京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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どうも、最近、このブログでは左京区の天皇陵が続いていますが、今回は、京都市左京区吉田という地域の小さな二つ天皇家ゆかりの史跡です。
特に天皇陵や皇室ゆかりの史跡に関心があるというわけでは無いのですが、天皇の埋葬地から平安京当時の地勢を想像してみるのも面白いです。そして、天皇以外の皇室関係者の墓の中では、寺院内の墓地にあるお墓よりも、今回のような普通の民家の傍にポツンとある史跡の方に惹かれます。


さて、この左京区の吉田という区域は、大部分が京都大学の中央・吉田・南部キャンパスが占めている地域で、史跡らしいものは吉田山にある吉田神社しか無いように思われます。
しかし細かく地図を見てみると、京都市左京区吉田牛ノ宮町の市街地の中に二つの史跡があることに気付きます・・「醍醐天皇皇孫皇太子・慶頼王墓」と「村上天皇中宮 安子火葬塚」です。



「醍醐天皇皇孫皇太子・慶頼王墓」は、民家の間の狭い参道が、恐らく防犯目的もあって近年柵で封鎖されています(写真)そのために、離れた所から見ることになりますが、鳥居のある神道形式の墓として整備されています。

さて、慶頼王(やすよりおう  よしおりおう 921〜925)は、平安時代の第六十代・醍醐天皇の皇子・保明親王(やすあきらしんのう)の王子です。慶頼王の父、保明親王(903〜923)は、延喜三年に醍醐天皇の第二皇子として誕生し、母は女御・藤原穏子(ふじわらのおんし やすこ 関白・藤原基経の娘 五条后)です。

保明親王は、延喜四年(904)に二歳で立太子されましたが、この保明親王の立太子には、穏子の兄の藤原時平が外戚関係を強化し政権を安定させるために擁立したと考えられます。しかし、時平は延喜九年(909)に三十九歳で死去しました。そして、その後も時平の長男・保忠(やすただ)が承平六年(936)四十六歳で、三男・敦忠(あつただ)が天慶六年(943)三十七歳で亡くなるなど、時平の子孫が相次いで若死にしたことは、時平が大宰府に左遷させた菅原道真の怨霊によるものと考えられました。


そして、延喜二十三年(923)に保明親王も、僅か二十一歳で死去します。
醍醐天皇は同年、保明親王の嫡男・慶頼王を三歳で皇太孫としますが、慶頼王もニ年後の延長三年(925)に僅か五歳で亡くなりました。この皇太子・皇太孫の相次ぐ死去も、慶頼王の母で、保明親王の御息所・藤原仁善子(ふじわらのよしこ)が藤原時平の娘だったために、醍醐天皇や世間も菅原道真の祟りだと恐れたと伝わります。

一方、皇子と皇孫を失った藤原穏子は、道真の怨霊にも負けない強運の持ち主でもあったのでしょう。
延長元年(923)に十九歳で保明親王を生んでから、なんとニ十年の時を経て、三十九歳で二人目の皇子を生み中宮となります。この時誕生したのが寛明親王(ゆたあきらしんおう 後の朱雀天皇)で、前年に亡くなった慶頼王に代わって、直ちに延長四年(926)に立太子されました。
ただ寛明親王は虚弱体質で、道真の怨霊を避ける意味も含めて、格子も閉じられた部屋の几帳の中で育てられたと伝えられます。さらに、穏子は四十二歳という当時としては驚くほど高齢で成明親王(なりあきらしんのう 後の村上天皇)も出産しました。そして、藤原穏子は二代の天皇の母后として七十歳の長命を保つことになります。




さて、今度は「村上天皇中宮・安子火葬塚」です。

前に村上天皇陵、冷泉天皇陵、円融天皇陵を採り上げた時に少し出てきましたが、この火葬塚は、第六十二代・村上天皇の中宮として、冷泉天皇や円融天皇の母親となった藤原安子が火葬された地ということです。

藤原安子(ふじわらのあんし やすいこ)は、延長五年(927)に、右大臣・藤原師輔の長女として誕生し、天慶三年(940)に成明親王(村上天皇)に入内しました。
成明親王(村上天皇)は、天慶七年(944)に兄帝朱雀天皇の皇太子となり、天慶九年(946)に兄帝の譲りを受けて即位し、これにより藤原安子は女御となります。
その後、安子は 天暦四年(950)に憲平親王(後の冷泉天皇)を出産し、親王は生後二ヶ月で立太子されました。また、天暦六年(952)に為平親王、天徳三年(959)に守平親王(後の円融天皇)が生まれています。天徳二年(958)中宮に冊立されますが、応和四年(964)に三十八歳で亡くなりました。


藤原安子のエピソードといえば「大鏡」の逸話がよく知られています。

安子は、村上天皇の皇太子時代からの妃でもあり、皇太子憲平親王や多くの子女を設けたことから、村上天皇に非常に重んじられていたようです。後世、聖君として讃えられた村上天皇ですが、安子に非常に遠慮をしていて、安子が無理な要求をしても拒めなかったといわれます。安子は帝に対して意地の悪い悪戯をしたこともあったようで、天皇は「また、いつもの手か」と言って諦めていたと「大鏡」は記しています。

特に非常に嫉妬深く、天皇の寵愛を受けていた藤原芳子(藤原師尹の娘、安子の従姉妹)の美貌を壁の穴から覗いて嫉妬し、壁の穴から土器(かわらけ)の破片を投げつけたこともあったと伝わります。
これにはその場にいた村上天皇も立腹、これは安子の兄弟らが仕向けたことだろうと、兄弟の藤原伊尹・兼通・兼家を呼んで謹慎を命じると、それを知った安子は、天皇に部屋に来て欲しいと使いを送ります。

天皇はどうせ兄弟の謹慎のことだとわかっていたので、無視していると、安子は何度も何度も使いを走らせて、どうしても来て欲しいと申し入れます。段々、このまま行かなければさらに怒るだろうと怖くなってきた天皇は、ようやく安子の元に行きます。
安子は、「仮に私の兄弟に大きな罪があっても、私に免じて許してくださるのが当然なのに、この件で、このような処分をされるのはもっての外です。本当に情けないことです。直ぐに赦免ください。」といいます。天皇としては、直ぐに赦免するのは外聞が悪いと躊躇しますが、安子は引き下がりません。

さすがに、天皇は疲れてきたのできたのでしょう・・「仕方が無い、そうしよう」と言ってとにかく帰ろうとすると、安子はさらに「今帰ったら、気が変わって直ぐには赦免されないでしょう。今すぐ、ここで赦免状を出してください。」と言って、天皇の袖を摑んで放しません。
根負けした天皇は、その場に使いを呼んで直ぐに兄弟たちを赦免したということです。


一方で、同じ「大鏡」は、安子が、本来は気立ての良い、人に思いやりのある性格だとも記しています。
身分に関係無く下々の者にまで目をかけて、面倒を見るやさしさがあり、安子が亡くなったことを聞いたものは、遠くの地の者まで惜しみ悲しんだということです。村上天皇は全ての政治を安子と相談して行い、安子は悪いことは庇ってやり、褒めるときはより褒めて、人の悪口を決して天皇に言わなかったとも伝えています。

これらの話がどこまで真実かはわかりませんが、安子が存在感のある影響力のある女性だったことが伺えます。
尚、安子の墓は、他の藤原氏一族や藤原氏出身の皇室関係者の陵墓である宇治陵(京都府宇治市木幡)にあります。

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左京区吉田神楽岡町、銀閣寺道交差点付近(白川通今出川)から西南に走る岡崎通に面しているのが、第六十八代・後一条天皇の陵墓、後一条天皇菩提樹院陵(ごいちじょうてんのうぼだいじゅいんのみささぎ)です。

岡崎道はこの御陵付近で道幅が狭くなり、車一台がギリギリ通れる程の狭さの割に、通行車もそこそこあるので要注意です。このやや落ち着かない場所にある御陵ですが、石段上の陵墓は吉田山の森を背景としていて、雰囲気はそれ程悪くはないです。
また、近くに紅葉の名所の真如堂や陽成天皇神楽岡陵、梅の隠れた名所・東北院、萩の隠れた名所・迎称寺もあるので、観光客が訪ねやすい陵墓です。尚、この陵墓は、後冷泉天皇皇后・章子内親王陵を同域としています。この章子内親王は後一条天皇の皇女になります。




さて、後一条天皇(在位1016〜1036)は、藤原道長から頼通の時代、まさに藤原摂関時代全盛期の天皇になります。そのため、後一条天皇についてというより、時代の中心にいる藤原道長の晩年について書くことになりそうです・・・


後一条天皇は、寛弘五年(1008)に第六十六代・一条天皇の第二皇子として誕生し、名を敦成(あつひら)といいました。母は藤原道長の長女・中宮藤原彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)で、まさに道長待望の初めての外孫皇子でした。

一条天皇には、皇后・藤原定子(道長の兄・藤原道隆の娘)との間に、第一皇子・敦康親王(あつやすしんのう)があり、天皇は敦康親王の立太子を望んでいましたが、自身の初孫・敦成親王を立太子したい道長の要請によって、寛弘八年(1011)敦成親王が四歳で皇太子に定められました・・「大鏡」には、病気で退位する一条天皇が、「本来は、第一皇子(敦康親王)を皇太子にするべきだが、後見役となる人がいないのでやむなく第二皇子(敦成親王 後一条天皇)を立てるのだ」と語ったと記しています。道長一門の支持が無い天皇では安定した政治を行えないのがわかっていたのでしょう。


さて、一条天皇は、寛弘八年(1011)に病気のため退位し、間もなく三十一歳で崩御しました。代わって即位したのが第六十七代・三条天皇です。
関白藤原兼家の死後、その子、道隆・道兼・道長三兄弟が外戚としてそれぞれ一条天皇を長期にわたって支えていたために、三条帝は長い皇太子時代をすごしている内に当時としては高齢の三十六歳になっていました。幼少で即位し藤原氏の傀儡として育った天皇とは違って、熟年になって即位した三条帝は自身で親政を行いたいと考えました。

しかし、三条天皇にとって不幸だったのは、時代が藤原道長の全盛期だったことでした。
道長は、長女の中宮藤原彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)が一条天皇との間に、敦成親王(あつひらしんおう 後の後一条天皇)、敦良親王(あつよししんのう 後の後朱雀天皇)を生んでいて、これら若い皇子を擁立することで、次世代にも揺ぎ無い権力を握ることが確実となっていました。

道長は早速、三条帝即位にともなって、その皇太子として敦成親王(後一条天皇)を定めました。もちろん、道長は、これまで疎遠だった甥(三条帝)との繋がりを強めるために、次女の藤原妍子(ふじわらのけんし きよこ)を帝の中宮に立てて皇子の誕生を期待していたのですが、残念ながら三条帝と妍子の間に生まれたのは皇女(禎子)で、道長は大変失望しました・・・こうして、藤原道長にとっては、自分で政治を行おうとする三条天皇は邪魔な存在となっていきます。

道長は、しばしば三条天皇の意向を無視する妨害工作を行いました。結局、三条帝が眼病を患っていたこともあって、長和五年(1016)、帝は在位六年にして道長の退位の勧めを聞き入れざるを得ませんでした。三条天皇には、皇后・藤原娍子(藤原済時の娘)との間に、敦明親王(あつあきらしんのう 小一条院)ら数人の皇子があり、三条帝は退位の条件として、第一皇子・敦明親王を後一条天皇の皇太子とにすることを道長に認めさせました。

しかし、帝が翌寛仁元年(1017)に崩御すると、道長の圧力を感じた敦明親王は自ら皇太子を辞退したいと申し出ました。事がうまく運んだと喜んだ道長は、敦明親王に報いるために小一条院太上天皇の尊号を贈って准上皇として厚遇し、三女の藤原寛子(ふじわらのかんし ひろこ)を嫁がせました。

尚、この時、敦明親王の先妃・藤原延子(ふじわらのえんし のぶこ 左大臣藤原顕光の娘)は、夫を寛子に奪われて絶望のあまり病気となり、寛仁三年(1019)に非業の死を遂げました。この延子とその父・顕光がその死後に怨霊になって、後に寛子や道長一族に祟ったと伝わります。

こうして、道長は計画通り後一条天皇の同母弟・敦良親王(あつよししんのう 後の後朱雀天皇)を立太子させます。これにより、冷泉帝・円融帝の両統迭立時代は終わり、皇統は円融系に統一されることになります。こうして、今回の主人公、後一条天皇が即位しました。
(三条帝については、三条天皇陵を採り上げる際に、もう少し詳しく書きたいと思います)




さて、長和五年(1016)、敦成親王(後一条天皇)は三条天皇の退位によって九歳で即位しました。道長は摂政に就きますが、翌寛仁元年(1017)三月、後継者として嫡男・頼通に摂政と氏長者を継承させています。そして、翌寛仁二年(1018)正月、後一条天皇が十一歳で元服すると、道長は四女の藤原威子(ふじわらのいし たけこ、後一条天皇にとっては叔母)を女御として入内させ、十月に中宮としました。

道長の長女・彰子は太皇太后宮(一条天皇の中宮)、次女・妍子は皇太后宮(三条天皇の中宮)、そして、今回四女・威子が後一条天皇の中宮となったわけで、一家から三后が立つという史上未曾有の栄華が訪れたのでした。
道長が、自身の栄光を讃えて、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだのはこの時のことです。



しかし、この頃から、道長はしばしば胸の病に苦しむことになります。
寛仁三年(1019)三月、道長は、胸に激しい痛みを訴えて床につきます。そして昼過ぎに起き上がって、突然正装を始めました。息子の関白頼通ら一同が驚いて様子を伺っていると、道長は氏神である春日明神のある南方に向って暇乞いの拝礼を行い、僧を呼んで剃髪し出家しました。あまりに急なことで、一族以下周りの者も呆然として止められなかったと「大鏡」は記しています。そして、道長は半年後の九月、東大寺で受戒しました。(法名は行観(後に行覚と改めています))

自身の病もあって、この頃から、道長は来世のことを考え始めたようです。
極楽往生を願って、寛仁四年(1020)三月に、九体の金色の阿弥陀仏を祀る阿弥陀堂(無量寿院)を建立し、その後も、相次いで諸堂造営を行っています。治安二年(1022)七月には自邸土御門殿の東に壮大な法成寺が完成し、後一条天皇以下全ての皇族達も盛大な落慶法要に行啓しています。
この法成寺境内には、最初に建てられた阿弥陀堂(無量寿院)の他に、金堂、五大堂、釈迦堂、十斎堂、三昧堂、講堂、東北院、西北院、東塔、西塔等の多くの堂宇が立ち並んでいたと伝わり、道長もここに移り住みます。
また、寛仁五年(1021)、道長の六女・藤原嬉子(ふじわらのきし よしこ)を嫡男頼通の養子として、皇太弟・敦良親王(後朱雀天皇)に入内させて、次代の政権安定を図っています。



そして、これまで多くの幸運に恵まれた道長一族に不幸が訪れることになります。
万寿ニ年(1025)七月、小一条院(敦明親王)女御の道長の三女・寛子が二十七歳で死去します。翌八月には、将来の皇后を期待された六女・嬉子が、親仁親王(後冷泉天皇)を出産するも、数日後、赤斑瘡(あかもがさ、麻疹)により十九歳で死去しました。歴史物語「栄華物語」は、若い娘の死に大い嘆く道長の様子を描いています。また、この時には、後一条帝や中宮の四女・威子も赤斑瘡に感染しています。
上記したように、当時の人々は、治安元年(1021)に亡くなった藤原顕光が、不幸な死を遂げた娘の延子と共に怨霊となって、敦明親王を奪った寛子や道長一族に祟ったのだと噂しました。

万寿三年(1026)には、道長の長女・彰子(太皇太后宮 一条天皇の中宮)が、相次ぐ身内の不幸に世の無常を感じて出家し上東門院と称しました。ただ、この年の吉事は、十二月に後一条天皇の第一皇女・章子内親王(しょうし あきこ 二条院)が誕生したことで、皇子ではなかったものの、一族に不幸相次ぐ中での無事な出産に、道長は安堵したようです。

さて、翌万寿四年(1027)にも不幸が続きます・・九月、次女の妍子(皇太后宮 三条天皇の中宮)が病気で亡くなり、そして、道長にも死が訪れます・・・・
道長は十月二十八日に法成寺阿弥陀堂(無量寿院)で行われた娘・妍子(皇太后宮 三条天皇の中宮)の四十九日法会にも参加できないほどの重病となり、十一月十日頃には危篤状態となります。息子の頼通や娘の上東門院(太皇太后宮 一条天皇の中宮)が万僧供養等を繰り返し、道長の体から離れた魂を呼び戻す招魂祭も行われました。後一条天皇や皇太子・敦良親王(後の後朱雀天皇)が相次いで祖父(道長)を見舞う中で、かすかに声を出したりし、体を動かすこともあったようですが、危篤状態は続き、ついに十二月四日の明け方に六十三歳で死去しました。


翌万寿五年(1028)は、前年末の道長の死という大事件によって、正月の天皇が群臣に祝いを賜る節会の儀式や位階を賜る叙位の儀も中止や延期されることになりました。
また、その半年後の長元元年(七月万寿から改元 1028)に関東で平忠常の乱が起こって、鎮圧まで三年を要する事態となります。
長元二年(1029)には後一条天皇の第二皇女・馨子内親王(けいし かおるこ)が誕生しました・・もちろん目出度い事なのですが、宮中ではまたもや皇子でなかったことに失望感もあったようです。


少し明るい話題としては、長元六年(1033)十一月、道長の正室・倫子(源倫子 鷹司殿)の七十歳の祝賀が行われました。
倫子は左大臣・源雅信の娘で、永延元年(987)に二十四歳で二歳年下の道長に嫁ぎました。道長と倫子の関係は円満だったようで、道長の長女・彰子、長男・頼通、次女・妍子、次男・教通、四女・威子、六女・嬉子は倫子の子供たちです。道長の栄華は、後継者の男子と皇后となった娘達を産んでくれた倫子のおかげだったのでした。
既にニ人の娘に先立たれてしまった倫子ですが、長女・上東門院(彰子)、長男・関白頼通、次男の内大臣教通、四女・中宮威子が用意を整えて子供たちの舞等が披露されました。


さて、後一条天皇は、長元九年(1036)三月頃から病気となり、四月に二十九歳の若さで崩御しました。中宮・威子との間には上記のように二人の皇女を得ましたが、皇子は生まれませんでした。また、同年九月に威子も帝を追うように疱瘡で亡くなっています。

遺骸は神楽岡の東、浄土寺の西で火葬にされ、一旦遺骨は浄土寺に安置された後、この地に長暦元年(1037)に母・上東門院(彰子)が建立した菩提樹院に長久元年(1040)に移されています。その後の戦乱などで菩提樹院の所在も不明となりますが、明治二十二年(1889)に現在地に定められました。

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