京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

銀閣寺・哲学の道・南禅寺他

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左京区川端通り三条上る法林寺門前町にある壇王法林寺(だんのうほうりんじ)は、正式には「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ)」という浄土宗寺院ですが、一般的に「だんのう」の名前で親しまれています。
観光寺院ではなく、戦後の復興期に日本初の夜間保育園を設けるなど地域の福祉教育に努められてきたお寺として有名な存在で、境内には「だん王保育園」や地域児童のための「だん王児童館・図書館」が設けられています。


さて、元々この地には、蓮華蔵寺という天台宗寺院があったようですが、文永九年(1272)、望西楼了恵上人(ぼうせいろうりょうえしょうにん)が浄土宗に改め、悟真寺と称したことに始まります。室町時代の永禄年間(1558〜70)に焼失し廃絶しますが、その後、慶長十六年(1611)袋中上人が再興し、現在の名に改めたということです。弟子の第二世・団王上人の時代に基礎が固められました

境内ですが、三条通に面して南門、川端通に面して西門があり、境内には楼門、本堂、庫裡が並びます。この内、本尊の阿弥陀如来を祀る本堂は、江戸時代の元文三年(1738)から寛延三年(1750)頃にかけて再建されたもので、彩色や彫刻等の装飾が多いことが特徴とされ、江戸時代中期の浄土宗本堂としては珍しい平面構成になっているようです。また、朱塗りの西門は、本堂とほぼ同時期の寛延四年(1751)に造営された一間医薬門です。(写真)他に墓地の北東隅に二棟並ぶ霊屋は、江戸時代前期の造営と考えられていて、方一間の小さなもので、東と西に開山、第二世の墓(卵塔)を収めています。これら本堂・西門・霊屋(二棟)は京都市の有形文化財に指定されています。

また境内に祀られる龍神は、「加茂川龍神」、「八大龍神」と呼ばれます。この地の龍神信仰の歴史は古く、寺院創建以前からこの地に祀られていたようです。加茂川が大氾濫した際に、糺の社(下鴨神社)が流されてこの地に流れ着き、その縁でこの三条の地に加茂大神宮を鎮座させ祀ったのが始まりで、また旱魃や水害が重なったある年に、加茂川の東岸に住む大蛇が原因と考え、この悪蛇を成敗し、その霊を祀るお堂を建立したことも龍神信仰につながったと伝わります。その後、江戸時代の寛文六年(1666)に加茂川の氾濫を鎮めるために霊元天皇の勅令により現在の龍神像が勧請され、加茂川龍神として大銀杏の下に祀られてきたということです。

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左京区鹿ケ谷町御所ノ段町(前回の霊鑑寺の北)にある安楽寺も、現在特別公開されています。(3月31〜4月8日、14日、15日)
安楽寺は、住蓮山と号する浄土宗寺院で通常非公開ですが、春の桜・つつじ・さつきの期間に数回、それと秋の紅葉期間に一般公開しているので比較的訪問しやすいお寺です。また哲学の道沿いのギャラリーの運営も行っています。

このお寺と言えば、浄土宗の開祖法然上人の弟子の住蓮・安楽両上人と松虫・鈴虫姫の伝説で有名で、山号・寺号も住蓮、安楽両上人の名前から採られています。安楽寺では10分程度、両上人と松虫・鈴虫の物語を説明してもらえます。






さて、安楽寺は、鎌倉時代初期に法然上人の弟子、住蓮・安楽両上人が現在地より東1kmの辺りに、恵心僧都源信作の阿弥陀如来坐像を本尊として、念仏道場の鹿ケ谷草庵を結んだのが始まりです。
住蓮・安楽両上人は唐の善導大師の「往生礼讃」に譜曲を付けて六時礼讃声明を完成します。(吉田兼好の「徒然草」でも、「六時礼賛は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文をあつめてつくりてつとめにしけり」と記されています。)

旧仏教が貴族中心だったのに対し、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで、救われるという法然上人の念仏信仰は、新興階級の武士や農民、また救いの対象から漏れていた女性達に広く受け入れられ広まりました。
住蓮・安楽両上人は念仏を音曲に合わせる声明という親しみやすい方法で布教し、特に両僧の声明は非常に美しく、聴く人の心を揺さぶったと言われ、参詣者には感動して出家して仏門に入る者もいたようです。その中に当時、後鳥羽上皇に女官として仕えた松虫・鈴虫の姉妹がありました。

両姫は今出川左大臣の娘で、容姿端麗で教養も豊かだったことから上皇の寵愛を受けていましたが、それだけに他の女官の嫉妬も強く、宮中での生活に苦悩し心の平安を求め出家を望むようになったと言うことです。
建永元年(1206)、上皇が紀州熊野への行幸で留守中に、2人は清水寺に参拝して法然上人の説法を聞いて感動、その夜御所を忍び出て鹿ケ谷草庵を訪れ、住蓮・安楽両上人に出家受戒の願いを申し出ました。
両上人は、出家には上皇の許可が必要と止めますが、松虫・鈴虫は、「哀れ憂きこの世の中にすたり身と 知りつつ捨つる人ぞつれなき」と詠み必死の覚悟で懇願するので、両上人も心を動かして、ついに住蓮上人は松虫姫を、安楽上人は鈴虫姫を剃髪しました。時に松虫姫は19歳、鈴虫姫は17歳と言うことです。






熊野から戻ってこの事を知った後鳥羽上皇は激怒し、この出来事を口実の一つとして念仏停止の宣下を発し、専修念仏教団の弾圧を行いました。そして、建永二年(1207)、住蓮上人を近江の馬渕(現滋賀県近江八幡市)で、安楽上人を京都六条河原(東本願寺付近)で斬首の刑に処しました。

住蓮辞世の歌は「極楽に生まれむことのうれしさに 身をば佛にまかすなりけり」、安楽辞世の歌は「今はただ云う言の葉もなかりけり 南無阿弥陀仏のみ名のほかには」と伝わります。さらに念仏の開祖法然上人を讃岐(香川県高松市)に、弟子の親鸞上人を越後(新潟県直江津市)に流罪の刑に処しました。(「建永の法難」)。
その後、松虫・鈴虫は瀬戸内海の生口島の光明坊に移って、念仏三昧の余生を送り松虫は35歳、鈴虫は45歳で往生したと言うことです。

さて、その後鹿ケ谷草庵は荒廃しますが、流罪地から帰京した法然上人が、住蓮・安楽両上人の菩提を弔うために草庵を復興し、後世に伝えるために山号寺号を「住蓮山安楽寺」と名付け両上人の追善の寺としました。その後幾度か荒廃を繰り返し、室町時代の天文年間(1532〜55)末、現在の地に本堂が再建され、現在の建物は延宝九年(1681)に再建されたものと言うことです。






本堂には阿弥陀如来三尊像を安置し、右には住蓮・安楽両上人と松虫・鈴虫両姫の坐像、左には法然上人張子の像、十一面観音造等を祀っています。
庭園は本堂前、書院前の皐月の刈り込みが見事で、これからの季節が楽しみです。境内の右手には住蓮・安楽両上人の供養塔(写真)、山林中に松虫・鈴虫両姫の供養塔があります。(写真)
7月25日のカボチャ供養も有名で、その際には寺宝の掛け軸等が公開されています。

霊鑑寺の椿と比べると、今回の安楽寺は桜が僅かで地味な印象でしたが、安楽寺の一番美しい時期はこれからで、五月が必見のお寺と言えます。つつじの時期(5月3〜6日、12日、13日)、さつきの時期(5月15〜20日、26、27日、6月2日)に特別公開されますので機会があればご覧ください。

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前回の続きです。今回は椿の写真を掲載します。

哲学の道では、桜はようやく見頃かという感じですが、こちらの椿はやや散り椿か、種類によってピークのものもあり見ごたえがありました。


有名なのは、京都指定天然記念物の「日光椿」(写真1、2)で、その他境内の椿の数は30種類を超えているそうです・・主な椿は、日光、ちり、小桜、おそらく、白侘助、黒、舞鶴、菱唐糸、風折、白玉、羽衣、紅八重侘助、有楽、白牡丹、衣笠、蝦夷錦、永楽、雪、曙、秋の山、熊谷、雪中花、ローゼフローラ、ルチェンシス、不知火、奴、獅子、縮緬、白澄、胡蝶侘助、孔雀、月光、崑崙黒、大虹、早咲赤藪。

今回久しぶりの霊鑑寺でしたが、毎年椿を見に来るというリピーターの方も多いようで、花を愛でる寺院としては最もお勧めできる場所の一つです。

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現在、哲学の道から一筋東にある霊鑑寺が特別公開されています。公開期間(3/31〜4/8)
霊鑑寺は通常非公開ですが、春秋に特別公開されていて、特に椿の名所として定評があるので春がお勧めです。(紅葉の名所は他にも多いので)
格式の高い門跡尼寺らしい落ち着いた雰囲気が味わい深く必見のお寺です。

今回は境内全般、次回に椿の写真を掲載します。





さて、左京区鹿ケ谷御所の段町にある霊鑑寺は、円成山と号する臨済宗南禅寺派の門跡尼寺です。
創建は、江戸初期の承応三年(1654)に、後水尾天皇の勅許により皇女の多利宮を開山として建立しました。以降、明治時代まで代々皇女や皇孫女が入寺したので、「谷の御所」、「鹿ヶ谷比丘尼御所」と呼ばれて来ました。こうした縁で、寺には歴代天皇の宸翰や親王や宮家の真筆、200点に及ぶ御所人形など天皇家ゆかりの寺宝が多く残されています。
また本尊の如意輪観音像は、霊鑑寺の東方山中にあった如意寺という寺院(廃寺)の本尊だったと伝わり、荒廃して捨てられていたものが後水尾天皇の霊夢に現われて祀られるようになったという伝説があります。

書院・玄関・本堂、表門は全て京都市の指定文化財になっています。
まず、石段を登った所にある表門は、宝暦二年(1752)頃の建立で切妻造本瓦の一間医薬門です。(写真)玄関は、後西院御所旧殿を移築したものと言われます。また本堂は、正面3間側面4間の宝形造で、享和三年(1803)十一代将軍徳川家斉の寄進とも伝えられ、寛永六年(1794)頃の建立と考えられています。(写真)
書院は延宝三年(1675)に造営された後西院御所の御休息所・御番所を貞亨年間(1684〜88)に現在の地に移転したもので、北から上段の間、二の間、三の間が続き一列に並び、二の間から西へ四の間、五の間へと続きます。
上段の間は格天井張りで床や棚、平書院を備えていて、その後増改築が行われているようですが御所の旧殿の遺構をよく伝えています。上段から三の間は金地彩色の障壁画、四の間と五の間は水墨画が描かれていて、寺伝によれば狩野派の作と伝わります。





書院、本堂の前に広がる庭園は、背後の東山連峰の稜線を利用して造られた池泉観賞式庭園です。
中心となるのは書院南面の池庭で、書院と池の間に白砂が敷かれ、池の東南に滝石組があります。かっては山から谷水が流れ落ちて、池には水が満ちていたようですが現在は枯れています。書院の東側と本堂の間の崖地は石組で土留され石階段を設け通路にしていて、さらに本堂の北へと庭は続いていて結構広いと感じます。
また、境内は、春は椿とつつじ、秋は紅葉が彩りますが、特に椿の種類は30種類以上で、春には庭内は椿の花でうずめられます。特に京都市指定の天然記念物の「日光椿」は、後水尾天皇遺愛とも伝えられ、雄しべが小さな花弁状になって円形にまとまる「カラコ咲き」という品種で樹齢300年以上という原木に近いたいへん貴重な品種として知られます・・・次回に写真をたっぷり掲載します。

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幸せ地蔵尊(弥勒院)

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「哲学の道」沿いにある小さなお地蔵様ということで、ご存知の方もあるかと思います。この地蔵菩薩が祀られているお寺が弥勒院です。


左京区浄土寺南田町にある弥勒院は、山号を祥雲山といい、聖護院を大本山とする本山修験宗(山伏)のお寺です。元は聖護院の付近にあり、昭和の初期に現在の場所に移ってきたということです。(幸せ地蔵の話以外は、情報が皆無の小さなお寺なので直接お寺の方に聞いてみました。)

弥勒院には境内の外に小さなお堂があり、地蔵菩薩像が祀られていて、通称、「幸せ地蔵さん」と呼ばれて親しまれています。
このお地蔵さんは、「子安地蔵」とも言って、元は室町の呉服商が所持していたものを戦時中に弥勒院に預けられたもので、その後本堂に祀っていたものを、20数年前に台風で寺前の土塀が壊れたのをきっかけに、道ばたに新しくお堂を建てて移したということです。
絵馬が多数かけられ、赤いのぼりが立っていて絵になるのか、哲学の道散策の方が立ち寄る場所です。人力車に乗ると、ここで写真撮影するので有名ですね。(写真)
また、春秋にお堂の横にちりめん山椒の店が出ることでも知られます。


ところで、哲学の道ではまだ桜チラホラ程度ですが、急に観光客が増えてきたようです。いよいよ観光シーズン突入ですね。


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