京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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今回は、奈良時代の第四十九代・光仁天皇の夫人・贈皇太后、高野新笠(たかののにいがさ=諡は「天高知日之子姫尊(あまたかしらすひのひめのみこと)」の御陵「大枝(おおえのみささぎ)」です。(西京区大枝沓掛町)

高野新笠は桓武天皇の生母として知られ、百済系氏族の末裔とされます。平成三年(2001)に、天皇陛下が、翌年のサッカーワールドカップ共催に際しての記者会見で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と発言され、韓国や日本で話題になったことは記憶に新しいです。


さて、前に大枝神社(西京区大枝沓掛町)を採り上げた時に書きましたが、大枝陵がある西京区「大枝(おおえ)」という地名は、古くは山城国乙訓郡大枝郷と呼ばれ、古代氏族・土師(はじ)氏の流れを汲む大枝(大江)氏に関係する地名と考えられています。
土師(はじ)氏は、古代神話の神・天穂日命(あめのほひのみこと)の後裔である野見宿禰(のみのすくね)を始祖とするとも、また、渡来系氏族という説もある古代氏族で、高野新笠の母方の家系も土師氏の一派、毛受(もず)の系統に属していたと『続日本紀』は記します。この一族は大枝郷を本拠としていて、新笠の母・大枝朝臣真妹(おおえだのあそみまいも 土師宿禰真妹(はじのすくねまいも))もこの地の出身で、幼少期の桓武天皇も、大枝の母の里で育てられたと考えられています。



『続日本紀』によると、高野朝臣新笠(?〜789 たかののあそみ(あそん)にいがさ)の生年は不明ですが、性を和(倭 やまと)氏といい、当初は、和新笠(やまとのにいがさ 和史新笠=やまとのふひとにいがさ)といいました。父は和乙継(やまとのおとつぐ 後に贈正一位・高野朝臣乙継(たかのあそみおとつぐ))、母は土師宿禰真妹(はじのすくねまいも 後に贈正一位・大枝朝臣真妹(おおえだのあそみまいも))と伝わります。『続日本紀』によると、和(倭)氏は百済系渡来氏族で、先祖は百済の武寧王(在位501〜523)の子の純陀(じゅんだ)太子に至るとします。


その後、新笠は、当時日陰の身だった天智系の白壁王(天智天皇の皇子・施基親王の第六子、後の光仁天皇)の側室となりました。新笠は王の寵愛を受けたようで、天平五年(733)に能登内親王を、天平九年(737)に山部王(後の桓武天皇)を出産しています。また、この年(天平九年)の八月二十八日、白壁王は二十九歳になって、ようやく無位から従四位下に叙せられているようにかなり遅い出世でした。尚、王と子供達の年齢から、新笠は白壁王より十歳程年下だったと推測されます。

さて、天平十六年(744)、伊勢神宮の斎王として伊勢に下向していた聖武天皇の皇女・井上内親王が、斎王を退下して都に戻り、白壁王の妃となりました。(井上内親王に比べると、新笠は妃になるには低い身分でした。ただ、天平勝宝二年(750)頃、新笠が早良王(後に親王)を産んでいることからも、その後も寵愛を受けていたと推測されます)
そして、井上内親王を通じて天武系との関係が深まると、白壁王の地位も次第に上昇します。天平宝字五年(761)に井上内親王との間に、他戸王(後に親王)が誕生し(天平勝宝三年(751)誕生説もあり)、天平宝字八年(764)九月十二日には、正三位、天平神護元年正月には、藤原仲麻呂の乱平定の功績から勲二等を受け、翌天平神護二年(766)正月八日には、大納言に昇進しています。ただ、この頃の白壁王は、相次ぐ政変で皇位継承者候補が失脚する中、用心して酒を飲んでは凡庸を装い、度々難を逃れたと伝えられます。


さて、神護景雲四年(770)八月四日、称徳天皇が崩御します。当時、天武系の男性皇族は、聖武天皇の外孫の白壁王の子の他戸王しか残っていませんでした。そこで、左大臣・藤原永手等大臣達が協議した結果、称徳天皇の遺言の宣命に基づいて、諸王の中で年齢が高く(六十二歳という当時としては大変な高齢)これまでの功績を評価して、白壁王が立太子されました。こうして、宝亀元年(770 即位により神護景雲から改元)十月一日に白壁王(光仁天皇)は即位します。

その後、光仁天皇は、宝亀元年(770)十一月六日に、妃の井上内親王を皇后に定め、翌二年(771)正月二十三日に、他戸親王を皇太子と定めました。
ところが、 宝亀三年(772)三月二日、皇后・井上内親王が、光仁天皇の姉・難波内親王を呪詛した罪に連座して皇后位を廃されるという事件が起こります。この事件の詳細は不明ですが、五月二十七日には、他戸親王も皇太子を廃されて庶人とされました。この時、光仁天皇は、井上内親王が呪詛により大逆を行うのは度々のことであるとし、謀反人の子を皇太子に定めておくことは出来ないと詔しています。そして、翌宝亀四年(773)正月二日に、新笠との間に生まれた山部親王(後の桓武天皇)を皇太子に定めました。

井上内親王と他戸親王の失脚の背景には、山部親王の擁立を図る藤原式家の内臣藤原良継(山部親王の妃・藤原乙牟漏の父)や参議藤原百川らの陰謀があったという説が有力です。
その後、同年十月十九日、井上内親王は、同月十四日に病死した光仁天皇姉・難波内親王を再び呪詛した罪により、廃太子他戸王とともに大和国宇智郡の邸宅に幽閉されました。そして、宝亀六年(775)四月二十七日に二人は幽閉先で亡くなりましたが、自殺や殺害の可能性が高いと考えられます。



さて、『続日本紀』によると、宝亀年中に、新笠は性を「高野朝臣」と改めていますが、これは、当時、称徳天皇が「高野天皇」とも呼ばれていたことから(尚、高野天皇という名称は、称徳が崩御後に埋葬された高野山陵に由来する、または生前の天皇の山荘のあった地名による説などあります)、新笠の氏性を高野天皇(天武系)と関係が強いように改称し、新笠や山部親王(後の桓武天皇)の地位向上を図ったとも推測されます。そして、宝亀九年(778)正月二十九日、従四位下・高野朝臣新笠が、従三位を授けられていますが、正式に天皇の夫人(ぶにん)とされたと思われます。その後、天応元年(781)二月十七日、新笠の娘、三品能登内親王が四十九歳で亡くなりましたが、光仁天皇は娘の死を悲しみ、そのためか重い病気となり、同年四月三日、皇太子山部親王に譲位しました。(光仁は十二月二十三日に七十三歳で崩御)

こうして、即位した桓武天皇は、即位の翌日(四月四日)皇弟早良親王を皇太子に選び、四月十五日には、母の高野夫人(高野朝臣新笠)を皇太夫人と称するように詔し、同二十七日、皇太夫人・従三位の高野朝臣新笠を正三位に加叙しました。その後、延暦三年(784)十一月十一日に桓武天皇は平城宮から造営なった長岡宮に移り、同十七日、桓武天皇は使者を遣わして中宮(新笠)と皇后(藤原乙牟漏)を長岡宮に迎え入れるべく手配し、二十四日に二人は長岡京に到着しています。
その後、延暦四年(785)九月二十三日に、中納言藤原種継の暗殺事件が起こり、事件に関係して十月八日に早良親王が皇太子を廃され乙訓寺(現長岡京市)に幽閉され、十日余り後、淡路に配流の途中で憤死しています。


さて、延暦八年(789)十二月二十三日、中宮高野新笠が病気となり、医療に努めても十数日経過しても回復せず、桓武天皇は病気回復のため、畿内と七道諸国の諸寺に七日間の大般若経の読誦を命じました。しかし、新笠は二十八日に崩御しました。年齢は七十歳近いと推測されます。また、『続日本紀』は、新笠は徳が優れ、容姿上品で麗しく、若い頃から評判が高かったと記します。

桓武天皇は、中宮新笠の葬儀のため、翌二十九日、従二位藤原継縄以下従五位以上の十四名の貴族と、六位以下の官人九人を葬儀の御葬司に任じました。また、正三位藤原小黒麻呂以下従五位以上の九人の貴族と六位以下の官人十四人を山作司(山陵を造る司)に任じ、他に、養民司(養役夫司 葬儀のために人夫に衣食を提供する司)に貴族二名、官人八人、貴族二名、官人三人を作路司に任じました。

さらに、左右京、畿内五ヶ国、近江、丹波等からそれぞれ労役の人夫を徴発し、百官と畿内の官人は三十日を服喪期間とし、その他の官人は三日とし、夫々の管轄の人民に哀悼の意を表させました。そして、四十九日の音斎会は来年の二月十六日にあたることから、諸国の国分寺、国分尼寺の僧侶尼僧に中宮のために読経させ、七日ごとに使者を諸寺に派遣し、僧侶らに経を読ませ中宮の冥福を念じさせるように命じました。

翌延暦九年(790)正月十四日、中納言・正三位の藤原小黒麻呂が誄人(しのびごとひと)を率いて、亡き皇太后のために誄を奉り「は「天高知日之子姫尊(あまたかしらすひのひめのみこと)」と諡しました・・百済の遠祖・都慕(つも)王が、河伯の娘が太陽の精に感応して生まれたという伝承があり、皇太后はその末裔であることから、この名が奉られたのでした。また、崩御により皇太后の尊称を追称されました。

そして、正月十五日、皇太后を大枝山陵(円墳)に埋葬しました。
『延喜式』の「諸陵寮」によれば、「大枝陵 太皇大后高野氏。在山城国乙訓郡。兆域東一町一段。西九段。南二町。北三町。守戸五烟」とあり、大体百〜三百メートル四方の面積があったようです。また、大同元年(806)五月十九日、平城天皇の即位により、太皇太后を追贈されています。



さて、その後の大枝陵についてです・・『日本三代実録』によると、天安二年(858)十二月九日、清和天皇は、毎年十二月に御陵の霊を祀るために荷前使を派遣する十陵四墓を定めました。当時の天皇や朝廷が最も重要視していた陵墓ということになりますが、この中に、大枝陵も選ばれています。

この時に選ばれたのは、
○天智天皇山階山陵(在山城國宇治郡)
○春日宮御宇天皇(光仁天皇父-施基皇子)田原山陵(在大和國添上郡)
○光仁天皇(天宗高紹天皇)後田原山陵(在大和國添上郡)
○光仁天皇.贈太皇大后-高野氏(桓武天皇母-高野新笠)大枝山陵(在山城國乙訓郡)
○桓武天皇柏原山陵(在山城國紀伊郡)
○贈太皇大后-藤原氏(平城・嵯峨天皇母-藤原乙牟漏)長岡山陵(在山城國乙訓郡)
○崇道天皇(早良親王)八嶋山陵(在大和國添上郡)
○平城天皇楊梅山陵(在大和國添上郡)
○仁明天皇深草山陵(在山城國紀伊郡)
○文天皇田邑山陵(在山城國葛野郡)
○贈太政大臣正一位・藤原鎌足多武峰墓(在大和國十市郡)
○後贈太政大臣正一位・藤原冬嗣宇治墓(在山城國宇治郡)
○尚侍贈正一位・藤原美都子(冬嗣妻・良房母)次宇治墓(在山城國宇治郡)
○贈正一位・源潔姫(嵯峨天皇皇女・藤原良房妻)愛宕墓(在山城國愛宕郡)
でした。

しかし、その後、貞観十四年(872)十二月十三日、公卿らの進言により、贈太皇大后-高野氏(桓武天皇母-高野新笠)大枝山陵を十陵四墓から除外し、代わりに、太皇大后・藤原氏後山階山陵(藤原明子は藤原良房の娘。文徳天皇女御・清和天皇母)を追加。また、十月に亡くなった藤原良房の愛宕墓を加え十陵五墓と改めています。大枝陵が除外されたのは、清和帝の身近な親族・藤原良房と明子の陵墓を加わえるために経済的理由等で一部の陵墓を除外する必要となり、清和帝との関係が疎いことと、『延喜式』でも「遠陵」と記される地理的な遠さからでしょう。



最後に現在の大枝陵ですが、「桓武天皇御母・高野新笠陵」の石標の脇から山に入ると、急なつづら折の参道が山上へと続いています。参道の雰囲気と違い山上の御陵は、どこか女性的で森に囲まれて佇んでいます。尚、長岡京時代に亡くなった高野新笠、桓武の皇后藤原乙牟漏、夫人藤原旅子の御陵は、すべて長岡京を基準にして北の丘陵地に造られていますので、合わせて訪問されても良いかもしれません(他の二つの御陵はブログパート1、パート2掲載)

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