京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

銀閣寺・哲学の道・南禅寺他

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今回は、左京区南禅寺下河原町にある「後醍醐天皇皇子・尊良親王墓」です。
尊良親王の墓は、紅葉の名所として知られる永観堂の正面に通じる道路に面して静かに佇んでいます。
後醍醐天皇の皇子たちは、各地に派遣されて北朝軍と交戦したために、北朝支配下にあった京都に墓があるのは珍しいともいえます。(後醍醐の皇子の中では、他に臨川寺(右京区嵯峨天龍寺造路町 非公開)に世良親王(よよししんのう?〜1330)の墓があります。)



尊良親王(たかよししんのう ?〜1337 生年1306〜11の諸説あり)は、「太平記」「梅松論」等が「一宮」と記していることから、後醍醐天皇の数多い皇子の中では最も早く生まれたと考えられています。(延慶元年(1308)生まれとされる護良親王(もりよししんのう 尊雲法親王 1308〜1335)の方が年上とする説もありますが)
母は権大納言二条為世の女の為子で、同母弟として宗良親王(むねよししんのう 尊澄法親王 1311〜85)がいます。そして、為子が正和三年(1314)に亡くなったことから、幼少時より後醍醐の側近・吉田定房に養育され、嘉暦元年(1326)に元服しました。


さて、正中元年から元弘三年(1324〜1333)の鎌倉幕府の滅亡までの戦いで、後醍醐天皇を支えたのは、当時元服を終え、ほぼ青年に達していた尊良、世良、尊雲(護良)、尊澄(宗良)の四人の皇子でした。
後醍醐は、鎌倉幕府打倒のために、多くの僧兵を擁する近畿の有力寺社勢力を味方に付けようと画策し、自ら延暦寺や興福寺・東大寺・春日社等に行幸して関係強化に努めました。さらに、尊雲法親王(護良親王)と尊澄法親王(宗良親王)の二人は天台宗(延暦寺)勢力を勧誘する任務を与えられて、天台トップの天台座主に据えられて同宗勢力を管轄しました。一方、尊良と世良は父帝を傍から補佐することが期待されていました。
また、この頃、後醍醐の寵愛を受けた阿野廉子(あのれんし)が、恒良(つねよし 1325〜38)、成良(なりよし 1326〜44)、義良(のりよし 後村上天皇 1328〜68)の三人の皇子を相次いで生み、これら幼い皇子たちは、後に九州で征西大将軍として活躍した懐良(かねよし 1329?〜83)と共に後醍醐天皇の晩年を支えた第二世代の皇子といえます。


さて、尊良親王ですが、「増鏡」は、異母弟の世良親王(?〜1330)の方が、尊良より学才豊かで後醍醐から期待されていたことを記していますが、世良は、元徳二年(1330)に早世してしまいました。そのため、倒幕計画は、後醍醐と尊良、尊澄(宗良)、そして尊雲(護良)が中心となって進められました。しかし、元弘元年(1331)四月、計画は未然に発覚し「元弘の変」が起こります。後醍醐らは、九月に京都を逃れて笠置城(京都府相楽郡)に篭城しますが城は陥落、後醍醐と尊澄(宗良)は笠置で、尊良は河内で捕らえられ、元弘ニ年(1332)三月、後醍醐は隠岐、尊良は土佐、尊澄(宗良)は讃岐に流されました。
こうして、その後の討幕運動は、逃亡に成功した尊雲法親王(護良親王)を中心に行われることになりました。護良親王(還俗して改名)は、父帝の代理、事実上の討幕活動のリーダーとして、諸国に令旨を発して反乱勢力を結集しました。しかし、その功績があまりにも大きく、父帝から独立した軍事力を擁したことは、親王の勇猛果敢な性格も災いして、その後、足利尊氏との対立と父後醍醐との摩擦を生み、結局、悲劇的な死を招くことになります。



さて、今回の主人公の尊良親王ですが、土佐に流された後、元弘二年冬に四国から九州に渡って、三年(1333)三月、肥前の江串三郎入道等に擁せられ挙兵します。その後、大宰府を経て、元弘三年八月、鎌倉幕府滅亡後の京都に帰還しました。
建武二年(1335)十一月に足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、親王は上将軍として新田義貞・脇屋義助兄弟と共に討伐軍を率いますが、同年冬の箱根・竹ノ下の戦いで敗北し京都へ撤退しました。
翌建武三年(延元元年 1336)、一旦九州に敗走した足利尊氏が勢力を挽回して京都に迫ると、同年十月、尊良親王は、異母弟で後醍醐天皇の皇太子となった幼い恒良親王や新田義貞・脇屋義助兄弟と共に義貞の勢力下にあった北陸越前に逃れて再起を図ろうとします。

尊良親王たちは、敦賀で気比社の大宮司・気比斉晴(けひのなりはる)に迎えられ、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)に入城し拠点としますが、たちまち足利方の越前国守護・斯波高経の軍勢に包囲されてしまいます。さらに、翌建武四年(延元二年 1337)正月には、足利方は各地から大軍を動員して、城は完全に封鎖され糧道を断たれました。
義貞・義助兄弟等は、闇夜に密かに城を脱出して、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直しますが、二月の金ヶ崎救援行動は敵軍に阻まれて失敗し、ついに、三月六日、足利軍は金ヶ崎城に総攻撃を行いました。食糧不足で餓死寸前まで弱っていた籠城兵は戦うことができず、ついに城は陥落しました。
この時、尊良親王は、義貞の嫡男・新田義顕と共に自害し、皇太子・恒良親王は捕縛され京都へ連行されました。(「太平記」は、恒良は牢に押し込められ、翌暦応元年(延元三年 1338)四月に毒殺されたと記しています。当年十五歳と伝えられ、墓所も不明です。)


さて、「太平記」によると、新田義顕は自害する前に、「私は武士の家に生まれた者として家名を汚さないために自害しますが、敵も殿下の命を奪うことはないでしょう。どうぞこのままここにお留りください。」と尊良親王に投降を勧めますが、親王は晴れ晴れとした様子で笑みを浮かべ、「後醍醐帝が私を将帥とされ、お前を補佐役に任じたのに、補佐役がいないのに自分だけが生き延びることができようか。私も自害してあの世で恨みを晴らすことにしよう。」と言って、「そもそも自害の方法とはどのようなものか。」と義顕に問います。
義顕は涙を抑えながら「自害とはこの様にするものでございます。」と、親王の目の前で腹を切って倒れました。これを見た親王も、直ちに刀を手にして自刃して義顕の上に折り重なるように倒れました。そして、周囲の者たち三百人も同じく親王に殉じたと記しています。この時、尊良親王は二十七歳、新田義顕は十八歳だったと伝えられます。
その後、尊良親王の首は京都禅林寺(永観堂)の住職・夢窓国師のもとへ送られ、ここで葬礼が行われました。南北朝時代は、太平の世なら歴史の表舞台に登場することもなかっただろう皇子達を戦いに参加させましたが、こうして、尊良親王も戦場に散った史上数少ない皇子の一人となったのでした。



また、「太平記」は尊良親王の死を知ったその中宮・御匣殿(みくしげどの)の深い悲しみを描いています。物語の信憑性については資料の裏づけが無いために疑問視されますが、「太平記」は二人の運命的な出会いから描いていきます・・・

尊良親王は、才能豊かで早くから次期皇太子にと期待されながらも、鎌倉幕府が後醍醐の兄・後二条の皇子・邦良親王(くによししんのう)を皇太子に付けたために、周囲の人々は失望し、親王自身も日々詩歌に明け暮れるしかありませんでした。そんな尊良親王が、ある時、絵に描かれた美女に恋してしまいます。そして、恋焦がれる苦しい気持ちを抑えようと、気分転換に参詣した下鴨神社からの帰り道で、あの絵の女性にそっくりの美女に出合ったのでした。

その女性は、今出川公顕(いまでがわきんあき)の姫、御匣殿といい、徳大寺公清(とくだいじきんきよ)と既に婚約していましたが、親王は御匣殿に思いのたけを打ち明け、諦めずに次の日から御匣殿に手紙を送り続けて、その数は一千通にも達するほどでした。御匣殿も、親王の深い愛情に心を動かされて親王を愛するようになっていきます。しかし、親王は、相手は婚約者のある身、御匣殿の気持ちを苦しめているのではと後悔して手紙を送ることを止め、恋する苦しい気持ちを心の中に封じ込めようとします。しかし、運命は好転します。親王の深い愛情を知った徳大寺公清が、御匣殿との婚約を取りやめたのでした。こうして二人は目出度く結ばれました。

しかし、尊良親王と御匣殿の幸福な日々は、間もなく終わることになります・・親王が「元弘の変」で土佐国へと流されてしまったのです。御匣殿は、悲しみのあまり毎日泣いて過ごし、親王も父帝後醍醐や愛する御匣殿を心配して食事も喉を通らず衰弱してしまいます。苦悩する親王を見るに見かねた警護役の有井庄司(ありいのしょうじ)は、「私は見て見ぬふりをしますので、奥方をこっそりお呼びになってください」と進言します。喜んだ親王は、一人土佐まで随行してきた部下の秦武文(はたのたけふん)を呼んで、御匣殿を迎えるために京都へ派遣しました。武文は、荒れ果てた家に住んでいた御匣殿を探し出し、親王からの手紙を渡しました。手紙には「お前と別れて暮らすことには到底耐えられえない、何としても土佐に来ておくれ」と記されています。御匣殿も「私もすぐに宮様の元へ参ります。たとえ辺鄙な土地だとしても、宮様とご一緒ならば、どんなことにでも耐えられます」と土佐国へ出発したのでした。

さて、御匣殿一行は、尼崎湊(兵庫県尼崎市)で順風が来るのを待ちますが、湊には、同じく順風を待っていた松浦五郎という筑紫国の武士がいました。松浦は、御匣殿の美しさに心奪われ、誘拐して筑紫へ連れて帰ろうと考えます。松浦は夜間に部下達と一行を襲撃しますが、秦武文が奮戦して撃退します。しかし、松浦らが家屋に火を放ったため、武文が御匣殿を船に避難させ炎の中から荷物を救っている間に、松浦らは御匣殿を乗せた船で出港してしまいました。武文は小舟で追いかけましたが追いつけず、怒りと無念な気持ちから「死んで海底の龍神となって、その船を必ず停めてやるぞ」と腹を十文字にかき切って海に身を投げました。

その日の夕方、御匣殿を乗せた船は鳴門海峡近くにさしかりましたが、俄かに潮流が逆行して大渦が発生しました。一同がこれは龍神の怒りだと恐れおののいていると、死んだ秦武文の霊が現れます。その姿に驚いた松浦は、怨霊を避けようと、御匣殿を小舟に乗せて波間に浮かべました。すると、急に風が起こって松浦らの船は流されて消え去り、御匣殿の小舟は淡路国の武島という小島に流れ着いて、村人たちに助けられました。その頃、尊良親王は、御匣殿の船が大嵐で行方不明となったという噂を聞いて嘆きますが、それを確かめる方法はありませんでした。
その後、鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇が親政を行うこととなり、尊良親王も京都に帰還しますが、日夜御匣殿のことを思い出していたところ、淡路の小島で無事だという知らせが届き、喜んだ親王は、使いを派遣して御匣殿を迎えさせました。こうして親王と御匣殿は感動的な再会をはたしたのでした。

しかし、その後、親王は各地を転戦して、ついに金ヶ崎城で最後を遂げます。
親王の死の知らせは、すぐに京都の御匣殿も元にも届きました。御匣殿は、嘆き苦しんだ末に病気となって、親王の四十九日も済まない間に、その後を追うように亡くなってしまったと「太平記」は記しています。
「増鏡」は、尊良親王には、大納言ニ条為世の娘・大納言典侍との間に皇女が、中宮の御匣殿との間には皇子がいたと記しています。また、「元弘の変」当時には御匣殿は既に亡くなっていたために、親王は、一人大納言典侍を深く愛していて、土佐に流される際に別離を嘆いたとも記しています。このような所から「太平記」は大納言典侍と御匣殿を合わせて、感動的な哀話を創造したのかもしれません。


尚、今回の「後醍醐天皇皇子・尊良親王墓」は、太平記が記しているように親王の首塚ですが、福井県敦賀市金ケ崎町にある親王を祀る金沢宮の近く、金ヶ崎城跡には自刃の地として「尊良親王御陵墓見込地の碑」があります。

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今回は、左京区南禅寺地区にある皇室関連の史跡の一つです。
左京区南禅寺福地町、観光名所として知られる南禅寺境内にある「水路閣」の横にある石段を登ると、庭園で有名な塔頭・南禅院があります。そこからさらに鐘楼まで登ると、山道の向こうに鳥居のある御陵が見えてきます・・・これが「後嵯峨天皇皇后姞子・粟田山陵」です。
一年を通して観光客の多い南禅寺境内にある史跡なので、あれは何かな?といった感じでこの陵墓をご覧になった方も多いと思います。


さて、粟田山陵と呼ばれるこの陵墓は、鎌倉時代の後嵯峨天皇の中宮・西園寺姞子(さいおんじきつし 1225〜1292)の墓になります。
後嵯峨天皇については、前に「後二条天皇北白河陵」の時に詳しく書いていますので、少し引用して書いてみます・・・「承久の乱」で後鳥羽、土御門、順徳の三上皇が流刑となった後、鎌倉幕府は、後鳥羽の血統を皇位から除外して、後鳥羽の兄・後高倉上皇(守貞親王)系の後堀川天皇、四条天皇を即位させます。しかし、仁治三年(1242)に四条帝が十二歳で事故死したために後高倉上皇(守貞親王)の血統が途絶え、再び後鳥羽の血統から皇位継承者が選ばれることになりました。そして、「承久の乱」に直接関与しなかった土御門上皇の皇子が選ばれました・・これが後嵯峨天皇です。それまで日陰の身だった皇子は、予期せずに天皇に選ばれて、慌てて元服して親王となっています。


仁治三年(1242)、二十三歳で即位した後嵯峨天皇は、半年後に右大臣・西園寺実氏の娘、十八歳の西園寺姞子を女御にし、さらに中宮に冊立しました。寛元元年(1243)、姞子は久仁親王(後深草天皇)を産み、皇子は直ちに立太子されます。そして、寛元四年(1246)、後嵯峨が在位四年で、四歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位して上皇となると、姞子も后位を退いて、宝治ニ年(1248)に女院号宣下を受けて「大宮院(おおみやいん 大宮女院)」の称号を与えられました。翌建長元年(1249)には大宮院(姞子)は、さらに恒仁親王(亀山天皇)を産んでいます。

後嵯峨上皇は、正嘉二年(1258)に後深草天皇の弟で十歳の恒仁親王(亀山天皇)を立太子し、翌正元元年(1259)に後深草に対し、恒仁親王への譲位を促しました。父の圧力で心ならずも譲位させられた十六歳の後深草天皇の無念な気持ちが、その後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立、さらに南北朝時代に至る皇統分裂の原因の一つとなります。
さらに、後嵯峨上皇は文永五年(1268)に、当時三歳の後深草上皇の皇子・熈仁親王(ひろひとしんのう 後の伏見天皇)ではなく、生後間もない亀山天皇の皇子・世仁親王(よひとしんのう 後の後宇多天皇)を立太子しました。

これらのことから、後嵯峨が亀山系の血統に皇位を継承させたいと考えていたことは明らかでしたが、文永九年(1272)に後嵯峨が五十三歳で崩御した際には、遺詔で後深草、亀山両帝への皇室領の配分は示したものの、皇室内の長として実権を握り、また子孫に皇位を継承させることのできる「治天の君」を誰にするかという点については明確な意思を示さず、鎌倉幕府の決定に委ねるとしていました。
このため、宮中では次期政権をめぐって後深草派と亀山派に分かれて対立していきました。鎌倉幕府は、この問題を解決するために、後嵯峨の中宮で、後深草・亀山両帝の生母である大宮院(姞子)に後嵯峨の真意を確認します。そして、大宮院が先帝は内心亀山を望んでいたと表明したことから、亀山天皇が治天の君に選ばれることになりました。後深草は内心、弟を推した母を恨んだのですが、それはともかく亀山天皇が実権を握ることになりました。



文永十一年(1274)に亀山天皇は、八歳の世仁親王(後宇多天皇)に譲位して上皇となり、宮中の改革にも取り組みました。一方、不遇の立場の後深草上皇は、建治元年(1275)に太上天皇の尊号を辞退して出家しようとします。この抗議行動は宮中を大いに驚かせ、伝え聞いた鎌倉幕府も、後深草の不満を解消するために、亀山上皇に奏上して、後深草天皇の皇子・熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させました。自身の子が皇太子となったことから、自分が治天の君となることが保証された後深草は出家を見合わせます。

その後、後深草上皇派の巻き返しが加速していきます。
亀山上皇が宮中改革を推進してきたことや、「霜月騒動」で滅んだ有力御家人・安達泰盛との交流があったこと等が鎌倉幕府に疑われ、弘安十年(1287)、幕府の圧力を受けて二十歳の後宇多天皇は、後深草天皇の皇子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位しました。伏見天皇の即位によって、父・後深草上皇はさっそく院政を開始します。正応二年(1289)には、伏見天皇は皇子・胤仁親王(たねひとしんのう 後の後伏見天皇)を立太子させ、次代も持明院統(後深草天皇の血統)が政権を握ることが確実になりました。これまで大覚寺統に仕えていた貴族達も、一斉に持明院統に鞍替えすることになり、大覚寺統の亀山上皇は、失意のうちに正応ニ年(1289)に四十一歳で出家しました。一方、権力を奪回した後深草も、正応三年(1290)に、四十八歳で出家して引退し、治天の君は後継者の伏見帝に譲られました。


さて、持明院統と大覚寺統が相争う中、後深草・亀山両上皇の母、大宮院(姞子)は、ニ代の天皇の国母(天皇の皇后)として尊敬され、孫達の即位も見届けるなど幸福な生涯を送りました。後嵯峨は多くの女官との間に二十人以上の皇子皇女を得ましたが、大宮院(姞子)程の寵愛を受けたものはいなかったのでした。歴史物語「増鏡」では、平安時代の国母と比較して、これほど子孫に恵まれた果報な方はいないと絶賛しています。また、「増鏡」や女流文学「とはずがたり」では弘安八年(1285)に大宮院が開いた、母・四条貞子(北山准后)の九十賀(九十歳の祝賀)の盛大な様子を延々と描いていて、この雅会は鎌倉時代最大規模の華やかなものだったようです。(因みに、この四条貞子(北山准后)は乾元元年(1302)に、当時としては驚異的な百七歳という長命で亡くなっています。)

さて、大宮院(姞子)は、正応五年(1292)に六十八歳で亡くなり、火葬の後、後嵯峨上皇が文永元年(1264)に離宮(禅林寺殿)として造営し、正応四年(1291)に亀山上皇が寺院に改めた禅林寺(ぜんりんじでん 後の南禅寺)に近い粟田山に埋葬されました。
粟田山陵の参道入口は閉じられているため、遠景でしか陵墓を見ることが出来ませんが、山側の道から眼下に見下ろすことが可能です。

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左京区南禅寺北ノ坊町にある三つの皇室ゆかりの史跡を採り上げてみます・・哲学の道を歩かれた方はご存知の史跡かと思います。


さて、哲学の道沿いにある「後伏伏見天皇十八世皇孫女・宗諄女王墓」については、以前に「紅葉のある風景・・」として掲載していますが、今回は墓内部の写真を追加してみます。
宗諄女王は、江戸時代末期の伏見宮貞敬親王の皇女で、文化十三年(1816)に生まれました。文政二年(1819)に第百十九代・光格天皇の養女となり、幼年期より哲学の道付近の霊鑑寺に入って、文政六年(1822)に得度して法名を宗諄としました。そして霊鑑寺に住持して布教に務め、明治二十四年(1889)に七十六歳で病死しています。
宗諄女王墓は、京都の多くの皇室関係者の墓の中でも、特に目立つ存在といえるでしょう。一年を通じて、観光地として知られる哲学の道の写真撮影スポットのひとつになっていますが、特に秋は、墓内に植えられている真っ赤な楓が素晴らしく、哲学の道で一番の紅葉の見所になるからです。



さて、「宗諄女王墓」の西、哲学の道の下には、以前にブログに採り上げた光雲寺があり、その南にある白壁に囲まれた「後水尾天皇皇女・昭子内親王墓」を見下ろすことが出来ます。(さらに、光雲寺の南側にある石段を下ると、「昭子内親王墓」の正面に出られます。)
昭子内親王(1629〜75 妙荘厳院宮)は、後水尾天皇の第四皇女で、母は将軍徳川秀忠の娘・東福門院(徳川和子)です。以前は姉の光明心院(女二宮・近衛尚嗣室)が「昭子内親王」と考えられていた経過から、「顕子内親王」と呼ばれていました。現在も混同があるようですが、現在、宮内庁は昭子内親王としています。また、昭子内親王(顕子内親王)は、左京区岩倉に岩倉御所(岩倉上蔵町)に御所を構え現在はその跡地に石碑が建っています。








最後に、光雲寺の北側には「久邇宮墓地(くにのみやぼち)」があります。
久邇宮家は、江戸時代末期の伏見宮邦家親王の第四王子・朝彦親王(あさひこしんのう、ともよししんのう)が創設した宮家です。朝彦親王は、特に「中川宮」の名前で幕末ファンに知られていて、佐幕派の親王として活躍し、明治維新で反政府陰謀罪の疑いで逮捕され、親王の身分を剥奪されるなど時代の波に逆らった人物です。その後、罪を許されて皇室に復帰した朝彦親王は、明治八年(1875)に久邇宮家を創設しました。
多くの子女に恵まれた朝彦親王ですが、光雲寺の「久邇宮墓地(くにのみやぼち)」には、親王の子女の四墓一塔があります。生後間もなく亡くなった暢(のぶ)王と、一言足彦命(ひとことたらしひこ)王、二歳で亡くなった懐子(やすこ)女王、十八歳で亡くなった飛呂子(ひろこ)女王の墓と、軍人として活躍した久邇宮第二代・邦彦王(1873〜1929)の髪爪塔です。

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どうも、最近、このブログでは左京区の天皇陵が続いていますが、今回は、京都市左京区吉田という地域の小さな二つ天皇家ゆかりの史跡です。
特に天皇陵や皇室ゆかりの史跡に関心があるというわけでは無いのですが、天皇の埋葬地から平安京当時の地勢を想像してみるのも面白いです。そして、天皇以外の皇室関係者の墓の中では、寺院内の墓地にあるお墓よりも、今回のような普通の民家の傍にポツンとある史跡の方に惹かれます。


さて、この左京区の吉田という区域は、大部分が京都大学の中央・吉田・南部キャンパスが占めている地域で、史跡らしいものは吉田山にある吉田神社しか無いように思われます。
しかし細かく地図を見てみると、京都市左京区吉田牛ノ宮町の市街地の中に二つの史跡があることに気付きます・・「醍醐天皇皇孫皇太子・慶頼王墓」と「村上天皇中宮 安子火葬塚」です。



「醍醐天皇皇孫皇太子・慶頼王墓」は、民家の間の狭い参道が、恐らく防犯目的もあって近年柵で封鎖されています(写真)そのために、離れた所から見ることになりますが、鳥居のある神道形式の墓として整備されています。

さて、慶頼王(やすよりおう  よしおりおう 921〜925)は、平安時代の第六十代・醍醐天皇の皇子・保明親王(やすあきらしんのう)の王子です。慶頼王の父、保明親王(903〜923)は、延喜三年に醍醐天皇の第二皇子として誕生し、母は女御・藤原穏子(ふじわらのおんし やすこ 関白・藤原基経の娘 五条后)です。

保明親王は、延喜四年(904)に二歳で立太子されましたが、この保明親王の立太子には、穏子の兄の藤原時平が外戚関係を強化し政権を安定させるために擁立したと考えられます。しかし、時平は延喜九年(909)に三十九歳で死去しました。そして、その後も時平の長男・保忠(やすただ)が承平六年(936)四十六歳で、三男・敦忠(あつただ)が天慶六年(943)三十七歳で亡くなるなど、時平の子孫が相次いで若死にしたことは、時平が大宰府に左遷させた菅原道真の怨霊によるものと考えられました。


そして、延喜二十三年(923)に保明親王も、僅か二十一歳で死去します。
醍醐天皇は同年、保明親王の嫡男・慶頼王を三歳で皇太孫としますが、慶頼王もニ年後の延長三年(925)に僅か五歳で亡くなりました。この皇太子・皇太孫の相次ぐ死去も、慶頼王の母で、保明親王の御息所・藤原仁善子(ふじわらのよしこ)が藤原時平の娘だったために、醍醐天皇や世間も菅原道真の祟りだと恐れたと伝わります。

一方、皇子と皇孫を失った藤原穏子は、道真の怨霊にも負けない強運の持ち主でもあったのでしょう。
延長元年(923)に十九歳で保明親王を生んでから、なんとニ十年の時を経て、三十九歳で二人目の皇子を生み中宮となります。この時誕生したのが寛明親王(ゆたあきらしんおう 後の朱雀天皇)で、前年に亡くなった慶頼王に代わって、直ちに延長四年(926)に立太子されました。
ただ寛明親王は虚弱体質で、道真の怨霊を避ける意味も含めて、格子も閉じられた部屋の几帳の中で育てられたと伝えられます。さらに、穏子は四十二歳という当時としては驚くほど高齢で成明親王(なりあきらしんのう 後の村上天皇)も出産しました。そして、藤原穏子は二代の天皇の母后として七十歳の長命を保つことになります。




さて、今度は「村上天皇中宮・安子火葬塚」です。

前に村上天皇陵、冷泉天皇陵、円融天皇陵を採り上げた時に少し出てきましたが、この火葬塚は、第六十二代・村上天皇の中宮として、冷泉天皇や円融天皇の母親となった藤原安子が火葬された地ということです。

藤原安子(ふじわらのあんし やすいこ)は、延長五年(927)に、右大臣・藤原師輔の長女として誕生し、天慶三年(940)に成明親王(村上天皇)に入内しました。
成明親王(村上天皇)は、天慶七年(944)に兄帝朱雀天皇の皇太子となり、天慶九年(946)に兄帝の譲りを受けて即位し、これにより藤原安子は女御となります。
その後、安子は 天暦四年(950)に憲平親王(後の冷泉天皇)を出産し、親王は生後二ヶ月で立太子されました。また、天暦六年(952)に為平親王、天徳三年(959)に守平親王(後の円融天皇)が生まれています。天徳二年(958)中宮に冊立されますが、応和四年(964)に三十八歳で亡くなりました。


藤原安子のエピソードといえば「大鏡」の逸話がよく知られています。

安子は、村上天皇の皇太子時代からの妃でもあり、皇太子憲平親王や多くの子女を設けたことから、村上天皇に非常に重んじられていたようです。後世、聖君として讃えられた村上天皇ですが、安子に非常に遠慮をしていて、安子が無理な要求をしても拒めなかったといわれます。安子は帝に対して意地の悪い悪戯をしたこともあったようで、天皇は「また、いつもの手か」と言って諦めていたと「大鏡」は記しています。

特に非常に嫉妬深く、天皇の寵愛を受けていた藤原芳子(藤原師尹の娘、安子の従姉妹)の美貌を壁の穴から覗いて嫉妬し、壁の穴から土器(かわらけ)の破片を投げつけたこともあったと伝わります。
これにはその場にいた村上天皇も立腹、これは安子の兄弟らが仕向けたことだろうと、兄弟の藤原伊尹・兼通・兼家を呼んで謹慎を命じると、それを知った安子は、天皇に部屋に来て欲しいと使いを送ります。

天皇はどうせ兄弟の謹慎のことだとわかっていたので、無視していると、安子は何度も何度も使いを走らせて、どうしても来て欲しいと申し入れます。段々、このまま行かなければさらに怒るだろうと怖くなってきた天皇は、ようやく安子の元に行きます。
安子は、「仮に私の兄弟に大きな罪があっても、私に免じて許してくださるのが当然なのに、この件で、このような処分をされるのはもっての外です。本当に情けないことです。直ぐに赦免ください。」といいます。天皇としては、直ぐに赦免するのは外聞が悪いと躊躇しますが、安子は引き下がりません。

さすがに、天皇は疲れてきたのできたのでしょう・・「仕方が無い、そうしよう」と言ってとにかく帰ろうとすると、安子はさらに「今帰ったら、気が変わって直ぐには赦免されないでしょう。今すぐ、ここで赦免状を出してください。」と言って、天皇の袖を摑んで放しません。
根負けした天皇は、その場に使いを呼んで直ぐに兄弟たちを赦免したということです。


一方で、同じ「大鏡」は、安子が、本来は気立ての良い、人に思いやりのある性格だとも記しています。
身分に関係無く下々の者にまで目をかけて、面倒を見るやさしさがあり、安子が亡くなったことを聞いたものは、遠くの地の者まで惜しみ悲しんだということです。村上天皇は全ての政治を安子と相談して行い、安子は悪いことは庇ってやり、褒めるときはより褒めて、人の悪口を決して天皇に言わなかったとも伝えています。

これらの話がどこまで真実かはわかりませんが、安子が存在感のある影響力のある女性だったことが伺えます。
尚、安子の墓は、他の藤原氏一族や藤原氏出身の皇室関係者の陵墓である宇治陵(京都府宇治市木幡)にあります。

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左京区吉田神楽岡町、銀閣寺道交差点付近(白川通今出川)から西南に走る岡崎通に面しているのが、第六十八代・後一条天皇の陵墓、後一条天皇菩提樹院陵(ごいちじょうてんのうぼだいじゅいんのみささぎ)です。

岡崎道はこの御陵付近で道幅が狭くなり、車一台がギリギリ通れる程の狭さの割に、通行車もそこそこあるので要注意です。このやや落ち着かない場所にある御陵ですが、石段上の陵墓は吉田山の森を背景としていて、雰囲気はそれ程悪くはないです。
また、近くに紅葉の名所の真如堂や陽成天皇神楽岡陵、梅の隠れた名所・東北院、萩の隠れた名所・迎称寺もあるので、観光客が訪ねやすい陵墓です。尚、この陵墓は、後冷泉天皇皇后・章子内親王陵を同域としています。この章子内親王は後一条天皇の皇女になります。




さて、後一条天皇(在位1016〜1036)は、藤原道長から頼通の時代、まさに藤原摂関時代全盛期の天皇になります。そのため、後一条天皇についてというより、時代の中心にいる藤原道長の晩年について書くことになりそうです・・・


後一条天皇は、寛弘五年(1008)に第六十六代・一条天皇の第二皇子として誕生し、名を敦成(あつひら)といいました。母は藤原道長の長女・中宮藤原彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)で、まさに道長待望の初めての外孫皇子でした。

一条天皇には、皇后・藤原定子(道長の兄・藤原道隆の娘)との間に、第一皇子・敦康親王(あつやすしんのう)があり、天皇は敦康親王の立太子を望んでいましたが、自身の初孫・敦成親王を立太子したい道長の要請によって、寛弘八年(1011)敦成親王が四歳で皇太子に定められました・・「大鏡」には、病気で退位する一条天皇が、「本来は、第一皇子(敦康親王)を皇太子にするべきだが、後見役となる人がいないのでやむなく第二皇子(敦成親王 後一条天皇)を立てるのだ」と語ったと記しています。道長一門の支持が無い天皇では安定した政治を行えないのがわかっていたのでしょう。


さて、一条天皇は、寛弘八年(1011)に病気のため退位し、間もなく三十一歳で崩御しました。代わって即位したのが第六十七代・三条天皇です。
関白藤原兼家の死後、その子、道隆・道兼・道長三兄弟が外戚としてそれぞれ一条天皇を長期にわたって支えていたために、三条帝は長い皇太子時代をすごしている内に当時としては高齢の三十六歳になっていました。幼少で即位し藤原氏の傀儡として育った天皇とは違って、熟年になって即位した三条帝は自身で親政を行いたいと考えました。

しかし、三条天皇にとって不幸だったのは、時代が藤原道長の全盛期だったことでした。
道長は、長女の中宮藤原彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)が一条天皇との間に、敦成親王(あつひらしんおう 後の後一条天皇)、敦良親王(あつよししんのう 後の後朱雀天皇)を生んでいて、これら若い皇子を擁立することで、次世代にも揺ぎ無い権力を握ることが確実となっていました。

道長は早速、三条帝即位にともなって、その皇太子として敦成親王(後一条天皇)を定めました。もちろん、道長は、これまで疎遠だった甥(三条帝)との繋がりを強めるために、次女の藤原妍子(ふじわらのけんし きよこ)を帝の中宮に立てて皇子の誕生を期待していたのですが、残念ながら三条帝と妍子の間に生まれたのは皇女(禎子)で、道長は大変失望しました・・・こうして、藤原道長にとっては、自分で政治を行おうとする三条天皇は邪魔な存在となっていきます。

道長は、しばしば三条天皇の意向を無視する妨害工作を行いました。結局、三条帝が眼病を患っていたこともあって、長和五年(1016)、帝は在位六年にして道長の退位の勧めを聞き入れざるを得ませんでした。三条天皇には、皇后・藤原娍子(藤原済時の娘)との間に、敦明親王(あつあきらしんのう 小一条院)ら数人の皇子があり、三条帝は退位の条件として、第一皇子・敦明親王を後一条天皇の皇太子とにすることを道長に認めさせました。

しかし、帝が翌寛仁元年(1017)に崩御すると、道長の圧力を感じた敦明親王は自ら皇太子を辞退したいと申し出ました。事がうまく運んだと喜んだ道長は、敦明親王に報いるために小一条院太上天皇の尊号を贈って准上皇として厚遇し、三女の藤原寛子(ふじわらのかんし ひろこ)を嫁がせました。

尚、この時、敦明親王の先妃・藤原延子(ふじわらのえんし のぶこ 左大臣藤原顕光の娘)は、夫を寛子に奪われて絶望のあまり病気となり、寛仁三年(1019)に非業の死を遂げました。この延子とその父・顕光がその死後に怨霊になって、後に寛子や道長一族に祟ったと伝わります。

こうして、道長は計画通り後一条天皇の同母弟・敦良親王(あつよししんのう 後の後朱雀天皇)を立太子させます。これにより、冷泉帝・円融帝の両統迭立時代は終わり、皇統は円融系に統一されることになります。こうして、今回の主人公、後一条天皇が即位しました。
(三条帝については、三条天皇陵を採り上げる際に、もう少し詳しく書きたいと思います)




さて、長和五年(1016)、敦成親王(後一条天皇)は三条天皇の退位によって九歳で即位しました。道長は摂政に就きますが、翌寛仁元年(1017)三月、後継者として嫡男・頼通に摂政と氏長者を継承させています。そして、翌寛仁二年(1018)正月、後一条天皇が十一歳で元服すると、道長は四女の藤原威子(ふじわらのいし たけこ、後一条天皇にとっては叔母)を女御として入内させ、十月に中宮としました。

道長の長女・彰子は太皇太后宮(一条天皇の中宮)、次女・妍子は皇太后宮(三条天皇の中宮)、そして、今回四女・威子が後一条天皇の中宮となったわけで、一家から三后が立つという史上未曾有の栄華が訪れたのでした。
道長が、自身の栄光を讃えて、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだのはこの時のことです。



しかし、この頃から、道長はしばしば胸の病に苦しむことになります。
寛仁三年(1019)三月、道長は、胸に激しい痛みを訴えて床につきます。そして昼過ぎに起き上がって、突然正装を始めました。息子の関白頼通ら一同が驚いて様子を伺っていると、道長は氏神である春日明神のある南方に向って暇乞いの拝礼を行い、僧を呼んで剃髪し出家しました。あまりに急なことで、一族以下周りの者も呆然として止められなかったと「大鏡」は記しています。そして、道長は半年後の九月、東大寺で受戒しました。(法名は行観(後に行覚と改めています))

自身の病もあって、この頃から、道長は来世のことを考え始めたようです。
極楽往生を願って、寛仁四年(1020)三月に、九体の金色の阿弥陀仏を祀る阿弥陀堂(無量寿院)を建立し、その後も、相次いで諸堂造営を行っています。治安二年(1022)七月には自邸土御門殿の東に壮大な法成寺が完成し、後一条天皇以下全ての皇族達も盛大な落慶法要に行啓しています。
この法成寺境内には、最初に建てられた阿弥陀堂(無量寿院)の他に、金堂、五大堂、釈迦堂、十斎堂、三昧堂、講堂、東北院、西北院、東塔、西塔等の多くの堂宇が立ち並んでいたと伝わり、道長もここに移り住みます。
また、寛仁五年(1021)、道長の六女・藤原嬉子(ふじわらのきし よしこ)を嫡男頼通の養子として、皇太弟・敦良親王(後朱雀天皇)に入内させて、次代の政権安定を図っています。



そして、これまで多くの幸運に恵まれた道長一族に不幸が訪れることになります。
万寿ニ年(1025)七月、小一条院(敦明親王)女御の道長の三女・寛子が二十七歳で死去します。翌八月には、将来の皇后を期待された六女・嬉子が、親仁親王(後冷泉天皇)を出産するも、数日後、赤斑瘡(あかもがさ、麻疹)により十九歳で死去しました。歴史物語「栄華物語」は、若い娘の死に大い嘆く道長の様子を描いています。また、この時には、後一条帝や中宮の四女・威子も赤斑瘡に感染しています。
上記したように、当時の人々は、治安元年(1021)に亡くなった藤原顕光が、不幸な死を遂げた娘の延子と共に怨霊となって、敦明親王を奪った寛子や道長一族に祟ったのだと噂しました。

万寿三年(1026)には、道長の長女・彰子(太皇太后宮 一条天皇の中宮)が、相次ぐ身内の不幸に世の無常を感じて出家し上東門院と称しました。ただ、この年の吉事は、十二月に後一条天皇の第一皇女・章子内親王(しょうし あきこ 二条院)が誕生したことで、皇子ではなかったものの、一族に不幸相次ぐ中での無事な出産に、道長は安堵したようです。

さて、翌万寿四年(1027)にも不幸が続きます・・九月、次女の妍子(皇太后宮 三条天皇の中宮)が病気で亡くなり、そして、道長にも死が訪れます・・・・
道長は十月二十八日に法成寺阿弥陀堂(無量寿院)で行われた娘・妍子(皇太后宮 三条天皇の中宮)の四十九日法会にも参加できないほどの重病となり、十一月十日頃には危篤状態となります。息子の頼通や娘の上東門院(太皇太后宮 一条天皇の中宮)が万僧供養等を繰り返し、道長の体から離れた魂を呼び戻す招魂祭も行われました。後一条天皇や皇太子・敦良親王(後の後朱雀天皇)が相次いで祖父(道長)を見舞う中で、かすかに声を出したりし、体を動かすこともあったようですが、危篤状態は続き、ついに十二月四日の明け方に六十三歳で死去しました。


翌万寿五年(1028)は、前年末の道長の死という大事件によって、正月の天皇が群臣に祝いを賜る節会の儀式や位階を賜る叙位の儀も中止や延期されることになりました。
また、その半年後の長元元年(七月万寿から改元 1028)に関東で平忠常の乱が起こって、鎮圧まで三年を要する事態となります。
長元二年(1029)には後一条天皇の第二皇女・馨子内親王(けいし かおるこ)が誕生しました・・もちろん目出度い事なのですが、宮中ではまたもや皇子でなかったことに失望感もあったようです。


少し明るい話題としては、長元六年(1033)十一月、道長の正室・倫子(源倫子 鷹司殿)の七十歳の祝賀が行われました。
倫子は左大臣・源雅信の娘で、永延元年(987)に二十四歳で二歳年下の道長に嫁ぎました。道長と倫子の関係は円満だったようで、道長の長女・彰子、長男・頼通、次女・妍子、次男・教通、四女・威子、六女・嬉子は倫子の子供たちです。道長の栄華は、後継者の男子と皇后となった娘達を産んでくれた倫子のおかげだったのでした。
既にニ人の娘に先立たれてしまった倫子ですが、長女・上東門院(彰子)、長男・関白頼通、次男の内大臣教通、四女・中宮威子が用意を整えて子供たちの舞等が披露されました。


さて、後一条天皇は、長元九年(1036)三月頃から病気となり、四月に二十九歳の若さで崩御しました。中宮・威子との間には上記のように二人の皇女を得ましたが、皇子は生まれませんでした。また、同年九月に威子も帝を追うように疱瘡で亡くなっています。

遺骸は神楽岡の東、浄土寺の西で火葬にされ、一旦遺骨は浄土寺に安置された後、この地に長暦元年(1037)に母・上東門院(彰子)が建立した菩提樹院に長久元年(1040)に移されています。その後の戦乱などで菩提樹院の所在も不明となりますが、明治二十二年(1889)に現在地に定められました。

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