京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

上京区小川通寺之内下ル射場町にある報恩寺は、「鳴虎(なきとら)」の通称で知られるお寺です。
この珍しい通称は、報恩寺が所蔵する「鳴虎図」に因んでいます。境内にお寺の歴史についての表示板があるのでそれに基づいて書いてみます。


報恩寺は、正式には尭天山佛牙院鳴虎報恩寺という浄土宗寺院で、本尊は鎌倉時代の名匠・安阿弥快慶の作と伝わる阿弥陀三尊像です。

報恩寺の前身は明らかではありませんが、寺伝よれば、室町時代中期までは一条高倉付近(現在の京都御苑内、後に有栖川宮高松殿邸となりました。)にあり、「法園寺」または「法音寺」という天台・浄土等の八宗兼学の寺院だったようです。
その後、文亀元年(1501)に後柏原天皇の勅願により西蓮社慶誉(きょうよ)上人(一風明泉和尚)が堀川今出川の舟橋の地に再興し浄土宗寺院となりました。この時に寺号を報恩寺と改めて後柏原天皇より勅額を賜ります(この額は享保の大火により焼失しました。同じくその他、仏舎利、浄土変相、千体地蔵尊像、虎の図、興正菩薩の二十五条袈裟等の寺宝を賜って、現在当寺や京都国立博物館で保管しているということです。)

その後、天正十三年(1585)に豊臣秀吉の命により現在地に移り、天正十五年(1588)正月には、移転地での再建完成を前にして後陽成天皇より完成祝賀の御消息や六字名号賜っています。また、慶長五年(1600)には、大阪城城代だった備前国福山藩祖・阿部正勝が報恩寺に埋葬され、二年後には弟父子も葬られています。
さらに、元和九年(1623)には、九州筑前(福岡県)の大名・黒田長政が報恩寺で死去しています・・この年、徳川秀忠・家光父子が御所への参内のために上洛し二条城に泊まりますが、合わせて黒田長政も江戸から入洛し、この報恩寺を宿舎としました。しかし持病が悪化し、将軍からの見舞や大坂から呼んだ名医の手当ての甲斐も無く、八月四日報恩寺の客殿で死去しました。
(遺骸は筑前博多筥崎で火葬、埋葬されました。後の再建ですが報恩寺の客殿には黒田長政が死去した部屋もあります。)



ここで「鳴虎」の由来の面白いエピソードについてです・・・
「鳴虎」とは、文亀元年(1501)に後柏原天皇から賜った寺宝の虎の掛け軸のことです。
中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)という署名があり、宋〜明時代に画かれたと推測されています。山岳地域を背景に虎が谷川の水を飲んでいる様子を描いていて、背後の松にはカササギが止まり、虎の毛が一本一本描かれて立体図のように浮き出ています。また左からと右からとでは姿が違って見えるということです。

その昔、豊臣秀吉が報恩寺に来寺した際、この虎の図が気に入って聚楽第に持ち帰って床に掛けて楽しんでいた所、夜になると虎が吠えて一晩中眠れず、「これは鳴虎じゃ。早く寺に返せ」と翌朝早々に寺へ帰したところ、静かになったということで、この掛け軸は「鳴虎」として有名になり、寺も「鳴虎報恩寺」という称号を用いるようになったと伝えられます。
(この虎の絵は、寅年の正月三が日に限り特別公開されますので、後2年待ちたいと思います。)




さて、その後の報恩寺ですが、享保十五年(1730)の享保の大火のために、報恩寺は類焼しますが、本尊阿弥陀如来像、仁王像、地蔵尊像、絵画類、古文書等は難を逃れました。
その後、再建が始まります・・・享保十八年(1733)九月に本堂再建の祈願法要が行われ、元文二年(1737)十一月に本堂再建の上棟式、十二月に遷佛法要が行われます。元文三年(1738)四月には本堂の再建入佛大法要が行われています。寛保三年(1743)三月に快慶作と伝わる仁王像の修理が完了、開眼供養が行われました。延享三年(1746)十一月には、文亀元年(1501)に後柏原天皇から賜った鳴虎図の表装を改装修理、延享五年(1748)五月、賓頭盧(びんずる)尊者像の修理完了、開眼供養を行います。(昭和五十四年(1979)に塗り替え修理開眼供養)・・
こうして、徐々に再建されてきた報恩寺ですが、天明八年(1788)一月に全京都を襲った天明の大火によって再び類焼炎上しました。
享和元年(1818)四月にようやく客殿、玄関、内玄関が再建され、この客殿(方丈)に本尊阿弥陀三尊像を祀ります。しかし、本堂と庫裏は現在までも再建されないままになっています。




また、報恩寺で知られるのは、重要文化財に指定されている梵鐘です。
この梵鐘は、その由来は不明ですが、高さ123.5cm、口径73cm、素文の銅鐘です。高い笠形で肩すぼまりの形態、乳の形や八角素弁小形の撞座(つきざ)2個が龍頭(りゅうず)の方向と直交している等の奈良時代以来の古式を残す平安時代鋳造の鐘ということです。
昔から西陣の付近一帯の機屋は、この鐘の音を聞いて一日の仕事の初めと終わりの合図にしていたということですが、一名に「撞かずの鐘」、「撞くなの鐘」とも言われていて、悲しい伝説が伝わります・・・

ある織屋に仲の悪い丁稚(でっち)と織女(おへこ)がいましたが、ある時、報恩寺の夕方の鐘が幾つ鳴るかで賭けをしました。丁稚は八つと言い、織女は九つと言って争います。
悪賢い丁稚は密かに寺男に頼んで、今日の夕方だけは八つで止めてほしいと頼んで約束させました。何も知らない気の良い寺男は簡単に引き受けてしまったのでした。さて、夕方になり鐘は鳴り始めますが、丁稚の計画通り八つで終わってしまいました。

本来、鐘は百八つの煩悩を除滅することを願って撞くもので、百八が基準で、百八を十二の時で割って、九つづつ撞くのが正しいのでした。(十二分の一、六分の一、四分の一、二分の一等に分けて撞くこともあるようです。)この賭けに負けた織女は、悔しさと悲しみのあまり狂気となって、鐘楼で首を吊って自殺してしまいました。
その後、怨霊の祟りのためか鐘を撞くと不吉な事が生じるので、寺では織女の霊を厚く供養して菩提を弔い、また朝夕に鐘を付くことを止めて除夜と大法要の時のみに撞くことになったということです。(除夜には一般参詣者も一回づつ鐘を撞くことが出来ます。)



また、門前にある石橋は、慶長七年(1602)に秀吉の侍尼・仁舜尼から寄進されたもので、今は埋められた小川(こがわ)の名残を止める貴重な遺産でもあり、桃山時代の貴重な石造美術品として知られます。他に境内には、新しい地蔵堂、稲荷社、宮内庁が管理する後西天皇皇女・賀陽宮墓があります。

さらに、報恩寺は、観世流能楽、謡曲の家元の観世家歴代や志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺でもあり、報恩寺ゆかりの仁舜尼や福山藩祖・阿部正勝等の墓碑を併祠しています。その他、秀吉からの現在地への移転に関する下知状、後陽成天皇の御消息や六字名号、後西天皇の宸翰、有栖川宮、華頂宮の写経、名号等多くの書画を所蔵しています。
(桜の頃の写真も掲載しておきます)

全1ページ

[1]


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事