京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

銀閣寺・哲学の道・南禅寺他

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頂妙寺

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左京区仁王門通川端にある頂妙寺は、妙伝寺、立本寺、本満寺、本法寺、妙覚寺、妙顕寺、本圀寺と共に京都の日蓮宗本山の1つです。観光寺院ではありませんが、この地区では最も広い敷地面積を持つ寺院で、仁王門通という名前は、このお寺の仁王門に由来すると言われます。


頂妙寺は、文明五年(1473)に、下総の中山法華経寺の日祝上人が上洛し、土佐の守護・細川勝益の帰依により開創された日蓮宗寺院で、本尊は十界曼荼羅になります。
創建時は四条錦〜万里小路富小路付近にあったようでが、その後、移転を重ね高倉中御門に移転。町衆の信仰を集め、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一ケ本山の一つとして発展しました。

しかし、天文五年(1536)比叡山延暦寺の攻撃を受け、他の日蓮宗本山と共に全て灰燼と化します(天文法華の乱)堺に逃れた後、天文十一年(1542)他の日蓮宗寺院と共に、京都帰還を許され、高倉中御門の旧地に再興しますが、天正元年(1573)信長の焼討ち遭い、鷹司新町に移転。さらに秀吉の命で三度高倉中御門の地に復帰します。そして、寛文十三年(1673)御所に隣接しているという理由で現在地に移転しました。
江戸時代の延宝元年(1673)の火災、天明八年(1788)「天明の大火」によって焼失し、現在の現本堂は「天明の大火」以降の再建になります。
広い境内には、仁王門、大本堂、妙見堂、鬼子母神堂、鐘楼堂、祖師堂等があり、俵屋宗達筆「双牛図」(重文指定)など多くの寺宝を所蔵しています。


秋以外には、特に魅力を感じるということは無いのですが、秋にはイチョウが色付いてお勧めスポットになります。また広い境内には、二条通側に有料駐車場があり、京都観光に利用される方もいるようです。

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若王子神社から右手に標高約200メートルの若王子山(にゃくおうじやま)を登ると、「同志社墓地」があります。
山道は整備されていますが、山は深く最近はイノシシが出没するらしく電気を通した防御柵が設けられています。この日は夕方で少し迷いましたが登ってみました。約20分程登ると山頂です。ここに来るのは学生時代以来かと思います。



山頂の墓地には、同志社に関係する三十数名の墓が並んでいます。中心にあるのは、もちろん同志社英学校(同志社大学)創立者・新島襄の墓。すぐ横には八重夫人の墓があります。
生涯病気に悩まされた新島襄は、明治23年(1890)急性腹膜炎で神奈川県大磯にあった宿舎・百足屋旅館で47歳の若さで死去しました。病気が重くなると、かっての門人・徳富猪一郎(徳富蘇峰)、支援者の伊藤博文や渋沢栄一その他多くの見舞客が駆けつける中で遺言を書き記させ、そして、京都から駆けつけた八重夫人の腕の中で息を引き取りました。
最後の言葉は「論語」の「天を怨みず、人を咎めず(自分がどんなに不幸な境遇にいても、決して天を恨んだり、人のせいにしたりしてはいけない)」でした。





その生涯は、キリスト教を邪教として認めない旧弊な社会からの激しい迫害を加えられ続けたものでした。特に「江戸っ子」の新島が、保守的な京都(特に仏教勢力の圧力の強い)にキリスト教学校を創立するには、今では考えられないような様々な苦労があったことは窺い知れます。
しかし彼は信念を曲げず、その志は、伊藤博文、井上馨、大隈重信、陸奥宗光、勝海舟、渋沢栄一といった当時の有力者の支持を得ることに成功し、外国人宣教師らの協力で明治八年(1875)に同志社を創立させることに成功しました。
当時、正式な「大学」は東京にただ一校(それも国立帝国大学(現東京大学)しかなかったという状況の中で、初めて民間の力で、それも衰退し始めていた京都にキリスト教主義の大学を創り上げようという無謀ともいえる構想を実現したのでした。(専門学校令によって大学に昇格するのは彼の死後)また彼の大学構想は単科大学(カレッジ)ではなく総合大学(ユニヴァーシティ)が基本で、新島以前にこのような壮大な構想を考えた日本人はほとんどいなかったようです。
生前に著作が無かったため、その思想が広く研究されて来なかった点はありますが、キリスト教精神に基づく自由教育・自治教会を目指した日本最大の教育者のひとりです。そして子供のいなかった新島は、同志社の男女生徒をわが子と考えて接していたのでした。





さて、新島襄の遺体は、開通したばかりの東海道線の列車で京都(七条駅)まで運ばれ、駅から寺町の自宅まで同志社の生徒が交替で運びました。そして葬儀は、同志社チャペルの前で行われ、葬列には約4千人が参列したということです。葬儀の後、全校生徒たちは師の棺を担いで若王子山頂に運び土葬にしました。「彼等は世より取らんとす。我等は世に与えんと欲す」という徳富蘇峰の依頼で、友人勝海舟が書いた葬送旗を掲げて学生達は師を見送りました。
当初、埋葬地は、新島の父と同じ南禅寺に葬られるはずでしたが、葬儀の段階になってキリスト教を嫌う南禅寺側が厳しい条件を突きつけてきたのです。こうして、キリスト教徒としての生涯を貫くためには、京都市の共葬墓地に変更せざるをえなくなったのでした。当初の木の墓標は、翌年に旧友の勝海舟の筆による碑文が刻まれた鞍馬産の石の墓碑に変えられました。その後、この場所は師を慕う同志社関係者が眠る「同志社墓地」となっていきます。
それから90年以上が経過し、次第に新島の墓碑の風化が進んだため再建が検討されましたが、たまたま昭和六十一年(1986)事故のために崩壊したので、翌年新島ゆかりのヴァーモント州ラットランド産の大理石で建て替えられました。





「同志社墓地」には、新島をはじめ、妻の新島八重(京都初のプロテスタント教徒)や山本覚馬(八重の兄で京都初代府議会議長などを務め、同志社創立の立役者となった恩人)、同じく恩人ジェローム・デービス神父(同志社設立を助け、八重夫人に洗礼を授けた)、門人・徳富猪一郎(徳富蘇峰、墓は多磨霊園他と分骨)その他同志社関係の宣教師たちが眠っています。生前「やえさん」「じょう」と呼び合っていた新島夫妻は今も並んで静かに眠っています。

(写真は、新島襄、新島八重、山本覚馬、徳富蘇峰の墓)

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左京区若王子町にある熊野若王子神社も「京都十六社朱印めぐり」の一つです。この神社は前に少しだけ書きましたが、補足して書いてみます。


熊野若王子神社は、国常立神(くにとこたちのみこと)、伊邪那岐神(いざなぎのみこと)邪那美神(いざなみのみこと)天照皇大神(あまてらすおおみかみ)を祀ります。
神社の創建は、平安時代の永歴元年(1160年)後白河法皇が、禅林寺(永観堂)の守護神として、熊野権現を勧請したのが始まりで、若王子の鎮守社になります。神社名の若王子は、天照大神の別称、「若一王子」に因んで名付けられたということで、熊野神社、新熊野神社と共に京の熊野三山と呼ばれてきました。熊野若王子神社の背後の山には滝があることから、熊野三山の那智大社に相当するようです。(尚、熊野神社が那智速玉大社、新熊野神社が那智本宮大社に相当)


さて、その後、室町時代には足利尊氏以降の歴代将軍の信仰を集めると同時に、花見の名所としても知られるようになり、寛正六年(1465)に足利義政が花見の宴を催した記録が残っています。その後、応仁の乱で荒廃しますが、 豊臣秀吉が社殿を再興しました。現在の社殿は昭和五十四年(1979)に改築されたもので一社相殿ですが、明治までは本宮・新宮・那智・若宮の四棟からなっていたようです。
また境内末社の恵比須神社には、かって夷川通に鎮座していた室町時代作の恵比須神を祀っていて、今回訪問すると、正月ということで恵比寿神が公開されていました。他にも末社として、若王子山へ右の階段を登ると、滝宮神社があり、また山から流れる滝を祀る三解社などがあります(写真)


熊野若王子神社は、哲学の道の南の起点になり、桜の季節など、哲学の道散策の途中に寄られる方も多いかと思います。境内の奥行きはありませんが、横に広く開放的で親しみやすい感じの神社です。
今回は正月で数名程度の方がお参りをされているのを見かけました。

岡崎神社

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京都市左京区岡崎にある岡崎神社は、前回の竹中稲荷、宗忠神社よりもずっとメジャーな神社かと思います。元日の初詣での方もまずまず多かったのですが、「京都十六社朱印めぐり」目的で来られた方もあるかもしれません。「京都十六社朱印めぐり」というのは、京都の16の有名な神社を年初めに巡拝し、各神社から朱印を集めると一年間の様々なご利益が得られるというものです。


「京都十六社朱印めぐり」の神社です。

わら天神宮(北区) 
今宮神社(北区) 
御霊神社(上御霊神社)(上京区)
若王寺神社(熊野若王寺神社)(左京区)
熊野神社(左京区)
岡崎神社(左京区)
新熊野神社(東山区)
豊国神社(東山区)
粟田神社(東山区)
市比賣神社(下京区)
御香宮(伏見区)
藤森神社(伏見区)
六孫王神社(南区)
吉祥院天満宮(南区)
春日神社(右京区)
長岡天満宮(長岡京市)

半分くらいはこのブログに登場していると思いますが、どの神社も一度は訪れたい京都を代表する中堅クラスの神社なので、朱印めぐりをしながら巡拝するのも楽しいかもしれませんね。



さて、岡崎神社です。

岡崎神社は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)とその子供の五男三女の八柱神を祀っています。
延暦十三年(794)の平安京遷都の際、桓武天皇の勅願により、王城守護のため平安京の四方に建立した神社の一つで、 都の東にあることから「東天王社」という名前だったようです。
その後社殿が焼失したため、貞観十一年(869)清和天皇の時代に社殿を造営し、播磨国広峯(兵庫県姫路市)から現在の祭神を迎え祀ったと伝わります。後に後醍醐天皇が再建し、室町時代には足利義政が修造したという記録があり朝廷や幕府からも篤い信仰を集めていたようです。治承二年(1178)に、中宮の安産祈願の幣帛を賜った事から、現在も安産の神として信仰され、また、王城守護神としての創祀から、方除厄除神としても信仰されています。

また、かって神社の背後の紫雲山や境内一帯が、ウサギの生息地だったことから、ウサギは氏神様の使者と伝えられ、境内には所々ウサギの彫刻が施されています。(狛犬の台座、本殿灯篭、斎館の欄間等)特に、御手水屋形にある子授けうさぎ像は参拝者の人気を集めているようです。(写真)
ウサギも子を多く産むことから、この神社が子授けの神として篤い信仰を集めてきたというわけですね。

最後に、岡崎神社は、境内に「ホテル・サンフラワー京都」というホテルがある珍しい神社です。現代的に解釈すると宿坊がホテル、御茶屋がロビーになるわけで、結婚式と披露宴が全てここで行えるように、現代に即した神社の有り方を考えて造られたということです。

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吉田神社にお参りするついでに、摂社の竹中稲荷神社、近くの宗忠神社にも寄ってみました。
(こちらの方を先に訪ねたのですが)



吉田山には、吉田神社の境内以外にも小さな神社があります。吉田神社の境外末社の竹中稲荷神社です。
(前に写真だけ掲載したことがありますが、この機会にもう少し書いてみます。)

斎場所大元宮から坂を登って、稲荷神社らしい朱の鳥居が建ち並んでいるのを潜っていくと、正面に竹中稲荷神社、さらに同じく吉田神社の境外末社の天満宮、稲荷小社等が点在しています。
竹中稲荷神社の祭神は、宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)=もちろん稲荷大名神(稲荷神)です。
稲荷神は日本で最もポピュラーな神様ですが、伏見稲荷大社を総本山として全国に大小数万の神社があるそうです。
竹中稲荷神社の来歴は不明な点が多いようですが、古記に「在原業平の住居を神楽岡稲荷神杜の傍に移す」とあって、平安時代初期の天長年間(824〜834)に既に杜殿があった事が知られるようです。江戸時代の天保年間(1830〜1843)に数千の鳥居が参道に立てられたという記録もあり、信仰を集めていた様子がわかります。その後明治五年(1872)に吉田神社の末社に定められました。
尚、境内の天満宮はかって吉田山の南にあった智福院に祀られていたものが幕末に現在の地に移されたもので、その後明治に吉田神社の末社になりました。また、同じく境内の稲荷小社は吉田山の東麓にあったものを、明治五年(1872)に稲荷杜境内に移し末杜に定められたようです。
ついでですが、この竹中稲荷神社の境内には小さな自然石で出来た「業平塚」があります。在原業平死後に、吉田山に分骨を埋葬した跡と言われています。

竹中稲荷神社の境内は、普段少し不気味な感じが漂っている・・と言っては失礼ですが、なんとなく心細い気になる寂しい場所だと感じていましたが、今回数名の初詣されている人に出会いました・・ここで人に会うのも久しぶりという感じです。






竹中稲荷の参道のほぼ向かい側にあるのが、宗忠神社です。(宗忠神社についても前に少しだけ書きましたが補足します。)

宗忠神社は、江戸時代末に黒住教を創始した黒住宗忠を祀っています。
黒住宗忠(1780〜1850)は、安永九年(1780)に備前国(岡山市)の神主の家に生まれ、34歳の時に霊感を受けて、黒住教を創始し布教活動に専念した人物です。死後の安政三年(1856)には、朝廷から「宗忠大明神」の神号を与えられる程の信仰を集めたようです。幕末・明治以降に輩出した新興宗教教祖の元祖のような人物ですね。

宗忠神社は、幕末の文久二年(1862)に、高弟の一人、赤木忠春ら門人たちにより建立され、孝明天皇唯一の勅願所として皇室や公家からも厚い崇敬を受けたということです。現在の本殿は流造で、明治四十五年(1912)に、また拝殿も昭和十二年(1937)に改築された建物ということです。
境内には、他に本殿と並んで神明宮があり、天照大御神を祀っています。
この日は、若い神主さんが、「こんにちは」と参拝者一人ひとりに声をかけられ、その後夕方の祝詞をあげられているのを少し聞いていました。





竹中稲荷神社、宗忠神社に寄ったのは、普段はほとんど参拝者に会わないこれらの神社に初詣に行く人はどれくらいいるのかな?と少し興味を持ったからでした。
どちらの神社でも数名程度の参拝者に会いましたが、わずかでも参拝者がいると神社全体が明るく感じるのは不思議です。

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