京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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興聖寺というと、京都宇治の紅葉の名所や滋賀県朽木の名庭のある寺院の方が有名かもしれませんが、今回の興聖寺は西陣にある大きなお寺です。
堀川通寺之内上る二丁目上天神町にある興聖寺は、妙蓮寺、本法寺、妙覚寺、妙顕寺等と並ぶこの地域屈指の大寺院です。観光寺院では無いのでいつも静かな雰囲気ですが、禅道場として一般の参禅を受け入れているようです。



興聖寺は、臨済宗の興聖寺派の本山です。
創建は京都の寺院としては比較的新しく、安土桃山時代の文禄年間、虚応円耳(こおうえんに)和尚がこの地に寺を建て大昭庵と称していましたが、慶長八年(1603)に、茶人大名として有名な古田織部正重然が、円通山興聖寺顕蜜自得禅寺と改め、虚応禅司を開山としたと伝わります。
こうして、古田織部の菩提寺となったことから「織部寺」と呼ばれています。この織部流の茶道家元として武家茶道を伝承しているお寺でもあるようです。




創建当時は多くの塔頭を持ち、また後水尾天皇の勅願所となり栄えますが、1788年の天明の大火で焼失し、現在の本堂等がその後再建されています。明治の廃仏毀釈で衰退しますが、戦後に臨済宗の相国寺派から分かれて興聖寺派の本山となっています。
本堂には本尊の釈迦如来像を中心として、両脇に愛宕山の旧本地仏であった勝軍地蔵菩薩像と藤堂高虎の寄進という達磨像が安置されています。(写真)
その他、寺宝として、曽我簫白作の「寒山拾得図(重文指定)」や「絹本著色兜率天曼荼羅(とそつてんまんだら)図」等があり、墓地には古田織部や曽我簫白の墓があるということです。また、本堂前の普賢象桜が春には美しい花を咲かせます。



興聖寺は、堀川通りから見ると、どことなく威圧的な雰囲気のあるお寺ですが、境内は開放的な印象ですまた、古田織部の墓(金甫宗室は織部の号です。恐らくこれです。その前には新しく作られた織部流2世以下の供養塔もあります。)や曽我簫白の墓があります。

宝鏡寺(人形の寺)

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「人形寺」として知られる西陣の宝鏡寺は、通常非公開ですが、春秋の人形展の際に一般公開されています。
現在、春の人形展「人形展100回記念 源氏物語とひいな(京の雛めぐり)」が行われ、源氏物語にちなんだ人形・寺宝など数十点が展示されています。

元々、尼門跡寺院の宝鏡寺は、入寺した代々の内親王が所持していた多くの人形を所蔵していますが、昭和三十二年(1957)年より人形展を始め、以降は毎年春と秋に一般公開することになったそうです。
その後、毎年10月に人形供養祭が営まれることとなり、昭和三十四年(1959)には、京人形商工業協同組合が、京人形を本格的にアピールする目的で、境内に人形塚を建立しました。(写真)
この人形塚は、吉川観方(よしかわかんぽう)作の御所人形の姿をしており、武者小路実篤による詩が刻まれています。こうして、今では「人形の寺」として有名になっていったということです。
(この夏にも少しだけ採り上げた宝鏡寺ですが、今回は沿革も含め書いてみます。)





上京区の寺之内通堀川東入百々(どど)町にある宝鏡寺は、山号を西山(せいざん)という臨済宗単立の尼門跡寺院です。
鎌倉時代の弘安年間(一二七八〜八七)、上京区西五辻東町を中心にこの地には、日本で最初に女性として禅僧となったと伝えられる無外如大禅尼(むげにょだいぜんに)が開山した景愛尼寺(けいあいにじ)がありました。

宝鏡寺は、この景愛寺の第六世、光厳天皇皇女の華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼が、応安年間(1368〜75)に、当時の後光厳天皇が御所に祀っていた聖観音菩薩像を、景愛寺の塔頭・福尼寺の本尊として賜って開山したのが始まりで、この時に天皇より宝鏡寺の号を授けられました。
この本尊の聖観世音菩薩は、伊勢の二見浦で漁網にかかったものと伝えられ、手に円鏡を持っていたために「宝鏡」の寺号が付けられたということです。
一方、本山の景愛寺は、足利氏の庇護をうけ、「京都尼寺五山(景愛寺・檀林寺・護念寺・恵林寺・通玄寺)」の第一位として、南北朝時代には大いに栄えましたが、応仁の乱以降に衰退消滅します。しかし、華林惠厳禅尼の入寺以後、宝鏡寺の住持が景愛寺の住持も兼ねていたために、宝鏡寺は景愛寺の伝統を受け継いで現在に至っています。





宝鏡寺は江戸時代の寛永二十一年(1644)、後水尾天皇の皇女、久厳理昌禅尼(くごんりしょうぜんに)が入寺して以来、皇室との関係が再び強まり、以後歴代皇女が住持を勤めることとなりました。
宝鏡寺の東南付近(寺ノ内小川)は、平安時代から、「百々の辻(どどのつじ)」と呼ばれていたため、宝鏡寺は「百々御所(どどごしょ)」と呼ばれるようになりました。(明和元年(1764)に「百々御所」の勅許を賜わります。) 天明八年(1788)の「天明の大火」で建物は類焼しますが、寛政十年(1798)に書院・本堂・大門・阿弥陀堂・玄関・使者の間の六棟が復興され、これらの建築物は京都市指定有形文化財に指定されています。

また江戸時代末には、公武合体のために14代将軍徳川家茂に降嫁したことで知られる和宮親子(かずのみやちかこ)内親王が幼少時に、この百々御所(宝鏡寺)ですごろくや貝合わせに興じたり、鶴亀の庭で遊んだということです。和宮は姉の桂宮淑子内親王の御殿の普請中は、ここで桂宮と生活もしていました。このような縁で、宝鏡寺には絵巻物などの和宮の遺品が残されています。

その後、明治の廃仏毀釈の際に、宝鏡寺住職が代々兼務していた大慈院(この前に華開院の時に出てきました。日野富子は大慈院開基の崇賢門院の親族になり、大慈院で出家していることを書きました。)を合併し、大慈院の本尊の阿弥陀如来立像、開基の崇賢門院(すうけんもんいん)の木像、尼僧姿の木造日野富子像を継承し、これらは現在阿弥陀堂に安置されています。
また宝鏡寺第十五世渓山(けいざん)禅師は、足利義政と富子の娘ということもあって、日野富子も和宮と共に宝鏡寺にまつわるヒロインの一人になっています。





さて、宝鏡寺の人形展では、毎年一番最初の人形のみ撮影可ですが、今年は紫式部の人形です。(写真)堂内他は一切写真撮影禁止のために画像を掲載できませんが、多くの見所があります。

聖観音菩薩像が祀られている方丈形式の本堂では、狩野探幽筆の襖絵「秋草の図」と、平成十六年(2004)に完成した河股幸和(かわまたゆきかず)作の「春・桜と子犬」「夏・葡萄と鹿」「日・伊勢撫子と鶺鴒」という可愛い襖絵の対比も面白いです。ここにも幾つかの江戸時代の有職雛が展示されていました。
阿弥陀堂は、光格天皇勅作と伝わる阿弥陀如来立像が御所より移される折りに移築された建物ということです。(天皇勅作の阿弥陀如来が安置されている為、勅作堂とも呼ばれています。)右には崇賢門院の像、左に日野富子像があります。

庭園も、苔の広がる方丈の南庭、花木の多い東庭、和宮が幼少の頃に遊んだ鶴亀の庭と変化に富み、落ち着いた趣があります。他にも、椿(熊谷椿、月光椿、村娘椿)や伊勢撫子(宝鏡寺撫子)等の様々な花が四季折々に咲くようですが、お寺が春秋のみの公開のため見られない花も多いようです。
書院には、襖絵は吉村孝敬、丸山応震の四季耕作図や、丸山応挙の雉の図・子犬の図等の杉戸絵があります。源氏物語のシーンを再現した伊東久重作の等身大の人形が展示され、御物の次郎左衛門雛、直衣雛、仮衣雛等を中心に、衣装人形(猩々)、御所人形(万勢伊さん、おたけさん、おとらさん等)、加茂人形(花嫁行列)計数十点の人形、かるたや貝合も飾られていました。



久々の宝鏡寺でしたが、やはり落ち着いた雰囲気が良いですね。
門跡寺院というのは女性らしい雰囲気があって花が似合いますが、春秋のみの公開のため、特に夏に咲く、伊勢撫子(宝鏡寺撫子)が見られないのが残念です。

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上京区の北野周辺から、宥清寺です。
このブログでは、最近、「西陣」と呼ばれる地域のお寺が続いています。仏像や庭園が鑑賞できる観光寺院は比較的少ないですが、京都でも歴史ある地域なので、エピソードのある史跡が多いです。
一応、話題性のある史跡のみをピックアップしてきましたが、今回の宥清寺は、あまり面白いエピソードは有りません。それでも西陣では比較的大きなお寺なので採り上げてみました。




さて、一条通七本松西入ル滝が鼻町にある宥清寺は、この地区の寺院としては大きな敷地を持ち、地元では、「こども文化会館エンゼルハウス」の西隣にあるお寺として知られているようです。

宥清寺は、本門仏立宗の大本山で、本尊は十界大曼荼羅です。創建は、延慶元年(1308)、日蓮上人の直弟子日弁(日辯)上人が、上洛して公卿の青柳定家の末孫の元禅僧(本門寺二世日寿)を改宗させ、二条西洞院に定家の旧宅を寺として、「青柳山本門寺」としたことに始まると伝わり、これが京都における日蓮門下最初の寺院ということです。
その後、第七世日薗上人の時に、応仁の乱を避けて丹波亀山(現・京都府亀岡市)に移り、慶長四年(1599)の第十三世日要上人の時代に、京都新在家近衛通に移り、その後も小川挽木町等各地を転々と移りましたが、元禄七年(1694)、御前通一条下るにあった叡山横川の末寺、宥清寺を入手し「青柳山宥清寺」となり、鷲山寺妙蓮寺の末寺となりました。

江戸末には、廃寺同様の状態となりますが、明治二年(1869)、本門法華宗の一派、本門佛立講(本門佛立宗の前身)を開いた日扇上人(長松清風)が入山して、佛立講の根本道場としました。
その後、昭和六年(1931)に、佛立第七世日淳上人のときに現在の地に移転し、昭和十六年(1941)に独立本山に昇格し、昭和二十二年(1947)、法華宗から独立して本門佛立宗の大本山として現在に至ります。尚、本堂には本尊の十界大曼荼羅と重要文化財の木造日蓮上人像が安置されており、この像は弘安二年(1279)に日蓮自らが開眼したと伝えられているようです。

境内には梅が咲いていたので、少し撮ってみました。

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西陣の街中に、知らない人はそのまま通り過ぎるような小さなお寺があります。
門前の石碑には「豊公遺跡・湯たく山 茶くれん寺・浄土院」の文字があります。ここがあのお寺か・・と思われる方もあるかも。
「湯たく山茶くれん寺」という寺号は、面白くて一度聞いたら忘れられない感じなので、京都の「通称寺」の中でも、良く知られているのではないでしょうか。




「湯たく山茶くれん寺」こと浄土院は、上京区の今出川通千本西入る南上善寺町にある浄土宗の尼寺で、前に登場した近くにある般舟院(はんじゅいん)の隠居場所として宗印和尚を開基として平安時代の嘉保二年(1095)に創建されました。初代を除くと先代まで17人の住職は全て尼僧と伝わります。

本堂には、本尊の阿弥陀如来像が安置されています。
この像は金箔の木彫漆箔像(約87cm)で、像内の背部に「永長元年(1096)12月26日始」の銘があることから平安時代後期の作ということが判り、僧寂能の作とも伝えられています。重要文化財に指定されているので一見に値します。(通常お堂は閉められていますが、拝観を希望すれば見せていただけます。)また本堂の屋根には、陶製の寒山、拾得像の焼物が置かれ、いずれも安土桃山時代の陶工の楽家初代長次郎の作と伝えられています。





浄土院という名前は知らなくても、「茶くれん寺」の方は良く知られています。この名前の所以は以下のようなエピソードに基づいています。

天正十五年(1587)十月に、豊臣秀吉は九州征伐の成功と聚楽第の完成を記念して北野天満宮境内で北野大茶会を開きました。その際、秀吉はこの浄土院に立ち寄り、お茶を所望しました。
住職は一杯目のお茶を出した後、秀吉はさらに2杯目を所望すると、2杯目以降は白湯を出し続けました。住職は、高名な茶人でもある秀吉に未熟な茶を出すのは失礼と考え、寺の湧き水を沸かしそのまま味わってもらおうとしたのでした。
お茶のお代わりを頼んでいるのに、出てくるのは白湯ばかりとは・・秀吉も最初驚きましたが、その内に住職の思いを悟って、笑いながら「この寺では、お茶を頼んでいるのに、白湯ばかり出して、お茶をくれん。湯たくさん茶くれん。」と言いました。そういうわけで、このエピソード以降、「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったと言われます。

私は学生の頃からこのエピソードは知っていたのですが、住職が尼僧だったということは最近知ったばかりです。秀吉と機転のきく尼僧のやり取りは中々微笑ましい情景だったかもしれませんね。
現在も、境内には秀吉に出した水を汲み上げたと伝わる井戸跡が残っています(写真)
その他、三代目住職が秀吉の紋をあしらって作ったと伝わる茶釜や、寒山、拾得の絵が描かれた赤と黒の茶碗などを所蔵しているようです。



現在は、狭い境内の雰囲気的には特に何ということも無い印象のお寺ですが、重文指定の阿弥陀如来という寺宝も有るので、一度行かれてもいいかもしれません。
今回、たまたまお寺の方と門前で出会ったので、ご本尊もすぐ拝観できましたが、お寺の方が不在の場合もあるので、堂内拝観は予約してから行きましょう。

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上京区の大宮通芦山寺上る西入る社横町にある小さな神社が、檪谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)です。


社伝によれば、貞観元年(859)に文徳天皇の皇后明子(藤原明子・染殿皇后)が安産を祈って春日神を勧請したのが始まりとされ、その後、伊勢・石清水・賀茂・平野・松尾・稲荷という最っとも重んじられた6神を加えて「七の社(ななのやしろ)」と称したと伝えられます。
また付近の地名である紫野・上野・蓮台野・萩野・北野・平野・内野の「七野の惣社」として祀ったとも言われ諸説あるようで、現在は、春日大神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)他21神を祀っているようです。この辺りは賀茂社(上賀茂、下鴨神社)に奉仕した斎王の紫野斎院の跡だったと言われ、斎院に関係する社だったと考えられています。その後荒廃し、豊臣秀吉によって再興されました。本殿基壇の石垣には、この時修復に参加した諸大名の寄進印とされる家紋等が刻まれています。



神社の境内には、賀茂斎院跡の顕彰碑と解説板があります。

奈良時代以降、天皇が即位すると未婚の内親王(または女王)の中から、卜定(ぼくじょう)と呼ばれる占い儀式により、「斎王」が選ばれ伊勢神宮に奉仕することが制度化していましたが、同様に平安時代には、賀茂社(上賀茂、下鴨神社)に奉仕する斎王も制度化します。斎王が身を清めて住んだ御所は、伊勢の場合は「斎宮」、賀茂の住いは「斎院」と呼んでいます。

顕彰碑と解説板を参照させてもらって書いてみます。
この檪谷七野神社を含む周辺地域は、平安時代から鎌倉時代にかけて、賀茂社に奉仕する斎王の住まい「斎院」があった場所で、この付近が平安京の北方で「紫野」と呼ばれていたため「紫野斎院」とも呼ばれました。この斎院の敷地は、安居院大路の北(現在の大宮通の西、廬山寺通の北)に位置し約150m四方の敷地があったそうです。

賀茂社の斎王は、弘仁元年(810)の嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王を初代とし、歴代未婚の皇女が卜定されましたが、伊勢神宮の斎宮と違って、天皇の崩御や譲位があっても必ずしも退下しなかったようです。
斎宮は内院と外院で構成され、内院には神殿、斎王の起居する寝殿等が有り、外院には斎院司、客殿、炊殿等があり、斎院全体で約500人の官人や女官が仕えていました。
毎年の賀茂の祭(葵祭)には、斎王は斎院を出御し、勅使の行列と一条大宮で合流し、一条大路を東行し両賀茂社に参拝しました。斎王のみは上賀茂の神館に宿泊し、翌日にまた行列で斎院に遷御しましたが、これを「祭の帰(か)えさ」と呼んで、洛中の人々の見物の対象となっていたそうです。
また、斎院には、選子(のぶこ)内親王、式子(のりこ)内親王のように優れた歌人もあり、お付の女房にも才媛が多く、しばしば歌会が行われたようです。


さて、こうして代々の斎王は、斎院で清浄な生活を送り、その後約400年間この制度は続いていましたが、後鳥羽天皇の皇女で、第35代斎王の礼子(いやこ)内親王をもって断絶してしまいます。
礼子内親王は病気で建暦二年(1212)に退下し、以降は財政的な理由から斎院は廃絶されたということです。斎院の廃止後、その跡は隣接していた廬山寺山内に取り込まれましたが、応仁の乱の後、豊臣秀吉の時代に廬山寺も寺町に移り、斎院跡の所在地も不明となってしまいました。


近年、古代学協会の研究により、現在の神社周辺地と推定され、平成十三年(2001)に賀茂斎院顕彰会により顕彰碑が建てられました。以来、斎王代発祥の地として再び脚光を浴びた檪谷七野神社は、葵祭に先立って毎年の斎王代に選ばれた女性が、下鴨、上賀茂両神社と共に神前に斎王代を務めることを奉告する重要な場所になっています。
 

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