによります。そして、以後後一条天皇の即位までの五代に渡る兄・冷泉系と弟・円融系との皇位迭立が続きます。



さて、冷泉上皇ですが、「冷泉院(中京区竹屋町通堀川西入る、二条城北側付近)」を後院(院御所 上皇の御所)としました。この冷泉院は、平安初期に造営されて、嵯峨天皇(786〜842)以降の歴代上皇の御所となった宮殿です。当初は、「冷然院」と記されていましたが、貞観十七年(875)や天暦三年(949)等度々火災に遭ったことから、「然」は火に通じるとして、冷泉院と改称しています。(つまり、冷泉院は古くから上皇の御所として用いられてきたもので、冷泉上皇の御所ということから名付けられたという訳ではありません。また、もちろん、源氏物語の登場人物・冷泉院も、この「冷泉院」を住まいとしていたと設定された架空の人物になります。)

その後、上皇は火災に遭って御所を転々としますが、その間、天延四年(976)に、藤原兼家の娘・藤原超子(ふじわら のちょうし とおこ)との間に第二皇子・居貞親王(おきさだしいのう 後の三条天皇)、さらに為尊親王、敦道親王を得ています。藤原兼家はこの孫達を特別に愛したと伝えられ、後に、兼家はこの居貞親王(三条天皇)を同じく孫の一条天皇(円融天皇の子)の皇太子に定めました。こうして、数代の天皇の外戚として兼家の系統が藤原北家の本流となっていきます。

さて、「大鏡」には、当時上皇が住んでいた南院が火事になったので、子の花山天皇が心配になって見舞いに行くという話しが出ています。
花山天皇もその奇行ぶりを示す異様な風体で父帝を見舞いますが、冷泉上皇も、避難騒動の最中に牛車の中から神楽歌を朗々と歌うなどの異常ぶりを発揮していて、どうもあまり病状は回復しなかったようです。それでも、歌人としては勅撰集に数種を残していて、状態の良い時には本来の才能を発揮したこともあったのでしょう。そして、寛弘八年(1011)に、六十二歳という長寿で崩御し、遺体は櫻本寺(おうほんじ)の前野で火葬にされ、寺の北方に葬られたと伝えられます。



この櫻本(桜本)というのは、現在の吉田山(神楽岡)から鹿ヶ谷に至る地域で、現在の浄土時地区に当たります。平安時代にはこの地に櫻本寺(おうほんじ)という寺院があったといわれ、冷泉帝の遺骨はこの寺地に埋葬されました。しかし、江戸時代には北山小野の郷(北区小野)にある小堂、櫻本寺(おうほんじ 現在も残存)が、この「櫻本寺」だと考えられ、付近には冷泉天皇の御陵や火葬塚と伝承される石塔が残っています。

その後、明治二十二年(1889)に浄土寺にある現在地(北塚と呼ばれていた古墳)が冷泉天皇の陵墓と地定され、現在の円丘陵墓が整備されました。またその約百メートル西、鹿ヶ谷通沿いには、その火葬塚(鹿ヶ谷西寺ノ前町)も地定されています。(火葬塚が特定されている天皇としては、陵墓との距離が一番近い天皇陵です。一時は火葬塚自体が陵墓候補地となっていたようです。)その後、天皇陵の一部に「後一条天皇皇后威子火葬塚」を組み込んで陵墓の面積は拡充し現在に至ります。









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