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以前に、ブログに採り上げた京都市左京区岩倉西河原町にある山住神社(やまずみじんじゃ)を写真を増やして再掲載します。
叡山電車の岩倉駅から、観光名所として知られる実相院や岩倉具視幽棲旧宅を目指して岩倉川沿いに北上すると、川沿いに小さな神社があることに気づきます・・これが、山住神社(やまずみじんじゃ)で、実相院のすぐ北に位置する石座神社(いわくらじんじゃ 左京区岩倉上蔵町)の旧地になります。
現在の山住神社は、石座大神(いわくらおおかみ)を祭神としますが、社殿は無く、背後の山を神の鎮座する山=神南備(かむなび)山として、巨大な石を神々の降臨する場=磐座(いわくら)と崇めた古代信仰の遺跡になります。
拝所の奥の崖上に木柵で囲まれた立石があり、その後ろの高く広い大石が、神の宿る「磐座(いわくら)」です。京都市内に残る幾つかの古墳と同様に、原始的な古代信仰を今でも身近に感じさせてくれる場所として興味深いです。
この「磐座(いわくら)」は、一説では、桓武天皇が平安京の王城鎮護のために、都の東西南北に一切経の経巻を納めた「平安京四岩倉(磐座)」一つとも伝えられます。
尚、この桓武天皇が平安京の東西南北に置いた「岩倉(磐座)」は、以下のようだったようです。
北岩倉・・・山住神社(左京区岩倉河原町)
西岩倉・・・金蔵寺(西京区大原野石作町 ブログに登場しています)
東岩倉・・・観勝寺(左京区粟田口大日町 大日山(東岩倉山)にあったが応仁の乱で焼失)
南岩倉・・・明王院不動寺(下京区石不動之町)・・ブログに登場しています)
また、平安時代の古記録「日本三代実録」によれば、陽成天皇の元慶四年(880)の頃に「山城国正六国正六位 石座神授従五位下」と記され、当地に既に石座明神が祀られていたことが確認できますが、その後、天禄二年(971)に岩倉の地に大雲寺が創建されると、石座明神以下の八神を祀る八所明神は長徳三年( 997)に大雲寺の鎮守社として勧請されて現・石座神社の地(岩倉上蔵町)に鎮座しました。(また、後に伊勢その他四神を加えて十二所明神が八所明神社と合わせて祀られるようになります)
この時から、現・山住神社の地にあった石座神社はその御旅所となったようです。
そして、明治時代以降に、八所・十二所明神社が石座神社と改称され、旧地の石座神社は山住神社と改称されました。
また、前にブログに採り上げましたが、毎年十一月二十三日の深夜に行われる石座神社(岩倉上蔵町)の例大祭は、「岩倉(石座)の火祭」として知られ、火祭りの後、早朝に石座神社から神輿が、御旅所の山住神社に渡御して祭典が行われます。
尚、石座明神以下の神々を鎮守社に勧請した大雲寺という古刹についてです・・
大雲寺は、現在は、岩倉上倉町にある小さな寺院ですが、前述したように、元々は平安時代の天禄ニ年(971年)に円融天皇勅願寺として創建(初代住職は、紫式部の曾祖父に当たる真覚上人)された古刹で、広大な敷地に伽藍堂宇のそびえる大寺院でした。
「源氏物語」の「若紫」の巻では、光源氏が紫の上と出会う場所としても登場し、洛北第一の大寺として、非常に有名な寺院だったようですが、(南北朝時代には、南朝の忠臣、万里小路(藤原)藤房が、大雲寺境内で出家して遺髪塔が残ります)、その後は、応仁の乱や天文法華の乱、さらに三好氏、織田信長の攻撃で再建焼失を繰り返し、江戸期に再建されますが、明治の廃仏毀釈で衰退します。そして、昭和六十年(1985)の火災により本堂他が焼失し、現在まで徐々に復興努力されているようです。
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