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今回は、左京区南禅寺地区にある皇室関連の史跡の一つです。
左京区南禅寺福地町、観光名所として知られる南禅寺境内にある「水路閣」の横にある石段を登ると、庭園で有名な塔頭・南禅院があります。そこからさらに鐘楼まで登ると、山道の向こうに鳥居のある御陵が見えてきます・・・これが「後嵯峨天皇皇后姞子・粟田山陵」です。
一年を通して観光客の多い南禅寺境内にある史跡なので、あれは何かな?といった感じでこの陵墓をご覧になった方も多いと思います。
さて、粟田山陵と呼ばれるこの陵墓は、鎌倉時代の後嵯峨天皇の中宮・西園寺姞子(さいおんじきつし 1225〜1292)の墓になります。
後嵯峨天皇については、前に「後二条天皇北白河陵」の時に詳しく書いていますので、少し引用して書いてみます・・・「承久の乱」で後鳥羽、土御門、順徳の三上皇が流刑となった後、鎌倉幕府は、後鳥羽の血統を皇位から除外して、後鳥羽の兄・後高倉上皇(守貞親王)系の後堀川天皇、四条天皇を即位させます。しかし、仁治三年(1242)に四条帝が十二歳で事故死したために後高倉上皇(守貞親王)の血統が途絶え、再び後鳥羽の血統から皇位継承者が選ばれることになりました。そして、「承久の乱」に直接関与しなかった土御門上皇の皇子が選ばれました・・これが後嵯峨天皇です。それまで日陰の身だった皇子は、予期せずに天皇に選ばれて、慌てて元服して親王となっています。
仁治三年(1242)、二十三歳で即位した後嵯峨天皇は、半年後に右大臣・西園寺実氏の娘、十八歳の西園寺姞子を女御にし、さらに中宮に冊立しました。寛元元年(1243)、姞子は久仁親王(後深草天皇)を産み、皇子は直ちに立太子されます。そして、寛元四年(1246)、後嵯峨が在位四年で、四歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位して上皇となると、姞子も后位を退いて、宝治ニ年(1248)に女院号宣下を受けて「大宮院(おおみやいん 大宮女院)」の称号を与えられました。翌建長元年(1249)には大宮院(姞子)は、さらに恒仁親王(亀山天皇)を産んでいます。
後嵯峨上皇は、正嘉二年(1258)に後深草天皇の弟で十歳の恒仁親王(亀山天皇)を立太子し、翌正元元年(1259)に後深草に対し、恒仁親王への譲位を促しました。父の圧力で心ならずも譲位させられた十六歳の後深草天皇の無念な気持ちが、その後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立、さらに南北朝時代に至る皇統分裂の原因の一つとなります。
さらに、後嵯峨上皇は文永五年(1268)に、当時三歳の後深草上皇の皇子・熈仁親王(ひろひとしんのう 後の伏見天皇)ではなく、生後間もない亀山天皇の皇子・世仁親王(よひとしんのう 後の後宇多天皇)を立太子しました。
これらのことから、後嵯峨が亀山系の血統に皇位を継承させたいと考えていたことは明らかでしたが、文永九年(1272)に後嵯峨が五十三歳で崩御した際には、遺詔で後深草、亀山両帝への皇室領の配分は示したものの、皇室内の長として実権を握り、また子孫に皇位を継承させることのできる「治天の君」を誰にするかという点については明確な意思を示さず、鎌倉幕府の決定に委ねるとしていました。
このため、宮中では次期政権をめぐって後深草派と亀山派に分かれて対立していきました。鎌倉幕府は、この問題を解決するために、後嵯峨の中宮で、後深草・亀山両帝の生母である大宮院(姞子)に後嵯峨の真意を確認します。そして、大宮院が先帝は内心亀山を望んでいたと表明したことから、亀山天皇が治天の君に選ばれることになりました。後深草は内心、弟を推した母を恨んだのですが、それはともかく亀山天皇が実権を握ることになりました。
文永十一年(1274)に亀山天皇は、八歳の世仁親王(後宇多天皇)に譲位して上皇となり、宮中の改革にも取り組みました。一方、不遇の立場の後深草上皇は、建治元年(1275)に太上天皇の尊号を辞退して出家しようとします。この抗議行動は宮中を大いに驚かせ、伝え聞いた鎌倉幕府も、後深草の不満を解消するために、亀山上皇に奏上して、後深草天皇の皇子・熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させました。自身の子が皇太子となったことから、自分が治天の君となることが保証された後深草は出家を見合わせます。
その後、後深草上皇派の巻き返しが加速していきます。
亀山上皇が宮中改革を推進してきたことや、「霜月騒動」で滅んだ有力御家人・安達泰盛との交流があったこと等が鎌倉幕府に疑われ、弘安十年(1287)、幕府の圧力を受けて二十歳の後宇多天皇は、後深草天皇の皇子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位しました。伏見天皇の即位によって、父・後深草上皇はさっそく院政を開始します。正応二年(1289)には、伏見天皇は皇子・胤仁親王(たねひとしんのう 後の後伏見天皇)を立太子させ、次代も持明院統(後深草天皇の血統)が政権を握ることが確実になりました。これまで大覚寺統に仕えていた貴族達も、一斉に持明院統に鞍替えすることになり、大覚寺統の亀山上皇は、失意のうちに正応ニ年(1289)に四十一歳で出家しました。一方、権力を奪回した後深草も、正応三年(1290)に、四十八歳で出家して引退し、治天の君は後継者の伏見帝に譲られました。
さて、持明院統と大覚寺統が相争う中、後深草・亀山両上皇の母、大宮院(姞子)は、ニ代の天皇の国母(天皇の皇后)として尊敬され、孫達の即位も見届けるなど幸福な生涯を送りました。後嵯峨は多くの女官との間に二十人以上の皇子皇女を得ましたが、大宮院(姞子)程の寵愛を受けたものはいなかったのでした。歴史物語「増鏡」では、平安時代の国母と比較して、これほど子孫に恵まれた果報な方はいないと絶賛しています。また、「増鏡」や女流文学「とはずがたり」では弘安八年(1285)に大宮院が開いた、母・四条貞子(北山准后)の九十賀(九十歳の祝賀)の盛大な様子を延々と描いていて、この雅会は鎌倉時代最大規模の華やかなものだったようです。(因みに、この四条貞子(北山准后)は乾元元年(1302)に、当時としては驚異的な百七歳という長命で亡くなっています。)
さて、大宮院(姞子)は、正応五年(1292)に六十八歳で亡くなり、火葬の後、後嵯峨上皇が文永元年(1264)に離宮(禅林寺殿)として造営し、正応四年(1291)に亀山上皇が寺院に改めた禅林寺(ぜんりんじでん 後の南禅寺)に近い粟田山に埋葬されました。
粟田山陵の参道入口は閉じられているため、遠景でしか陵墓を見ることが出来ませんが、山側の道から眼下に見下ろすことが可能です。
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