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豊臣秀吉が、主に軍事的防衛と洪水対策を目的として洛中(京都)の周囲に築いた「御土居(おどい)」については、これまでも少し書いてきましたが、今回は、北区鷹峯旧土居町、仏教大学の北に位置し、京都朝鮮第三初級学校の東隣にある「御土居史跡公園」を採り上げます。
一見、木々に覆われた普通の公園のように見えますが、遊具があるわけでもなく、ただ丘上と思われる場所にベンチがずらっと並んでいます。実は、この御土居史跡公園は、国史跡に指定されている「御土居」上に作られた珍しい公園です。柵で囲まれて立ち入り出来ない「御土居」もある中で、「御土居」の上で(ベンチで)横になることもできます。「御土居」の大きさを体感できる場所として「御土居」入門といえるでしょう。
「御土居史跡公園」の表示板を少し引用して書いてみますと・・・
戦国時代、戦乱の続く京都では、住民たちが、「町の溝(かまえ)」や「ちゃう(町)のかこい」と呼ばれた防御壁を築いて町を自衛する態勢がとられていました。また、堺や山科、石山など各地の寺内町や村落でも集落全体を環濠城塞化する動きがありました。「御土居」も、この延長上で築かれましたが、それまでとは違う大規模なもので、秀吉は戦乱で荒れた京都市内を復興し、その近世城下町化を図る意図があったようです。秀吉は聚楽第を設けてその周辺の街区を改め、各地の寺院を寺町と寺の内(共に上京区)に集めました。そしてその周囲に土塁を廻らし、洛中と洛外を明確に分けました。民衆の自治意識の高い京都を支配するために、民衆から自衛権を取り上げ、権力を誇示する目的もあったのでした。
さて、天正十九年(1591)、秀吉が多数の人員を動員して築いた御土居は、東西は寺町東の鴨川付近から紙屋川(かみやがわ)、南北は鷹峯と上賀茂から九条に至る総延長約二十三キロメートルに及ぶ土塁群になります。土塁は底部が約九メートル、高さ約三メートル、また、土塁に付属して堀が設けられ、堀幅は約四〜十八メートルあり、洛中への敵の侵入を遮断し、市内を守る効果が期待されました。また、一般的に「京都の七口」といわれる、洛外への出入口があり、「鞍馬口(くらまぐち)」、「大原口(おおはらぐち)」、「荒神口(こうじんぐち)」、「粟田口(あわたぐち)」、「伏見口(ふしみぐち)」、「東寺口(とうじぐち)」、「丹波口(たんばぐち)」、「長坂口(ながさかぐち)」等十箇所程の出入り口が設けられていて、ここから全国各地に街道が通じていました。
「御土居」は、平安京以来はじめて京都に誕生した羅城でしたが、その後、外敵の脅威は無く、近世には次第に無用のもととなっていきます。江戸中期ごろには、市街地は「御土居」を越えて東に広がり、京都各地で都市化が進みました。しかし、「御土居」は洪水を防ぐ堤防としての役割も果たしていたため、近辺の農民は、土地崩れの防止や竹林の育成など、その保全に努めたようです。
その後、近代になって、明治には周辺の開発によって「御土居」の南から西側にかけて大きく壊され、現在では、北と西側の一部が当時の姿を留めているに過ぎません。
そして、京都の現存する御土居の遺構の内、以下の九箇所が国指定史跡に指定されています。
○北区鷹峯旧土居町三番地(御土居史跡公園)
○北区大宮土居町
○北区紫竹上長目町・上堀川町(加茂川中学校内他)
○北区平野鳥居前町
○北区紫野西土居町
○北区鷹峯旧土居町ニ番地
○上京区寺町広小路上ル北之辺町(廬山寺内)
○上京区馬喰町(北野天満宮境内)
○中京区西ノ京原町(市五郎大明神社境内他)
尚、史跡指定以外では、中京区西ノ京中保町(北野中学校校内)、北区大宮西脇台(大宮交通公園内)等にも御土居が残っています。
さて、御土居史跡公園の辺りは、「御土居」西辺の北端に近く、その底部は幅約10間(十八メートル)、南側が「御土居」に設けられた切通しの中野道になり、西の小道に面して茅葺の入母屋造りの鷹ヶ峯番小屋が設けられ、西へなだらかな斜面となり紙屋川の谷へつながっていました。番小屋は洛外への見張り小屋の役目があったようです。昭和五十六年(1981)に史跡公園として整備された際は、この番小屋の位置に亭が置かれました。近世都市の成立を考える上でも貴重な史跡でもある「御土居」を身近に感じられる憩いの場として、御土居史跡公園は、(何も無い普通の公園とはいえ)歴史ファンにはお勧めの場所です。
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