京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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今回も、前回の住吉神社と同様に平安時代末期〜鎌倉時代初期を代表する歌人・藤原俊成(ふじわらのとしなり しゅんぜい)ゆかりの神社、下京区烏丸通松原西入る玉津島町にある新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)です。


新玉津島神社の祭神は、玉津島明神、即ち、稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長帯日女尊(おきながたらしひめのみこと)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)です。
創建は、平安時代末期の文治二年(1186)、藤原俊成が紀州(和歌山県)の和歌浦の玉津島神社から、和歌の神様の衣通姫(そとおりひめのみこと)の分霊を左京五条室町の自邸内に勧請したことに始まります。その後、新玉津島神社は荒廃していたようで、室町幕府初代将軍・足利尊氏が再興し、二代義詮にも引き継がれたようです。また俊成邸はこの頃、歌人としても知られる中納言・二条為明(1295〜1364)が拝領し、貞治二年(1363)に為明が後光厳天皇から「新拾遺和歌集」の選定の命を受けた時、和歌所が置かれ、貞治六年(1366)に歌合せが催されています。神社もこの頃には再建されていたのでしょう。その後、応仁の乱により荒廃しますが、前回に取り上げたように室町時代末期に正親町天皇が、同じく俊成邸跡地の住吉神社を再興したのと合わせて新玉津島神社も現在地(玉津島町)に再興されたようです。江戸時代の名所図絵には、住吉の松が植えられた広い境内が描かれていて、当時は現在とは違って由緒ある神社らしい雰囲気が漂っていたことが想像できます。


さて、現在、新玉津島神社の鳥居横には「北村季吟先生遺蹟」の石碑が建立されています。
江戸時代の国学者・歌人の北村季吟(1624〜1705)は、松永貞徳(1571〜1653)に俳諧や和学を学び、特に多くの古典の注釈書を著しました。この石標は、季吟が天和二年(1682)から元禄二年(1689)に幕府歌学方として江戸に下るまで、新玉津神社の社司として社殿修復に努めながらこの地で過ごしたことを示しています。
また、青年時代の松尾芭蕉は、二才年上の伊賀国上野の城代の子息・藤堂良忠(俳号は蝉吟 とうどうせんぎん 1642〜66)に仕えていましたが、藤堂良忠(蝉吟)が北村季吟の弟子だった関係から、芭蕉も季吟に師事して俳諧の道に入りました。そして、二十五歳の若さで藤堂良忠(蝉吟)が亡くなったことに世の無常を感じ、仕官を退いて俳諧に専念する人生を送ることを決意したといわれます。
延宝二年(1674)に芭蕉は季吟から俳諧の秘伝書「埋木」を与えられたとも伝えられ、これによって俳諧の免許皆伝を得た芭蕉は、いよいよ江戸で宗匠として職業俳諧師の道を進むことになったのでした。このような関係で、新玉津島神社は芭蕉関連史跡としても知られているようです。
他に新玉津島神社境内には、末社として天満宮と秋兼神社を祀っています。

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以前に、平安時代末期〜鎌倉時代初期を代表する歌人・藤原俊成(ふじわらのとしなり しゅんぜい)を祀る俊成社(下京区烏丸通松原下る俊成町)を採り上げました。今回も、同じく藤原俊成ゆかりの神社、下京区醒ヶ井通高辻下る住吉町にある住吉神社です。


住吉神社の祭神は、住吉大神で、即ち田霧姫神(たぎりひめのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、底筒男神(そこつつおのかみ)、中筒男神(なかつつおのかみ)、表筒男神(おもてつつおのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)、武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)の諸神を合祀しています。
社伝によると、住吉神社は平安時代末期の保元二年(1157年)、後白河天皇の勅命によって藤原俊成が摂津国(大阪)住吉より、左京五条室町(五条烏丸)の邸宅内に住吉明神の分霊を勧請し、新住吉(にいすみよし)と称して祀ったことが始まりと伝えられます。住吉明神は航海の神として知られると共に(また安産の神としても崇敬されました)、いつしか和歌の神としても崇敬され、この理由で歌人の第一人者の俊成の邸内に祀られたのでした。
また、俊成は同じく歌道の神として玉津島明神も邸内に勧請しています。(次回にこの新玉津嶋神社を採り上げます。)尚、歌道流派により違いがありますが、住吉明神、玉津島明神、柿本人麻呂はいつしか「和歌三神」と崇拝されるようになりました。


以来、住吉神社は、朝廷をはじめ多くの人々の崇敬を集め、和歌所の別当が奉斎して隆盛を極めましたが、応仁の乱の兵火にかかって社殿全て焼失しました。ただし御神体だけは無事で、その後、永禄十一年(1566)に、正親町天皇が神社の荒廃を惜しんで現在の醒ヶ井通の地に遷座させ社殿を造営しました。その後は歴代の天皇の崇敬篤く、歌道の伝受に際しては勅使が派遣されて代拝していました。
正徳三年(1713)中御門天皇から神輿その他を拝領し、また寛延二年(1749)と明和三年(1766)には菊花御門の提灯を拝領しています。その後、天明の大火(1788)で焼失しますが、寛政十年(1798)に金五十両を賜って再建、文久四年(1864)には孝明天皇より神輿修復費用として銀二十枚を賜っています。その後、元治元年(1864)の禁門の変の際の火災により類焼、同年九月に金百円を賜って再建。また、有栖川宮その他皇族からの寄付も度々あったようです。
明治時代に社殿が再び荒廃したために、明治三十二年(1899)に、藤原俊成の祖先になる伯爵冷泉為紀が平安時代以来の名跡を保存するために広く寄付をつのり、 同十一月に現在の社殿が建立されたということです。


また境内には末社として人丸神社と熊丸稲荷神社があります。
人丸神社は、住吉明神、玉津島明神と並んで「和歌三神」といわれる柿本人麻呂を祀っています。
人丸神社は、江戸時代の「拾遺都名所図会」では、「人丸御霊社(ひとまるごりょうのやしろ)」の名前で掲載されています。それによれば、明和六年(1769)に藤原俊成の祖先になる前大納言・冷泉為村が、「和歌三神」の内、新住吉社と新玉津社があるのに、柿本人麻呂を祀る神社が現存しないことを惜しんで俊成邸跡付近を探したところ、ただ御霊祠と呼ばれていた小社を見つけて、これこそかつて俊成が勧請した神であるとして崇敬したことから、町内でもそのことを知って社殿を修造したと記されています。

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