京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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前回の続きです。


この本堂工事中の伝説としては、有名は「阿亀塚(おかめ塚)」に関する物語があります。

本堂工事の棟梁だった長井飛騨守高次は、寄進された貴重な柱四本のうちの一本を誤って寸法を短く切ってしまいました。高次が、代わりの材木も見つからず、どうすれば良いか途方にくれていたところ、その様子を見た妻の「阿亀(おかめ)」が、「いっそ全ての柱を短く切って枡栱(ますぐみ)を付けてみては・・」と進言しました。高次はこの方法で、柱の上部に軒を支える木材を組み合わせ無事工事は完成し、安貞元年十二月に上棟式が行われました。しかし、阿亀は、妻の提言で夫が大任を果たしたという事実が世間に知られたら夫の名声に傷がつくとして、上棟式の前日に自刃してしまいました。
高次は、妻の優しい心情にうたれ、上棟式の当日、亡き阿亀の名前に因んだ福面を刻んで、御幣の先につけて飾り、妻の冥福と大堂の完成を祈ったと伝えられます。

その後、この話は大工達に受け継がれ、江戸時代の半ばには三条の大工、池永勘兵衛が本堂の脇に「おかめ塚(おかめ供養塔)」を建立、昭和五十四年(1979)に隣におかめのブロンズ像も造られています。また本堂の裏手にも、数多いおかめに関する人形等が展示されています。
今でも関西を中心に家の棟上げの際に、おかめ御幣をかざる習慣があり、二月にはおかめ節分が行われ、夫婦や家庭の円満、建築の安全を願う人たちの信仰を集めています。



霊宝殿には、快慶の晩年の作と伝わる木造十大弟子立像をはじめ、木造六観音像、千手観音立像、銅造釈迦誕生仏立像など数多くの文化財を所蔵展示していて、この寺院の歴史的な奥深さを感じさせます。

木造十大弟子立像(重文)は、鎌倉時代の建保六年(1218)の年号があり、仏師快慶の晩年の作と伝わります。寄木像で玉眼入り、胎内経九巻も伝わり、切金の彩色も残る優れた肖像彫刻です。
また、木造六観音像(重文)は、鎌倉時代の貞応三年(1224)の年号があり、仏師定慶の作です。聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝(じゅんてい)観音の六体が完全に揃っているという貴重なもので、滝口入道を伯父とする藤原以久女が願主となって奉納したものと伝わります。中国の宋風様式、素木造玉眼入りで、胎内経八巻も伝わります。

千手観音立像(重文)は、藤原時代初期の作で、菅原道真が梅の古木に刻んだという伝承があり、また、銅造釈迦誕生仏立像(重文)は、鎌倉時代の作です。
他に室町時代のだ太鼓縁一対(重文)、木造十大弟子立像胎内から九巻、木造六観音像から八巻の胎内納経巻(重文)、開山義空上人の墨書銘のある本堂棟木と棟札(国宝)、北野経王堂一切経(後述)等数多くの文化財を所蔵しています。



境内には、足利義満が明徳二年(1391)の「明徳の乱」で敗死した山名氏清(やまなうじきよ)の菩提を弔うために建てた北野経王堂願成就寺の遺構である観音堂があります。

足利三代将軍義満は、有力守護大名の牽制策をとり、山名氏もその標的となりました。明徳二年(1391)、当時十一ヶ国を領していた(全国六十六ヶ国中、十一ヶ国の守護を兼任していたため「六分の一殿」と称されました)山名氏清に対し、家中を分裂させる策謀を仕掛け、これに怒った氏清は一族と共に挙兵しました(明徳の乱)。戦いは京都内野で行われ幕府軍との決戦で、氏清は戦死しました。

将軍義満は、その翌三年(1392)、叛いたとはいえ、かつての山名氏清の功労武勲を思って、氏清とその一族、また戦いに倒れた敵味方兵士の追福のため、千百人の僧侶を集めて供養しました。また、応永八年(1401)に北野社(北野天満宮)の社頭西に、東山の三十三間堂の倍半という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付け、毎年十月、十日間にわたって万部経会及び経典書写などの仏事を行い供養しました。
この行事は「北野経会」と呼ばれる京洛の最大行事となり、代々の足利幕府によって継承されました。また、応永十八年(1411)には北野経王堂願成就寺の僧・覚蔵坊増範が本願主となり大部の経典「北野社一切経五千五百余巻(重要文化財)」を書写奉納しています。
尚、観世謡曲の「輪蔵」は、筑前太宰府の僧が北野天満宮で輪蔵を拝んでいると、経巻の守護神・火天や輪蔵を考案した中国の仏教徒・傅大士(ふだいし)の霊が現れ、僧の願いを聞き入れて一夜で五千巻の全ての経巻を読ませるというストーリーですが、この北野社一切経の輪蔵を元にした物語です。

巨大な北野経王堂は、慶長七年(1602)に豊臣秀頼によって再建されますが江戸時代には荒廃し、寛文十一年(1671)に解体縮小されて小堂となり、仏像や一切経五千余巻、義満筆「経王額」等の宝遺物は千本釈迦堂(大報恩寺)に移され、現在霊宝殿に保管されています。また解体された遺構の木材は、千本釈迦堂(大報恩寺)に運ばれて復元、縮小されたのが、現在の観音堂です。
また堂の前には、山名氏清の供養碑が建てられています。


その他境内には、山名氏清や山名宗全の念持仏だった不動明王像を祀る不動明王堂、慶長二年(1250)に千本釈迦堂(大報恩寺)第二世の如輪上人が賀茂・春日・石清水・日吉・今宮の五社と共に勧請したという稲荷社、弘法大師堂、七福神の布袋尊、ぼけ封じ観音像等が点在しています。
また、千本釈迦堂(大報恩寺)では、二月にはおかめ節分会、五月には花供養、七月には陶器供養、八月には六道まいり(精霊迎え)、十二月月には大根炊きなどの行事が営まれ、多くの人々で賑わいます。
そして、四月には地面に届かんばかりに枝を伸ばしている枝垂桜「阿亀桜(おかめ桜)」を目当てに観光客が集まります

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千本釈迦堂(大報恩寺)については、かなり前にお盆の風景として少しだけ採り上げましたが、まだ一度もきちんと書いていませんでした。千本釈迦堂(大報恩寺)が一番華やいで見える季節、春の「阿亀桜(おかめ桜)」の様子を中心に掲載してみます。


上京区七本松通今出川上る溝前町にある大報恩寺(だいほうおんじ)は、正式には、瑞応山千本釈迦堂大報恩寺という真言宗智山派の寺院で、かつては千本通に境内東面を接していたことから、通称の千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)の名前で広く親しまれています。
新西国三十三箇所十六番札所、京都十三仏霊場第八番札所、ぼけ封じ及び近畿十楽観音霊場第二番札所ということもあって、境内には庶民的な親しみやすい雰囲気が漂っていますが、京都市内最古という国宝の本堂をはじめとする文化財的にも第一級の寺院といえます。



千本釈迦堂(大報恩寺)は、鎌倉時代の承久3年(1221)、義空上人(ぎくう 号は求法(ぐほう)上人)によって創建されました。開山の義空上人は、奥州藤原氏の三代目・藤原秀衡の孫と伝えられる人物で、承安二年(1172)に出羽国千福里で誕生しました。この時、上人の母が薬師如来に祈って、日輪を飲む夢を見て懐妊したと伝わります。文治二年(1186)、十五歳で鎌倉の月輪坊阿闍梨(げつりんぼうあじゃり)の童子役となり、十九歳で剃髪、鶴岡八幡宮のお告げによって比叡山比叡山で澄憲(ちょうけん)上人に師事して倶舎、天台、真言の三学を会得しました。
そして、十数年の後の承久元年(1219)に、現在の千本の地をこれら三学の道場と定め、中納言猫間光隆(藤原光隆)の家臣、岸高という人物から自邸の土地の寄進を受け、承久三年(1221)に仮本堂を建立し仏像(釈迦如来像と十大弟子像を)を安置しました。これが千本釈迦堂(大報恩寺)のはじまりです。その後、貞応二年(1223)、大堂建立に着手し、安貞元年(1227)十二月に上棟されました。(上棟の事は、義空上人自筆の国宝棟木願文に記載されています。)


この伽藍造営は、たいへんな大工事だったようで、造営に関して寺の縁起に以下のような物語が伝えられます・・・大本堂造営の際、大光柱(大黒柱)にする木材が見つからず工事は停頓していました。
その頃、摂津尼崎の富裕な材木商「成金」の夢に、金色白眉の老僧が現れ、「洛中に一大精舎が建立されようとしている。お前の持つ巨木中に大光柱(大黒柱)とすべき木がある。是非とも提供して欲しい」と語ります。夢の中で成金が申し出に応じたところ、老僧は直ちに巨木の頭に「大報恩寺」という刻印を打って去りました。夢が覚めた成金が不思議なことだと思って材木を調べてみると、正に大報恩寺の刻印が打たれた木材を発見。翌日、寺院を訪れたところ、夢の老僧は、仮本堂に安置された釈迦十大弟子の迦葉(かしょう)尊者であったことから、成金はたいへん感動してその材木を寄進したということです。

こうして完成した寺院は、嘉禎元年(1235)に、倶舎・天台・真言三宗兼学の道場として勅許を受けました。尚、義空上人は仁治二年(1241)四月に七十歳で亡くなっています。
その後、堂場として隆盛を極め、徒然草にも登場する千本釈迦堂(大報恩寺)は、応仁の乱の兵火等で堂宇を焼失しましたが、本堂(釈迦堂)だけは奇跡的に焼失を逃れました。
そして、この本堂は、京洛(旧京都市内)に現存する最古の仏堂建築、鎌倉時代の貴重な遺構として国宝に指定されています。

国宝らしい風格あるこの巨大な堂々とした建物は、梁行五間・梁間六間(正面24.30m、側面28m)の入母屋造檜皮葺の寝殿造りで、内部は外陣・内陣に分かれ、さらに内陣に四天柱に囲まれた内々陣が設けられています。(内々陣の本尊厨子、天蓋、本堂来迎板壁画も国宝指定です。)
また内陣の柱には刀・槍の傷跡が見られます。これは応仁の乱時代の傷跡と伝えられ、この辺りは西軍側の陣地のあった場所でしたが、東西両軍の手厚き庇護のもと、特に西軍の将、山名宗全の特別のはからいで、この本堂が残されたとも伝わります。
堂内には、快慶の高弟・行快唯一の作と伝わる秘仏の本尊釈迦如来像(重文)を安置しています。




次回は本堂に飾られたおかめグッズから、「阿亀塚(おかめ塚)」その他境内の様子を掲載します。

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京都というのは、歴史の重層性を常に感じさせてくれる都市です。
同じ場所が、ある時代には御所となり、ある時代には戦場となった・・今回の史跡もそういった重層性を感じさせる史跡です。

上京区大宮通中立売上る(大宮通一条下る)梨木町、西陣と呼ばれる地域の一角にある「名和児童公園」は、南北朝時代の南朝の忠臣として知られる名和長年の戦死の地と伝えられています。
また、この地域一帯は平安時代には一条院御所があった場所でもありました。
(京都では「源氏物語千年紀」を記念して「源氏物語」ゆかりの各地に表示パネルが設置されていますので、転載させていただきます。)


まず、一条院跡(平安京左京北辺二坊一町・四町跡)についてです・・
一条院は、平安京の北東に隣接した邸宅で、一条天皇(在位986〜1011)の里内裏として知られています。東西二町の敷地があり、その内、御所として用いられたのは西側一町で、東側は財政や物資の調達を担当する別納が附属していました。
一条院は十世紀前半の右大臣・藤原師輔(もろすけ)から子の摂政・伊尹(これただ)、為光(ためみつ)兄弟へと相続され、その後富裕な受領の佐伯公行(さえきのきんゆき)が入手して、東三条院(円融天皇女御・藤原詮子(ふじわらのせんし あきこ)に献上されました。東三条院は、子の一条天皇の御所として修造し、長保元年(999)六月の内裏焼失(一条天皇の時代には内裏は三度焼失しています。)から寛弘八年(1011)の天皇の崩御までの間、里内裏として使用されました。また、東の別納には、藤原道長、中宮藤原彰子(ふじわらのしょうし あきこ)父娘の直盧(宿泊所)が設けられていました。
中宮藤原彰子に仕えた紫式部が日記に書いている内裏とは、この一条院内裏のことで、平安時代といえば思い浮かぶ、一条天皇時代の文化サロンの舞台となった場所でした。



さて、この華やかな一条院の跡地は、南北朝時代には京都支配を賭けた南北両軍の激戦の地となり、ここで南朝の武将・名和長年が戦死しています。


名和長年(なわながとし 生年不詳〜1336)は、村上源氏の出身とも、伯耆国(鳥取県)名和で海運業や漁業で富を築いていた豪族という説等がありますが、楠木正成等と共に後醍醐天皇の建武の新政が無ければ世に出ることも無かった新興勢力を代表する人物と考えられています。

名和長年が歴史に登場してくるのは、元弘元年(1331)に起こった「元弘の乱」以降です。
同年八月、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕計画が再び発覚し、天皇は京を脱出して笠置山に篭城します。これに呼応して吉野では大塔宮護良親王、河内では楠木正成、備後では桜山茲俊らが挙兵します。しかし幕府軍の攻撃で笠置山と吉野は陥落、赤坂城で幕府軍と奮戦した楠木正成も一旦撤退して、畿内の天皇方の敗戦を知った備後の桜山茲俊は一族と共に自害してしまいます。
元弘二年(正慶元年 1332)三月、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐に流され、側近の日野俊基や北畠具行、正中の変で流罪となっていた日野資朝らは処刑されました。

しかしこれで倒幕運動が終息したわけではなく、隠岐に流された後醍醐天皇は再び倒幕のために山陰の諸勢力に協力を求め、ここに名和長年が登場してきます。
畿内では元弘二年(正慶元年 1332)十一月、吉野山で護良親王、河内和泉では楠木正成が再び挙兵し、播磨の赤松則村(円心)、肥後の菊池武時、伊予の土居通増、得納道綱等も各地で挙兵します。こうした中、名和長年は、元弘三年(正慶二年 1633)二月に隠岐を脱出した後醍醐天皇を船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に迎えて討幕運動に参加、幕府軍を撃退します。またこの頃に長年は伯耆守に任じられています。その後、播磨の赤松則村(円心)が京都に迫る勢いを見せ、同年五月に足利尊氏が則村(円心)に呼応して鎌倉幕府への反旗を翻して六波羅探題を攻略して京都を制圧。そして、上野国(群馬県)で挙兵した新田義貞によって、五月二十二日に鎌倉幕府はついに滅亡しました。六波羅探題滅亡後、後醍醐天皇は京都に向かって進軍し、名和長年はこれを護衛して随行しています。


さて、長年は、後醍醐天皇による建武の新政において、従四位下の位に叙せられ、京都の左京の市を管轄する東市正に任じられています。長年は、後醍醐天皇が隠岐から脱出した際に最も頼りにした武将でした。そして、長年はその後、常に後醍醐天皇を護衛して身近に接してきました。このため、天皇が長年に、鎌倉幕府を滅ぼした功績のある尊氏や義貞に次ぐ官職を与えたのは当然といえます。(また、楠木正成が護良新王に近い存在だったことも、長年が正成の上位だった理由の一つかもしれません。)
当時の人々は、長年が伯耆守であったことから、楠木正成、結城親光、千種忠顕と合わせて四人を「三木一草」と呼んで、その栄達振りを噂したと伝わります。こうして、長年は、天皇近侍の武士として、北条氏の残党と結んだ幕府派の公卿・西園寺公宗を逮捕処刑し、足利尊氏との対立を強めていた護良親王を結城親光とともに捕縛しています。

その後、建武二年(1335)に足利尊氏が反旗を翻して京都への進軍を開始すると、長年は、楠木正成や新田義貞らと京都を防衛するために出陣します。建武三年(延元元年 1336)一月、いよいよ京都に迫った敵の大軍に対し、天皇側の諸軍は京都への防衛戦を張って待ち受けます。
「太平記」によると、長年は瀬田方面を、楠木正成は宇治方面、新田義貞が大渡方面、義貞の弟・脇屋義助が山崎方面を防衛しますが、公卿等で構成された山崎の守りが突破されたため、足利軍は京都に入り、後醍醐天皇は比叡山に逃れました。
しかし、足利軍を追って奥州から進軍してきた北畠顕家軍が来援したことから、後醍醐天皇側の諸軍が反撃に転じ、京都の奪回に成功します。尊氏は、一旦丹波へ逃れ、再び摂津、西宮で、新田・北畠・楠木軍と交戦して敗れ、建武三年(延元元年 1336)二月、九州へ落ち延びます。
その後、多々良浜の戦いで菊地氏を破って九州を制圧した足利軍は、四月、水陸両軍に分かれて東上を開始、五月に湊川の戦いで勝利して、京都に入りました。
長年は、新田義貞らと内野(平安京大内裏跡地)で防戦し、六月三十日、三条猪隈付近で討死したと伝えられます。





さて、明治時代の天皇制下で、名和長年の評価は急速に高まり、後醍醐天皇を助けた南朝の忠臣として、その名前を知らない者はいない存在となっていきます・・・国の英雄として教科書に掲載され、明治十九年(1886)に正三位、昭和十年(1935)に従一位を追贈されています。

今回の名和長年を顕彰する遺跡も、そうした時代が生んだものになります・・・
「名和公園」という児童公園の名前も、もちろん長年戦死の地に由来していて、公園の入口にある鳥居の脇には、「名和長年公遺蹟」という大きな石標(昭和十四年建立)と、「此附近名和長年戦死の地(昭和十一年建立)」という小さな石標があります。
さらに、公園の奥には、明治十九年(1886)に正三位を贈られた事を記念して同年に建てられた「贈正三位名和君遺蹟碑」という石標があり、碑文は太政大臣公爵三条実美の筆によります。さらに、その後、その横に「贈従一位名和長年公殉節所(なわながとしこうじゅんせつのところ)」という高さ約三メートルもの巨大な石標が昭和十四年(1939)に建てられました。これは昭和十年(1935)に従一位を追贈されたことを記念して建立されたもので、碑文は海軍大将・有馬良橘の筆です。
この場所は、鳥居があることからもわかるように、戦前は英雄を祀る聖地として、立派な囲いに囲まれ、白砂が敷かれた神聖な場所として立ち入ることが出来なかったということです。


戦後は、南朝忠臣の筆頭・大楠公こと楠木正成でさえ評価が分かれるようになり、名和長年の名前もいつしか教科書から消えて忘れられていくことになりました・・・この遺跡も地元の人でも何の史跡か知らない人も増えてきたということです。
実は、私もきれいな桜を見つけてたまたま立ち寄ってみたら、名和長年の遺跡だったことに気づいた程度だったのですが、南朝忠臣にはやはり桜の花が良く似合うとも思いました。

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上京区の智恵光院通五辻上ル紋屋町にある本隆寺は、法華宗真門流の総本山で、かなり前に「不焼寺(やけずの寺)と呼ばれたお寺」としてブログに採り上げたお寺です。
今回は沿革等は省略して桜の様子のみを掲載します。


実は、西陣にある桜の名所で前にブログに採り上げている「雨宝院」の桜をチェックしに行ったのですが、雨宝院は桜はチラホラ程度で、さらに現在山門を改修中ということでした。
狭い境内には工具が散らばってまさに工事現場状態に失望しました・・来年に期待したいと思います。

気を取り直して、雨宝院のすぐ南にある本隆寺を覗いてみると、こちらは桜が綺麗に咲いていて、普段は人のいない境内にはカメラを持った人もチラホラいます。

まったくついでに覗いた本隆寺でしたが、本隆寺のパンフを確認してみると、確かに綺麗な桜の風景が掲載されていました。ここはまさに観光客の知らない桜の穴場といえるでしょう。

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上京区七本松通仁和寺街道上る一番町にある立本寺(りゅうほんじ)は、日蓮宗京都八本山の一つとして、西陣を代表する寺院です。

立本寺については、これまでに島左近の墓についてと、毎秋の「立本寺の文化財・名勝庭園を訪ねて」という特別公開の事で二回ブログに登場していますので、今回は桜の様子の写真のみを掲載します。

京都の桜の名所は多いですが、立本寺は西陣屈指の桜の穴場といった感じでしょうか。


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