京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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下京区七条御前上る西七条北東野町にある小さな天満宮が綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえてんまんぐう)です。「つなしきゆきえ」とは発音し難いので、一般に「つなしきいくえい」とも呼ばれているようです。

綱敷行衛天満宮は、元々綱敷天満宮と行衛天満宮というこの西七条村に祀られていた二つの天満宮でした。綱敷天満宮は現在地付近に、行衛天満宮はさらに西に鎮座していて、共に洛陽天満宮二十五社の一つに数えられていたようです。その後、昭和九年(1934)に、この二つの天満宮は合併され現在地に鎮座することになりました。

綱敷天満宮は、京都以外にも西日本各地にも鎮座している天満宮で、以下のような伝説に由来する天満宮です・・・菅原道真が九州筑紫(福岡県)に左遷され博多に上陸した際、激しい風雨に遭って避難しましたが、土地の者たちは敷物が無いために船の綱を巻いて円座を作って道真の御座としたということです。
また、この時に、一夜にして道真の髪が白髪になったとも伝えられ、道真は白髪姿の自身の姿を写した画像(綱敷天神像、一夜白髪の御影といわれます)にしました。そしてこの神像を祀ったことから綱敷天満宮の名が付けられたと伝えられます。

一方、近衛天満宮は、元々は「靱負(ゆきえ)天満宮」が正しいとされ、平安京の右京を南北に通る「西靱負小路」に面していたことから、社名となったと考えられています。西靱負小路は、別名「猪隅通」とも呼ばれ、北野天満宮の南門から南区の唐橋を経て、吉祥院天満宮に通じる道で、道真はこの道を通って吉祥院へ向ったということです。
また、近衛天満宮は、前にブログに採り上げた文子天満宮(下京区間之町通花屋町下る天神町)の伝承とは異なりますが、道真の乳母と伝えられる多治比文子の旧宅がこの西七条にあったことから、その跡地に創祀されたとも伝えられているようです。

尚、綱敷行衛天満宮は、現在は松尾大社の境外末社ということです。また、現在の本殿は寛政年間(1789〜1801)の建立で、その保護のために本殿覆屋が昭和九年(1934)に建てられ、その後、平成十六年(2004)に修復されています。

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土御門家ゆかりの史跡が続きますが、下京区梅小路石橋町にある稲住神社(いなずみじんじゃ)は、土御門家の祖といわれる安倍晴明を祭神とする神社です。

境内にある駒札によると、この神社のある付近は、明治以前には池がある広場だったということで、農家が稲束を積んでいたことから、「稲積社」と呼ばれ、これが転じて「稲住神社」という社名となったようです。神社の創建由来については不明で、元々江戸時代から土御門家屋敷内に安倍晴明を祀っていたものか、土御門家の屋敷跡だからと後に安倍晴明を祀るようになったのかも判明しません。


ともかく、前回の梅林寺の時に詳しく書きましたが、この梅小路(梅小路八条)一帯は、平安時代以来、陰陽道を以って朝廷に仕えた土御門家の邸宅があった地域でした。駒札を引用すると、その屋敷は一町(約百十メートル)四方あって、北部が住居、 南部が祭場となっていました。そして、この祭場には、祭壇や本宮、権殿その他の建物があり、 代々の天皇の即位に当っては、聖寿の長久を祈る天曹地府祭を行なったということです。
また、貞亨元年(1684)に、貞亨暦を作って幕府の天文方となった渋川春海(しぶかわはるみ しぶかわしゅんかい)は、暦を完成させる際に、陰陽頭だった土御門泰福(つちみかどやすとみ)に協力を求めて、共にこの地に星台を建て渾天儀で天体を観測してその正確を証明した場所でもあるということです。


境内には奥に本社、手前に魔王尊社があります。本社には安倍晴明の他にも、龍王や弁財天、薬一大明神等を合祀しているようです。また、木の根をご神体とした魔王尊社が境内中央に斜めに鎮座しているのが特徴的で、一見、小屋か何かが無造作に配置されているような印象もあります。

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JR京都駅の西にある下京区梅小路一帯は、陰陽道の大家として知られた土御門家(つちみかどけ)の邸宅があった地域です。
土御門家は、平安時代の陰陽師として知られる安倍晴明の子孫で、梅小路東中町の梅林寺、梅小路東西中町の円光寺、梅小路石橋町の稲住神社等がゆかりの史跡として残っています。今回は土御門家の菩提寺として知られる梅林寺(ばいりんじ)を採り上げます。(尚、これまで観光とは縁の無かったこれらの史跡ですが、陰陽師ブーム以降は、無断で境内に入る観光客が増えて困っているということで、予約して訪問することをお勧めします。今回私も予約していないため、写真は外観のみ)



さて、土御門家は、室町時代初期に活躍した安倍晴明の十四代目の子孫・安倍有世(あべのありよ 1327〜1405)の流れを汲む陰陽師の名門です。
安倍有世は、将軍足利義満から重用されて、陰陽師としては初めて刑部卿という公卿に昇進しました。以後、有世の子孫も公卿に任じられ、その曾孫・有宣(ありのぶ 1433〜1514)の頃、朝廷より土御門家の称号を許されて、これを家名としました。しかし、その後この有宣から、有春、有脩の三代にわたって歴代土御門家は、応仁の乱後の都の戦乱を避け、先祖・有世の時代以来の所領のあった若狭名田庄村(福井県おおい町)に移り住んで、若狭の守護大名・武田氏の庇護を受けることになりました。

その後、ようやく戦乱が収まり、有脩の子・土御門久脩(つちみかどひさなが 1560〜1625)は都へ戻りますが、関白秀次事件に連座して蟄居の身となります。しかし、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後、久脩は徳川家康に見いだされて復権し、京都の梅小路の邸宅に居住します。その後、土御門泰重、泰広を経て、土御門泰福(やすとみ 1655〜1717)の時代の天和三年(1683)、霊元天皇の勅許によって、土御門家は全国の陰陽師の統括と暦作成の権利を得ます。こうして、土御門家は全国の陰陽師を支配下に置いて全権を握ることになりました。

しかし、貞享元年(1684)に、渋川春海(しぶかわはるみ しぶかわしゅんかい)が、初の日本独自の暦「貞享暦」を作成し、それまで約八百年間使われてきた中国唐伝来の「宣明暦」から切り替えると、江戸幕府は天文方を設置して渋川春海を初代天文方に任命します。こうして、編暦業務は、朝廷の陰陽寮(土御門家を陰陽頭とする)の所轄から幕府天文方に移ることになりました。
しかし、権限を奪われることに抵抗した泰福の子・土御門泰邦(1711〜84)は、宝暦五年(1755)に「宝暦暦」の作成に成功して、改暦権限は再び土御門家が取り戻しました。しかし、この「宝暦暦」は、精度で劣り問題が多かったことから、その後、寛政九年(1797)の「寛政暦」、天保十五年(1844)の「天保暦」と、幕府天文方が精度の高い暦を作成して主導権を奪回することになります・・・既に伝統ある陰陽師の名門土御門家の時代は終わりつつあったのでしょう。

最後の抵抗を試みたのは、幕末の土御門晴雄(つちみかどはるお 1827〜69)でした。
晴雄は、明治維新の混乱に乗じて、新政府に旧幕府の天文方を廃止させ、再び天文観測や暦の権限を土御門家が手中に収めます。さらに晴雄は西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)導入に強く反対し、太陰太陽暦の継続を提案しますが、明治二年(1869)に病死してしまいました。こうして、安倍晴明の流れを汲む陰陽道の名門・土御門家の時代は終わりました。明治三年(1870)に明治政府は、陰陽寮を廃止し、天文・暦学は大学や天文台、海軍等など移管されることになりました。


さて、梅林寺は、土御門家を檀越として、江戸の元禄年間(1688〜1703)頃に創建されたと考えられています。境内墓地には歴代の安倍家(土御門家)の墓があり、「宝暦暦」作成した正二位・土御門家泰邦の墓もあります。また、皇女和宮付上臈だった安倍邦子の墓などもあり、安倍家(土御門家)歴代の位牌も安置しています。
土御門家はその広大な屋敷内に、天文観測を行った星台を設けられていましたが、現在の梅林寺の前庭にも天体観測で用いられた天球儀「渾天儀」が置かれたという東西南北を現す十字が刻まれた台石が残っていて、石には土御門泰邦の名前が彫られています。
また、山門横には、平安時代中期の作といわれる大日如来像が祀られていて、これは平安時代初期に創建され、東寺と並ぶ官寺だった西寺の旧仏と伝えられているということです。

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下京区五条通高倉東入る堺町、五条通に面した所にある西念寺(さいねんじ)は、総本山を永観堂とする浄土宗西山禅林寺派の寺院です。この西念寺の山門脇にあるのが、千喜万悦天満宮(せんきまんえつてんまんぐう)という変わった社名の天満宮です。
(尚、この神社の前は、いつも隣の会社の自動車が邪魔をしています。)

社名の「千喜万悦」とは、「千万は無量」という意味の語呂合わせの当て字で、数で表せない、これ以上無いといった喜びの意味です。ほとんど知られていないような小さな天満宮ですが、ご利益がありそうな名前ですね。


さて、この天満宮の前を通る広い五条通は、平安時代には六条坊門小路と世ばれ、嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の光源氏のモデルといわれる源融(みなもとのとおる 822〜95)が広大な邸宅・六条河原院を営んでいた地になります。河原院はその後衰退していきましたが、これまでもブログに採り上げて来たように、この跡地には今も多くの由緒ある寺社が点在しています。

今回の千喜万悦天満宮も、河原院跡地に建つ史跡の一つですが、創建や由緒等は不明です。ただ、ご神体は天神像に加えて、菅原家の繁盛の様子を描いた絵図になります。この絵図は、寛平元年(889)に、菅原道真が宇多天皇から右大臣に任じられ、また同三年(891)には、公達や重臣たちと共に列座することを許された時、喜びのあまりこの慶事の様子を道真自身が指図して描かせたものと伝わります。ここから社名の「千喜万悦」という名前が付けられたようです。
その後、天満宮は五条通の拡張によって、現在の西念寺門前に遷座したということです。

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右京区山ノ内宮前町、叡山電鉄嵐山線に乗ると「山ノ内駅」付近で北側に見えてくる小さなお寺が、念仏寺(念佛寺 ねんぶつじ)です。念仏寺は、伝教大師の母・妙徳尼ゆかりの史跡として知られます。


念仏寺は、山号を紫雲山(しんざん)という天台宗寺院で、「山ノ内 根元地水子供養寺 念佛寺」と称しています。比叡山延暦寺の開祖・伝教大師最澄の母・妙徳尼の生誕地及び菩提寺として千二百有余年の歴史のある寺院と伝えられ、宗派等に関係なく水子供養の菩提所として信仰されています。


さて、妙徳尼は、左大臣藤原魚名(ふじわらのうおな 藤原四兄弟の房前の子。721〜783)を祖とする藤原北家の傍系の出身で、本名は藤子といい、正四位下河辺備前守正雄の妹に当たると伝えられます。この下河辺一族は、この山城国山之内(山ノ内)の地を本拠としていたようです。そして、藤子(後の妙徳尼)は江州滋賀郡(滋賀県)古市郷(大津市坂本付近)を領する豪族・三津首百枝(みつのおびとももえ)に嫁ぎます。三津首氏は、中国後漢の孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)の子孫といわれる漢人系渡来氏族でした。

藤子(後の妙徳尼)は、子に恵まれなかったため、度々この里方の山之内(山ノ内)の館に帰って地蔵菩薩に一心に祈願していました。すると、幸運にも一子を授かりました・・・これが三津首広野(みつのおびとひろの)、後の伝教大師最澄です。

妙徳尼は、夫・三津首百枝と死別した後、自身の生地である山ノ内に戻って、比叡山延暦寺で修行している息子(伝教大師最澄)の身を案じながら日々を送っていましたが、当時、比叡山は女人禁制の霊峰だったため、母といえども訪ねて行く事は出来ませんでした。そこで、最澄は母のために慈母観音菩薩像を自ら刻んで贈りました。こうして、妙徳尼は、日夜この観音像を拝んで我が子最澄の行く末を祈願し、また、儚くも散った多くの水子の冥福を祈って余生をこの地に過したということです。

弘仁八年(817)五月、妙徳尼が七十一歳で亡くなると、最澄は、延暦寺で母の法要に百僧をもって供養して追孝の気持ちを表したと伝えられます・・以来この行事は五十年目毎に引継がれて、昭和四十八年(1978)五月には、千百五十年忌の百僧供養が行われています。
その後、最澄は母の菩提を弔うために、この地に延暦寺を象った寺塔を建立して寺院を創建し、最澄自身の自作の利剣名号の阿弥陀如来像を安置して比叡山之内(山ノ内)と称しました。これが現在の念仏寺で、本尊の阿弥陀如来像は鉄で鋳造されたもので、秘仏となっています。また境内には旧い石碑があり、これらは妙徳尼の実家・下河辺氏の先祖の墓碑ということです。


念仏寺では、毎月二十四日に、秘仏地蔵菩薩と妙徳夫人母子尊像、そして、それらを囲むように壁一面に多くの水子供養地蔵尊が祀られている本堂で、弥陀四十八願万灯籠水子供養を行い、秘仏の御開扉が行われます。また、「一日尼僧修行」という京都らしい体験修行も受け付けています。

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