京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市北区等寺院中町にある六請神社(ろくしょうじんじゃ)は、観光名所として知られる等持院のすぐ東に鎮座する神社です。等持院を訪れる観光客の中には、何となく側に神社があったことを覚えている人もいるのではないでしょうか。
(鳥居の横には、神社の来歴を解説する京都市の掲示板がありますが、少し解り難い表現が多いのが難です。一応掲示板を引用しながら書いてみます)


六請神社は、伊勢、石清水、賀茂、松尾、稻荷、春日の六大神を祭神とする神社です。これら六神は、平安時代の延喜式二十二社の中でも最も重要視しされた上七社(平野神社を除く)から選ばれているようですが、いつ頃、どのような過程で祀られたのかなど不明な点は多いようです。

京都市の掲示板を参照すると、この神社は平安京以前から衣笠山麓に鎮座していたといわれ、「衣笠御霊」や「衣笠岳御霊戸」とも呼ばれていたということです。御霊とあるように、古代からこの衣笠の地(京都市の西北の衣笠地域は、衣笠山を背景として、南東の山裾に金閣寺から竜安寺に至る有名寺院があることで知られています)を開拓し、亡くなると衣笠山麓に埋葬された人々の霊を合せ祀ったのに始まると考えられています。
そして、かつて、開拓の祖神を、「天照国照神(あまてるくにてるのかみ)」や「大国御魂神(おおくにみたまのかみ)」と呼んでいたことから、衣笠開拓の守護神として祀られていた天照国照が、いつしか六請神社の祭神に天照大神ら六柱を勧請して六請神というようになったということです。
また、六請神となった理由としては、衣笠の地は中世以来埋葬地となっていたことから、霊を守る六地蔵の信仰と習合して六の字が社号に加えられ、伊勢・岩清水・賀茂・松尾・稲荷・春日の六神を祀ったのではないかと考えられるようです。


また、神社の由緒書きによると、六請神社は、桓武天皇の延暦年中(782〜805)に衣笠山麓に鎮座した古社と伝えられます。その後、清和天皇の貞観元年(859)十一月、同六年(864)十一月上の申の日に祭礼が営まれ、室町時代になって、後小松天皇の応永四年(1397)、足利義満が六座の大神を等持院の側に勧請したということです。再び京都市の掲示板を引用すると、この時、等持院の鎮守社として境内に祀られ、明治時代の神仏分離令によって等持院の東の現在の地に遷座しました。
また、六請神社は松尾大社の遥拝所としても知られ、現在も、等持院・小松原(等持院の東、平野の西にある区域)一帯の産土神して崇敬されています。

最後に、境内には、末社の力石大明神が祀られています。
大きな石が祀られていて、この石は古来、祈願して持ち上げられれば、あらゆる力を授かると伝えられます。古くから地元の氏子多数が持ち上げて安産、学力、試験、就職等々の誓願成就の力を得てきているということですが、さすがに重いので、代わりに神社で小石を授かって祀っても同様のご利益があるということです。

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昔ながらの街並みが続く西陣の中心を南北に通る大宮通の、北は盧山寺通から南は上立売通の間の界隈は「あぐい」と呼ばれ、千本通や新大宮通と並ぶ西陣を代表する商店街となっています。(特に戦前までは、京都でも有数の繁華街の一つだったようです。)
この「あぐい」の名は、かつて大宮通寺之内を中心に「安居院(あごいん・あぐい)」と呼ばれた寺院があったことに由来し、元々の寺院名「あごいん」が、「あぐいん」「あぐい」と転化していったと考えられています。今回は、この「安居院(あぐい)」こと、西法寺(さいほうじ)を採り上げました。



さて、上京区大宮通寺ノ内上る三丁目東入る新ン町にある安居院・西法寺は、浄土真宗本願寺派の寺院です。元々は、安居院(安居院法印房)と呼ばれていましたが、安土桃山時代に再興された際に、寺名を西法寺と改めました。
寺院の創建年代は、応仁の乱や天正元年(1573)の織田信長による上京焼打ち等の数度の火災によって古記録を焼失したために不明な点が多いようですが、寺の伝承によると、安居院は、比叡山延暦寺山内の東塔竹林院の里坊(洛中に置かれた別院)として、平安時代末期に澄憲僧正(ちょうけん 1126〜1203)が大宮通寺之内上る前之町付近(現在の妙蓮寺の西付近)に創建したと伝わります。

澄憲僧正は、平安時代末期の政治家で保元平治の乱との関わりでも知られる少納言・藤原通憲(信西)の第七子に当たります。澄憲は、比叡山延暦寺の東塔北谷竹林院に住んで、安居院の法印と呼ばれ、承安四年(1174)の旱魃の際には、祈雨の法で雨を降らすことに成功して権大僧都に任じられました。また、説法の名人といわれ、安居院流の唱導(神仏の功徳を説いて信仰を広める行為)の祖となった高僧です。建仁三年(1203)に澄憲は亡くなりますが、その後、安居院(安居院法印房)・第四世となったのが、澄憲の長男・聖覚法印でした。(尚、安居院は二十八世まで歴代は血族相続をしてきたということです。)



聖覚法印は、天台僧として皇族・貴族と親交を持つ一方、浄土宗開祖・法然上人に帰依して、その父澄憲譲りの雄弁術を駆使して念仏布教に大きく貢献します。念仏が民衆に広く浸透した理由として、解りやすい例話や身振り手振りの演出を加えた感情表現豊かな説法方法の効果が大きかったのですが、聖覚はこのような説法の先駆者でもありました。こうして、聖覚は法然から最も信頼される存在となり、法然は「自分が亡くなった後は、念仏に関しては聖覚法印に聞くように(御往生の後は疑をたれの人にか決すべきと、上人にとひたてまつりけるに、聖覚法印わが心をしれりとの給へり)」と語ったと伝えられます。

また、比叡山で親交のあった五歳年下の親鸞上人に勧めて、法然上人に引き合わせたのも聖覚でした。親鸞は、間もなく比叡山を降って肉食妻帯の生活に入りますが、澄憲や聖覚が天台僧でありながら比叡山を離れて安居院で早くから肉食妻帯していたことから、聖覚との親交が親鸞の生活態度に少なからず影響したという説もあるようです。その後も、親鸞は聖覚を先輩として尊敬し、その著書「唯信鈔」を念仏理解の重要な書物と考えていました。
さらに、一の谷の戦いで平敦盛を討って世の無常を感じた熊谷直実に、法然を紹介したのも聖覚でした。聖覚は訪ねてきた直実に対し、自分より法然を訪ねるべきだと勧めました・・やがて、建久四年頃に法然の元で出家した直実は、蓮生坊と名乗ったと伝えられます。

その後、澄憲や聖覚が生み出した安居院流唱導の技術は、代々受け継がれて娯楽的な要素を加え、教義などを平易に表現した詞を、節回しを付けて語った節談説教として発展します。そして、こうした説教の大衆化娯楽化は、後に日本の話芸と呼ばれる浄瑠璃、講談、浪曲、落語等の大衆芸能を生み出していくことになります。



さて、中世には安居院流唱導の本拠地として安居院は、皇室との関係も深かったようですが、応仁の乱や天正元年(1573)の織田信長による上京焼打ち等の数度の火災によって焼失して荒廃しました。
ようやく、文禄二年(1593)、第二十八世・明円法師が、安居院を再建して寺名を西法寺と改め、この時に創建以来の天台宗を浄土真宗に改宗しました。
安居院の中興となった明円法師は、親鸞聖人に帰依し高弟となった西念房の十三代目の孫に当るとされ、伊勢の野田に居住していましたが、京都の聖覚法印の墓に詣でるために安居院を訪ねたところ、その荒廃ぶりに驚いて、これを復興しようとします。資力不足から、安居院のあった大宮の広い土地を売却して、現在地に聖覚法印の墓を移して一宇を建立し、その後、慶長十八年(1613)、本願寺の准如上人から西法寺の寺号を与えられました。明円は元和六年(1620)に亡くなりましたが、その後、現在まで十七代に渡って子孫が継承しているということです。



さて、西法寺の境内には、礼拝堂の奥に聖覚法印の墓があります。
立派な五輪党の墓の左には聖覚法印の真筆を拡大した「全同弥陀」の文字が刻まれた石碑が立っています。聖覚法印降誕八百年記念に建立されたもので、「全同弥陀」とは、聖覚が御仏と同体にさせていただけることを喜んだ言葉ということです。
右側には十数体の鎌倉時代の五輪塔の残欠や室町時代の石仏が置かれています。これら残欠や石仏群の中で、最も目立つのが一体の板状の五輪卒塔婆です。高さ九十八センチの花崗岩製の卒塔婆には、上部の空輪から水輪にかけて南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれ、その下、地輪部には阿弥陀如来が刻まれています。また、側面には鎌倉中期の永仁二年(1294)の銘があります。
他に宝篋印塔の笠部分があり、元は聖覚法印の墓の中で遺骨を納めていたということですが、明治十六年(1876)に掘り出されたものということです。これらの卒塔婆石、五輪塔残欠や石仏群は、昭和初期(大正末年)に、かつての安居院跡地(大宮通寺之内上る前之町付近)の工事中に出土したものです。

大正時代末まで前之町付近には、船岡山の山麓から大宮通の盧山寺通を通って上立売通の間まで有栖川という川が流れていて、上立売通で東に折れて堀川に合流していたということです。そして、昭和の都市整備による川の暗渠工事で地下を掘ったところ、これらの石塔や仏像が出土したのでした。
これらの浄土信仰の遺物から当時の信仰の様子やかつての安居院の寺域の規模が判明し、この貴重な遺品は西法寺に祀られることになりました。また「あぐいの井戸」とか「法印の井戸」、「念仏井戸」とも呼ばれていたかつての安居院の井戸も発見されています(前之町の西にある若井商店の井戸)

その他、現在の本尊阿弥陀如来を祀る本堂正面の安居院の額は、明治十六年(1883)聖覚法印の六百五十遠忌の際、山階宮晃親王より賜ったものということです。また、寺宝として、聖覚法印の念持仏という地蔵菩薩像、聖覚自筆の「四十八願釈」、蓮生坊(熊谷直実)が陣羽織を仕立て直して作ったという袈裟等があります。



最後に、今年は「源氏物語千年紀」として、源氏物語が話題ですが、源氏物語がらみで西法寺を訪れる研究者なども多いということです。西法寺には、紫式部の亡霊を供養する「源氏表白」が伝承されていて、毎年四月の聖覚忌に聖覚法印が作文したという「源氏供養 表白」が唱和されているからです。

さて、平安時代には、釈迦入滅後二千年目を越えた永承七年(1053)以降、釈迦の教えの及ばない末法の時代に入ると考えられ、阿弥陀信仰・浄土思想が流行しました。狂言や綺語(嘘や戯れ事)を用いる文学も地獄に落ちる因になると批判され、特に好色な表現を用いた「源氏物語」の作者である紫式部は罪悪も深く、地獄に落ちて苦悩していると考えられたのです。(紫式部の地獄堕ちについては、藤原信実が編集した「今物語」、平康頼の仏教説話集「宝持集」等に描かれています。)
そのため、地獄に堕ちた紫式部を救うために、当時の文人や歌人は「源氏供養」という宗教行事を行いました。この供養法会で唱演されたのが、今も西法寺に伝わる安居院の聖覚法印作と伝わる「源氏表白」です。

「源氏表白」は、永万二年(1166)頃に成立したという聖覚の父・澄憲作の漢文体「源氏一品経表白」に基づいたもので、仮名文で「源氏物語」の各巻の名前を読み込んだものに改作しています・・・
「きりつほのゆうへのけふりすみやかに法性の空にいたり、はは木々のよるのことの葉は、つゐにかくしゆの花をひらかむ、空蝉のむなしき世をいとひて夕顔の露の命を観し、わか紫の雲のむかへを得て、すゑ摘花のうてなに座せしめむ・・・」そして、最後に「ねがわくは狂言綺語のあやまちをひるかへして、紫式部が六趣苦患をすくひためへ、南無當来導師弥勒尊、かならす転法輪の縁として、是をもてあそはん人は安養養浄刹にむかへたまへとなり」と結んでいます。

このように「源氏表白」では、紫式部だけでなく、源氏物語を楽しむ読者にまでその罪が及ぶとされていて、その救済を祈願した内容になっています。そして、この「源氏表白」は広く伝えられて後に物語化され、源氏物語に耽溺したため仏道に専心出来ないとして安居院を訪ねた尼僧の依頼により供養するという「源氏供養草子」や石山寺に詣でた安居院の僧に紫式部の亡霊が供養を頼むという謡曲「源氏供養」等の元になりました。



(突然の訪問にもかかわらず、ブログのネタとなる多くの資料を下さったお寺に感謝します。)

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