京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京福電鉄嵐山線の山ノ内駅から北へ百メートル、右京区山ノ内宮脇町にあるのが山王神社(さんのうじんじゃ)です。この神社も、前回の猿田彦神社と同じく京福電鉄嵐山線沿線の小さな観光スポットのひとつですが、境内は日本のクスノキの大樹をはじめ多くの木々で囲まれ、また「夫婦岩(めおといわ)」と呼ばれる巨石もあって、古代からこの地が自然信仰の霊地だったと感じさせます。


山王神社は、祭神として大山咋神(おおやまくいのかみ)、玉依姫神(たまよりひめのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)を祀ります。
神社の創建は、平安時代後期の白河天皇の時代に、近江国坂本(滋賀県大津市坂本)の日吉大社から日吉山王大神をこの地に勧請したのが始まりといわれます。当時、この山之内(山ノ内)の地は、天台宗比叡山延暦寺の寺領で、天台座主・良真僧正が、西の京禅房として普賢寺という寺院を構えていたと伝えられ、この良真が普賢寺の守護神として山王大神を勧請したということです。
祭神の大山咋神と玉依姫神は夫婦神で、大己貴神は有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名で、酒造りや施薬治病の神、縁結び福の神等として広く信仰されています。また祭神として平安末期作の特色を持つ一木造男神像も祀られているということです。尚、現在の本殿は平成二年(1990)九月十九日の台風で本殿が倒壊した後、翌三年(1991)八月に修復再建したものということです。



境内には末社として、境内右奥に赤山神社と若宮神社、左奥に祖霊社とお福稲荷神社、また、鳥居を潜った右手には水琴窟(大地主神)があります。

泰山府君(たいざんふくん)=赤山明神を祭神とする赤山神社は、天台宗の慈覚大師円仁が中国唐に渡った時、山東省赤山にある山神、福寿の神・泰山府君に祈念し、その後無事に帰国した後、天台宗の守護神・方除けの神として比叡山の西麓に勧請したのを始まりとしています。(円仁の遺言により弟子の安慧が左京区修学院開根坊町にある赤山禅院を創建しました)この赤山神社は、平安時代に山王大神をこの地に勧請した際に、合わせて赤山明神を勧請したもので、元々現在地より南東約五百メートルの山之内赤山町の鎮守社として祀られていたものを、明治十一年(1936)に山王神社境内に遷座したものということです。

若宮神社は、湍津姫神(たぎつひめのかみ)と白山姫神(しらやまひめのかみ)を祭神としています。湍津姫神は、山王神社の祭神・大己貴神(おおなむちのかみ)の妃神として美の神として信仰され、また、白山姫神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冊尊(いざなみのみこと)二神の総称で、縁結びの祖神として信仰されています。元々現在地より南約三百メートルの山之内瀬戸畑町の鎮守社として祀られていたものを、明治十一年(1936)にこの神社境内に遷座したものということです。

祖霊社は、歴代の神主や氏子総代、神事係また区域発展に尽くした功労者の遺徳を偲んで功績を称えその霊を祀るために昭和四十七年(1972)九月に創建された社で、春分の日に慰霊祭が行われます。さらに、稲荷大神を祭神とするお福稲荷神社は、昔ある人が境内の大樹の根元に白い蓑笠が落ちているのを見て拾おうとした所、蓑笠ではなく蜷局(とぐろ)を巻いた白蛇だったことから、畏怖して祠を建てて招福を祈って祀ったと伝えられている社です。

境内右手にあるのが、非公開の水琴窟のある小さな庭園です。茶室「清々」を中心としたこの茶園は、「元文年間(1736〜41736〜40)申歳 山王大権現」と刻まれた銘石から、巨岩の運搬や優れた造園技術に近世豪族の影響があると考えられています。そして、山王神社では、平成十三年(2001)六月に、復元された水琴窟の「音」を、大地を司る神として知られる「大地主神(おおとこぬしのかみ)」として祀りました。尚、この庭園は大正八年(1919)に大楠を含む景観的配慮によって整備され、平成十四年(2002)に門を移築して新しい庭園として再整備されています。



神社の境内で最も人目を引くのは、「夫婦岩(めおといわ)」と呼ばれる、夫婦和合、安産、子授けの岩として古来信仰されてきたというしめ縄の飾られた二つの巨岩です。
「夫婦岩(めおといわ)」は、右が男岩(高さ約一・五メートル、幅約一・三メートル)、左が女岩(高さ約一メートル、幅約二・五メートル)とされ、女岩は中央部分が少し窪んでいて、昔からこの両岩を撫でて子授けを祈り、二つの岩の周囲を左から三回廻って安産を祈るという習慣があったといわれています。また、生まれた子供の初宮詣の時には、神酒、洗米、梅干を供えた後、梅干の皮で鼻をつまんで、長生きや出世を祈り、種は女岩中央の窪みに納めて神酒を注ぎ、子孫繁栄を祈る習慣が今も伝えられているということです。また、この巨岩は、平安時代の天台座主の良真がこの地を訪れた際、良真の後を追って比叡山から飛んできたという伝承もあり、比叡山延暦寺とこの神社のつながりを示す伝説とも考えられています。

また、境内西側には、鎌倉時代に親鸞上人が、諸国布教の際にこの地に立ち寄って、この岩の上に座ったといわれる「足跡石・座石」が安置されています。最後に、鳥居付近の水琴窟のある庭の南、境内北西には、樹齢七百年と伝えられる御神木のクスノキが数本あり、神社にちなんで「山王楠」と呼ばれて神社のシンボル的な存在です。

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右京区山ノ内荒木町、京福電鉄嵐山線に最近出来た新駅・嵐電天神川駅の傍、三条通が天神川と交差する付近にあるのが、猿田彦神社です。
古図によれば、昔は三条通側に鳥居があったということですが、現在は三条通にほぼ平行して鳥居があり、境内は、区民の誇りの木に選ばれているクスノキの大木等の木々に囲まれています。普通の小さな神社ですが、観光地嵐山に至る京福電鉄の沿線にあることもあって、京福電鉄では、嵐電天神川駅周辺の小さな観光スポットの一つとして採り上げているようです。


猿田彦神社は、社伝によると、古くから「山ノ内庚申(やまのうちこうしん)」と呼ばれ、「八坂の庚申堂」、「粟田口庚申堂」と並んで「京洛三庚申」の一つに数えられた洛西の古社ということです。
祭神の猿田彦大神(さるたひこおおかみ)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、葦原中国(あしはらなかつくに=日本国土)を治めるために高天原から日向国・高千穂峰に降った・・いわゆる天孫降臨の時に、その道案内をしたという故事から、また、中国伝来の「道祖神(どうそしん)」と同一視されるようになり、道ひらきの神、人生の道案内の神として信仰され、開運除災や除病招福のご利益があるとされています。社伝によると、平安時代初期に伝教大師最澄が、座禅をするための霊窟を探していたところ、猿田彦神が現れてこの地を示したので、座禅石の横に猿田彦神を祀ったことが創祀とされます。


猿田彦神社は、「山ノ内庚申(やまのうちこうしん)」と呼ばれように、京都の神道系庚申信仰の本拠地の一つだったようです。
庚申信仰は、元々中国の道教の教えから来た信仰で、仏教、神道、修験道等の様々な信仰と結びついて全国に広まりました。元々特定の本尊の無い庚申信仰は、神仏混交の影響から、日吉山王信仰(日吉大社の祭神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」は、神社が天台宗延暦寺の鎮守社となったことで、山王信仰へと発展しました)と結びついて山王権現、また仏教系では青面金剛、神道系では猿田彦神を祀ることが多かったようです。

この「庚申」とは、干支の「庚(かのえ)申(さる)」の日を意味し、十干十二支のこの日の夜に、人の体中にいる三尸の虫が、寝ている間に抜け出して、寿命を司る神である天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行くといわれ、天帝は罰としてその人間の寿命を縮めると考えられていました。そして、これを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜するという「庚申祭」という風習があり、時代により「守庚申(しゅこうしん)」、「庚申待(こうしんまち)」等とも呼ばれています。
この風習は、平安時代初期頃より中国より伝来して貴族の間に、さらに仏教と結び付いてからは広く諸国に広まり、鎌倉から室町時代には武家に、さらに江戸時代には広く庶民の間でも信仰されました。特に、江戸時代には、村落全体で酒盛りをして一夜を明かすという寄り合い組織「庚申講(こうしんこう)」が全国で作られていました。猿田彦神社の由緒書にも、庚申講の際は、村人が集まって猿田彦大神や青面金剛の軸を掛け、七種の供物を捧げ夜を明かして萬福招来を祈願したと記していて、現在も六十日に一回の庚申日に祭事を行い、新年初めの庚申日の付近の人々の参詣は後が絶えないということです。

また、仏教系神道系に関係なく庚申信仰のシンボルと知られるのが猿です。
その由来は「庚申」の「申(さる)」=「猿」から来ているとも、山王信仰の神使である猿が採り入れられたとも、また三尸の虫に告げられないために「見ざる(猿)、言わざる(猿)、聞かざる(猿)」が阻止するという意味である等と諸説ありますが、この三神猿は、世の諸悪を排除して開運招福をもたらすとして庚申信仰の地では必ずどこかに描かれているようで、猿田彦神社でも本殿前に目立たない小さな像があります。


社殿は、元々安井村松本領にあって、境内には山伏修験者の行場があり、愛宕山に参詣する人々は、境内の滝に打たれ身を清めてから参詣したということです。明治十八年(1885)、現在の三条通の南側に遷座しましたが、今も境内には行場の名残をとどめる大小無数の石が境内北側に存在し、南側には不動明王、観音菩薩、大日如来、役行者等の石仏が祀られています。(昭和五十五年(1980)、この年が六十年毎の庚申の年に当るため、神殿を修復したところ、礎石に用いられていた道標に「あたごへ二里半」の文字が刻まれていることが確認されました。)また、明治大正時代には庚申灯篭が数多く奉献されていたということで、現在では御縁日の庚申日に祭礼が行われていて、特に初庚申のお祭りには火焚神事が斎行され、参詣客で賑わうということです。
また、境内末社として、大国主命を祭神とする大国主社、火伏の神・秋葉明神を祭神とする秋葉社、稲荷大神を祭神とする稲荷社があります。


社宝として、この地の庚申講に用いられてきた御軸「御幣猿立像(伊勢市猿田彦神社に伝来。宇治土公定津神主筆・天保十二十二年六月吉日 利兵衛箱書)」と「庚申清(青)面金剛御姿絵図(当村永代講中 箱書)」、また山口玲熈画の神猿図(大正二年二月八日 初庚申の節に奉納)があり、また鳥居に掲げられた社額は、宇治土公定津神主の筆によるものです。
また、授与品としては、中風・神経痛・腰痛などの病気封じの「こんにゃく(氏名・年齢を書いて祈祷後に神棚に祀って願をかけます。また、昔は就寝の枕上に吊るしたということです。)」、盗難除けの左縒りの連縄「左なわ(持山)(玄関・勝手口・戸窓・金庫などに吊るします)」、手芸の上達を招くという「招福布猿(くくり猿)財布や腰に付けて除難招福を祈る)」、家内安全・商売繁昌・交通安全・開運厄除けの「祈願絵馬」や「御守り」、清め砂などがあります。(尚、庚申以外の日は、御守授与は、嵐電「山之内」北側の山王神社で行っているようです。)

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