京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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豊臣秀吉が、主に軍事的防衛と洪水対策を目的として洛中(京都)の周囲に築いた「御土居(おどい)」については、これまでも少し書いてきましたが、今回は、北区鷹峯旧土居町、仏教大学の北に位置し、京都朝鮮第三初級学校の東隣にある「御土居史跡公園」を採り上げます。

一見、木々に覆われた普通の公園のように見えますが、遊具があるわけでもなく、ただ丘上と思われる場所にベンチがずらっと並んでいます。実は、この御土居史跡公園は、国史跡に指定されている「御土居」上に作られた珍しい公園です。柵で囲まれて立ち入り出来ない「御土居」もある中で、「御土居」の上で(ベンチで)横になることもできます。「御土居」の大きさを体感できる場所として「御土居」入門といえるでしょう。


「御土居史跡公園」の表示板を少し引用して書いてみますと・・・
戦国時代、戦乱の続く京都では、住民たちが、「町の溝(かまえ)」や「ちゃう(町)のかこい」と呼ばれた防御壁を築いて町を自衛する態勢がとられていました。また、堺や山科、石山など各地の寺内町や村落でも集落全体を環濠城塞化する動きがありました。「御土居」も、この延長上で築かれましたが、それまでとは違う大規模なもので、秀吉は戦乱で荒れた京都市内を復興し、その近世城下町化を図る意図があったようです。秀吉は聚楽第を設けてその周辺の街区を改め、各地の寺院を寺町と寺の内(共に上京区)に集めました。そしてその周囲に土塁を廻らし、洛中と洛外を明確に分けました。民衆の自治意識の高い京都を支配するために、民衆から自衛権を取り上げ、権力を誇示する目的もあったのでした。

さて、天正十九年(1591)、秀吉が多数の人員を動員して築いた御土居は、東西は寺町東の鴨川付近から紙屋川(かみやがわ)、南北は鷹峯と上賀茂から九条に至る総延長約二十三キロメートルに及ぶ土塁群になります。土塁は底部が約九メートル、高さ約三メートル、また、土塁に付属して堀が設けられ、堀幅は約四〜十八メートルあり、洛中への敵の侵入を遮断し、市内を守る効果が期待されました。また、一般的に「京都の七口」といわれる、洛外への出入口があり、「鞍馬口(くらまぐち)」、「大原口(おおはらぐち)」、「荒神口(こうじんぐち)」、「粟田口(あわたぐち)」、「伏見口(ふしみぐち)」、「東寺口(とうじぐち)」、「丹波口(たんばぐち)」、「長坂口(ながさかぐち)」等十箇所程の出入り口が設けられていて、ここから全国各地に街道が通じていました。

「御土居」は、平安京以来はじめて京都に誕生した羅城でしたが、その後、外敵の脅威は無く、近世には次第に無用のもととなっていきます。江戸中期ごろには、市街地は「御土居」を越えて東に広がり、京都各地で都市化が進みました。しかし、「御土居」は洪水を防ぐ堤防としての役割も果たしていたため、近辺の農民は、土地崩れの防止や竹林の育成など、その保全に努めたようです。
その後、近代になって、明治には周辺の開発によって「御土居」の南から西側にかけて大きく壊され、現在では、北と西側の一部が当時の姿を留めているに過ぎません。



そして、京都の現存する御土居の遺構の内、以下の九箇所が国指定史跡に指定されています。

○北区鷹峯旧土居町三番地(御土居史跡公園)

○北区大宮土居町

○北区紫竹上長目町・上堀川町(加茂川中学校内他)

○北区平野鳥居前町

○北区紫野西土居町

○北区鷹峯旧土居町ニ番地

○上京区寺町広小路上ル北之辺町(廬山寺内)

○上京区馬喰町(北野天満宮境内)

○中京区西ノ京原町(市五郎大明神社境内他)

尚、史跡指定以外では、中京区西ノ京中保町(北野中学校校内)、北区大宮西脇台(大宮交通公園内)等にも御土居が残っています。



さて、御土居史跡公園の辺りは、「御土居」西辺の北端に近く、その底部は幅約10間(十八メートル)、南側が「御土居」に設けられた切通しの中野道になり、西の小道に面して茅葺の入母屋造りの鷹ヶ峯番小屋が設けられ、西へなだらかな斜面となり紙屋川の谷へつながっていました。番小屋は洛外への見張り小屋の役目があったようです。昭和五十六年(1981)に史跡公園として整備された際は、この番小屋の位置に亭が置かれました。近世都市の成立を考える上でも貴重な史跡でもある「御土居」を身近に感じられる憩いの場として、御土居史跡公園は、(何も無い普通の公園とはいえ)歴史ファンにはお勧めの場所です。

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京都市北区衣笠街道町にある法音寺(ほうおんじ)は、京都の夏の一大行事「大文字五山の送り火」の「左大文字」と深い係わりのあるお寺です。
「五山の送り火」では、東山の「大文字送り火」、松ケ崎の「妙・法送り火」、西賀茂の「船形万燈籠送り火」、衣笠の「左大文字送り火」、嵯峨の「鳥居形松明」の五ヶ所六つの送り火行事が行われますが、「鳥居形」を除けば、各山の麓にある寺院の宗教行事が大きく関わっています。


「大文字」は、銀閣寺の隣にある浄土宗寺院の浄土院(大文字寺)が関係しています。
「大文字」送り火の起源が弘法大師空海によるという伝承もあることから、元々天台宗寺院だった浄土院(大文字寺)は、弘法大師像を送り火の本尊として祀っています。門前で護摩木の受け付けを行い、大文字の点火の際は、大の字の中心部の火床「金尾(かなわ)」の傍にある「弘法大師堂」の中で、住職が灯明を灯し読経が行われます。

「妙法」は、日蓮宗寺院、涌泉寺(ゆうせんじ)が深く関係しています。
「妙法」は、「南無妙法蓮華経」という日蓮宗の題目に由来しているように、日蓮宗との関わりの深い送り火で、「妙」のある西山で、点火の際に涌泉寺の住職が読経を行い、さらに送り火の後に涌泉寺境内で京都市の無形民俗文化財に指定されている「題目踊り」と「さし踊り」が行われます。
特に「題目踊」は、日本最古の盆踊りとも呼ばれ、その起源には以下の伝承があります。鎌倉時代末期に日蓮上人の孫弟子・日像上人が松ヶ崎村で布教を行い、この地にあった天台宗寺院・歓喜寺住職の実眼和尚も法華宗に改宗します。そして、徳治二年(1307)、全村民が日蓮宗に帰依したことを喜んだ実眼が、歓喜のあまり太鼓を打ちながら法華題目を唱え、村人も次々と「南無妙法蓮華経」と唱えながら踊ったというのが「題目踊」の始まりと伝えられます。

「船形」は、麓にある浄土宗寺院、西方寺(さいほうじ)が行事を行います。
「船形」は、西方寺開山の慈覚大師円仁が、承和六年(839)、唐からの帰路に暴風雨に遭い、南無阿弥陀仏と名号を唱えたところ無事帰還できたという逸話に由来すると伝えられています。西方寺では護摩木の受け付けを行い、送り火の後は、境内のかがり火を囲んで西方寺六斎念仏保存会による六斎念仏(国の重要無形民俗文化財)が行われます。

尚、愛宕神社との関わりを起源とするという説もある「鳥居形」は、特定寺院との関わりは無いですが、化野念仏寺の駐車場で護摩木の受け付けを行い、当日夜には、地元住民でつくる嵯峨仏徒連盟が「嵐山灯ろう流し」を行います。地元の女性がご詠歌を唱え、僧侶の読経と拍子木を合図に、先祖の戒名などを記した灯篭を桂川に流します。




さて、法音寺ですが、山号を菩提樹山といい、元々は天台宗寺院でしたが、現在は浄土宗西山派に属しています。平安時代に慈覚大師円仁が創建したと伝えられ、当時の史書にはその名がしばしば表されているということです。応仁の乱の兵火で焼失しますが、その後復興し、花山院(花山上皇)の勅願所、西国三十三所霊場の復興所の本山となったと伝えられ、山門横には勅願所を示す石標が立てられています。

法音寺と「左大文字送り火」の関わりですが、「左大文字送り火」の起源は、他の送り火同様に諸説ありますが、江戸時代初期頃、他の送り火よりは遅れて開始されたと考えられています。法音寺は、左大文字の発祥地、旧大北山村の菩提寺でもあったため、寺院を中心とした旧大北山村の人々が代々行事を受け継いできたのでしょう。

護摩木の受け付けは、金閣寺境内で行われていますが、送り火の当日の朝、法音寺本堂で、施餓鬼会(せがきえ)が行われ、灯明の火によって親火台への点火が行われます。そして、夕方には法音寺住職の読経があり、親火から長さ三メートル、直径二十センチもの大松明に火が移されます。大松明の火は、さらに左大文字保存会の会員五十人の手松明に移されます。他の送り火と違う「左大文字送り火」の特徴は、法音寺から約五百メートル離れた大北山(大文字山)まで松明行列が行われることです。

午後七時、大松明を中心にした松明行列が法音寺を出発して火床を目指します。そして、午後八時十五分の点火の際は、「大文字」の一斉点火に対し、「大」の文字の筆順通りに火を付けるというのも特徴です。「大文字」に比べてやや地味と思われている「左大文字」ですが、松明行列もあって、近くで見物しても中々面白い送り火行事といえます。

その後、送り火がほぼ消える午後九時二十分頃からは、法音寺本堂で「大文字御詠歌」奉納と名づけられた行事が行われます。左大文字保存会の手によって大文字の残り火が法音寺へ持ち帰られると、その残り火を本尊に供え、「北山金閣寺不動明王」、「愛宕権現地蔵菩薩」、「鞍馬山魔王」、「千本えんま堂えんま大王」の四仏に、先祖の霊を無事に送り出せるようにと祈り、「北山尼講」と呼ばれる法音寺の檀家女性が炎が消えるまで御詠歌を唱えます。

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今回は、左京区南禅寺下河原町にある「後醍醐天皇皇子・尊良親王墓」です。
尊良親王の墓は、紅葉の名所として知られる永観堂の正面に通じる道路に面して静かに佇んでいます。
後醍醐天皇の皇子たちは、各地に派遣されて北朝軍と交戦したために、北朝支配下にあった京都に墓があるのは珍しいともいえます。(後醍醐の皇子の中では、他に臨川寺(右京区嵯峨天龍寺造路町 非公開)に世良親王(よよししんのう?〜1330)の墓があります。)



尊良親王(たかよししんのう ?〜1337 生年1306〜11の諸説あり)は、「太平記」「梅松論」等が「一宮」と記していることから、後醍醐天皇の数多い皇子の中では最も早く生まれたと考えられています。(延慶元年(1308)生まれとされる護良親王(もりよししんのう 尊雲法親王 1308〜1335)の方が年上とする説もありますが)
母は権大納言二条為世の女の為子で、同母弟として宗良親王(むねよししんのう 尊澄法親王 1311〜85)がいます。そして、為子が正和三年(1314)に亡くなったことから、幼少時より後醍醐の側近・吉田定房に養育され、嘉暦元年(1326)に元服しました。


さて、正中元年から元弘三年(1324〜1333)の鎌倉幕府の滅亡までの戦いで、後醍醐天皇を支えたのは、当時元服を終え、ほぼ青年に達していた尊良、世良、尊雲(護良)、尊澄(宗良)の四人の皇子でした。
後醍醐は、鎌倉幕府打倒のために、多くの僧兵を擁する近畿の有力寺社勢力を味方に付けようと画策し、自ら延暦寺や興福寺・東大寺・春日社等に行幸して関係強化に努めました。さらに、尊雲法親王(護良親王)と尊澄法親王(宗良親王)の二人は天台宗(延暦寺)勢力を勧誘する任務を与えられて、天台トップの天台座主に据えられて同宗勢力を管轄しました。一方、尊良と世良は父帝を傍から補佐することが期待されていました。
また、この頃、後醍醐の寵愛を受けた阿野廉子(あのれんし)が、恒良(つねよし 1325〜38)、成良(なりよし 1326〜44)、義良(のりよし 後村上天皇 1328〜68)の三人の皇子を相次いで生み、これら幼い皇子たちは、後に九州で征西大将軍として活躍した懐良(かねよし 1329?〜83)と共に後醍醐天皇の晩年を支えた第二世代の皇子といえます。


さて、尊良親王ですが、「増鏡」は、異母弟の世良親王(?〜1330)の方が、尊良より学才豊かで後醍醐から期待されていたことを記していますが、世良は、元徳二年(1330)に早世してしまいました。そのため、倒幕計画は、後醍醐と尊良、尊澄(宗良)、そして尊雲(護良)が中心となって進められました。しかし、元弘元年(1331)四月、計画は未然に発覚し「元弘の変」が起こります。後醍醐らは、九月に京都を逃れて笠置城(京都府相楽郡)に篭城しますが城は陥落、後醍醐と尊澄(宗良)は笠置で、尊良は河内で捕らえられ、元弘ニ年(1332)三月、後醍醐は隠岐、尊良は土佐、尊澄(宗良)は讃岐に流されました。
こうして、その後の討幕運動は、逃亡に成功した尊雲法親王(護良親王)を中心に行われることになりました。護良親王(還俗して改名)は、父帝の代理、事実上の討幕活動のリーダーとして、諸国に令旨を発して反乱勢力を結集しました。しかし、その功績があまりにも大きく、父帝から独立した軍事力を擁したことは、親王の勇猛果敢な性格も災いして、その後、足利尊氏との対立と父後醍醐との摩擦を生み、結局、悲劇的な死を招くことになります。



さて、今回の主人公の尊良親王ですが、土佐に流された後、元弘二年冬に四国から九州に渡って、三年(1333)三月、肥前の江串三郎入道等に擁せられ挙兵します。その後、大宰府を経て、元弘三年八月、鎌倉幕府滅亡後の京都に帰還しました。
建武二年(1335)十一月に足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、親王は上将軍として新田義貞・脇屋義助兄弟と共に討伐軍を率いますが、同年冬の箱根・竹ノ下の戦いで敗北し京都へ撤退しました。
翌建武三年(延元元年 1336)、一旦九州に敗走した足利尊氏が勢力を挽回して京都に迫ると、同年十月、尊良親王は、異母弟で後醍醐天皇の皇太子となった幼い恒良親王や新田義貞・脇屋義助兄弟と共に義貞の勢力下にあった北陸越前に逃れて再起を図ろうとします。

尊良親王たちは、敦賀で気比社の大宮司・気比斉晴(けひのなりはる)に迎えられ、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)に入城し拠点としますが、たちまち足利方の越前国守護・斯波高経の軍勢に包囲されてしまいます。さらに、翌建武四年(延元二年 1337)正月には、足利方は各地から大軍を動員して、城は完全に封鎖され糧道を断たれました。
義貞・義助兄弟等は、闇夜に密かに城を脱出して、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直しますが、二月の金ヶ崎救援行動は敵軍に阻まれて失敗し、ついに、三月六日、足利軍は金ヶ崎城に総攻撃を行いました。食糧不足で餓死寸前まで弱っていた籠城兵は戦うことができず、ついに城は陥落しました。
この時、尊良親王は、義貞の嫡男・新田義顕と共に自害し、皇太子・恒良親王は捕縛され京都へ連行されました。(「太平記」は、恒良は牢に押し込められ、翌暦応元年(延元三年 1338)四月に毒殺されたと記しています。当年十五歳と伝えられ、墓所も不明です。)


さて、「太平記」によると、新田義顕は自害する前に、「私は武士の家に生まれた者として家名を汚さないために自害しますが、敵も殿下の命を奪うことはないでしょう。どうぞこのままここにお留りください。」と尊良親王に投降を勧めますが、親王は晴れ晴れとした様子で笑みを浮かべ、「後醍醐帝が私を将帥とされ、お前を補佐役に任じたのに、補佐役がいないのに自分だけが生き延びることができようか。私も自害してあの世で恨みを晴らすことにしよう。」と言って、「そもそも自害の方法とはどのようなものか。」と義顕に問います。
義顕は涙を抑えながら「自害とはこの様にするものでございます。」と、親王の目の前で腹を切って倒れました。これを見た親王も、直ちに刀を手にして自刃して義顕の上に折り重なるように倒れました。そして、周囲の者たち三百人も同じく親王に殉じたと記しています。この時、尊良親王は二十七歳、新田義顕は十八歳だったと伝えられます。
その後、尊良親王の首は京都禅林寺(永観堂)の住職・夢窓国師のもとへ送られ、ここで葬礼が行われました。南北朝時代は、太平の世なら歴史の表舞台に登場することもなかっただろう皇子達を戦いに参加させましたが、こうして、尊良親王も戦場に散った史上数少ない皇子の一人となったのでした。



また、「太平記」は尊良親王の死を知ったその中宮・御匣殿(みくしげどの)の深い悲しみを描いています。物語の信憑性については資料の裏づけが無いために疑問視されますが、「太平記」は二人の運命的な出会いから描いていきます・・・

尊良親王は、才能豊かで早くから次期皇太子にと期待されながらも、鎌倉幕府が後醍醐の兄・後二条の皇子・邦良親王(くによししんのう)を皇太子に付けたために、周囲の人々は失望し、親王自身も日々詩歌に明け暮れるしかありませんでした。そんな尊良親王が、ある時、絵に描かれた美女に恋してしまいます。そして、恋焦がれる苦しい気持ちを抑えようと、気分転換に参詣した下鴨神社からの帰り道で、あの絵の女性にそっくりの美女に出合ったのでした。

その女性は、今出川公顕(いまでがわきんあき)の姫、御匣殿といい、徳大寺公清(とくだいじきんきよ)と既に婚約していましたが、親王は御匣殿に思いのたけを打ち明け、諦めずに次の日から御匣殿に手紙を送り続けて、その数は一千通にも達するほどでした。御匣殿も、親王の深い愛情に心を動かされて親王を愛するようになっていきます。しかし、親王は、相手は婚約者のある身、御匣殿の気持ちを苦しめているのではと後悔して手紙を送ることを止め、恋する苦しい気持ちを心の中に封じ込めようとします。しかし、運命は好転します。親王の深い愛情を知った徳大寺公清が、御匣殿との婚約を取りやめたのでした。こうして二人は目出度く結ばれました。

しかし、尊良親王と御匣殿の幸福な日々は、間もなく終わることになります・・親王が「元弘の変」で土佐国へと流されてしまったのです。御匣殿は、悲しみのあまり毎日泣いて過ごし、親王も父帝後醍醐や愛する御匣殿を心配して食事も喉を通らず衰弱してしまいます。苦悩する親王を見るに見かねた警護役の有井庄司(ありいのしょうじ)は、「私は見て見ぬふりをしますので、奥方をこっそりお呼びになってください」と進言します。喜んだ親王は、一人土佐まで随行してきた部下の秦武文(はたのたけふん)を呼んで、御匣殿を迎えるために京都へ派遣しました。武文は、荒れ果てた家に住んでいた御匣殿を探し出し、親王からの手紙を渡しました。手紙には「お前と別れて暮らすことには到底耐えられえない、何としても土佐に来ておくれ」と記されています。御匣殿も「私もすぐに宮様の元へ参ります。たとえ辺鄙な土地だとしても、宮様とご一緒ならば、どんなことにでも耐えられます」と土佐国へ出発したのでした。

さて、御匣殿一行は、尼崎湊(兵庫県尼崎市)で順風が来るのを待ちますが、湊には、同じく順風を待っていた松浦五郎という筑紫国の武士がいました。松浦は、御匣殿の美しさに心奪われ、誘拐して筑紫へ連れて帰ろうと考えます。松浦は夜間に部下達と一行を襲撃しますが、秦武文が奮戦して撃退します。しかし、松浦らが家屋に火を放ったため、武文が御匣殿を船に避難させ炎の中から荷物を救っている間に、松浦らは御匣殿を乗せた船で出港してしまいました。武文は小舟で追いかけましたが追いつけず、怒りと無念な気持ちから「死んで海底の龍神となって、その船を必ず停めてやるぞ」と腹を十文字にかき切って海に身を投げました。

その日の夕方、御匣殿を乗せた船は鳴門海峡近くにさしかりましたが、俄かに潮流が逆行して大渦が発生しました。一同がこれは龍神の怒りだと恐れおののいていると、死んだ秦武文の霊が現れます。その姿に驚いた松浦は、怨霊を避けようと、御匣殿を小舟に乗せて波間に浮かべました。すると、急に風が起こって松浦らの船は流されて消え去り、御匣殿の小舟は淡路国の武島という小島に流れ着いて、村人たちに助けられました。その頃、尊良親王は、御匣殿の船が大嵐で行方不明となったという噂を聞いて嘆きますが、それを確かめる方法はありませんでした。
その後、鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇が親政を行うこととなり、尊良親王も京都に帰還しますが、日夜御匣殿のことを思い出していたところ、淡路の小島で無事だという知らせが届き、喜んだ親王は、使いを派遣して御匣殿を迎えさせました。こうして親王と御匣殿は感動的な再会をはたしたのでした。

しかし、その後、親王は各地を転戦して、ついに金ヶ崎城で最後を遂げます。
親王の死の知らせは、すぐに京都の御匣殿も元にも届きました。御匣殿は、嘆き苦しんだ末に病気となって、親王の四十九日も済まない間に、その後を追うように亡くなってしまったと「太平記」は記しています。
「増鏡」は、尊良親王には、大納言ニ条為世の娘・大納言典侍との間に皇女が、中宮の御匣殿との間には皇子がいたと記しています。また、「元弘の変」当時には御匣殿は既に亡くなっていたために、親王は、一人大納言典侍を深く愛していて、土佐に流される際に別離を嘆いたとも記しています。このような所から「太平記」は大納言典侍と御匣殿を合わせて、感動的な哀話を創造したのかもしれません。


尚、今回の「後醍醐天皇皇子・尊良親王墓」は、太平記が記しているように親王の首塚ですが、福井県敦賀市金ケ崎町にある親王を祀る金沢宮の近く、金ヶ崎城跡には自刃の地として「尊良親王御陵墓見込地の碑」があります。

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今回は、左京区南禅寺地区にある皇室関連の史跡の一つです。
左京区南禅寺福地町、観光名所として知られる南禅寺境内にある「水路閣」の横にある石段を登ると、庭園で有名な塔頭・南禅院があります。そこからさらに鐘楼まで登ると、山道の向こうに鳥居のある御陵が見えてきます・・・これが「後嵯峨天皇皇后姞子・粟田山陵」です。
一年を通して観光客の多い南禅寺境内にある史跡なので、あれは何かな?といった感じでこの陵墓をご覧になった方も多いと思います。


さて、粟田山陵と呼ばれるこの陵墓は、鎌倉時代の後嵯峨天皇の中宮・西園寺姞子(さいおんじきつし 1225〜1292)の墓になります。
後嵯峨天皇については、前に「後二条天皇北白河陵」の時に詳しく書いていますので、少し引用して書いてみます・・・「承久の乱」で後鳥羽、土御門、順徳の三上皇が流刑となった後、鎌倉幕府は、後鳥羽の血統を皇位から除外して、後鳥羽の兄・後高倉上皇(守貞親王)系の後堀川天皇、四条天皇を即位させます。しかし、仁治三年(1242)に四条帝が十二歳で事故死したために後高倉上皇(守貞親王)の血統が途絶え、再び後鳥羽の血統から皇位継承者が選ばれることになりました。そして、「承久の乱」に直接関与しなかった土御門上皇の皇子が選ばれました・・これが後嵯峨天皇です。それまで日陰の身だった皇子は、予期せずに天皇に選ばれて、慌てて元服して親王となっています。


仁治三年(1242)、二十三歳で即位した後嵯峨天皇は、半年後に右大臣・西園寺実氏の娘、十八歳の西園寺姞子を女御にし、さらに中宮に冊立しました。寛元元年(1243)、姞子は久仁親王(後深草天皇)を産み、皇子は直ちに立太子されます。そして、寛元四年(1246)、後嵯峨が在位四年で、四歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位して上皇となると、姞子も后位を退いて、宝治ニ年(1248)に女院号宣下を受けて「大宮院(おおみやいん 大宮女院)」の称号を与えられました。翌建長元年(1249)には大宮院(姞子)は、さらに恒仁親王(亀山天皇)を産んでいます。

後嵯峨上皇は、正嘉二年(1258)に後深草天皇の弟で十歳の恒仁親王(亀山天皇)を立太子し、翌正元元年(1259)に後深草に対し、恒仁親王への譲位を促しました。父の圧力で心ならずも譲位させられた十六歳の後深草天皇の無念な気持ちが、その後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立、さらに南北朝時代に至る皇統分裂の原因の一つとなります。
さらに、後嵯峨上皇は文永五年(1268)に、当時三歳の後深草上皇の皇子・熈仁親王(ひろひとしんのう 後の伏見天皇)ではなく、生後間もない亀山天皇の皇子・世仁親王(よひとしんのう 後の後宇多天皇)を立太子しました。

これらのことから、後嵯峨が亀山系の血統に皇位を継承させたいと考えていたことは明らかでしたが、文永九年(1272)に後嵯峨が五十三歳で崩御した際には、遺詔で後深草、亀山両帝への皇室領の配分は示したものの、皇室内の長として実権を握り、また子孫に皇位を継承させることのできる「治天の君」を誰にするかという点については明確な意思を示さず、鎌倉幕府の決定に委ねるとしていました。
このため、宮中では次期政権をめぐって後深草派と亀山派に分かれて対立していきました。鎌倉幕府は、この問題を解決するために、後嵯峨の中宮で、後深草・亀山両帝の生母である大宮院(姞子)に後嵯峨の真意を確認します。そして、大宮院が先帝は内心亀山を望んでいたと表明したことから、亀山天皇が治天の君に選ばれることになりました。後深草は内心、弟を推した母を恨んだのですが、それはともかく亀山天皇が実権を握ることになりました。



文永十一年(1274)に亀山天皇は、八歳の世仁親王(後宇多天皇)に譲位して上皇となり、宮中の改革にも取り組みました。一方、不遇の立場の後深草上皇は、建治元年(1275)に太上天皇の尊号を辞退して出家しようとします。この抗議行動は宮中を大いに驚かせ、伝え聞いた鎌倉幕府も、後深草の不満を解消するために、亀山上皇に奏上して、後深草天皇の皇子・熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させました。自身の子が皇太子となったことから、自分が治天の君となることが保証された後深草は出家を見合わせます。

その後、後深草上皇派の巻き返しが加速していきます。
亀山上皇が宮中改革を推進してきたことや、「霜月騒動」で滅んだ有力御家人・安達泰盛との交流があったこと等が鎌倉幕府に疑われ、弘安十年(1287)、幕府の圧力を受けて二十歳の後宇多天皇は、後深草天皇の皇子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位しました。伏見天皇の即位によって、父・後深草上皇はさっそく院政を開始します。正応二年(1289)には、伏見天皇は皇子・胤仁親王(たねひとしんのう 後の後伏見天皇)を立太子させ、次代も持明院統(後深草天皇の血統)が政権を握ることが確実になりました。これまで大覚寺統に仕えていた貴族達も、一斉に持明院統に鞍替えすることになり、大覚寺統の亀山上皇は、失意のうちに正応ニ年(1289)に四十一歳で出家しました。一方、権力を奪回した後深草も、正応三年(1290)に、四十八歳で出家して引退し、治天の君は後継者の伏見帝に譲られました。


さて、持明院統と大覚寺統が相争う中、後深草・亀山両上皇の母、大宮院(姞子)は、ニ代の天皇の国母(天皇の皇后)として尊敬され、孫達の即位も見届けるなど幸福な生涯を送りました。後嵯峨は多くの女官との間に二十人以上の皇子皇女を得ましたが、大宮院(姞子)程の寵愛を受けたものはいなかったのでした。歴史物語「増鏡」では、平安時代の国母と比較して、これほど子孫に恵まれた果報な方はいないと絶賛しています。また、「増鏡」や女流文学「とはずがたり」では弘安八年(1285)に大宮院が開いた、母・四条貞子(北山准后)の九十賀(九十歳の祝賀)の盛大な様子を延々と描いていて、この雅会は鎌倉時代最大規模の華やかなものだったようです。(因みに、この四条貞子(北山准后)は乾元元年(1302)に、当時としては驚異的な百七歳という長命で亡くなっています。)

さて、大宮院(姞子)は、正応五年(1292)に六十八歳で亡くなり、火葬の後、後嵯峨上皇が文永元年(1264)に離宮(禅林寺殿)として造営し、正応四年(1291)に亀山上皇が寺院に改めた禅林寺(ぜんりんじでん 後の南禅寺)に近い粟田山に埋葬されました。
粟田山陵の参道入口は閉じられているため、遠景でしか陵墓を見ることが出来ませんが、山側の道から眼下に見下ろすことが可能です。

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