京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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前回に続いて、衣笠の皇室史跡として、北区衣笠西馬場町にある「白河天皇火葬塚」です。
この火葬塚は、観光客が途絶えない金閣寺から僅か百五十メートル程、南にあるのですが、もちろん天皇史跡に興味のある人しか訪れません。また、この塚の南側は金閣小学校に接していて、学校校舎の影で少し居心地の悪そうな空き地という印象です。

(以前に、白河天皇の陵墓「白河天皇成菩提院陵 (伏見区竹田浄菩提院町)」については、少し書いていますが、やや物足りない内容で、白河天皇についても簡単に触れただけでした。
白河帝といえば、二十歳で即位して在位十五年で子の堀河帝に譲位、その後も堀河、鳥羽、崇徳天皇の三代にわたって四十三年間の院政を行ったことで知られる重要な天皇です。機会があれば、もう少し詳しく書きたいと思いますが、今回はやはり、「一条天皇・三条天皇火葬塚」と同じく、火葬塚に関係することのみにしたいと思います。)


さて、平安時代末期の大治四年(1129)、七月六日、白河法皇は、侍臣に愛馬を賜わったり、二条東洞院殿に御幸して、尾張守藤原顕盛らが造らせて献上した丈六(約五メートル)の愛染王像三体、等身大の愛染王像二十体、さらに小塔を供養したりしていました。仏教を深く信仰する白河法皇らしい普段と変わらない一日のはずでした。
しかし、院御所の三条烏丸西殿に還御したその夜、法皇は急に苦しみ始めました。夜から翌日まで激しい吐き気や下痢が続き、霍乱(かくらん 急性腸カタル)と思われました。直ぐに仁和寺第四世門跡で、法皇の第四皇子・覚法法親王が呼ばれ病気平癒の祈祷が行われましたが、効果はありませんでした。そして、翌日八日の朝(午前十時頃)、白河法皇は、七十七歳で崩御しました。
即日遺骸を入棺し、葬儀の段取りが決定され、十五日に現在の火葬塚のある衣笠付近で火葬にされ、十六日に遺骨は香隆寺に安置されました。


元々、白河法皇は、天永二年(1111)、鳥羽離宮に自らの墓所として三重塔(鳥羽塔)を建立していて、遺言でその地への埋葬を指示しました。しかし、崩御の時点では、塔に付属する遺骨を納める御堂である成菩提院(じょうぼだいいん)はまだ完成していなかったので、香隆寺に一旦遺骨が納められたのでした。

この香隆寺という寺院は、平安時代中期に創建された真言宗の寺院でした。
この時代は、有名寺院の境内やその付近に陵墓が多く造られましたが、香隆寺も由緒ある寺院だったようで、白河・堀河・二条の各天皇の遺骨が納められたという記録があります・・・嘉承二年(1107)七月十九日、白河法皇の第二皇子・堀河天皇が崩御した際も、七月二十四日に香隆寺の付近で火葬され、遺骨は香隆寺に一旦納められ、永久元年(1113)三月二十二日、堀河天皇の遺骨は仁和寺円融院に改葬されています。また、永万元年(1165)七月二十八日に、後白河法皇の第一皇子・二条天皇が崩御した際も、翌日に入棺、八月七日に、香隆寺の野で火葬され香隆寺本堂に遺骨が納められています。さらに、嘉応二年五月十七日に二条天皇の遺骨は、香隆寺本堂から境内に造営された三昧堂に改葬されました。

このように、皇室ゆかりの由緒ある香隆寺ですが、中世(鎌倉)以降に廃絶して、その正確な位置は不明となりました。現在の京都市北区の衣笠山から船岡山一帯と諸説ありましたが、明治二十二年(1889)に、その跡地を推定して、二条天皇の陵墓「二条天皇香隆寺陵(にじょうてんのうこうりゅうじのみささぎ)」が造られています(上京区平野八丁柳町)

さて、天承元年(1131)七月八日に鳥羽離宮に成菩提院が完成すると、直ちに翌九日、三重塔内に白河法皇の遺骨は改葬されています。現在の白河天皇の陵墓「白河天皇成菩提院陵(しらかわてんのうじょうぼだいいんのみささぎ 伏見区竹田浄菩提院町)」はこの三重塔(鳥羽塔)跡地と推定される場所に造られています。

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今回は、京都市北区衣笠地域にある「一条天皇・三条天皇火葬塚」です。
衣笠地域には二つの火葬塚(一条天皇・三条天皇火葬塚&白河天皇火葬塚)がありますが、地理的にはかなり離れているので、個別に書いてみます。


さて、前回の「三条天皇北山陵(さんじょうてんのうきたやまのみささぎ)」から、鏡石通を北上すること約五百メートル、北区衣笠鏡石町にあるのが、「一条天皇・三条天皇火葬塚」です。
この地は、平安時代の第六十六代一条天皇と、従兄に当る第六十七代三条天皇が火葬されたとされる場所で、京都の天皇火葬塚の中では最も大きな火葬塚の一つになります。この火葬塚の南側は、鏡石公園という小さな公園に接していて、そこから塚内の森を見上げると、火葬塚というより陵墓のような印象もあります。


前回、北山陵を採り上げた際に、三条天皇の生涯について書きました。また、一条天皇の生涯についても、今後、その陵墓を取り上げる際に書くこととして、今回は簡単に火葬塚に関係する点のみを書いてみます。

平安時代の寛弘八年(1011)、一条天皇は重病となって、同年六月十三日に一条院で居貞親王(おきさだしんのう 三条天皇)に譲位して出家しますが、間もなく二十二日に、三十二歳で崩御しました。遺体は、山城葛野郡北山長坂野(岩陰)の地で火葬にされ、七月九日、遺骨は東山の椿ヶ峰の麓にあった円成寺に安置され、正式に二十日に埋葬されました。この円成寺という寺院は、その後廃寺となってしまいますが、、現在、哲学の道(左京区)の傍にある大豊神社(駒ネズミで知られます)はその鎮守社だったと伝えられます。

藤原実資(前回の三条天皇陵の時にも出てきましたが)の日記「小右記」によると、当時大納言だった実資は、この頃、宮中で権中納言・藤原頼通から、「亡き天皇(一条天皇)は、生前に、自分が死んだら土葬にして、父の円融法皇(円融天皇)の御陵付近に埋めて欲しいと、左大臣(頼道の父の藤原道長)や周りの人々にお話されていましたが、皆そのことを忘れてしまっていて、今になって左大臣は思い出されて、歎息されておられました。」と告げられます。
そこで実資は、一条帝の御遺骨は、方忌を避けるため、とりあえず円成寺に奉安して、三年を過ぎて、方位神の金星(太白)の精の大将軍が西方に位置したら、円融法皇の陵の付近に移すべきだと提案しました。そして、結局、九年後の寛仁四年(1020)六月、一条天皇の御骨は、道長によって円融天皇ゆかりの円融寺の北(竜安寺の北にある円融寺北陵)移されました。

尚、この円融寺という寺院は、石庭で有名な竜安寺(京都市右京区)の前身ともいうべき寺院で、永観元年(983)に創建された円融天皇の勅願寺でした。円融天皇は、翌永観二年(984)に退位した後、寛和元年(985)に出家してこの円融寺を住居としました。そして、正暦二年(991)に円融寺で死去し、円融寺の北原で火葬されました。(竜安寺の裏山に円融天皇火葬塚があります)その遺骨は、父の村上天皇の村上陵の傍らに葬られたと伝えられます。(円融天皇後村上陵はブログに掲載しています)

その後、前回に登場した三条天皇も、一条帝と同じ地で火葬されたと伝えられます・・三条帝は、寛仁元年(1017)四月二十九日に出家し、五月九日に四十二歳で崩御しました。そして、五月十二日に山城葛野郡北山岩陰で火葬され同地の北山陵に埋葬されました。一条天皇と違って、そのまま北山の地に陵墓が造られたようです。

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