京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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上京区寺ノ内浄福寺西入上る西熊町にある称念寺は、通称「猫寺」と呼ばれています。京都にはこのような、「通称寺」が多いですが、その中でも「猫寺」という名前は知られている方だと思います。



称念寺は、本空山と号し、浄土宗知恩院派に属する寺院です。創建は、慶長十一年(1606)、茨城県土浦城主の松平信吉が、仏教の師、嶽誉(がくよ)上人のために建立したと寺で、上人は浄土宗捨世(しゃせい)派の祖・称念上人を開山として、寺号を称念寺と定め、自らを中興開基としたということです。称念寺に葬られた松平信吉の母が、徳川家康の異父妹であったので、その縁で寺紋を徳川家の家紋「三ツ葉葵」としています。
明暦三年(1657)再建の本堂は、享保十五年(1730)の大火「西陣焼け」、天明八年(1788)の「天明の大火」などでの焼失を免れたため「不焼寺」とも呼ばれています。尚、山門は老朽化により平成十年(1998)に再建されました。また、本堂に安置されている本尊の内仏来迎阿弥陀(ないぶつらいこうぶつあみだ)像は、平安中時代の高僧恵心僧都(えしんそうず)の作と伝わります。





さて、称念寺が「猫寺」と呼ばれるようになったのは以下のような伝説によります。

寺伝によれば、三代目住職の還誉(かんよ)上人の時代、檀越の松平家との関係も疎遠となり、財政援助を受けられず寺は荒廃していました。住職は毎日の食事も間々ならず、托鉢してなんとか細々と暮らしていましたが、飼っている猫だけは可愛がって食べ物を与えていました。
ところが、ある夜、この日も生活のために托鉢し疲れて帰宅した住職は、愛猫が美しい姫に変身して名月の下で楽しそうに舞っているのを見て、さすがに腹が立って猫を追放してしまいます。

それから数日後、住職の夢枕に猫が現われ、「明日、武士が訪れてくるので、丁寧にもてなしてください。そうすればお寺はまた栄えるでしょう。」と告げます。翌日現われた武士は、実は疎遠になっていた松平氏のもので、姫が亡くなったので法要を行って欲しいということでした。そしてこれをきっかけに、称念寺は松平家と復縁することができ、以前にも増して寺は繁栄したのでした。
住職は、追放されたのに恩を忘れず、松平家との復縁を知らせてくれた愛猫に感謝し、以後、猫の霊を厚く守護し、本堂の前に猫を偲んで松の木を植えました。
こうして、称念寺はいつしか「猫寺」と呼ばれるようになったということです。
そして現在はこの松は、横に約20m延びて、たいへん立派なものになっています。まさに、このお寺のシンボルといった感じです。(写真)

また、称念寺は、「猫寺」の通称から、現在のペット供養が盛んになる以前から、愛するペットの死を悼んで供養を希望する多くの人が訪れてきたということで、すでにペット供養60年の歴史があるそうです。境内には動物専用の観音堂があり、多くのペット達の墓があるようです。

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上京区寺之内通千本東入ル新猪熊町にある浄光寺には、江戸時代中期の文人画家・池大雅の墓があることで知られています。
浄光寺は、慶長年間(1596〜1614)、愚公栄山上人の開基になる浄土宗のお寺で、池大雅の墓があることから、大雅寺の通称で呼ばれているようです。寺院らしい雰囲気はあまり感じられず、池大雅に関連していなかったら訪れる人はいない感じです。




京都市の案内板を参照すると、池大雅は、享保八年(1723)京都に生まれ、姓は池野氏、名は無名、大雅、玉海などと号しました。
若くより絵を志して、柳里恭(りゅうりきょう)や祇園南海に学び、中国の画論や画譜を通じて独学で南画を研究。また禅を修行し、日本全国を旅行します。こうして人物や風景を詩的に表現する独自の文人画を大成しました。30才の頃に、祇園の御茶屋の娘、町と結婚し洛東真葛ヶ原に草庵を建てて住みます。この妻の町も玉瀾(ぎょくらん)と号して画家・歌人としても有名です。二人は自由気侭な暮らしぶりで知られ、奇行・逸話等も多いようです。
池大雅は安永五年(1776)に54才で死去し遺言によりこの浄光寺に葬られました。(玉瀾は天明四年(1784)に57才で死去)




浄光寺の池大雅の墓には、「故東山画隠大雅池君墓」と二行刻まれ、側面に淡海竺常(たんかいじくじょう)の撰文になる銘文を刻まれています。また、京都市西京区松尾万石町(西芳寺=苔寺の近く)にある池大雅美術館には遺墨・遺品などが展示されています。

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上京区・下立売通天神道西入行衛町にある竹林寺は、この前に書いた華開院のすぐ側、宝輪寺(達磨寺)の向かい側にある小さなお寺です。宝輪寺(達磨寺)のついでに書いても良いようなお寺ですが、平野国臣をはじめとする六角獄舎殉難志士37士の墓があり、幕末ファンは必見の場所なので単独で書いてみます。




赤門が特徴的な竹林寺は、浄土宗西山禅林寺派に属し、弘安二年(1278)年、後宇多天皇の頼願により、顕意道教上人により創建されたといわれる古刹ですが、その後数度の火災に遭い、古記録類を焼失してしまったために、それ以上のお寺の由来については詳細不明ということです。
明治以降の廃仏毀釈の時代にほとんど宝物も四散し、今は山門右上の2階にある新しい観音堂に木造十一面観音像(藤原時代初期以前)が安置されているのと、六角獄舎殉難志士之墓があるのみです。また乾第十五番札所ということです。





さて、福岡藩出身の平野国臣(1828〜64)は、脱藩し京都で尊王攘夷運動に奔走しますが、但馬の生野(いくの)の変を起して敗れ、捕らえられて六角獄舎に繋がれます。
ところが、元治元年(1864)七月の蛤御門の変(禁門の変)による戦火の中で、囚人が逃走するのを恐れた幕吏は、未決のままで、六角獄舎に繋がれていた平野国臣ら生野の変の同志、天誅組の水郡善之祐以下16名、池田屋事件の古高俊太郎以下8名その他勤皇志士を斬首しました。こうして、平野国臣は「憂国十年、東走西馳、成敗在天、魂魄帰地」と辞世の詞を詠み37歳の生涯を終えたのでした。

その後、明治十年(1877)に、化芥所(けがいしょ,ごみ処理施設)となっていた西ノ京刑場址(西ノ京円町付近・西大路太子堂一帯)から、姓名を朱書した瓦片とともに多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で処刑された平野国臣ら37名の勤皇志士の遺骨と確認され、改めて竹林寺に移葬され、明治四十三年(1910)に追善供養が行われ墓碑が建立されました。




現在竹林寺にある「元治甲子元年七月二十日六角獄舎殉難志士之墓」には義性となった37名の遺骨が合葬され氏名が刻まれています。

○生野(銀山)義挙関係五士

平野次郎国臣(37才、備前)、横田友次郎靖之(31才、鳥取)、木村辰之助包房(不詳、鳥取)、本多子小太郎素行(45才、善所)、片山九市春量(37才、丹波)



○天誅組大和義挙関係十六士

水郡善之祐長雄(34才、河内)、長野一郎寛道(26才、河内)、田中楠之助祐信(22歳、河内)、原田亀之助一作(原田喜太郎一作・30才、備中)、吉田重蔵良秀(35才、筑前)、乾十郎嗣龍(37才、大和)、中倉才次郎(25才、土佐)、幸助(古東僕幸助、常助、22才、紀伊)幾助(古東僕幾助、鶴松 25才、紀伊)、森元伝兵衛勝定(31才、河内)、辻幾之助同茂(30才、河内)、保母鉞之助建(保母健景光 23才、備前)、石川一貞幹(22才、鳥取)、古東領左衛門需(46才、淡路)、木村楠馬(24才、土佐)、船田彦次郎貞光(不詳、鳥取)



○池田屋事件関係八士

古高俊太郎正順37才(近江)、今井(津)三郎右衛門有忠46才(但馬)、佐藤市郎(不詳、山口)、吉田五郎(25才、越前)、山田虎之助彪(23才、長州)、内山太郎右衛門直一(22才、長州)、村上俊平(27才、上野)、南雲平馬(29才、上州)



○その他の事件関係八士

河村能登守秀興(45才、京都)、横田清兵衛順宜(俵屋 31才、京都)、長尾郁三郎武雄(足利三代将軍木像梟首事件、28才、京都)、吉川菊松(治)(39才、京都)、丹羽出雲守正雄(31才、近江)、川勝寛治(35才、園部)、厳徭坊佐々木織江(厳徭坊亮親 49才、豊前)、教観坊藤山衛門(34才、豊前)

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今回の写真は、北野天満宮の梅苑と御土居の梅になります。


梅は奈良時代に大陸から伝わったようですが、鑑賞はもちろん保存食としても日本人が最も大切にしてきた植物の一つですね。梅干が無いと・・と言う方も多いのではと思います。そして、平安時代に鑑賞樹として桜が流行する以前は、「花を愛でる」というと梅だったようです。



さて、北野天満宮に行くと、梅が桜より人気があった時代の花見の雰囲気ををなんとなく感じます。梅は桜のように一斉に花びらを散らすことは無く、順番に種類ごとに咲いていくので長く楽しめるのが良いですね。天満宮の梅苑は、昭和四十一年(1966)の開設で、面積は5千坪(その内、御土居の梅苑は2千坪)ということです。

梅苑では、様々な種類の梅の花が楽しめます。木の種類が多く開花時期がずれるためか、花の咲き方にはばらつきがあるようです。それに満開でも可愛いというか、初々しいというか、こういうのが桜と違う梅らしい魅力なのでしょうね。印象的には、白梅が綺麗な感じがしました。梅苑でお茶菓子をいただいて、御土居下の梅苑へ向かいました。



梅苑から、御土居(おどい)に道が通っています。
御土居というのは、豊臣秀吉が聚楽第を中心として京洛の区域を定めて、境界線として築造した土城の様なものです。紙屋川を下に眺めて、御土居(おどい)はどこに?という方もあるようですが、今立っている場所そのものが御土居です。
御土居の下にも梅苑があり、ここはかって市内唯一の梅苑だったそうで、花の下に床几を並べ毛氈を敷いて、梅見を楽しんだそうです。またすぐ下の紙屋川では子供たちが水遊びを楽しんだということです。
紙屋川と御土居の間の遊歩道にはそれほど多くの梅はありませんが散歩気分で歩けました。
今回は梅中心の写真ばかりで、御土居は最後の写真の奥に見える丘のような部分としてしか写っていませんが、御土居ファンの方は^_^、この機会に是非。

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今が梅のピークという北野天満宮。
3月末頃まで普段は公開されていない梅苑と御土居(おどい)が公開されているので行って来ました。


北野天満宮では約2万坪の境内に50種約2千本の梅が植えられているそうで、京都では梅の数では他を圧倒する存在です。(社殿周辺に千本、梅苑に千本)
桜人気にあやかろうと桜を植えまくる観光地が多い中で、菅原道真も好んだという梅をこれだけの本数楽しめる場所というのは少ないので貴重ですね。



梅苑の他に、天正十七年(1589)に豊臣秀吉公が京洛の区域を定めて、境界線として築造した御土居(おどい。国指定史蹟)の一部が天満宮の境内に残っていて、これも同時公開されています。
梅苑と御土居の公開は、茶菓子付きで一般500円です。また、宝物殿も特別公開されています(一般300円)


印象としては、今年は暖かいこともあり、ややピーク済みという感じでしょうか。
梅苑よりも社殿周辺の方が綺麗な感じもしましたので、無料で楽しんでも良いかもしれません。
今回は本殿周辺の様子。次回は梅苑・御土居周辺の写真を掲載してみます。

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