京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市西京区松室地区にある観光名所として知られる鈴虫寺(華厳寺)から、東海自然歩道を南下し、山田地区の地蔵院、浄住寺を経てさらに南へ向かうと、やがて、美しい長屋門が印象的な風情ある一軒の旧家に出会います・・これが山口家住宅(西京区山田上ノ町)で、主屋(江戸時代末期から主に明治初期)座敷棟(主に大正から昭和初期)長屋門(江戸後期の元禄時代頃)等が、国の登録有形文化財や京都市指定景観重要建造物に指定されています。

また、山口家の別称を、「苔香居(たいこうきょ)」といいますが、「苔香居」とは、茶人だった先々代が名付られた庵名(苔香居扁額は上村松篁筆)で、「苔の香りのする住まい」という意味になるということです。普段は、建築物保護のため公開されていませんが、所蔵する着物類の虫干しを兼ねて、予約制で年二回程一般公開されています。(山口家住宅(苔香居)のホームページから引用させていただきます)



さて、この洛西の地は、かつて藤原北家勧修寺流の流れを汲む葉室家(はむろけ)の荘園があり、山口家は安土桃山時代の天正年間より、代々の葉室家(はむろけ)に執事として仕えた士族の家柄でした。また、山口家は、葉室家の鎮守社である葉室御霊神社の社司の家筋でもあり、江戸時代からは、この下山田村の村庄屋や各領の庄屋も勤め、明治の東京奠都で葉室家がこの地を去って以降も土地を管理し、四百年以上の間、この地に住み続けている旧家ということです。

山口家では、江戸から明治・大正時代まで、西山名産の竹の加工生産や筍の出荷、松茸の出荷業を営んでいました。また、荘園内にある茶畑では薬草類を栽培し、さらに、梅干、松茸、柚子、柿等を収穫、また、邸内に培炉を設置して「山口松葉堂」と称して除毒のぬり薬の製造販売業も営んでいたようです。こうした西山の自然や四季と調和した山口家の暮らしは、代々受け継がれ、そうした時代を反映した貴重な衣類や道具類、また、下達、村中法度、農地用水関係、戸籍関係、講関係、寺、公家等の年貢所得関係の各古文書が現在も保存されています。

特に、道具類に関しては、昭和四十二年(1967)に、長屋門内部に作られた「民具の小屋」という収蔵庫に保管展示されています・・・数十年前まで田畑が残っていた京都の周辺地域も、現在はほとんどの地域が宅地化し新興住宅が立ち並んでいますが、西山のこの地区も、高度成長時代に次々と周辺町内の農地が宅地化されてきたようです。このことを惜しんだ山口家が、後世に残すべき貴重な農道具と生活雑貨類を旧農家から譲り受けて保管・展示することにしたのでした。
その他、山口家住宅「苔香居」の庭は、苔香居=苔の香りのする住まいに相応しく、杉苔を中心に一面数十種類の苔に覆われた風情あるもので、多くの花木が植えられ四季折々の花(春五月は霧島つつじ、秋の千両、万両、特に椛の絨毯)が楽しめる空間になっています。また、昭和三十四年(1958)に完成した茶室「泰庵」で毎年茶会が催されています。


さて、これまでも、京都中心部の旧家を幾つかをブログに採り上げてきましたが、維持管理の大変さもあるのでしょうが、見学希望の声に答えて人数制限のある予約制で(当然ながら、各家の日常生活がありますので、不特定多数の拝観者を受け入れることは難しいです)、内部を公開されるところも増えてきたようで、山口家住宅「苔香居」もその一つになります・・・

「苔香居」は、平成十三年(2001)までは家族の住居スペースとして使用されてきましたが、先代が隠居場を別棟に持ったため、あくまで限定ですが公開可能となりました。そして、現在、予約制で、年に春秋二回程、「苔香居」で先々代の豪華な着物類約百点が、虫干しを兼ねて公開され、内部のギャラリーではイベントを開催、庭内の茶室「泰庵」でのお茶席も用意されるということです。
また、平成十一年(1999)に住宅が国登録有形文化財に登録された際に、苔香居のくらしと文化の保存を維持継承することを目的とした「苔香居の会」が設立されて、以来、会員を募集されています。「苔香居の会」では、文化的なイベントの開催を企画立案し、会員には催しの優先的な案内や様々な特典があるということで、また各種催しやお茶会等で使用希望の相談にも応じているようです。

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今回は、洛西の観光名所として知られる松尾大社から鈴虫寺(華厳寺)に向かう途中にある小さなお寺を採り上げます。

西京区松室地家山にある最福寺(さいふくじ)は、開山延朗上人に因んで「延朗堂(えんろうどう)」とも呼ばれています。現在は小さな寺院に過ぎませんが(管理は直ぐ東北に位置する西光寺がされているということです)、かつて洛西の地を代表する大寺院だった最福寺の名跡を現在に伝えています。


最福寺は、平安時代末期の安元二年(1176)に、当時を代表する高僧の一人だった延朗(えんろう)上人が建立した寺院で、「谷ヶ堂(たにがどう)」の通称で知られていました。

寺院の案内板によると、松尾谷ヶ堂西福寺の開山・延朗上人については、「元享釋書」「太平記」「三井寺続燈記」「雨月物語」等に詳しく記されているということで、それらによると、延朗上人は、八幡太郎源義家の孫にあたる源義信(源義親の長子)の長男として但馬国養父郡に誕生しました。上人は幼くして父母を失ったために、元養元年(1144)、十五歳で出家し大和(奈良県)の比曽寺に入ります。その後、近江(滋賀県)の三井寺や比叡山延暦寺で修業し天台密教を極めますが、平治の乱後の三十歳の時、源氏出身ということで平清盛に追われて各地を遊歴し、遠く奥州松島にある廃寺に入りました。そして、安元二年(1176)、四十七歳の頃にようやく帰京し、この松尾山麓に壮大な池を掘って七堂伽藍を建立し、松尾社(松尾大社)の神宮寺として最福寺を創建しました。


「吾妻鏡」によると、その後、源義経が入京し、最福寺の興隆を願って丹波国亀岡篠村庄を寄進しましたが、この篠村庄は、元々、三位中将平重衡の所領で、義経が平家追討の恩賞として拝領したものでした。延朗上人はこの寄進に遠慮しながら、已むなくこれを受けました。そして、村人に阿弥陀如来の名号を唱えて祈る事を勧め、その数に応じて年貢を免除する等の善政を施し、当時流行していた悪病難病の治療のために寺内に浴室を造って病人の看病を行ったともいわれます。(尚、義経が鎌倉幕府から追討された後、上人は篠村庄の辞退を申し出ますが、幕府は文治二年(1186)に上人の以前通りの領有を承認しています) こうして、上人は顕密兼備の名僧として多くの人々から崇敬されて松尾の上人と呼ばれ、承元元年(建永二年 1207)正月十二日に七十九歳で入寂しました


最盛期の最福寺は、多くの堂宇を有し塔頭四十九を数えたと伝えられ、「太平記」は、寺の経蔵には経典七千巻を所蔵したと記し、その景勝を描写して、奇樹怪石を並べた庭園の池の辺には、都卒天の内院を模した四十九院の楼閣が立ち並び、その十二の欄干は、珠玉を天に向けて捧げ、五重の塔は金銀の如く月光に輝き、あたかも極楽浄土の七宝荘厳の姿のようだと記しています。
しかし、南北朝の戦乱が起こり、元弘三年(1333)四月の六波羅探題軍と千種忠顕率いる後醍醐天皇軍が交戦した際に、最福寺は、隣接する浄住寺(じょうじゅうじ)等と共に全山焼失してしました。
その後、再建されるものの、応仁・文明の乱、織田信長の元亀の乱等の兵火に遭って衰退し、江戸時代の享保十二年(1727)十一月には第百十一代・霊元天皇が行幸したという記録もあるようですが、かつての壮大な姿に再建されることは無いままに廃絶し、現在は再建された延朗堂を残すのみとなっています。

この延朗堂には、鎌倉時代の作と伝わる延朗上人坐像(文化財指定)が安置されていて、毎月、延朗上人命日にあたる十二日に開帳されるということです。その他、境内には、延朗上人八百回大遠忌記念として平成十九年(2007)に建立された「さしのべ観音」や宝篋印塔、座禅石や石碑等が点在しています。また、 毎年の二月十一日の夕方には、「延朗上人、さしのべ観音 竹とうろう祭」が行われ、この日は、日没から上人の供養が行なわれ、 願い事等を書いた六百本以上の青竹燈篭を境内に並べて、さしのべ観音をライトアップし、演奏会(フルート、琴、尺八等)や甘酒の接待があるということです。

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