京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

阪急電鉄西院駅から西へ約一キロ、右京区西院日照町にある西院・野々宮神社は、「西四条斎宮(にししじょうさいぐう)」とも称する神社です。

西院という地域は、西院・春日神社(西院春日町、阪急電鉄西院駅の西)を除けば有名な史跡の少ない地域で、さらに西の梅津や西京極と共に「京都の郊外」といった雰囲気があります。この神社の周囲にも、自動車教習所や中学校、変電所、集合住宅等がありますが、木々に囲まれた神社の境内に入ると、周囲の喧騒を忘れさせる静けさが漂っています。
また、野々宮神社は、江戸時代から西院・春日神社の御旅所となっていて、十月第二日曜日に行われる春日神社の春日際では、神輿二基が千人もの供奉を従えて渡御し、この地で祭典が営まれます。(野々宮神社のHPを引用させていただきます。)


さて、野々宮神社の祭神は、倭姫命(やまとひめのみこと)と布勢内親王(ふせないしんのう)のニ女神で、共に天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王となりました・・倭姫命は、第十一代・垂仁天皇の皇女で、伊勢神宮を創建したという伝説的な皇女として知られます。また、布勢内親王は、第五十代・桓武天皇の皇女で、平安時代としては初めて伊勢へ下った斎王になります。


神社の創建時期は不明ですが、元々この地は、平安時代に伊勢神宮の斎王に選ばれた皇女が、伊勢へ下向するまでの間、心身を清めるための潔斎所「野宮(野々宮)」が築かれた聖地で、各地に残る「野宮(野々宮)」の名称はこの地が発祥ともいわれています。
桓武天皇の皇女で斎王となった布勢内親王を祀るように、平安時代最初の「野宮(野々宮)」があった由緒ある場所ということのようです。


「野宮(野々宮)」の場所は、天皇の即位毎に定められていたために、京都にも嵯峨野周辺に幾つかの跡地とされる神社があります。
最も有名なものとしては、嵐山にある観光地として知られる野宮神社(右京区嵯峨野宮町)が思い浮かびます。この野宮神社の地は、第五十三代・嵯峨天皇の皇女仁子内親王を最初として「野宮(野々宮)」として用いられたと伝えられています。
また、同じく嵯峨野にある斎宮神社(右京区嵯峨宮ノ元町)、斎明神社(神明神社、右京区嵯峨柳田町)も野宮跡といわれ、これらの三つの神社は黒木の鳥居(白木もありますが)が印象的です。


一方、西院・野々宮神社のHPによると、この野々宮神社は、現存する「野宮(野々宮)」跡の中で最もその風情を留めているということです。
確かに、黒木の鳥居は無いとはいえ、他の「野宮(野々宮)」ゆかりの神社のある嵯峨野とは違って訪れる人はほとんどいません。このような末社や社務所も無い、木々に覆われた広い静かな空間が、本来の禊の場「野宮(野々宮)」のイメージに近いものなのかもしれません。


さて、平安時代以後、この「野宮(野々宮)」の地は、倭姫命と布勢内親王を祀る神社となり、その後、皇室や公家から庶民にいたるまで広く崇敬を集めたと伝えられます。また、古くは機織の守護神として織女の信仰が厚く、その後は、ニ女神の徳の偲んで広く女性の守護神として崇敬を集めているということです。
そして、江戸時代以降は、西院・春日神社の御旅所とされ、毎年十月の春日神社の祭典には、天皇の勅使をはじめ多くの公家が参列したといわれ、現在も十月第二日曜日の春日祭では、春日神社宮司斎主のもとに祭典が営まれています。 また、現在の社殿は、安永四年(1774)十一月二十八日に、後桃園天皇より宮中・賢所を拝領して造営されたものということです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

左京区南禅寺北ノ坊町にある三つの皇室ゆかりの史跡を採り上げてみます・・哲学の道を歩かれた方はご存知の史跡かと思います。


さて、哲学の道沿いにある「後伏伏見天皇十八世皇孫女・宗諄女王墓」については、以前に「紅葉のある風景・・」として掲載していますが、今回は墓内部の写真を追加してみます。
宗諄女王は、江戸時代末期の伏見宮貞敬親王の皇女で、文化十三年(1816)に生まれました。文政二年(1819)に第百十九代・光格天皇の養女となり、幼年期より哲学の道付近の霊鑑寺に入って、文政六年(1822)に得度して法名を宗諄としました。そして霊鑑寺に住持して布教に務め、明治二十四年(1889)に七十六歳で病死しています。
宗諄女王墓は、京都の多くの皇室関係者の墓の中でも、特に目立つ存在といえるでしょう。一年を通じて、観光地として知られる哲学の道の写真撮影スポットのひとつになっていますが、特に秋は、墓内に植えられている真っ赤な楓が素晴らしく、哲学の道で一番の紅葉の見所になるからです。



さて、「宗諄女王墓」の西、哲学の道の下には、以前にブログに採り上げた光雲寺があり、その南にある白壁に囲まれた「後水尾天皇皇女・昭子内親王墓」を見下ろすことが出来ます。(さらに、光雲寺の南側にある石段を下ると、「昭子内親王墓」の正面に出られます。)
昭子内親王(1629〜75 妙荘厳院宮)は、後水尾天皇の第四皇女で、母は将軍徳川秀忠の娘・東福門院(徳川和子)です。以前は姉の光明心院(女二宮・近衛尚嗣室)が「昭子内親王」と考えられていた経過から、「顕子内親王」と呼ばれていました。現在も混同があるようですが、現在、宮内庁は昭子内親王としています。また、昭子内親王(顕子内親王)は、左京区岩倉に岩倉御所(岩倉上蔵町)に御所を構え現在はその跡地に石碑が建っています。








最後に、光雲寺の北側には「久邇宮墓地(くにのみやぼち)」があります。
久邇宮家は、江戸時代末期の伏見宮邦家親王の第四王子・朝彦親王(あさひこしんのう、ともよししんのう)が創設した宮家です。朝彦親王は、特に「中川宮」の名前で幕末ファンに知られていて、佐幕派の親王として活躍し、明治維新で反政府陰謀罪の疑いで逮捕され、親王の身分を剥奪されるなど時代の波に逆らった人物です。その後、罪を許されて皇室に復帰した朝彦親王は、明治八年(1875)に久邇宮家を創設しました。
多くの子女に恵まれた朝彦親王ですが、光雲寺の「久邇宮墓地(くにのみやぼち)」には、親王の子女の四墓一塔があります。生後間もなく亡くなった暢(のぶ)王と、一言足彦命(ひとことたらしひこ)王、二歳で亡くなった懐子(やすこ)女王、十八歳で亡くなった飛呂子(ひろこ)女王の墓と、軍人として活躍した久邇宮第二代・邦彦王(1873〜1929)の髪爪塔です。

全1ページ

[1]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事