京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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下京区七条御所ノ内本町、JR京都駅からニキロ程西にある若一神社(にゃくいちじんじゃ)は、特徴の無い小さな神社が多い下京区では、観光スポットといえる割と良く知られた神社です。
西大路八条の交差点横という車の行き交う街中にありながら、道路にはみ出すばかりのこんもりとしたクスノキの大樹が植えられていて、都会の雑踏を忘れさせてくれる憩いの空間となっています。
広く厳かな雰囲気の神社空間が好きな方にはお勧めしませんが、個人的には武信稲荷神社(中京区 以前に採り上げています)と共に、中京・下京区内の神社の中では親しみやすい最も好きな神社になっています。



さて、若一神社のあるこの地は平清盛が六波羅に居住していた頃、西八条殿(西八条第 八条亭 西八条御所)という別邸を建てた地と言われています。当時、この地は、水源が豊かで大木が立ち並ぶ浅水の森と呼ばれた風光明媚な場所で、清盛もしばしば来遊していたということです。そして、承安年中(1171〜75)にこの地に別邸を造って住在し、西八条殿(西八条第)と称しました。
西八条第は、平安京の左京一坊の八条大路(現八条通)の北、東は大宮大路(現大宮通)から西はメインストリート朱雀大路(千本通)付近に至る六町という広大なもので、敷地には五十余の邸があり、現在の梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地付近に位置していました。後に、清盛が出家して福原(神戸市兵庫区)に移った後は、主に清盛の妻・時子(二位尼 にいのあま)が居住していましたが、寿永二年(1183)七月の平家都落ちの際、西国へ逃亡する平家一門の手によって火を放たれて焼失してしまいました。


さて、若一神社は、この西八条殿(西八条第)の鎮守社として建てられたと伝えられ、境内の入り口には「平清盛公西八条殿跡」の石碑があります。(ただ、神社の位置は西八条殿(西八条第)跡から少し外れているので、西八条殿(西八条第)との関係は後世の伝承とも考えられるようですが)
祭神は、熊野大権現の第一王子「若一王子」ですが、御神体は神社の建つ以前からこの地に祀られていたといいます・・
社伝によると、この若一王子の御神体は、元々光仁天皇の時代の宝亀三年(772)、唐から渡来して天王寺に居住していた威光上人が、人々の救済のために熊野権現の分霊・若一王子の御神体をこの地に勧請したものと伝えられます。威光上人は、紀州熊野から分霊・若一王子の御神体を背負ってこの地まで来ましたが、森の中の古堂で一夜を明かした際、神意を受けてこの堂中に安置したということです。その後、時代の推移により御神体は、土中に埋まってしまったのですが、平安時代に平清盛によって掘り出されることになります。

さて、仁安元年(1166)八月、平清盛が紀州熊野に詣でた際に、熊野権現が現れ「汝が住んでいる西八条殿には、吾が中宮若一王子の神体が土中に埋まっているので、これを掘り出して鎮守として祀れば、汝の出世を守護しよう。」というお告げを受けます。清盛は帰京の後、早速邸内を探していると、庭の東方築山より夜光が放たれました。喜んだ清盛は、自ら約一メートル堀って若一王子の御神体を探し出し、社殿を造って西八条殿(西八条第)の鎮守社としました。時に仁安元年(1166)十一月十日と伝えられています。早速、神社に開運出世を祈ったところ、早くも翌仁安二年(1167)二月には、清盛は太政大臣に任ぜられることになりました。喜んだ清盛が昇進を感謝して自ら植えたのが、若一神社のシンボルになっている巨大な御神木のクスノキと伝わります。その後も、清盛の勢威は益々伸びたことから、現在も開運出世のご利益のある神様として崇められています。



若一神社といえば、クスノキの御神木ですが、樹齢八百年を超えるというこのクスノキは、神社の境内と歩道で分断されて、一段高い位置に石垣で囲まれています。根元には小さな祠「楠社(くすやしろ)」が建てられ御神木を祀っています。幹周はそれ程大きくありませんが、若一神社というより、西大路八条の町のシンボルといってもいいでしょう。商店や会社が建ち並ぶ西大路通ですが、この御神木の存在によって、この一角だけは夏場も涼しい癒しの空間になっています。
かつては広い敷地のあった若一神社ですが、昭和八年(1933)に西大路通が開通整備された時に、敷地を大きく削られて、周囲に広がっていたクスノキの太い根も一部切断されてしまいました。しかし、この御神木自体の撤去作業は清盛の祟りがあるとして作業が中止され、結局、西大路通は、この大樹を避けて少し西斜めに曲げて開通したのでした。こうして、現在も車道と歩道の間に一角が設けられて御神木が守られています。

また、境内には、多くの末社が祀られています。
天正年間(1573〜93)に播州の高砂神社より勧請したという寿命社は、能「高砂」で知られる高砂尉と姥を祭神として、夫婦円満・子孫繁栄・延命長寿にご利益があるということです。また、正徳五年(1715)に竹生島より勧請したと伝えられる弁財天社は、祭神を市杵島姫命として芸能・音楽・福運にご利益があります。他に松尾大神を祀る松尾社、伏見稲荷大社より勧請した稲荷社、昭和五十八年(1983)に建立して当神社の神職及び総代等を祀る祖霊社があります。

また、「神供水(じんぐすい)」と呼ばれる銘水があります。平清盛が、西八条殿(西八条第)の鎮守社として神社を建立奉斎して以来、日供祭(にっくさい=毎朝行われる崇敬者の安寧を祈る祭り)で御神前に供えられてきたという御神水です。古くから銘水として知られる地下水で、開運出世の水として、また新生児誕生に際しての産湯としても有名ということです。そして、現在も開運出世のご利益があるとして、持ち帰り自由のこの水を汲みに来る人々も多いようです。他に、小さな池庭や平清盛像、「萌出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき」という平家物語ゆかりの「祇王歌碑」等が点在し、小さな隠れ家的な雰囲気もあります。

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下京区七条七本松東入る朱雀裏畑町、七条千本商店街の裏にある権現寺(ごんげんじ)を採り上げます。
権現寺は七条通りから少し奥にあるために、表通からは気づきにくい小さなお寺ですが、山門の手前右には六条判官と称した源為義の墓があるので、源平時代に関心のある方にはお勧めです。(為義の墓は、山門の外にあるので自由に見学できます。観光寺院では無いので、境内に入るのはお寺の方に声をかけてからの方が良いでしょう。)


さて、権現寺は、山号を清光山という浄土宗寺院で、本堂に阿弥陀如来蔵を祀ります。
また、地蔵堂には愛宕権現の本地仏の勝軍地蔵を祀ることから、「朱雀の権現堂」、「朱雀の地蔵堂」と呼ばれて親しまれてきました。権現寺は「太平記」の巻八にも登場し、鎌倉幕府の六波羅探題軍と後醍醐天皇に呼応して挙兵した赤松円心軍が「朱雀の地蔵堂」付近で交戦しています。

寺伝によると、この将軍地蔵は、元々大和国(奈良県)の元興寺に祀られていましたが、平安遷都後の天安二年(858)に七条朱雀(現・中央市場のある七条千本付近)の歓喜寺に移されたのが起源といわれます。その後、戦乱で歓喜寺は荒廃しますが、権現堂のみは今日まで残ったということです。そして、明治四十五年(1912)、京都駅停車場(現JR京都駅)拡張による国鉄山陰線の敷設の影響で、旧地の西にある現在地に移されました。



さて、権現寺の将軍地蔵堂には、将軍地蔵の他に、厨子王丸(ずしおうまる 厨子王 他に津子王、対王丸とも)の危難を助けたという身代わり地蔵が祀られています。
厨子王といえば、姉の安寿と共に森鴎外の小説「山椒大夫」など小説や演劇の題材となった中世の説話「さんせう太夫」の主人公として知られる伝説上の人物です。「さんせう太夫」の粗筋はよく知られていますが、少しだけ書いてみます・・・

厨子王は、物語では陸奥国(青森県)の太守・岩城判官政氏の子とされています。
厨子王は、母と姉の安寿と共に、讒言によって筑紫(福岡県)に流された父を訪ねて旅に出ますが、越後国(新潟県)直江津で人買いに騙され、母は佐渡に、姉弟は丹後由良港の長者・山椒大夫に売り渡されてしまいます。その後、姉弟は山椒大夫のもとで日夜過酷な目にあいました。
ついにたまりかねた厨子王は、我が身を犠牲にした姉の計らいで密かに脱出して、丹波を経て都の七条朱雀野まで辿り着いて、傍にあった地蔵堂に助けを求めて逃げ込みました。可哀想に思った寺僧は厨子王をつづらに入れて天井に吊るし匿います。やがて、追手が寺を訪ねてつづらを怪しんで開けてみましたが、厨子王の姿はなく、中には一体の地蔵尊が入っていました。こうして、追手は仕方なく立ち去りました・・厨子王が日々念持仏として地蔵尊を崇敬していたため、この地蔵尊が身代わりとなって危難を救ってくれたのでした。
(厨子王のその後についてもよく知られていますが・・・厨子王は朝廷より父の旧国を与えられて岩城家を再興、また領主として丹後に赴いて山椒大夫一族を処刑して、犠牲となって死んだ姉の復讐を果たします。そして、佐渡で懐かしい母に再会することになります。)

この地蔵堂が権現寺で、今も将軍地蔵堂には、この厨子王丸の身代り地蔵が祀られていて、以上のような伝説から、この地蔵尊には「災難除け」のご利益があるとして信仰されています。この地蔵尊は、高さ七センチの金銅製の小像で、胴の辺りに傷があるのは、厨子王の代わりにうけた傷跡といわれています。また、厨子王を匿ったというつづらの断片も寺宝として保存されています。
権現堂内部は普段非公開ですが、毎年八月二十日頃の土日には、堂が開帳され、将軍地蔵と身代わり地蔵を拝観することができるということです。
その他、本堂と阿弥陀堂の間には、小石仏二十体程に混じって、高さ一メートル程の花崗岩製の聖観音石仏坐像と地蔵石仏坐像が置かれています。二体の石仏は蓮華座を設けて像高七十五センチの像を厚肉彫りしていて鎌倉時代後期の作と考えられています。中々良い雰囲気の石仏群だと感じます。(写真)




さて、権現寺の門前には、世に「六条判官」と呼ばれた河内源氏の棟梁・源為義の石塔残欠を集めた供養塔があります。源為義は源氏の衰退期の棟梁として、「保元の乱(1156)」で処刑されたことで知られる人物です。

為義は、対馬守源義親の子として永長元年(1096)に生まれました。「前九年の役」や「後三年の役」で活躍して武勇の士として知られた「八幡太郎」義家は祖父に当ります。父義親は、「平家物語」の冒頭で「承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼・・」と「奢れるもの久しからず」という反乱者の例として語られているように、康和三年(1101に)九州で、その後出雲(島根県)で再び反乱を起こしたと伝えられています。このため、幼少の為義は祖父・義家の養子として育てられました。
嘉承ニ年(1107)、朝廷は義親の追討使として平正盛を派遣し、反乱は一月余りで平定され義親も殺害されたとされますが、その後も、義親を名乗る者が相次いで現れるという大きな騒動となりました。また、この間、嘉承元年(1106)に、一族の要だった義家が死去したこともあり、源氏一族には内紛が発生し衰退していきます。

為義は、祖父義家の死後は、義家から河内源氏の家督を相続した叔父の義忠(義家の子)に養育されますが、義忠は天仁二年(1109)、夜の闇の中で暗殺されてしまいます。
当初、暗殺の黒幕は大叔父の「賀茂次郎」義綱(義家の同母弟。義家と一時対立関係にありました)とされたために、養父の死で家督を相続した為義は、白河法皇の命によって逃亡した義綱一族を近江で捕らえました(後に流刑先の佐渡で義綱を殺害)しかし、その後、義忠暗殺の主犯は、大叔父の「新羅三郎」義光(源義家の同母弟)だったことが判明します。
義光といえば、「後三年の役」の際に、兄義家を助けるため官位を捨てて奥州へ向い、義家をして「まるで亡き父上(頼義)と再会したようだ」と感激させたという美談で知られますが、義家の死後は、自身が河内源氏の棟梁となる野心を抱いて、家督を相続した甥の義忠を暗殺させ、さらに若い為義を操って兄の義綱を討伐殺害させたのでした。真相が発覚して義光は常陸国に逃亡したため、まだ若い為義は都に一人残されることとなりました。
こうして、数年の間に、河内源氏は義家、義親、義忠、義綱といった実力者を失い、また義光も関東に逃亡したために勢力を失います。一方、平氏では、義親を追討した平正盛、その子忠盛が白河・鳥羽院政下で勢力を拡大し、特に為義と同年生まれの忠盛は、武士として初めて内昇殿を許され全盛期を迎えていきます。

平氏の後塵を拝することになったとはいえ、為義は、永久元年(1113)、延暦寺と興福寺の勢力争いを背景とした「永久の強訴(えいきゅうのごうそ)」の際には、都に押し寄せた興福寺宗徒から正盛や忠盛と共に内裏と院御所を警護しています。また、保安四年(1123)、越前国で日吉神人(延暦寺傘下の日吉社の社人)が殺人を起こし捕らえられる事件が起こり、天台僧兵らが護送中の犯人を奪還したため朝廷が彼らに禁固を命じると、この措置に対し宗徒が怒って蜂起しました。この時も、忠盛と為義が宗徒を撃退しています。このような功績から、為義は検非遣使となり六条堀川の館に居住したために六条判官と呼ばれました。しかし、久寿元年(1154)、子の八男・為朝が九州で乱行を繰り返した責任から、翌二年(1155)に解官され、家督を長男義朝に譲りました。

翌保元元年(1156)鳥羽法皇死後の皇位継承争いから、後白河天皇と崇徳上皇が対立し、さらに藤原氏内部の権力争いから関白忠通が天皇と、左大臣頼長が上皇と結びついて配下の武士を召集したことから「保元の乱」が起こります。
為義は、臣下として仕えていた頼長の召集に応じて子供達と共に上皇方に加担し、天皇側の長男義朝や平清盛らと戦いますが、戦いは数時間で終わり天皇側が勝利しました。為義は一旦東国へ逃れようとしますが、結局出家して義朝のもとに降伏します。しかし、義朝の助命嘆願は叶わず斬首されました。六十一歳でした。


さて、朱雀裏畑町にある「源為義墳墓」は、元々は千本七条にあり、上記したように、明治四十五年(1912)、京都駅停車場(現JR京都駅)拡張によって旧地の西にある現在地に移されました。
千本七条は、当時の七条朱雀付近に当たり、「保元物語」によると、為義はこの七条朱雀野で斬首され(子供たちは、後日捕らえられ船岡山で処刑)、処刑後は北白河円覚寺(現廃寺)に葬られたということです。

ただ、処刑場については、平信範の日記「兵範記」では船岡、慈円の「愚管抄」では「四塚(東寺付近)」だとされていて、史実的には、信憑性ある同時代資料とされている「兵範記」の記述通り、船岡山で子の頼賢、頼仲、為宗、為成、為仲と共に処刑されたと考えられています。
現在の「源為義墳墓」は、「保元物語」の伝承から後世、為義の最期の地とされた千本七条にその供養のために建てられたもののようです。墓の入口は鍵かがけられているため、墓域内には入れませんが、塀の外側から見ることができます。

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