京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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今回は、左京区南禅寺下河原町にある「後醍醐天皇皇子・尊良親王墓」です。
尊良親王の墓は、紅葉の名所として知られる永観堂の正面に通じる道路に面して静かに佇んでいます。
後醍醐天皇の皇子たちは、各地に派遣されて北朝軍と交戦したために、北朝支配下にあった京都に墓があるのは珍しいともいえます。(後醍醐の皇子の中では、他に臨川寺(右京区嵯峨天龍寺造路町 非公開)に世良親王(よよししんのう?〜1330)の墓があります。)



尊良親王(たかよししんのう ?〜1337 生年1306〜11の諸説あり)は、「太平記」「梅松論」等が「一宮」と記していることから、後醍醐天皇の数多い皇子の中では最も早く生まれたと考えられています。(延慶元年(1308)生まれとされる護良親王(もりよししんのう 尊雲法親王 1308〜1335)の方が年上とする説もありますが)
母は権大納言二条為世の女の為子で、同母弟として宗良親王(むねよししんのう 尊澄法親王 1311〜85)がいます。そして、為子が正和三年(1314)に亡くなったことから、幼少時より後醍醐の側近・吉田定房に養育され、嘉暦元年(1326)に元服しました。


さて、正中元年から元弘三年(1324〜1333)の鎌倉幕府の滅亡までの戦いで、後醍醐天皇を支えたのは、当時元服を終え、ほぼ青年に達していた尊良、世良、尊雲(護良)、尊澄(宗良)の四人の皇子でした。
後醍醐は、鎌倉幕府打倒のために、多くの僧兵を擁する近畿の有力寺社勢力を味方に付けようと画策し、自ら延暦寺や興福寺・東大寺・春日社等に行幸して関係強化に努めました。さらに、尊雲法親王(護良親王)と尊澄法親王(宗良親王)の二人は天台宗(延暦寺)勢力を勧誘する任務を与えられて、天台トップの天台座主に据えられて同宗勢力を管轄しました。一方、尊良と世良は父帝を傍から補佐することが期待されていました。
また、この頃、後醍醐の寵愛を受けた阿野廉子(あのれんし)が、恒良(つねよし 1325〜38)、成良(なりよし 1326〜44)、義良(のりよし 後村上天皇 1328〜68)の三人の皇子を相次いで生み、これら幼い皇子たちは、後に九州で征西大将軍として活躍した懐良(かねよし 1329?〜83)と共に後醍醐天皇の晩年を支えた第二世代の皇子といえます。


さて、尊良親王ですが、「増鏡」は、異母弟の世良親王(?〜1330)の方が、尊良より学才豊かで後醍醐から期待されていたことを記していますが、世良は、元徳二年(1330)に早世してしまいました。そのため、倒幕計画は、後醍醐と尊良、尊澄(宗良)、そして尊雲(護良)が中心となって進められました。しかし、元弘元年(1331)四月、計画は未然に発覚し「元弘の変」が起こります。後醍醐らは、九月に京都を逃れて笠置城(京都府相楽郡)に篭城しますが城は陥落、後醍醐と尊澄(宗良)は笠置で、尊良は河内で捕らえられ、元弘ニ年(1332)三月、後醍醐は隠岐、尊良は土佐、尊澄(宗良)は讃岐に流されました。
こうして、その後の討幕運動は、逃亡に成功した尊雲法親王(護良親王)を中心に行われることになりました。護良親王(還俗して改名)は、父帝の代理、事実上の討幕活動のリーダーとして、諸国に令旨を発して反乱勢力を結集しました。しかし、その功績があまりにも大きく、父帝から独立した軍事力を擁したことは、親王の勇猛果敢な性格も災いして、その後、足利尊氏との対立と父後醍醐との摩擦を生み、結局、悲劇的な死を招くことになります。



さて、今回の主人公の尊良親王ですが、土佐に流された後、元弘二年冬に四国から九州に渡って、三年(1333)三月、肥前の江串三郎入道等に擁せられ挙兵します。その後、大宰府を経て、元弘三年八月、鎌倉幕府滅亡後の京都に帰還しました。
建武二年(1335)十一月に足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、親王は上将軍として新田義貞・脇屋義助兄弟と共に討伐軍を率いますが、同年冬の箱根・竹ノ下の戦いで敗北し京都へ撤退しました。
翌建武三年(延元元年 1336)、一旦九州に敗走した足利尊氏が勢力を挽回して京都に迫ると、同年十月、尊良親王は、異母弟で後醍醐天皇の皇太子となった幼い恒良親王や新田義貞・脇屋義助兄弟と共に義貞の勢力下にあった北陸越前に逃れて再起を図ろうとします。

尊良親王たちは、敦賀で気比社の大宮司・気比斉晴(けひのなりはる)に迎えられ、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)に入城し拠点としますが、たちまち足利方の越前国守護・斯波高経の軍勢に包囲されてしまいます。さらに、翌建武四年(延元二年 1337)正月には、足利方は各地から大軍を動員して、城は完全に封鎖され糧道を断たれました。
義貞・義助兄弟等は、闇夜に密かに城を脱出して、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直しますが、二月の金ヶ崎救援行動は敵軍に阻まれて失敗し、ついに、三月六日、足利軍は金ヶ崎城に総攻撃を行いました。食糧不足で餓死寸前まで弱っていた籠城兵は戦うことができず、ついに城は陥落しました。
この時、尊良親王は、義貞の嫡男・新田義顕と共に自害し、皇太子・恒良親王は捕縛され京都へ連行されました。(「太平記」は、恒良は牢に押し込められ、翌暦応元年(延元三年 1338)四月に毒殺されたと記しています。当年十五歳と伝えられ、墓所も不明です。)


さて、「太平記」によると、新田義顕は自害する前に、「私は武士の家に生まれた者として家名を汚さないために自害しますが、敵も殿下の命を奪うことはないでしょう。どうぞこのままここにお留りください。」と尊良親王に投降を勧めますが、親王は晴れ晴れとした様子で笑みを浮かべ、「後醍醐帝が私を将帥とされ、お前を補佐役に任じたのに、補佐役がいないのに自分だけが生き延びることができようか。私も自害してあの世で恨みを晴らすことにしよう。」と言って、「そもそも自害の方法とはどのようなものか。」と義顕に問います。
義顕は涙を抑えながら「自害とはこの様にするものでございます。」と、親王の目の前で腹を切って倒れました。これを見た親王も、直ちに刀を手にして自刃して義顕の上に折り重なるように倒れました。そして、周囲の者たち三百人も同じく親王に殉じたと記しています。この時、尊良親王は二十七歳、新田義顕は十八歳だったと伝えられます。
その後、尊良親王の首は京都禅林寺(永観堂)の住職・夢窓国師のもとへ送られ、ここで葬礼が行われました。南北朝時代は、太平の世なら歴史の表舞台に登場することもなかっただろう皇子達を戦いに参加させましたが、こうして、尊良親王も戦場に散った史上数少ない皇子の一人となったのでした。



また、「太平記」は尊良親王の死を知ったその中宮・御匣殿(みくしげどの)の深い悲しみを描いています。物語の信憑性については資料の裏づけが無いために疑問視されますが、「太平記」は二人の運命的な出会いから描いていきます・・・

尊良親王は、才能豊かで早くから次期皇太子にと期待されながらも、鎌倉幕府が後醍醐の兄・後二条の皇子・邦良親王(くによししんのう)を皇太子に付けたために、周囲の人々は失望し、親王自身も日々詩歌に明け暮れるしかありませんでした。そんな尊良親王が、ある時、絵に描かれた美女に恋してしまいます。そして、恋焦がれる苦しい気持ちを抑えようと、気分転換に参詣した下鴨神社からの帰り道で、あの絵の女性にそっくりの美女に出合ったのでした。

その女性は、今出川公顕(いまでがわきんあき)の姫、御匣殿といい、徳大寺公清(とくだいじきんきよ)と既に婚約していましたが、親王は御匣殿に思いのたけを打ち明け、諦めずに次の日から御匣殿に手紙を送り続けて、その数は一千通にも達するほどでした。御匣殿も、親王の深い愛情に心を動かされて親王を愛するようになっていきます。しかし、親王は、相手は婚約者のある身、御匣殿の気持ちを苦しめているのではと後悔して手紙を送ることを止め、恋する苦しい気持ちを心の中に封じ込めようとします。しかし、運命は好転します。親王の深い愛情を知った徳大寺公清が、御匣殿との婚約を取りやめたのでした。こうして二人は目出度く結ばれました。

しかし、尊良親王と御匣殿の幸福な日々は、間もなく終わることになります・・親王が「元弘の変」で土佐国へと流されてしまったのです。御匣殿は、悲しみのあまり毎日泣いて過ごし、親王も父帝後醍醐や愛する御匣殿を心配して食事も喉を通らず衰弱してしまいます。苦悩する親王を見るに見かねた警護役の有井庄司(ありいのしょうじ)は、「私は見て見ぬふりをしますので、奥方をこっそりお呼びになってください」と進言します。喜んだ親王は、一人土佐まで随行してきた部下の秦武文(はたのたけふん)を呼んで、御匣殿を迎えるために京都へ派遣しました。武文は、荒れ果てた家に住んでいた御匣殿を探し出し、親王からの手紙を渡しました。手紙には「お前と別れて暮らすことには到底耐えられえない、何としても土佐に来ておくれ」と記されています。御匣殿も「私もすぐに宮様の元へ参ります。たとえ辺鄙な土地だとしても、宮様とご一緒ならば、どんなことにでも耐えられます」と土佐国へ出発したのでした。

さて、御匣殿一行は、尼崎湊(兵庫県尼崎市)で順風が来るのを待ちますが、湊には、同じく順風を待っていた松浦五郎という筑紫国の武士がいました。松浦は、御匣殿の美しさに心奪われ、誘拐して筑紫へ連れて帰ろうと考えます。松浦は夜間に部下達と一行を襲撃しますが、秦武文が奮戦して撃退します。しかし、松浦らが家屋に火を放ったため、武文が御匣殿を船に避難させ炎の中から荷物を救っている間に、松浦らは御匣殿を乗せた船で出港してしまいました。武文は小舟で追いかけましたが追いつけず、怒りと無念な気持ちから「死んで海底の龍神となって、その船を必ず停めてやるぞ」と腹を十文字にかき切って海に身を投げました。

その日の夕方、御匣殿を乗せた船は鳴門海峡近くにさしかりましたが、俄かに潮流が逆行して大渦が発生しました。一同がこれは龍神の怒りだと恐れおののいていると、死んだ秦武文の霊が現れます。その姿に驚いた松浦は、怨霊を避けようと、御匣殿を小舟に乗せて波間に浮かべました。すると、急に風が起こって松浦らの船は流されて消え去り、御匣殿の小舟は淡路国の武島という小島に流れ着いて、村人たちに助けられました。その頃、尊良親王は、御匣殿の船が大嵐で行方不明となったという噂を聞いて嘆きますが、それを確かめる方法はありませんでした。
その後、鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇が親政を行うこととなり、尊良親王も京都に帰還しますが、日夜御匣殿のことを思い出していたところ、淡路の小島で無事だという知らせが届き、喜んだ親王は、使いを派遣して御匣殿を迎えさせました。こうして親王と御匣殿は感動的な再会をはたしたのでした。

しかし、その後、親王は各地を転戦して、ついに金ヶ崎城で最後を遂げます。
親王の死の知らせは、すぐに京都の御匣殿も元にも届きました。御匣殿は、嘆き苦しんだ末に病気となって、親王の四十九日も済まない間に、その後を追うように亡くなってしまったと「太平記」は記しています。
「増鏡」は、尊良親王には、大納言ニ条為世の娘・大納言典侍との間に皇女が、中宮の御匣殿との間には皇子がいたと記しています。また、「元弘の変」当時には御匣殿は既に亡くなっていたために、親王は、一人大納言典侍を深く愛していて、土佐に流される際に別離を嘆いたとも記しています。このような所から「太平記」は大納言典侍と御匣殿を合わせて、感動的な哀話を創造したのかもしれません。


尚、今回の「後醍醐天皇皇子・尊良親王墓」は、太平記が記しているように親王の首塚ですが、福井県敦賀市金ケ崎町にある親王を祀る金沢宮の近く、金ヶ崎城跡には自刃の地として「尊良親王御陵墓見込地の碑」があります。

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