京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

上京区寺之内通新町西入る妙顕寺前町、日蓮宗大本山・妙顕寺山内の東側にある塔頭の善行院(ぜんこういん)は、新しい現代的な建物が目立つお寺です。
この鉄筋コンクリートの建物は平成十五年(2003)四月の平成の大修理で完成したものですが、それまでとは寺観を一新して、他の妙顕寺塔頭とはかなり異質な雰囲気となっています。
境内には、改築工事で二階建てとなった妙見堂があり、善行院は、「洛陽十二支妙見」の「子(ね)の寺」、「西陣の妙見さま」として親しまれています。



「洛陽十二支妙見めぐり」についてはこれまでも何度か書いていますが、以下再掲載します。

妙見菩薩とは、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。
奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。

「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、京都の御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まり、江戸時代を通してこの十二のお寺を順番に訪問して、開運や厄除けを祈願することが大いに流行りました。明治時代の廃仏毀釈の影響で妙見信仰は一時衰退しますが、その後、昭和になって再び妙見講として信仰は受け継がれることになりました。
そして、昭和六十一年(1986)、京都の日蓮宗のお寺を中心として「洛陽十二支妙見会」が発足し、再び「十二支妙見めぐり(洛陽十二支妙見めぐり)」が復活しました。現在の十二の寺院は、江戸時代とは大半が入れ替わっているようですが、当時の歴史と伝統を今に伝えようとする試みのようです。こうして、善行院でも、「洛陽十二支妙見」の第一番「子」として妙見宮が復興されました。

「洛陽十二支妙見めぐり」の十二ヶ寺・・・いくつかはこれまでに登場しています。

●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日体寺)

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)



さて、善行院は、山号を日洋山といい、室町時代の文正元年(1466)、開山の恵眼院日冨上人によって創建されたと伝えられます。天明八年(1788)の大火で妙顕寺本山と共に類焼する以前からほぼ現在の位置にあったようです。
善行院にある由緒書きによると、妙見堂に祀られる妙見大菩薩は、十二支妙見の中で唯一の「天拝の妙見菩薩」といわれていて、元々御所の清涼殿に安置されていたということです。江戸時代初期の第百十一代・後西天皇(後西院天皇)は、この菩薩像を篤く信仰して、日々清涼殿で国家の安泰を祈念していましたが、法華経を以って祭祀せよとの霊夢によって、妙顕寺山内に妙見堂を建立しました。
その後、この妙見菩薩は、近隣の人々の信仰を集めた後、幾多の盛衰を経て、天保七年(1836)善行院第二十七世・大漸院日謙上人の時代に、現在の妙見堂が復興され、「洛陽十二支妙見めぐり」第十二番として信仰を集めたと記されています。また、幕末の万延元年(1860)に、善行院境内に一堂を建立して妙見堂が奉安されたとも伝えられ、妙顕寺にあったという妙見堂が、現在のように塔頭の善行院に祀られるまでには幾度かの変遷があったのでしょう。

尚、今年、平成二十年(2008)は子歳ということで、「福子」と命名された信楽焼のネズミの置物が新しく妙見堂内に安置されました。この幸福を導くようにと金色に彩色された大きなネズミ(高さ四十八センチ、幅六十二センチ、奥行五十二センチ)像は、信楽焼作家の大熊狸心(おおくまりしん)氏の作になります。

開く トラックバック(1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

昔ながらの街並みが続く西陣の中心を南北に通る大宮通の、北は盧山寺通から南は上立売通の間の界隈は「あぐい」と呼ばれ、千本通や新大宮通と並ぶ西陣を代表する商店街となっています。(特に戦前までは、京都でも有数の繁華街の一つだったようです。)
この「あぐい」の名は、かつて大宮通寺之内を中心に「安居院(あごいん・あぐい)」と呼ばれた寺院があったことに由来し、元々の寺院名「あごいん」が、「あぐいん」「あぐい」と転化していったと考えられています。今回は、この「安居院(あぐい)」こと、西法寺(さいほうじ)を採り上げました。



さて、上京区大宮通寺ノ内上る三丁目東入る新ン町にある安居院・西法寺は、浄土真宗本願寺派の寺院です。元々は、安居院(安居院法印房)と呼ばれていましたが、安土桃山時代に再興された際に、寺名を西法寺と改めました。
寺院の創建年代は、応仁の乱や天正元年(1573)の織田信長による上京焼打ち等の数度の火災によって古記録を焼失したために不明な点が多いようですが、寺の伝承によると、安居院は、比叡山延暦寺山内の東塔竹林院の里坊(洛中に置かれた別院)として、平安時代末期に澄憲僧正(ちょうけん 1126〜1203)が大宮通寺之内上る前之町付近(現在の妙蓮寺の西付近)に創建したと伝わります。

澄憲僧正は、平安時代末期の政治家で保元平治の乱との関わりでも知られる少納言・藤原通憲(信西)の第七子に当たります。澄憲は、比叡山延暦寺の東塔北谷竹林院に住んで、安居院の法印と呼ばれ、承安四年(1174)の旱魃の際には、祈雨の法で雨を降らすことに成功して権大僧都に任じられました。また、説法の名人といわれ、安居院流の唱導(神仏の功徳を説いて信仰を広める行為)の祖となった高僧です。建仁三年(1203)に澄憲は亡くなりますが、その後、安居院(安居院法印房)・第四世となったのが、澄憲の長男・聖覚法印でした。(尚、安居院は二十八世まで歴代は血族相続をしてきたということです。)



聖覚法印は、天台僧として皇族・貴族と親交を持つ一方、浄土宗開祖・法然上人に帰依して、その父澄憲譲りの雄弁術を駆使して念仏布教に大きく貢献します。念仏が民衆に広く浸透した理由として、解りやすい例話や身振り手振りの演出を加えた感情表現豊かな説法方法の効果が大きかったのですが、聖覚はこのような説法の先駆者でもありました。こうして、聖覚は法然から最も信頼される存在となり、法然は「自分が亡くなった後は、念仏に関しては聖覚法印に聞くように(御往生の後は疑をたれの人にか決すべきと、上人にとひたてまつりけるに、聖覚法印わが心をしれりとの給へり)」と語ったと伝えられます。

また、比叡山で親交のあった五歳年下の親鸞上人に勧めて、法然上人に引き合わせたのも聖覚でした。親鸞は、間もなく比叡山を降って肉食妻帯の生活に入りますが、澄憲や聖覚が天台僧でありながら比叡山を離れて安居院で早くから肉食妻帯していたことから、聖覚との親交が親鸞の生活態度に少なからず影響したという説もあるようです。その後も、親鸞は聖覚を先輩として尊敬し、その著書「唯信鈔」を念仏理解の重要な書物と考えていました。
さらに、一の谷の戦いで平敦盛を討って世の無常を感じた熊谷直実に、法然を紹介したのも聖覚でした。聖覚は訪ねてきた直実に対し、自分より法然を訪ねるべきだと勧めました・・やがて、建久四年頃に法然の元で出家した直実は、蓮生坊と名乗ったと伝えられます。

その後、澄憲や聖覚が生み出した安居院流唱導の技術は、代々受け継がれて娯楽的な要素を加え、教義などを平易に表現した詞を、節回しを付けて語った節談説教として発展します。そして、こうした説教の大衆化娯楽化は、後に日本の話芸と呼ばれる浄瑠璃、講談、浪曲、落語等の大衆芸能を生み出していくことになります。



さて、中世には安居院流唱導の本拠地として安居院は、皇室との関係も深かったようですが、応仁の乱や天正元年(1573)の織田信長による上京焼打ち等の数度の火災によって焼失して荒廃しました。
ようやく、文禄二年(1593)、第二十八世・明円法師が、安居院を再建して寺名を西法寺と改め、この時に創建以来の天台宗を浄土真宗に改宗しました。
安居院の中興となった明円法師は、親鸞聖人に帰依し高弟となった西念房の十三代目の孫に当るとされ、伊勢の野田に居住していましたが、京都の聖覚法印の墓に詣でるために安居院を訪ねたところ、その荒廃ぶりに驚いて、これを復興しようとします。資力不足から、安居院のあった大宮の広い土地を売却して、現在地に聖覚法印の墓を移して一宇を建立し、その後、慶長十八年(1613)、本願寺の准如上人から西法寺の寺号を与えられました。明円は元和六年(1620)に亡くなりましたが、その後、現在まで十七代に渡って子孫が継承しているということです。



さて、西法寺の境内には、礼拝堂の奥に聖覚法印の墓があります。
立派な五輪党の墓の左には聖覚法印の真筆を拡大した「全同弥陀」の文字が刻まれた石碑が立っています。聖覚法印降誕八百年記念に建立されたもので、「全同弥陀」とは、聖覚が御仏と同体にさせていただけることを喜んだ言葉ということです。
右側には十数体の鎌倉時代の五輪塔の残欠や室町時代の石仏が置かれています。これら残欠や石仏群の中で、最も目立つのが一体の板状の五輪卒塔婆です。高さ九十八センチの花崗岩製の卒塔婆には、上部の空輪から水輪にかけて南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれ、その下、地輪部には阿弥陀如来が刻まれています。また、側面には鎌倉中期の永仁二年(1294)の銘があります。
他に宝篋印塔の笠部分があり、元は聖覚法印の墓の中で遺骨を納めていたということですが、明治十六年(1876)に掘り出されたものということです。これらの卒塔婆石、五輪塔残欠や石仏群は、昭和初期(大正末年)に、かつての安居院跡地(大宮通寺之内上る前之町付近)の工事中に出土したものです。

大正時代末まで前之町付近には、船岡山の山麓から大宮通の盧山寺通を通って上立売通の間まで有栖川という川が流れていて、上立売通で東に折れて堀川に合流していたということです。そして、昭和の都市整備による川の暗渠工事で地下を掘ったところ、これらの石塔や仏像が出土したのでした。
これらの浄土信仰の遺物から当時の信仰の様子やかつての安居院の寺域の規模が判明し、この貴重な遺品は西法寺に祀られることになりました。また「あぐいの井戸」とか「法印の井戸」、「念仏井戸」とも呼ばれていたかつての安居院の井戸も発見されています(前之町の西にある若井商店の井戸)

その他、現在の本尊阿弥陀如来を祀る本堂正面の安居院の額は、明治十六年(1883)聖覚法印の六百五十遠忌の際、山階宮晃親王より賜ったものということです。また、寺宝として、聖覚法印の念持仏という地蔵菩薩像、聖覚自筆の「四十八願釈」、蓮生坊(熊谷直実)が陣羽織を仕立て直して作ったという袈裟等があります。



最後に、今年は「源氏物語千年紀」として、源氏物語が話題ですが、源氏物語がらみで西法寺を訪れる研究者なども多いということです。西法寺には、紫式部の亡霊を供養する「源氏表白」が伝承されていて、毎年四月の聖覚忌に聖覚法印が作文したという「源氏供養 表白」が唱和されているからです。

さて、平安時代には、釈迦入滅後二千年目を越えた永承七年(1053)以降、釈迦の教えの及ばない末法の時代に入ると考えられ、阿弥陀信仰・浄土思想が流行しました。狂言や綺語(嘘や戯れ事)を用いる文学も地獄に落ちる因になると批判され、特に好色な表現を用いた「源氏物語」の作者である紫式部は罪悪も深く、地獄に落ちて苦悩していると考えられたのです。(紫式部の地獄堕ちについては、藤原信実が編集した「今物語」、平康頼の仏教説話集「宝持集」等に描かれています。)
そのため、地獄に堕ちた紫式部を救うために、当時の文人や歌人は「源氏供養」という宗教行事を行いました。この供養法会で唱演されたのが、今も西法寺に伝わる安居院の聖覚法印作と伝わる「源氏表白」です。

「源氏表白」は、永万二年(1166)頃に成立したという聖覚の父・澄憲作の漢文体「源氏一品経表白」に基づいたもので、仮名文で「源氏物語」の各巻の名前を読み込んだものに改作しています・・・
「きりつほのゆうへのけふりすみやかに法性の空にいたり、はは木々のよるのことの葉は、つゐにかくしゆの花をひらかむ、空蝉のむなしき世をいとひて夕顔の露の命を観し、わか紫の雲のむかへを得て、すゑ摘花のうてなに座せしめむ・・・」そして、最後に「ねがわくは狂言綺語のあやまちをひるかへして、紫式部が六趣苦患をすくひためへ、南無當来導師弥勒尊、かならす転法輪の縁として、是をもてあそはん人は安養養浄刹にむかへたまへとなり」と結んでいます。

このように「源氏表白」では、紫式部だけでなく、源氏物語を楽しむ読者にまでその罪が及ぶとされていて、その救済を祈願した内容になっています。そして、この「源氏表白」は広く伝えられて後に物語化され、源氏物語に耽溺したため仏道に専心出来ないとして安居院を訪ねた尼僧の依頼により供養するという「源氏供養草子」や石山寺に詣でた安居院の僧に紫式部の亡霊が供養を頼むという謡曲「源氏供養」等の元になりました。



(突然の訪問にもかかわらず、ブログのネタとなる多くの資料を下さったお寺に感謝します。)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

上京区寺之内通新町西入る妙顕寺前町にある妙顕寺は、日蓮宗京都十六本山の一つとして知られる大寺院です。妙顕寺については、いずれブログに採り上げたいと思いますが、今回は本山の東にある塔頭の泉妙院(せんみょういん)を採り上げました。
泉妙院は、普段はいつも門が閉まっている地味な小さな寺院ですが、門前に「尾形光琳(尾形一族・乾山)菩提所、興善院旧跡」の石標と掲示版があるように、有名な尾形光琳や乾山の菩提所という点で注目されます。



情報の少ない塔頭のために、本山妙顕寺のHPを引用して書いてみます・・
泉妙院は、室町時代の永和元年(1375)、日縁上人によって創建されたということです。その後、天文五年(1536)に、比叡山延暦寺が大軍を動員して、京都の日蓮宗寺院京都二十一ヶ本山を全て焼き払った「天文法華の乱(天文法難・天文法乱)」に遭って他の寺院と共に堺に逃れ、後に京都へ戻って、京都五辻(上京区)にあった二十一箇本山の一つ、弘経寺(永和元年(1375)に日誉上人によって創建)の境内跡地に身を寄せました。
弘経寺自体は、天文十一年(1542)に京都に帰還した日蓮宗十五ヶ本山に含まれず、後に廃絶したためにその詳細は不明ですが、妙顕寺のHPによると、天明八年(1788)の「天明の大火」の後、「弘経寺の天徳院日法上人が、本行院と合併して興善院跡に泉妙院を再建した」と書かれています。(弘経寺の詳細が不明なために、弘経寺の名跡を継ぐという泉妙院が、どのようにして妙顕寺の塔頭となったのか等わかり難いですが、泉妙院前の掲示石版を参照して後で少し書いてみます。)


さて、尾形光琳は、江戸時代の万治元年(1658)、京都の大呉服商「雁金屋(かりがねや)」の当主・尾形宗謙(おがたそうけん)の次男として生まれ、本名を惟富(これとみ 市之丞とも)といいました。また、五歳下には、前にその釜跡を採り上げた尾形乾山がいます。尾形家は、雁金屋の初代・尾形道柏(どうはく 光琳・乾山の曽祖父)の代に、当時のファッションの最先端でもあった呉服染色業を始めたといわれます。また、道柏の妻は本阿弥光悦の姉法秀(ほうしゅう)で、その後、尾形家から優れた芸術家が生まれたのは本阿弥家の影響があったのかもしれません。事実、道柏の子・雁金屋二代宗柏や、その子三代宗謙も諸芸に優れた多趣味な人物として知られ、光琳や乾山も若くして絵画や書道、茶道等の芸術に触れて育ったようです。

貞享四年(1687)の父の死後、遺産を譲られた光琳は、放蕩三昧の生活を送って財産を使い果たし、ようやく四十歳を過ぎてから本格的な絵師としての活動を始めたようです。元々狩野派に学んでいましたが、やがて本阿弥光悦や俵屋宗達の影響を受けて、独自な斬新で装飾性に富む琳派様式を大成していきます。光琳は多くの公家や大名の支援を受けましたが、特に、京都の銀座(貨幣鋳造所)の担当役人・中村内蔵助との関係が深く、江戸詰に転じた内蔵助を頼って宝永元年(1704)頃に江戸に向います。しかし、相変わらずの借金暮らしで、自宅を手放して宝永六年(1709)に京都へ戻り、新町通り二条下る(中京区)へ移り住んでいます。そして、享保元年(1716)六月二日に五十九歳で亡くなり、尾形家一族の菩提寺・興善院に埋葬されました。



光琳は、絵師を職業と考えていなかったためか、宝永五年(1706)に、嫡子・寿市郎を小西家に養嗣子としています。こうして、尾形家の血筋は小西家に受け継がれることになりました。しかし、このために、尾形一族から代々の住職を出していた興善院はその後無住となって、墓だけを残して建物も取り払われ、妙顕寺塔頭の本行院が管轄することになりました。
しかし、この本行院も、天明八年(1788)の「天明の大火」で消失し、また、小西家も困窮してしまっていたために、改めて墓域を整備することが出来ず、文化ニ年(1805)五月三日、光琳の墓石は、多くの墓の並ぶ妙顕寺総墓所に移されました。
そして、恐らく多くの墓の中に埋もれてしまっていたのでしょう・・・光琳没後百年の後、光琳を常々尊敬していた、江戸末期の江戸琳派の画家・酒井抱一は、光琳百回忌を行おうとしますが、墓地で光琳の墓を見つけ出すことが出来ませんでした。そこで、抱一は、文政ニ年(1819)に、新たに「長江軒青々光琳墓」と刻まれた墓石を本行院跡地に建立したということです。

さて、文政三年(1820)、「天明の大火」で消失した本行院(妙顕寺本堂の東に位置)は、泉妙院(妙顕寺本堂北に位置)と合併して、尾形家一族の菩提寺だった興善院跡(妙顕寺の南東)に再建され、本行院跡地の墓碑は泉妙院が管理することになりました。
小西家は縁戚として代々尾形家の墓を守ってきましたが、明治四十一年(1908)六月、三越呉服本店(現・株式会社三越)が、光琳一族の縁戚、小西得太郎と共に、施主となって光琳忌法要を行いました。その後、昭和二十ニ年(1947)頃、小西家は断絶しますが、現在も三越が毎年光琳忌法要を営んでいるとうことです。
その後、昭和三十四年(1959)、文化財専門審議会の琳派の研究家が、妙顕寺総墓所へ移されていた光琳の墓石を元の場所へ戻すことを提案し、昭和三十七年(1962)、妙顕寺の正門が南側に移転したのを切欠として、光琳の墓を埋葬地の泉妙院に戻して現在に至っています。
また、泉妙院は小西家の寄贈品や光琳とその一族の作、文献等を所蔵し、一族の位牌を祀っているということです。

門は常に閉ざされていますが、外から遠景で写真を撮ってみました。境内中央の比較的新しい白い墓石が、酒井抱一が建てたと伝わる「長江軒青々光琳墓」と刻まれた墓、その横に並ぶのが総墓地から移された尾形光琳や乾山等一族墓、右端が三越が建立した供養塔です。

開く トラックバック(2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

京都市上京区堀川通寺之内上る扇町にある水火天満宮(すいかてんまんぐう)は、水難け火難除けの神として知られています。鳥居横の「日本最初 水火天満宮」という石標が目立つ、隠れ家的な雰囲気もある親しみやすい神社です。また、境内の東南一帯に地域の人々の憩いの場になっている扇町児童公園があるので、狭い境内の割には開放感も感じられます。(初春の写真を引っ張り出して使わせてもらいます)


以前に、このブログで「天神信仰発祥の地」といわれる文子天満宮(あやこてんまんぐう)を採り上げましたが、文子天満宮は、天暦元年(947)の北野天満宮創始前から、道真の乳母ともいわれる多治比文子(たじひのあやこ)が、自宅の庭に道真を祀っていた伝説の地として、日本最初の天満宮と称していました。今回の水火天満宮も、北野天満宮以前から道真を祀ったという伝承から、日本最初の天満宮と称しているようです。



さて、水火天満宮は、延長元年(923)六月二十五日、醍醐天皇の勅願によって、洛陽一条上る下り松の地に、雨雷火災を消除する守護神として菅原道真の神霊を祀ったとのが創始と伝えられています。
菅原道真は、延喜三年(903)に配流された大宰府で五十九歳で死去しましたが、死の間際に自身の遺髪を仏教の師だった延暦寺の僧、法正坊尊意に届けました。そして、尊意僧正が一条下り松にあった自身の屋敷に道真の霊を祀り、後に勅命により新たに社殿を建立して神社として発展していったということです。

また、室町時代頃までこの地にあった悲田院の鎮守社が、この天神信仰と結びついて現在の水火天満宮になったとも伝えられます。
天満宮のあるこの一帯には、九世紀初期に、熱心に仏教を信仰したことでも知られる檀林皇后(786〜850 嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子 たちばなのかちこ)が、「悲田院(ひでんいん)」があったと伝わります。悲田院というのは、仏教思想に基づいて、貧病人や孤児等の救済施設として作られた施設のことで、日本では聖徳太子が四天王寺に建てた「悲田院」が最も古く、奈良時代の養老七年(723)に光明皇后によって作られたものが有名です。その後、平安時代になると、京都に東西二ヶ所に設けられたようで、東は当時の鴨川の三条河原付近にありました(現在、河原町御池に碑があります)、その後、鎌倉時代末期から室町時代初期に、現在の水火天満宮や大応寺、興聖寺のある一帯(上京区扇町・天神北町・上天神町・瑞光院前付近)に移り、寺院として整備されていきますが、室町時代の戦乱により荒廃して、江戸時代の正保ニ年(1645)に現在の泉涌寺(東山区)の山内に移されて今日に至っています。しかし、鎮守社はこの地に残り、これが現在の水火天満宮となったということです。

その他神社の記録は少ないようですが、室町時代末期の文明四年(1474)旧暦九月十日には、後土御門帝が水火天満宮に行幸し天神名号の震筆を賜ったという記録もあり、天明八年(1788)の天明の大火で消失した後に再建されています。また、天満宮は、元々、堀川通を挟んだ西側の上天神町にありましたが、昭和二十七年(1952)の堀川通の拡張工事により現在の地へ移されています。




さて、狭い境内には所々に石標や面白い石が置かれています。

道真伝説として知られるのが、「登天石(とうてんせき)」です。古来、性神、道祖神として祀られてきたようですが、この石には以下のような伝説があります。

道真の死後、都では雷火の災いが続いて、道真の祟りであると噂が立ちます。
時の醍醐天皇は、延暦寺から道真の仏教の師・法正坊尊意僧正を呼び寄せて、雷除けの祈祷をさせました。尊意が御所へと向かう途中、鴨川が急に増水して渡れなくなりました。そこで、尊意が川を前に祈願すると、水面が二つに割れて川中の石の上に道真の霊が現れました。道真の霊はそのまま天に昇って行って、たちまち雷雨も止んだということです。
尊意は、道真が現れたこの石を自邸に持ち帰ってその霊を弔いましたが、それが境内にある「登天石」と伝えられます。

その他、鳥居の傍「日本最初 水火天満宮」という石標の左には、「孝学堂跡」の石標があります。
孝学堂は、江戸時代に水火天満宮境内に開設された塾で、民衆に孝道を説いていました。そして、この孝学堂に由来する孝学氏が、代々の天満宮の宮司を務めているということです。
また、「登天石(とうてんせき)」と並んでいるのが「出世石(しゅっせいし)」です。
近年に成功した寄贈者から贈られたものですが、菅原道真のように大出世して活躍する効力ある石として信仰されています。また、眼病に効能があるという「金龍水」という湧き水、また、その上に置かれているのが、妊娠五ヶ月でこの石を拝むと安産するという「玉子石」です。

さらに、末社の六玉稲荷社は、六玉稲荷・玉光稲荷・生島稲荷を合祀しています。元々、東本願寺・枳毅邸の鎮守社だったものが、明治時代にこの地に移されたもので、就職祈願の信仰を集めています。
最後になりますが、境内にある紅枝垂桜が花を咲かせる頃は、天満宮境内は隠れた桜の名所になります。

開く トラックバック(1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

上京区堀川通下立売上がる東側にある「伊藤仁斎宅(古義堂)跡並びに書庫」は、江戸時代の儒学者・伊藤仁斎(いとうじんさい)が自宅に開いた私塾「古義堂」跡で、仁斎時代の土蔵造の書庫が現在まで保存されていることから、国の史跡に指定されています。(かなり前に少し採り上げましたが、改めて書いてみます。)


さて、京都には数多くの史跡がありますが、今では街角に石標が立っているのみといった場所が多いのが残念です。このブログでは、基本的に記念碑等が建てられ整備されている場所のみを採り上げていますが、今回の「伊藤仁斎宅(古義堂)跡並びに書庫」は、非公開ではありますが、京都では、「荷田春満旧宅」、「頼山陽書斎(山紫水明処)」、「岩倉具視幽棲旧宅」と並ぶ数少ない国の史跡に指定されている古住宅になります。



伊藤仁斎(1627〜1705)は、寛永四年(1627)、上京区堀川通下立売上る、現在の古義堂のある場所に生まれました。父の了室は学門に熱心で、母は連歌師として有名な里村紹巴(さとむらしょうは)の孫という文化的な家系でした。仁斎は若くして朱子学を学びましたが、後にこれに批判的となり、孔子や孟子の本来の思想に戻るべきと考えて、孔・孟の原典に直接学ぶという古義学派(堀川学派)を創始しました。
寛文二年(1662)に自宅に私塾・古義堂を開き、宝永ニ年(1705)に七十九才で亡くなるまで、多くの公家や武家・町人にわたる門弟を教導し、その門下生は長男東涯(とうがい)をはじめ三千人を数えたといいます。古義堂は、仁斎の死後は東涯に継承され、その地に因んで堀川学派と呼ばれる京都を代表する一大学派となっていきました。そして、代々の伊藤家は永く学派を伝え、明治三十九年(1906)に至るまで実に244年に及びました。近世の有名な学塾で、このように一つの家によって運営継承されたことは極めて稀だということです。



さて、古義堂は、天明八年(1788)の天明の大火をはじめ、何度も火災に遭いました。
現在の建物は、明治二十三年(1890)に遺構をもとに再建したものですが、2階建て土蔵造の書庫は、仁斎が使用していたままの建物で、国の史跡に指定されています。尚、仁斎以降の歴代の当主が遺した著作や蔵書古義堂の蔵書、書画など約五千五百点、一万冊は、昭和十六(1941)〜二十年(1945)に天理大学附属天理図書館に移譲され、古義堂文庫として特別文庫の中に所蔵、公開されています。
古義堂では、京都市指定保存樹のクロマツ(高さ7.2m、枝張10m、幹周13.1m)が白い土蔵を彩っていて良い雰囲気です。

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事