京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

上京区新町通寺之内下る安楽小路町にある光照院は、山号を仏日山という浄土宗知恩院派の門跡尼寺で、「常盤(ときわ)御所」ともいわれています。
山門横に「持明院御所」跡地を示す石標があるように、元々この地には、鎌倉時代の歴代上皇の仙洞御所となった持明院(じみょういん)家の邸宅があり、邸内には安楽光院(あんらくこういん))という寺院がありました。そして、この持明院御所を拠点にした持明院統(第八十九代後深草天皇の系統)と、大覚寺を拠点とした大覚寺統(第九十代亀山天皇の系統)との対立が、南北朝の分裂をもたらした事は良く知られています。
この歴史的な地に建つ光照院は、由緒ある門跡寺院らしい落ち着いた雰囲気のお寺ですが、通常非公開です。(数年前に「京都の冬の旅」で特別公開されています。)



まず、平安時代末期以降に、この地にあった持明院について少し・・・
持明院は、平安時代末期の貴族で諸国の国司を歴任した藤原基頼(1040〜1122)が、康和年中(1099〜1103)にこの地にあった邸宅内に建立した持仏堂の名前に由来します。その後、子の大蔵卿通基は天治年中(1124〜25)にさらに堂宇を整備し、家名を持明院とすると共に寺院は「安楽光院」と称しました。そして、大治五年(1130)には鳥羽上皇が安楽光院の落慶法要に臨幸しています。
さて、持明院家と皇室との結び付きは、通基の子、中納言・持明院基家(藤原基家)の娘陳子(北白河院)が守貞親王(もりさだしんのう 1179〜1223)に嫁いだことから始まります。

守貞親王は、高倉天皇の第二皇子で、安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟にあたります。
兄の安徳天皇が平家と共に西国に逃れた際、七歳の親王は皇太弟として同行し、平家滅亡の際に源氏に救出され都に帰りました。守貞親王が都に戻ると、既に同母弟の尊成親王(六歳)が、祖父の後白河法皇の指示によって天皇に即位していました・・・後鳥羽天皇です。
天皇になれなかった守貞親王は、その後、持明院基家(藤原基家)の娘陳子(北白河院)を妃にして、持明院邸を御所(持明院第)としていましたが、弟の系統が次々と天皇(後鳥羽、土御門、順徳・・)となっていくのに対し、自らの不遇な立場を嘆いて建暦二年(1213)出家してしました。

しかし、再び運命が変ります。弟の後鳥羽上皇が、承久三年(1121)に鎌倉幕府倒幕の兵を挙げ敗北したのです。(承久の変)これにより、後鳥羽、土御門、順徳の三上皇は各々流罪となり、仲恭天皇(順徳上皇の皇子・懐成親王)は退位させられます。
鎌倉幕府は、後鳥羽の血統を全て排除して皇位継承者を探した結果、出家していた守貞親王(行助入道)の子・茂仁王(十歳)を即位させました。(後堀河天皇)そして、後堀河天皇がまだ幼かったために、父の守貞親王(行助)が院政を行うことになりました。
太上天皇の位を賜わった守貞親王(行助)は鎌倉幕府との関係修復に努め、貞応二年(1223)に亡くなりました。(後高倉院と称されます。)しかし、この後高倉上皇(守貞親王)の血統も間もなく跡絶える事になります・・貞永元年(1232)、二歳の四条天皇に譲位して上皇となった後堀川は、天福二年(1234)に二十三歳で崩御。四条天皇も仁治三年(1242)に十二歳で事故死したために、再び後鳥羽の血統から皇位継承されることになりました・・・後嵯峨天皇(土御門天皇の皇子)の即位になります。


仁治三年(1242)に即位した後嵯峨天皇は、寛元四年(1246)に後深草天皇(四歳)に譲位して院政を敷いて実権を握り、正元元年(1259)に後深草天皇に対し、弟・亀山天皇(十一歳)への譲位を促しました。さらに、後嵯峨上皇は亀山天皇後の皇位継承者として、後深草天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を皇太子としましたが、これが後深草・亀山兄弟の、さらに後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立のきっかけになりました。
そして、文永九年(1272)に後嵯峨上皇が鎌倉幕府に皇位決定権を委ねて崩御すると、幕府は亀山天皇を支持し、亀山天皇は後宇多天皇(亀山天皇の皇子)に譲位して院政を行いました。しかし、その後、後深草上皇側が巻き返し、伏見天皇(後深草天皇の皇子)を即位させることに成功します。そして、その後は鎌倉幕府の裁定により、後深草・亀山両帝の子孫の間で約十年ごとに交互に皇位を継承(両統迭立)することになりました。



さて、長くなりましたが、持明院基家邸を里御所とした守貞親王(後高倉上皇)に始まり、さらに妃の北白河院、子の後堀河上皇の仙洞御所(上皇の御所)となった持明院第(持明院御所)は、後嵯峨、後深草両上皇以下の系統の仙洞御所にもなりました。こうして、後深草天皇から後小松天皇に至る系統は持明院統と呼ばれることになりました。しかし、持明院第(持明院御所)は、文和二年(1353)二月四日に炎上して安楽光院を除いて全焼し、その後安楽光院も応仁の乱で荒廃しました。(尚、安楽光院は、「安楽行院」ともいわれ、後に深草に再建され明治に廃寺。ブログの嘉祥寺、深草十二帝陵で少し触れています。)

ようやく光照院です・・・
光照院は、南北朝時代の延文元年(1356)に、後伏見天皇の皇女・進子(ますこ)内親王が二十二歳で得度して自本覚尼と称し、室町一条の北に天台・禅・律・浄土四宗兼学の道場として創建したのが始まりと伝えられます。その後、応仁の乱で焼亡しますが、現在地の持明院旧地に再建され、一時は旧跡から安楽光院と称しましたが、後に光照院に復しています。 そして、以後は代々の皇女が尼門跡となりました。光照院は、享禄二年(1529)に仏殿を残して焼失、さらに江戸時代には享保十五年(1730)の大火以降しばしば火災に遭い再建を繰り返しています。そして、寛政元年(1789)に光格天皇の御下賜金によって復興した際に、「常盤御所」の称号を賜わりました。

現在の本堂は昭和四十三年(1968)に、古建築を改装した入母屋造、軒唐破風付の建物で、書院は京都御苑内にあった旧桂宮御殿の一部を移築したものです。本堂には本尊釈迦如来立像、開山自本覚公像を安置し、また格天井には田能村直外筆による「四君子」(しくんし)が描かれています。また庭園は、樹齢五百年と伝わる五葉の松を配した枯山水庭園です。
また、明治時代に光照院の歴代皇女の墓は同じく皇室とのかかわりが深かった華開院(上京区行衛町 ブログに掲載しています)に移設されています。(華開院内の光照院宮墓地には、後陽成天皇皇女・尊清女王墓、後水尾天皇皇女・文察女王塔、 後陽成天皇皇女・尊英女王墓、後陽成天皇皇女・尊蓮女王墓、霊元天皇皇孫女・尊梁女王墓、後西天皇皇女・尊杲女王墓、中御門天皇皇女・尊乗女王墓があります。)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

上京区出水通千本西入ル七番町にある福勝寺は、山号を竹林山という真言宗善通寺派の寺院です。
毎年の節分に授与されるひょうたんのお守り「宝珠尊融通御守(ほうしゅそんゆうづうおんまもり)」が有名で、「ひょうたん寺」の通称で知られています。また、本堂脇檀に聖観音菩薩が祀られ「洛陽三十三所観音巡礼」の第二十九番札所でもあります。


寺伝によれば、福勝寺は、元々河内国古市郡中村(現羽曳野市)に、弘法大師空海によって創建されましたが、その後衰退したと伝えられます。
その後、鎌倉時代の正嘉年間(1257〜59)に覚済僧正(第八十世東寺長者、第四十五世醍醐寺座主)が中興開山となって、京都の油小路五条坊門に再建されました。以後二度の移転を経て、さらに宝永の大火(1708)後に寺町通丸太町下ルから現在地(出水千本西入る)に移りました。
福勝寺は歴代の皇室の崇敬が厚く、桃山時代の後陽成天皇の勅願寺となっています。また、後西天皇の勅願寺にもなり、後西天皇が観音菩薩を祈願しその願いが成就した後、御所紫宸殿の左近桜を下賜され、以来「桜寺」とも称するようになりました。
勅願寺らしい堂々とした山門は、九条家からの移築と伝えられますが、原則として節分の日のみに開門されます。本堂には中央に本尊薬師如来、脇檀に聖観音菩薩を祀り、本堂前には、十三十塔や御所紫宸殿から下賜された桜(現在は二代目)があります。
また、歓喜天の例日の毎月1日、16日のみ自由に本堂、聖天堂の拝観が出来ます。



さて、「ひょうたん寺」の通称名の由来としては、ふたつの説が伝えられます。
一つは、豊臣秀吉が当寺を信仰し、出陣の際に武運を祈願するため「ひょうたん(ひょうたんは、種が多いことから子孫繁栄や武勲を数多く得る縁起の良いものとされました)」を奉納していたことに由来するといわれます。そして、秀吉はこのご利益により常に勝利したために寺領を寄進したと伝えられ、この奉納したひょうたんで「千成瓢箪」の旗印を作ったとも伝えられます。

もう一つの説は、福勝寺の創建以来伝わる伝統的なお守りが、宝珠(ほうしゅ)を2つ重ねた形をしていることから、ひょうたんの形に似ているとして、鎌倉時代ごろからひょうたんをお守りとして用いるようになったという説です。
この有名なひょうたんのお守りは、正式には「宝珠尊融通御守(ほうしゅそんゆうづうおんまもり)」と言って、開基・弘法大師空海が唐で師として仕えた清龍の三蔵国師・恵果和上より伝授された、貧苦の衆生を救済する不思議な玉「如意宝珠」の修法に由来すると伝えられます。そして、このひょうたんは、朝廷の厚い庇護を受け、明治以前は朝廷と幕府のためだけに祈祷していたということです。

現在、福勝寺では、如意宝珠と歓喜天の秘法を大峰山で七日間行って祈祷したひょうたんを、節分の日に授与しています。このお守りは、商売繁盛や祈願成就等のご利益があるとされますが、今では口コミで人気が出たために、完全予約制をとり、価格は1万円という高価なものです。それでも節分の日には三千人もの方が境内を埋めるばかりに参拝して買い求めてるということです。




最後に、福勝寺は幕末ファンにも知られたお寺です。境内墓地の東側付近に、池田屋事件のきっかけになった攘夷派志士・古高俊太郎の墓があるからです。
古高俊太郎は近江国出身で、京都で枡屋喜右衛門と称して、攘夷派志士のために、情報収集と武器弾薬の調達にあたりました。しかし、元治元年(1864)六月に新選組に襲われて捕縛され、壬生の前川荘司邸の土蔵で土方歳三らによって過酷な拷問を受けました。そして、ついに尊皇攘夷派の計画を自白したと言われ、これが池田屋事件へとつながりました。
その後、古高は六角獄舎につながれましたが、七月の蛤御門の変(禁門の変)による戦火の中で、囚人が逃走するのを恐れた幕吏は、未決のままで、古高俊太郎を含む池田屋事件関係者8名を、同じく六角獄舎に繋がれていた平野国臣ら生野の変の同志5名、天誅組の水郡善之祐以下16名、その他勤皇志士8名と共に(計37名)斬首したのでした。古高俊太郎享年36歳でした。
(尚、墓は、他に京都東山区の霊山墓地、滋賀県守山市の福寿院にもあります。)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

上京区下立売七本松東入ル長門町にある祐正寺は、境内に縁結びのご利益がある「妻取地蔵尊」が祀られていることから、「妻取地蔵」の通称で知られるお寺です。
それ程広い境内では無いですが、多くの寺院がある西陣でも比較的明るい開放的な印象がします。


祐正寺は、正式には大応山慈光院祐正寺という浄土宗大本山百万遍知恩寺の末寺で、江戸時代の慶長七年(1602)、円誉雲白上人により浄土宗念仏道場として創建されました。
その後、寛文十三年(1673)第三世・廓誉穐道上人の時代に、霊元法皇の勅願によって地蔵堂が建立されました。この堂内に祀られる地蔵菩薩像は、通称「妻取地蔵」と呼ばれ、縁結びのお地蔵様として信仰を集めています。また、この妻取地蔵は、洛陽四十八願所の第九番札所となっています。
その他、境内には弁財天や大黒天、毘沙門天や稲荷大明神などが祀られ、今の季節は枝垂れ紅梅が綺麗です。情報の少ないお寺ですが、毎月写経の日(5日)を設けて一般の参加を集めるなど広く活動されているようです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

上京区出水通六軒町西入ル七番町にある光清寺(こうせいじ)は、これまでにも幾つか採り上げてきました「出水の七不思議」の一つ、「浮かれ猫の」絵馬で知られるお寺です。また昭和を代表する作庭家・庭園研究家として有名な重森三玲による庭園があるので重森の庭に興味がある人にも興味深いかもしれません。


光清寺は、山号を心和山という臨済宗建仁寺派の寺院です。寛文九年(1669)、伏見宮貞致親王が生母・慈眼院殿心和光清尼の菩提を弔うために杲山(こうざん)上人を開山として創建されました。創建当時は天台・真言・華厳・禅の四宗兼学で声実庵(せいじつあん)と称していましたが、宝永三年(1706)に火災により堂宇を焼失し、伏見宮永親王によって再建されました。この再建の際に伏見宮家の生母の法名「心和光清尼」から、心和山光清寺と改められました。光清寺はこの伏見宮との縁により無本寺格として宮準門跡に列せられ、明治初年に臨済宗建仁寺派寺院に属しました。
本堂には慈覚大師円仁作と伝える観世音菩薩立像が安置されています。また弁天堂は旧伏見宮邸より移築されたものです。また当寺は明治維新の元勲岩倉具視で知られる岩倉家の菩提寺で、先祖の恒具(1701〜1760)他三十の墓があるということです。



さて、弁天堂の南側に掲げられている絵馬には、かすかに猫が描かれていて、「出水の七不思議」のひとつに数えられる「浮かれ猫」の不思議な伝説が伝わります。
この伝説に関して、鎮守堂(弁天堂)に説明書きが掲載されていますので、引用させていただきたいと思います・・・この牡丹に三毛猫の絵という変った絵馬は、江戸時代から掲げられていて、江戸時代の後期、近所にあった遊廓から三味線の音が聞こえてくると、誘われるように絵馬の猫が浮かれ出して女性の姿になって踊り始めたということです。(江戸時代末期から付近の五番町には、水上勉の小説で映画化もされた「五番町夕霧楼」で知られるように遊郭が建ち並んでいました)それを見た人がいて、大騒ぎとなったことから、当時の住職が不快に思って法力で浮かれ猫を絵馬に閉じ込め金網をかけてしまいました。

その夜、衣冠束帯姿の立派な武士が住職の夢に現れ、「私は絵馬の猫の化身だが、あなたに封じ込められて苦しくて仕方が無い。今後は世間を騒がすことは決してしないので、許してもらえないか」と嘆願します。住職は哀れに思って法力を解いて金網を外したということです。
お寺の解説文には、明治時代までお寺の周りには民家も殆んど無く、江戸時代には千本通りから西のこの辺りは立ち並ぶ寺院以外には畑や薮が広がっていたことから、遊里がほど近く、夜はひっそりとして深い闇が広がる寺町街が、「浮かれ猫」をはじめ「出水七不思議」のような怪談奇談を生み出したのかもしれないと記されています。


さて、重森三玲の作庭の庭は、これまでも東福寺方丈庭園、東福寺光明院庭園、大徳寺瑞峯院庭園、東福寺龍吟庵庭園、重森三玲邸庭園、松尾大社庭園等を採り上げてきましたが、光清寺には玄関前庭として「心月庭」、本堂前庭として「心和の庭」があります。(尚、今回は、時間が無く、「心和の庭」は門のの横から覗かせていただいた写真を掲載します。次回はお寺にお願いして本堂正面から見させていただきたいと思っています。)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

京都市上京区浄福寺東入る大黒町の東側は、現在新興住宅地となりつつあります。
その住宅地の中に近年綺麗に整備された小さな祠と鳥居があり、大きな約1.8mのやや赤みを帯びた巨石が御神体として祀られています・・・これが岩神です。「岩神祠(いわがみのほこら)」、「岩上(いわがみ)神社」、「石神(いわがみ)」、「岩神神社」と色々な呼び名で書かれていて、地元では親しみを持って「岩神さん」とも呼ばれているということです。


さて、この地には江戸時代に、山号を有乳山という岩神寺という寺院があり、乳の出が良くなるという授乳の神として、特に乳母や保母等に深く信仰されていたということです。その後、享保十五年(1730)の大火「西陣焼け」、天明八年(1788)の「天明の大火」で類焼した後に岩神寺は衰退して、明治になって廃寺となり、この石だけが残されていたということです。
その跡地は、岩上座という芝居小屋になりましたが、それでもこの巨石は地元住民から「岩神」として崇められていたようで、大正六年(1917)に岩上座の跡地を所有した織物会社が祠を建てて神社として岩神を祀って神事を行うようになったということです。そして、その建物が取り壊された後、現在のように整備され道路からも御神体が見られるようになりました。


少し時代を遡りますが、元々、岩神は二条堀川付近(二条城の南 二条通猪熊)の冷泉院の鎮守社にあったといわれ、慶長七年(1602)の徳川家康による二条城築城の際に、岩上通六角下る(中京区岩上町・・現在は中山神社があります)へ運ばれたとも、或いは、寛永年間(1624〜43)に岩上通六角へ神社を遷座する際、この大石だけは大きすぎて引く事が出来ないために、旧地に残したとも伝わります。ともかくその後、形の良い石ということで、後水尾天皇の女御中和門院の御所の庭へと移されました。

ところが、御所内に安置された岩神は、内裏の築山に引こうとしたら吠えたとか、小僧に化けて神泉苑で怪をなしたとか様々な怪異を起こしたと伝えられ、子供に化けたこともあったようで「禿童(かぶろ)石」とも呼ばれました。変身パフォーマンスを繰り返す元気いっぱいの岩神に、御所もあきれ果てたのか疲れ果てたのでしょう・・・.その後、御所の北門の辺りに置きっぱなしにしていたようです。
寛永七年(1630)、雲乗院(蓮乗院とも)という御所でしばしば祈祷を行っていた真言宗の僧が大石が置かれているのを見つけて、御所からもらい受け現在地に安置して祠を建てて祀ったのが、岩上神社(=神宮寺として岩神寺)の始まりといわれます。


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事