京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

銀閣寺・哲学の道・南禅寺他

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京都市左京区には、浄土寺という名前の地域があります。

銀閣寺(慈照寺)の周辺地域ですが、銀閣寺が創建される前には、この地に浄土寺という大きな寺院があったことに由来します。(修学院、一乗寺もそうですが、由緒あるお寺が消滅した後に、寺院名が地名として残っている事は多いですね。)
浄土寺は、平安時代初期に智証大師円珍が住持となったこともある由緒ある天台宗寺院で、平安時代末より門跡寺院として栄えました。室町時代には、将軍足利義政の弟、義躬が浄土寺で出家し、義尋と号して浄土寺門主となります。後に、義尋は兄義政から将軍後継者として呼び出され足利義視と改名し、この兄弟の対立が、応仁の乱の原因となったことは良く知られます。そして浄土寺も応仁の乱で焼失しわずかに残っていた堂宇は相国寺の西に移され、その跡地には、文明十四年(1482)に義政が東山殿(銀閣寺)を造営することになります。





さて、現在、銀閣寺の隣には、浄土宗知恩院派に属している浄土院という小さなお寺があります。通称、「大文字寺」と呼ばれ、大文字の送り火を管理しているお寺です。(浄土寺と浄土院・・少し混乱しそうですが)
このお寺の創建ですが、室町時代に銀閣寺が造営された後も、かっての浄土寺の跡地に小さな草堂が残されていたようで、江戸時代の享保七年(1722)に泰誉浄久(たいよじょうきゅう)上人が、浄土寺の名を残すために浄土宗寺院として復興し浄土院と寺号を付けたと伝わり、その後享保十七年(1732)には随誉(ずいよ)上人が堂宇を再建したということです。(現在の堂宇は昭和初期の再建)
本堂に安置される等身大の阿弥陀如来坐像は、もと浄土寺の本尊だったといわれ、弘法大師像も併せ祀っています。




弘法大師といえば・・大文字送り火の起源には、幾つかの説が有りますが、弘法大師空海が始めたという伝説があります。
平安時代に浄土寺が火災に遭った際に、本尊の阿弥陀如来が大文字山上に飛び光を放ったことから、火を用いる儀式が起こり、空海が人の体を表す大の字に改めたという江戸時代の俗説です。信憑性のない話ですが、浄土寺の跡地の浄土院が、毎年8月16日には、大文字山山上にある弘法大師堂の前で、法要を行っているのはこの関係に由来します。(足利義政が始めたとか、江戸時代に始まったとか各説ある中で一番重みがあるのは、やはり空海起源説ですね。)

他に、浄土院境内には、ガラス張りのお堂内に「日本の楊貴妃」が祀られています。、平安時代末、後白河上皇の寵愛を受けて権勢を振るったという丹後局(高階栄子)の像で、彫刻家・友永詔三作の寄木造の彫像です。丹後局は、晩年この地の浄土寺に居住し、浄土寺二位尼と呼ばれました。当時、楊貴妃に例えられたのは、美貌だけでなく、政治に影響を及ぼした大きな存在だったことも例えているのでしょうが、この像は単なる美人像で深みは無いようです。



浄土院は、撮影したい場所が無いような小さな特徴のないお寺ですが、大文字の送り火を管理していて、京都には無くてはならないお寺なのかもしれません。

東北院

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京都市左京区浄土寺の真如堂のそばに、東北院という小さなお寺があります。
小さいですが由緒あるお寺で、JR東海の京都スポット情報にも出ているようなので、取り上げてみました。



東北院は、桓武天皇が、平安遷都の折に最澄の提言に従って御所の表鬼門に弁才天を祀ったのが始まりで、本尊の弁才天(非公開)は最澄の作と伝わります。その後、長元三年(1030)、藤原道長が創建した法成寺の東北境内(現在の上京区今出川から荒神口に至る西側)に、道長の娘、上東門院彰子(一条天皇中宮)が、一院を建立し弁才天を移します。この院内の小堂には彰子に仕える和泉式部が居住し、庭の梅を眺めていたという伝説があり、これが謡曲「東北」として後世に伝わります。


謡曲「東北」のストーリーはこのようなものです。
旅の僧が東北院を訪れて、梅の花を観ていると、花の精が現れて、和泉式部が植えた「軒端の梅(のきばのうめ)」の謂れを語り花の中に消え去ります。それを聞いた僧が、和泉式部のために法華経を唱えていると、式部の霊が美しい姿で現れて、昔話を語り舞いながら消えていきます。僧は思わず目覚めるというような展開です。



さて、東北院は、天喜六年(1058)に法成寺の火災により焼亡し、法成寺北に再建。さらに承安元年(1171)に焼失し寺域を移して再建。また室町時代の元亀元年(1570)にも焼失し再建されます。その後、江戸時代の元禄五年(1692)に焼失した際に、翌六年に現在の地に移し再建したのが、現在の東北院です。(尚、江戸期に時宗寺院となっています。)




境内は狭く、謡曲「東北」で知られることが無ければ、訪れる人も少ない感じです。
本堂前の和泉式部ゆかりの「軒端の梅(のきばのうめ)」は、謡曲「東北」に因んで後に植えられたもので、老木は3つに幹分れしていて、その内の1つは元気に花をつけるそうです。また、境内には災い除けの雲井水もあります。
普段は観光客は皆無に近いですが、梅の季節には立ち寄られる方もいるのでしょう。

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この庭、どこかで見覚えのある方もおられるのではないでしょうか?
昨年のシャープ「アクオス」のCMで吉永小百合さんが立っていたのがこの庭です。


京都市左京区吉田の吉田神社の付近に、作庭家・庭園史研究家の重森三玲の旧宅があります。
今年6月から旧宅主屋部は「招喜庵」、書院庭園部は「重森三玲庭園美術館」という二つの文化施設として保存再生され、予約拝観制で一般公開されているようです。




重森三玲(しげもりみれい、1896−1975)は、岡山に生まれ、日本画家を目指して上京し、日本美術学校に入学しますが、ライバル達の才能に自信を失い、技術より背景となる思想や美術史を学ぼうと研究を深め、茶の湯、生け花、庭園なども含めた総合的な芸術活動に取り組みます。

昭和八年(1933)に勅使河原蒼風らと生け花界の革新を唱え、以降、前衛的な生け花の創作研究にも取り組みます。特に庭園の魅力に惹かれ独学で研究を進めていた重森は、当時、庭に関する資料が皆無に近く、さらに室戸台風(昭和九年、1934)の被害で近畿の名園が多大な被害を被ったのに、各社寺には庭の資料が残されていないため修復も困難な状態を知ります。このままでは日本の庭園の研究が発展しないと感じた重森は、全国の庭園の実測調査を決意し、昭和十年(1935)年頃より4年にわたり実測調査を行い、その成果をまとめた『日本庭園史図鑑全26巻』を出版します。

そして、東福寺の方丈庭園を造園したことを契機に、その後、全国に200程の庭園を作庭することになります。また彫刻家のイサム・ノグチとの交友など庭園を通して多くの交流があり、茶の湯、生け花、庭園に関する多くの著作があります。



京都にある代表的作品として、

東福寺方丈庭園(1939、京都市)・・・ブログで紹介済

光明院波心庭(1939、東福寺塔頭)・・・ブログで紹介済

瑞峯院独座の庭(1961、大徳寺塔頭)・・数回行っていますので、その内に

龍吟庵庭園(1964、東福寺塔頭)・・・ブログで紹介済

重森三玲邸庭園(1970)・・・今回登場

松尾大社庭園(1975)・・・次回ブログで紹介予定

等があります。



さて、重森三玲旧宅は、昭和十八年(1943)に、重森三玲が吉田神社の社家、鈴鹿家が所有する建物を譲り受けたもので、本宅と書院を持つ江戸中期の建物です。
現在の住宅には、これら江戸期の建物に加えて、三玲が自身設計して建てさせた、二つの茶席と、自作の書院前庭や茶庭、坪庭が追加されています。重森三玲旧宅は、吉田神社界隈にある社家建築としてほぼ唯一の遺構として、書院や茶室が国の登録文化財になっています。
茶席は、襖から照明器具まで全て重森のデザインです。
(旧宅の楕円形の照明器具は、イサム・ノグチの手作りの照明器具を贈られたものです・・写真)


書院前の庭には、中央に蓬莱島、東西に方丈、瀛州(えいしゅう)、壷梁(こりょう)の三島を配した枯山水庭園で、部屋の中や縁側から鑑賞することができます。実は、創作時は庭の中央に大きな松の木があり、それをイメージして造られた庭ですが、現在松が枯れて無くなっても、また別の味わいがあると評価する人も多いようです。
他の三玲が作庭した寺社庭園や個人の庭に比べて、江戸期の建築との調和を優先させ、茶の湯を中心とした落ち着いた日常空間を目指したようです。



古いものにも時代を超えたモダン(新しさ)が存在することを見抜いていた重森三玲は、この「永遠のモダン」を自らの創作の基本にしていました。

次回、その最後の作品、松尾大社庭園を取り上げます。

真如堂の紅葉もラスト

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もう紅葉も終わりだと思いながら、少し寄ってみた真如堂です。

このブログでも何度か登場しているお寺ですが、まだ赤い葉が残っていたので、撮ってみました。
観光客も30人〜50人程度いて、最後の紅葉を楽しんでいました。

永観堂の紅葉その2

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永観堂の紅葉その2です。


今回は長い回廊付近の岩垣紅葉を中心にしました。
この辺りは、葉の小さめの繊細な椛が植えられています。


平安時代の歌人、藤原関雄の歌「奥山の岩垣紅葉散りぬべし照る日の光みるときなくて」の印象よりも、明るい感じですが、池の周辺の真っ赤な燃えるような椛よりも、繊細な感じはしました。


一番最後は、多宝塔からの光景ですが、これが一番印象的かもしれません。
ここまで登って良かったと、皆さん言ってました。


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