京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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下京区七条御所ノ内本町、JR京都駅からニキロ程西にある若一神社(にゃくいちじんじゃ)は、特徴の無い小さな神社が多い下京区では、観光スポットといえる割と良く知られた神社です。
西大路八条の交差点横という車の行き交う街中にありながら、道路にはみ出すばかりのこんもりとしたクスノキの大樹が植えられていて、都会の雑踏を忘れさせてくれる憩いの空間となっています。
広く厳かな雰囲気の神社空間が好きな方にはお勧めしませんが、個人的には武信稲荷神社(中京区 以前に採り上げています)と共に、中京・下京区内の神社の中では親しみやすい最も好きな神社になっています。



さて、若一神社のあるこの地は平清盛が六波羅に居住していた頃、西八条殿(西八条第 八条亭 西八条御所)という別邸を建てた地と言われています。当時、この地は、水源が豊かで大木が立ち並ぶ浅水の森と呼ばれた風光明媚な場所で、清盛もしばしば来遊していたということです。そして、承安年中(1171〜75)にこの地に別邸を造って住在し、西八条殿(西八条第)と称しました。
西八条第は、平安京の左京一坊の八条大路(現八条通)の北、東は大宮大路(現大宮通)から西はメインストリート朱雀大路(千本通)付近に至る六町という広大なもので、敷地には五十余の邸があり、現在の梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地付近に位置していました。後に、清盛が出家して福原(神戸市兵庫区)に移った後は、主に清盛の妻・時子(二位尼 にいのあま)が居住していましたが、寿永二年(1183)七月の平家都落ちの際、西国へ逃亡する平家一門の手によって火を放たれて焼失してしまいました。


さて、若一神社は、この西八条殿(西八条第)の鎮守社として建てられたと伝えられ、境内の入り口には「平清盛公西八条殿跡」の石碑があります。(ただ、神社の位置は西八条殿(西八条第)跡から少し外れているので、西八条殿(西八条第)との関係は後世の伝承とも考えられるようですが)
祭神は、熊野大権現の第一王子「若一王子」ですが、御神体は神社の建つ以前からこの地に祀られていたといいます・・
社伝によると、この若一王子の御神体は、元々光仁天皇の時代の宝亀三年(772)、唐から渡来して天王寺に居住していた威光上人が、人々の救済のために熊野権現の分霊・若一王子の御神体をこの地に勧請したものと伝えられます。威光上人は、紀州熊野から分霊・若一王子の御神体を背負ってこの地まで来ましたが、森の中の古堂で一夜を明かした際、神意を受けてこの堂中に安置したということです。その後、時代の推移により御神体は、土中に埋まってしまったのですが、平安時代に平清盛によって掘り出されることになります。

さて、仁安元年(1166)八月、平清盛が紀州熊野に詣でた際に、熊野権現が現れ「汝が住んでいる西八条殿には、吾が中宮若一王子の神体が土中に埋まっているので、これを掘り出して鎮守として祀れば、汝の出世を守護しよう。」というお告げを受けます。清盛は帰京の後、早速邸内を探していると、庭の東方築山より夜光が放たれました。喜んだ清盛は、自ら約一メートル堀って若一王子の御神体を探し出し、社殿を造って西八条殿(西八条第)の鎮守社としました。時に仁安元年(1166)十一月十日と伝えられています。早速、神社に開運出世を祈ったところ、早くも翌仁安二年(1167)二月には、清盛は太政大臣に任ぜられることになりました。喜んだ清盛が昇進を感謝して自ら植えたのが、若一神社のシンボルになっている巨大な御神木のクスノキと伝わります。その後も、清盛の勢威は益々伸びたことから、現在も開運出世のご利益のある神様として崇められています。



若一神社といえば、クスノキの御神木ですが、樹齢八百年を超えるというこのクスノキは、神社の境内と歩道で分断されて、一段高い位置に石垣で囲まれています。根元には小さな祠「楠社(くすやしろ)」が建てられ御神木を祀っています。幹周はそれ程大きくありませんが、若一神社というより、西大路八条の町のシンボルといってもいいでしょう。商店や会社が建ち並ぶ西大路通ですが、この御神木の存在によって、この一角だけは夏場も涼しい癒しの空間になっています。
かつては広い敷地のあった若一神社ですが、昭和八年(1933)に西大路通が開通整備された時に、敷地を大きく削られて、周囲に広がっていたクスノキの太い根も一部切断されてしまいました。しかし、この御神木自体の撤去作業は清盛の祟りがあるとして作業が中止され、結局、西大路通は、この大樹を避けて少し西斜めに曲げて開通したのでした。こうして、現在も車道と歩道の間に一角が設けられて御神木が守られています。

また、境内には、多くの末社が祀られています。
天正年間(1573〜93)に播州の高砂神社より勧請したという寿命社は、能「高砂」で知られる高砂尉と姥を祭神として、夫婦円満・子孫繁栄・延命長寿にご利益があるということです。また、正徳五年(1715)に竹生島より勧請したと伝えられる弁財天社は、祭神を市杵島姫命として芸能・音楽・福運にご利益があります。他に松尾大神を祀る松尾社、伏見稲荷大社より勧請した稲荷社、昭和五十八年(1983)に建立して当神社の神職及び総代等を祀る祖霊社があります。

また、「神供水(じんぐすい)」と呼ばれる銘水があります。平清盛が、西八条殿(西八条第)の鎮守社として神社を建立奉斎して以来、日供祭(にっくさい=毎朝行われる崇敬者の安寧を祈る祭り)で御神前に供えられてきたという御神水です。古くから銘水として知られる地下水で、開運出世の水として、また新生児誕生に際しての産湯としても有名ということです。そして、現在も開運出世のご利益があるとして、持ち帰り自由のこの水を汲みに来る人々も多いようです。他に、小さな池庭や平清盛像、「萌出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき」という平家物語ゆかりの「祇王歌碑」等が点在し、小さな隠れ家的な雰囲気もあります。

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下京区七条七本松東入る朱雀裏畑町、七条千本商店街の裏にある権現寺(ごんげんじ)を採り上げます。
権現寺は七条通りから少し奥にあるために、表通からは気づきにくい小さなお寺ですが、山門の手前右には六条判官と称した源為義の墓があるので、源平時代に関心のある方にはお勧めです。(為義の墓は、山門の外にあるので自由に見学できます。観光寺院では無いので、境内に入るのはお寺の方に声をかけてからの方が良いでしょう。)


さて、権現寺は、山号を清光山という浄土宗寺院で、本堂に阿弥陀如来蔵を祀ります。
また、地蔵堂には愛宕権現の本地仏の勝軍地蔵を祀ることから、「朱雀の権現堂」、「朱雀の地蔵堂」と呼ばれて親しまれてきました。権現寺は「太平記」の巻八にも登場し、鎌倉幕府の六波羅探題軍と後醍醐天皇に呼応して挙兵した赤松円心軍が「朱雀の地蔵堂」付近で交戦しています。

寺伝によると、この将軍地蔵は、元々大和国(奈良県)の元興寺に祀られていましたが、平安遷都後の天安二年(858)に七条朱雀(現・中央市場のある七条千本付近)の歓喜寺に移されたのが起源といわれます。その後、戦乱で歓喜寺は荒廃しますが、権現堂のみは今日まで残ったということです。そして、明治四十五年(1912)、京都駅停車場(現JR京都駅)拡張による国鉄山陰線の敷設の影響で、旧地の西にある現在地に移されました。



さて、権現寺の将軍地蔵堂には、将軍地蔵の他に、厨子王丸(ずしおうまる 厨子王 他に津子王、対王丸とも)の危難を助けたという身代わり地蔵が祀られています。
厨子王といえば、姉の安寿と共に森鴎外の小説「山椒大夫」など小説や演劇の題材となった中世の説話「さんせう太夫」の主人公として知られる伝説上の人物です。「さんせう太夫」の粗筋はよく知られていますが、少しだけ書いてみます・・・

厨子王は、物語では陸奥国(青森県)の太守・岩城判官政氏の子とされています。
厨子王は、母と姉の安寿と共に、讒言によって筑紫(福岡県)に流された父を訪ねて旅に出ますが、越後国(新潟県)直江津で人買いに騙され、母は佐渡に、姉弟は丹後由良港の長者・山椒大夫に売り渡されてしまいます。その後、姉弟は山椒大夫のもとで日夜過酷な目にあいました。
ついにたまりかねた厨子王は、我が身を犠牲にした姉の計らいで密かに脱出して、丹波を経て都の七条朱雀野まで辿り着いて、傍にあった地蔵堂に助けを求めて逃げ込みました。可哀想に思った寺僧は厨子王をつづらに入れて天井に吊るし匿います。やがて、追手が寺を訪ねてつづらを怪しんで開けてみましたが、厨子王の姿はなく、中には一体の地蔵尊が入っていました。こうして、追手は仕方なく立ち去りました・・厨子王が日々念持仏として地蔵尊を崇敬していたため、この地蔵尊が身代わりとなって危難を救ってくれたのでした。
(厨子王のその後についてもよく知られていますが・・・厨子王は朝廷より父の旧国を与えられて岩城家を再興、また領主として丹後に赴いて山椒大夫一族を処刑して、犠牲となって死んだ姉の復讐を果たします。そして、佐渡で懐かしい母に再会することになります。)

この地蔵堂が権現寺で、今も将軍地蔵堂には、この厨子王丸の身代り地蔵が祀られていて、以上のような伝説から、この地蔵尊には「災難除け」のご利益があるとして信仰されています。この地蔵尊は、高さ七センチの金銅製の小像で、胴の辺りに傷があるのは、厨子王の代わりにうけた傷跡といわれています。また、厨子王を匿ったというつづらの断片も寺宝として保存されています。
権現堂内部は普段非公開ですが、毎年八月二十日頃の土日には、堂が開帳され、将軍地蔵と身代わり地蔵を拝観することができるということです。
その他、本堂と阿弥陀堂の間には、小石仏二十体程に混じって、高さ一メートル程の花崗岩製の聖観音石仏坐像と地蔵石仏坐像が置かれています。二体の石仏は蓮華座を設けて像高七十五センチの像を厚肉彫りしていて鎌倉時代後期の作と考えられています。中々良い雰囲気の石仏群だと感じます。(写真)




さて、権現寺の門前には、世に「六条判官」と呼ばれた河内源氏の棟梁・源為義の石塔残欠を集めた供養塔があります。源為義は源氏の衰退期の棟梁として、「保元の乱(1156)」で処刑されたことで知られる人物です。

為義は、対馬守源義親の子として永長元年(1096)に生まれました。「前九年の役」や「後三年の役」で活躍して武勇の士として知られた「八幡太郎」義家は祖父に当ります。父義親は、「平家物語」の冒頭で「承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼・・」と「奢れるもの久しからず」という反乱者の例として語られているように、康和三年(1101に)九州で、その後出雲(島根県)で再び反乱を起こしたと伝えられています。このため、幼少の為義は祖父・義家の養子として育てられました。
嘉承ニ年(1107)、朝廷は義親の追討使として平正盛を派遣し、反乱は一月余りで平定され義親も殺害されたとされますが、その後も、義親を名乗る者が相次いで現れるという大きな騒動となりました。また、この間、嘉承元年(1106)に、一族の要だった義家が死去したこともあり、源氏一族には内紛が発生し衰退していきます。

為義は、祖父義家の死後は、義家から河内源氏の家督を相続した叔父の義忠(義家の子)に養育されますが、義忠は天仁二年(1109)、夜の闇の中で暗殺されてしまいます。
当初、暗殺の黒幕は大叔父の「賀茂次郎」義綱(義家の同母弟。義家と一時対立関係にありました)とされたために、養父の死で家督を相続した為義は、白河法皇の命によって逃亡した義綱一族を近江で捕らえました(後に流刑先の佐渡で義綱を殺害)しかし、その後、義忠暗殺の主犯は、大叔父の「新羅三郎」義光(源義家の同母弟)だったことが判明します。
義光といえば、「後三年の役」の際に、兄義家を助けるため官位を捨てて奥州へ向い、義家をして「まるで亡き父上(頼義)と再会したようだ」と感激させたという美談で知られますが、義家の死後は、自身が河内源氏の棟梁となる野心を抱いて、家督を相続した甥の義忠を暗殺させ、さらに若い為義を操って兄の義綱を討伐殺害させたのでした。真相が発覚して義光は常陸国に逃亡したため、まだ若い為義は都に一人残されることとなりました。
こうして、数年の間に、河内源氏は義家、義親、義忠、義綱といった実力者を失い、また義光も関東に逃亡したために勢力を失います。一方、平氏では、義親を追討した平正盛、その子忠盛が白河・鳥羽院政下で勢力を拡大し、特に為義と同年生まれの忠盛は、武士として初めて内昇殿を許され全盛期を迎えていきます。

平氏の後塵を拝することになったとはいえ、為義は、永久元年(1113)、延暦寺と興福寺の勢力争いを背景とした「永久の強訴(えいきゅうのごうそ)」の際には、都に押し寄せた興福寺宗徒から正盛や忠盛と共に内裏と院御所を警護しています。また、保安四年(1123)、越前国で日吉神人(延暦寺傘下の日吉社の社人)が殺人を起こし捕らえられる事件が起こり、天台僧兵らが護送中の犯人を奪還したため朝廷が彼らに禁固を命じると、この措置に対し宗徒が怒って蜂起しました。この時も、忠盛と為義が宗徒を撃退しています。このような功績から、為義は検非遣使となり六条堀川の館に居住したために六条判官と呼ばれました。しかし、久寿元年(1154)、子の八男・為朝が九州で乱行を繰り返した責任から、翌二年(1155)に解官され、家督を長男義朝に譲りました。

翌保元元年(1156)鳥羽法皇死後の皇位継承争いから、後白河天皇と崇徳上皇が対立し、さらに藤原氏内部の権力争いから関白忠通が天皇と、左大臣頼長が上皇と結びついて配下の武士を召集したことから「保元の乱」が起こります。
為義は、臣下として仕えていた頼長の召集に応じて子供達と共に上皇方に加担し、天皇側の長男義朝や平清盛らと戦いますが、戦いは数時間で終わり天皇側が勝利しました。為義は一旦東国へ逃れようとしますが、結局出家して義朝のもとに降伏します。しかし、義朝の助命嘆願は叶わず斬首されました。六十一歳でした。


さて、朱雀裏畑町にある「源為義墳墓」は、元々は千本七条にあり、上記したように、明治四十五年(1912)、京都駅停車場(現JR京都駅)拡張によって旧地の西にある現在地に移されました。
千本七条は、当時の七条朱雀付近に当たり、「保元物語」によると、為義はこの七条朱雀野で斬首され(子供たちは、後日捕らえられ船岡山で処刑)、処刑後は北白河円覚寺(現廃寺)に葬られたということです。

ただ、処刑場については、平信範の日記「兵範記」では船岡、慈円の「愚管抄」では「四塚(東寺付近)」だとされていて、史実的には、信憑性ある同時代資料とされている「兵範記」の記述通り、船岡山で子の頼賢、頼仲、為宗、為成、為仲と共に処刑されたと考えられています。
現在の「源為義墳墓」は、「保元物語」の伝承から後世、為義の最期の地とされた千本七条にその供養のために建てられたもののようです。墓の入口は鍵かがけられているため、墓域内には入れませんが、塀の外側から見ることができます。

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京都市左京区北白川にある三ヶ所の皇室史跡を採り上げます。(以前に少し採り上げましたが、今回は写真数を増やしてみます。)


左京区北白川丸山町、銀閣寺方面から白川の流れに沿って北東に進むと、川の東岸に初代・北白川宮の智成親王(さとなりしんのう)の墓があります。(写真)

智成親王は、幕末の安政三年(1856)に伏見宮邦家親王(くにいえしんのう)の王子として誕生し、幼名は泰宮(やすのみや)といいました。孝明天皇の養子となって慶応二年(1866)に親王宣下を受け、この時、「智成(さとなり)」と命名されました。その後間もなく、聖護院に入って信仁入道親王を称します。明治維新後は、一時、照高院宮(しょうこういんのみや 以下で少し補足します)を称した後に還俗し聖護院宮を継承しますが、明治三年(1870)に北白川宮と改称、ここに初代の北白川宮が誕生しました。しかし、二年後の明治五年(1872)に僅か十七歳で病死してしまいました。

遺言で兄の能久親王(よしひさしんのう)が北白川宮を相続しますが、後世に「悲劇の宮家」と呼ばれた北白川宮の不幸はまだ続きます・・能久親王(1847〜95)は軍人として活躍しますが、台湾遠征中に戦病死し、台湾神宮に祭神として祀られます。三男の成久王(なるひさおう 1887〜1923)が宮家を継承しますが、大正十二年(1923)、フランスのパリで自動車事故により三十七歳で死去。さらに、その子の永久王(ながひさおう 1910〜40)も、昭和十五年(1940)に軍事演習中に三十一歳で事故死します。子の道久王(みちひさおう)が宮家を継承しますが、昭和二十二年(1947)の十一宮家の皇籍離脱により北白川宮家は消滅しました。
初代北白川宮智成親王の墓は、丸山町の住宅街に囲まれひっそりと佇んでいます。墓域の面積はかなり広いようですが、周囲に建てられている石柱前はゴミ置き場になっているようで、墓域内へのゴミ捨て禁止(宮内庁)の表示があります。



さて、この北白川には、江戸時代に照高院というお寺がありました。
照高院は、元々は、桃山時代の文録年間(1592〜96)初め、豊臣秀吉の信任厚い天台宗の道証上人が、東山妙法院に創建した寺院でしたが、方広寺鐘銘事件に関連して東福寺・天得院が廃されたのに連座して廃寺となりました。その後、江戸時代の元和五年(1619)、後陽成天皇の弟・輿意法親王が、伏見城の二の丸松丸殿を譲り受けて、照高院を門跡寺院として白川村外山(現北白川仕伏町)に再建しました。寺紋として菊御紋章雪輪を用いたことから「照高院雪輪殿」、「北白川御殿」と呼ばれました。

前に採り上げた北白川天神宮も、寛文十三年(1673)に、照高院宮第五代・道晃法親王の崇敬を受け、寛文年間(1666〜73)に「天使大明神」を「天神宮」と改号して、宮家の祈願所となっています。その後、照高院は、第六代・忠譽法親王の時代に聖護院に属し、以後は歴代聖護院門主の退隠所となりますが、最後の門主となった智成法親王が還俗して北白川宮と称し、宮家が東京移転したことによって照高院は取り崩されました。(現在、北白川山之元町に照高院宮を記念する石標があります。)


智成親王墓から百メートル程、アスファルトの坂道を登ると、この歴代の聖護院(照高院)の門主となった皇族の墓があります・・北白川丸山町の聖護院宮墓地です。(写真)

○後伏見天皇十五世皇孫・道承(どうしょう)親王墓
 
○霊元天皇皇孫・増賞(ぞうしょう)親王墓

○中御門天皇皇子・中誉(ちゅうよ)親王墓

○東山天皇皇曾孫・盈仁(えいにん)親王墓

○後伏見天皇十八世皇孫・万寿宮(ますのみや)墓

○後伏見天皇十九世皇孫・嘉言(よしこと)親王墓


また、丸山町の墓地から北西にある北白川地蔵谷町にも聖護院宮墓地があります。
こちらの方がより古い時代の皇族墓地になります。
(尚、この地蔵谷の墓地は少しわかりにくいかもしれません。地蔵谷の山沿い南側にあるのですが、登り口が表示されていないからです。北白川仕伏町のバス停から百メートル程、志賀街道を北上すると、左手の三筋目に住宅に挟まれた細い道があります。この道を十数メートル進むと、さらに左にカーブして山道が続いていて、この山沿いの道を百メートル程歩くと、墓地があります。)


この墓地には、以下の四墓二塔があります。

○正親町天皇皇孫・興意(こうい)親王塔

○後陽成天皇皇子・道周(どうしゅう)親王墓

○後陽成天皇皇子・道晃(どうこう)親王墓

○後水尾天皇皇子・道寛(どうかん)親王塔

○後西天皇皇子・道祐(どうゆう)親王墓

○後西天皇皇子・道尊(どうそん)親王墓

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東山区松原通大和大路東入る轆轤町、有名な六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の北にある浄土宗寺院、西福寺(さいふくじ)を採り上げます。小さな寺院ですが、門前には、「六道の辻」を示す石標が建てられていて、六波羅蜜寺や六道珍皇寺等と共に六波羅を代表するお寺の一つです。


西福寺のある付近一帯は「六波羅(西は鴨川東岸から、北は五条大路(現松原通)〜南は七条大路一帯)」と呼ばれる地域になります。
「六波羅」は、「六原」とも記されていて、その語源は、この地に建立された六波羅蜜寺に由来するとか、また、この地がかつて「轆轤原(ろくろがはら)」と呼ばれていたことに拠るという説等があります。尚、「轆轤原(ろくろがはら)」という地名については、東山の山麓の原野「麓原(ろくはら)」に由来するとか、平安時代にはこの地域には人骨が散乱していたことから、この髑髏(どくろ)の散乱した原野=「髑髏原(どくろがはら)」を、江戸時代に「轆轤原(ろくろがはら)」に改称したともいわれています。ともかく、この六波羅の地は、嵯峨野の「化野(あだしの)」、船岡山西一帯の「蓮台野(れんだいの)」と並んで平安京の三大葬送地といわれる「鳥辺野(とりべの)」の入口に当たり、あの世とこの世の境界の地と考えられたことから、空也上人が創建した六波羅蜜寺、小野篁(おののたかむら)が冥府と現世を行き来したという六道珍皇寺などの寺院が建てられて、信仰の場となっていきました。


この鳥辺野の入口付近は、また「六道の辻」とも言われてきました。
「六道」とは、仏教で衆生が生前の行いによって生死を繰り返す六つの迷いの世界で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六つを指します。「六道の辻」は、この六道へ通じる道の分岐点という意味で、冥界へ入り口と考えられてきました。
前に採り上げた六道珍皇寺には、小野篁が冥府と現世を行き来したという井戸が残されていて、珍皇寺門前の松原通に面する轆轤町と新シ町の間を南に抜ける丁字路が「六道の辻」として知られます。今回の西福寺の地蔵尊も、同じく冥府と現世の境界付近に祀られたことから、「六道の辻地蔵尊」、「六道の地蔵尊」と呼ばれて信仰を集めてきたようです。



さて、西福寺は、山号を桂光山という浄土宗寺院です。(一部西福寺の由来記を引用してみます)
寺院としての西福寺は江戸時代に創建されましたが、元々は、平安時代初期の第五十二代・嵯峨天皇の時代、弘法大師空海が鳥辺野の無常所(墓地)入口にあたるこの地に地蔵堂を建立して、自作の土仏地蔵尊像を祀ったのが始まりと伝えられています。

この地蔵堂建立の頃、嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(檀林皇后)がこの地を訪れ、弘法大師に深く帰依したと伝えられています。また、皇子正良親王が病気となった際には、皇后は病気回復をこの「六道の辻」地蔵尊に祈願しました。霊験によって皇子は無事回復して成長し第五十四代・仁明天皇となったので、当時の人々は、この地蔵尊を「子育て地蔵」「六はら地蔵」と呼ぶようになったとも伝わります。
(尚、六道の辻地蔵尊の御詠歌として、壇林皇后の御歌が一首残されているということです。「はかなしや 朝夕なでし黒髪も よもぎが本のちりとこそなれ」)
また、室町時代の謡曲「熊野(ゆや)」では、「河原おもてを過行ば、急ぐ心の程もなく、車大路や六波羅の地蔵堂よとふしをがむ観音も同座あり闇堤救世の方便あらたにたらちねをまもり給へや、実にや守りの末すぐに頼む命は志ら玉の愛宕の寺も打過ぎぬ六道の辻とかや、実におそろしや此の道は冥途に通ふものなるを心ぼそ鳥辺山」と謡われていて、六波羅の地蔵堂が当時良く知られていたことがわかります。

その後、江戸時代の慶長八年(1603)、蓮性上人がこの地蔵堂のある地に寺院を創建し、西福寺と称しました。そして、江戸中期の享保十二年(1727)に、関白・二条綱平が亡父のために再建したのが現在の建物と伝えられます。かつては六つの仏堂があったようですが、現在は三つの仏堂が残り、境内には末廣不動明王を祀る不動堂を中心に石仏や人形等が多数安置されています。また、洛陽四十八願巡りの第三十一番札所でもあります。

普段は静かな西福寺ですが、毎年八月のお盆にはお精霊迎えの「六道詣り」で多くの人々で賑わいます。また、この時には、寺宝の「六道十戒図」「六道絵」「檀林皇后九相図」「十王図」などが公開されます。

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前回、松尾大社の「松尾祭」で、月読神社・四之社・宗像社・櫟谷社・大宮社の五つの神輿(月読社は唐櫃)が安置される西七条御旅所(下京区西七条南中野町)と、その東にある「朱雀御旅所」こと松尾総神社(下京区朱雀裏畑町)を採り上げましたが、今回は右京区にある二つの御旅所・・・衣手社御旅所の衣手神社と、三宮社御旅所の三宮神社です。
この二つの神社は、西京極球場として知られる西京極総合運動公園の近くにあり、史跡の少ない右京区西京極では数少ない、地域の憩いのスポット的な神社のように感じます。



さて、右京区西京極東衣手町、西京極総合運動公園の北西に位置する衣手神社(三宮衣手神社)は、松尾大社の末社で、祭神として玉依姫命(たまよりひめのみこと)と羽山戸神(はやまとのかみ)を祀っています。

元々、衣手神社は、「三宮社」と称して、古くから郡(こおり 西京極郡町)地域の鎮守社として玉依姫命を祀っていましたが、明治八年(1875)に松尾大社の境内末社・衣手社の祭神、羽山戸神を合祀したことから、明治十一年(1878)、「衣手社(衣手神社)」と改称して現在に至ります。祭神の玉依姫命は、古くから山城地方の開拓の恩神と仰がれ、羽山戸神は農業をはじめ諸産業の守護神として人々に尊崇されてきたということです。
現在のご本殿は、延宝七年(1679)十二月に、拝殿は嘉永五年(1852)二月にそれぞれ再建されたもので、その後、昭和五年の大修理の折、御輿庫、社務所等が改築整備されています。

衣手神社は、松尾大社の毎年四月・五月の神幸祭の御旅所として知られますが、当日は、郡(こおり)地区、葛野(かどの)地区の氏子等よる衣手社神輿の御渡で賑わいます。また、毎年三月初旬には、歩射祭が行われます。歩射祭は、奉射祭、オマトウ(的)とも呼ばれ、神前で一年の豊作を祈った後、的を設けて矢を射て、矢の当り具合によってその年の豊凶を占う神事です。秋季例祭は毎年十月中旬に行われます。尚、境内には末社として、野宮社(天照大御神)、八王子社(素戔嗚尊の御子神)、諏訪社(建御名方神)、幸神社(道祖神)、山王社(日吉神)を祀ります。




さて、今度は、三宮神社(松尾三宮神社)です。
右京区西京極北裏町、西京極総合運動公園の南東に位置する三宮神社は、松尾大社の末社で、祭神として玉依姫命(たまよりひめのみこと)、大山祇神(おおやまつみのかみ)、酒解神(さかとけのかみ)を祀っています。

情報の少ない神社ですが、飛鳥時代の大宝年代(701〜04)の創建といわれ、元々、玉依姫命を祀っていましたが、その後、大山祇神(おおやまつみのかみ)と酒解神(さかとけのかみ)を合祀したことから「三宮社」と称したと伝えられています。かつての川勝寺(せんしょうじ)地区(現・葛野七条付近一帯)の鎮守社として、松尾祭では、三宮社の神輿の御旅所となっています。

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