京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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出水通六軒町東入る七番町にある玉蔵院は、ごく普通の寺院という印象で、書くネタもあまり無いので採り上げようか迷ったのですが、京都市上京区のHPに出ているので写真を掲載して、上京区のHPの引用を中心に書いてみます。


西陣の出水通の周辺には、一番町から七番町という町名があります。これは、天正十五年(1587)、豊臣秀吉が聚楽第を築いた際に、平安京の大内裏址の内野の地に一番から七番の組屋敷を置いたことによるといわれています。
聚楽第の外郭範囲としては、北は元誓願寺通(もとせいがんじどおり)、東は堀川通、南は押小路通(おしこうじどおり)、西は千本通に至る東西約600m、南北約700mという大きさで、周囲には幅30m以上にも及ぶ堀をめぐらしていたと考えられているので、千本通の西にある一番から七番の組屋敷は聚楽第の西の守りでもあったのかもしれません。
そして、聚楽第が廃絶された後の荒地には、多くの寺院が立ち並ぶことになりました・・・一番町には大寺院の立本寺があります。二番町には安養寺。三番町には観音寺や福寿院、大雄寺。四番町には報土寺。五番町には長徳寺、国生寺。七番町には福勝寺、華光寺、慈眼寺、本昌寺、光清寺、五却院等。
その後、江戸時代末期からは水上勉の小説で映画化もされた「五番町夕霧楼」で知られるように、五番町には遊郭が建ち並び(昭和三十三年(1958)の売春防止法施行により廃止となりました。)また新しい娯楽として映画館も増え一大歓楽街となりました。



さて、七番町にある多くの寺院の中でも、玉蔵院はかなり地味なお寺です。臨済宗妙心寺派の寺院で、江戸時代初期の寛永十一年(1634)、仏頂上人により創建されました。重要文化財指定の絹本著色芦葉達磨図は、南北朝時代の道釈人物画で、東福寺の禅僧固山一鞏(こざんいっきょ)の賛のあることで知られるということです。

前に書きましたが、この上京区出水通の「出水(でみず)」周辺の寺院には、「出水の七不思議」という伝説が残っています。

幾つか諸説あるようですが、
○観音寺の泣く山門(伏見城の牢獄の門を移建したと伝えられ、夜には泣き声を発したと伝わります。)

○地福寺の日限薬師(小さな穴の開いた小石を奉納して、日を決めて祈願すると、耳の聞こえないのが治ると伝わります。)

○光清寺の浮かれ猫(絵馬の猫が、絵馬から抜け出して遊んだと伝わります。)

○五却院の寝釈迦(門の潜り戸の木目が釈迦が横たわる姿に見えるということです。)

○極楽寺の両袖の潜り戸(山門の潜戸が左右二つ有ります。)

○極楽寺の金谷水(秀吉が茶会に用いた勝負に勝つという名水)

○華光寺の時雨の松(秀吉の手植えといわれ、晴れた日でも枝から雫を落としたと伝わりますが、大正五年に枯死しました。)

○華光寺の五色椿(五色の花を付けたといわれますが、枯死しました)

○玉蔵院の円山応挙の幽霊掛け軸

この「出水の七不思議」になっている玉蔵院の円山応挙筆の掛け軸は、肺病で瀕死の遊女を描いたもので、その姿が幽霊に見えるというものだったそうですが、数十年前から行方不明になってしまって残念ながら今では見ることは出来ないということです。

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千本通や七本松通と並んで西陣を南北に抜けるメインストリートに智恵光院通があります。この通りの名前で知られるのが、今回採り上げた智恵公院(ちえこういん)です。
西陣地域の中央、千本通と堀川通の間では浄福寺(前に採り上げています)に次いで大きな寺域を持つ寺院ですが、残念ながら度々の火災により記録類を失いその歴史には不明な点が多いようです。



さて、智恵光院通一条上る智恵光院前之町にある智恵光院は、称念山平等寺(しょうねいざんびょうどうじ)と号する浄土宗知恩院派のお寺です。
創建は鎌倉時代の永仁二年(1294)、藤原北家の流れを組む近衛家の出身で、鷹司家(たかつかさ・・兼平の住居が鷹司室町にあったことから 五摂家の一つ)の始祖となった関白・鷹司兼平(1228〜94)が、一条の北にある花園を献じて自家の菩提寺院として創建し、如空(にょくう)国師を開山に迎えたと伝えられます。当初は岡崎(左京区)に寺地があったと伝えられますが、何時頃に現在地に移ったのか、経緯も時期も伝えられていないようです。それはともかく、その後、聞益(もんえき)上人によって山内に塔頭・要終院、芳秀院、智福院、吟松院の四院を建立して、京師七光院の一つとして隆盛を極めたということです。

その後、江戸時代の享保十五年(1730)の大火「西陣焼け」や天明八年(1788)の両大火で全焼して、その後、徐々に再建されましたが、第二次世界大戦中の強制疎開により、塔頭四院も廃寺とされ、現在の規模に縮小されてしまったということです・・・それでもこの地区では大きなお寺ですが。

現在の建物は全て天明八年(1788)以降の建物で、安政二年(1855)に再建された本堂には有名な鎌倉時代の仏師・安阿弥快慶作と伝わる本尊阿弥陀如来像を祀っています。また広い境内には、小野篁作と伝えられる六臂(ろっぴ)地蔵像を安置した地蔵堂をはじめ、智徳弁財天や金ぎょく龍王神、智恵姫稲荷大明神を祀った小堂等があります。


この内で有名なのは、六臂地蔵尊です。

ここで、「六地蔵」について再掲載します・・
平安時代初期に、歌人の小野篁が一度息絶えて冥土に行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後、一木から刻んだと伝わる六体の地蔵菩薩像のことです。その後保元二年(1157)後白河天皇が平清盛に命じて、京都に疫病が侵入しないようにと祈願させ、京都周辺の交通要所の六ヶ所に一体ずつ地蔵を安置させたと伝えられ、京都では「京都六地蔵巡り」といって、毎年8月22・23日に京都周辺のこの六ヶ所の地蔵菩薩を巡って、無病息災や家内安全等の祈願をこめてお参りする行事があります。

六地蔵です・・

○鳥羽地蔵(浄禅寺)(南区上鳥羽岩ノ本町・旧大坂街道)

○伏見地蔵(大善寺)(伏見区桃山町西山・旧奈良街道)

○山科地蔵(徳林庵)(山科区四ノ宮泉水町・旧東海道)

○桂地蔵(地蔵寺)(西京区桂春日町・旧山陰街道)

○常盤地蔵(源光寺)(右京区常盤馬塚町・旧周山街道)

○鞍馬口地蔵(上善寺)(北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町・旧鞍馬街道)

智恵光院の地蔵堂に祀られている六臂地蔵尊は、小野篁が、各地の六地蔵をそれぞれ巡礼するのも大変でもあり、これら六体を一体に刻んで礼拝すると功徳も非常に大きいだろうと考え、六地蔵の夫々の腕を取り入れた六つの手を持つ尊像を一刀三礼で彫り上げたものということです。
その後、六臂地蔵像は御所近くの知恩寺に祀られましたが、疫病を治め「厄よけ地蔵」と庶民から親しまれたということです。その後、知恩寺第六世・如一国師が智恵光院を建立した縁で、南北朝時代に当寺に移されたと伝わります。六臂の地蔵損は日本唯一ということですが、地蔵像は堂内にかなり厳重に封印されていて見ることはできません。

最後に、智恵光院の境内には季節の色々な花も植えられていて、ベンチなども置かれているので、ちょっとした休憩スポットにもなりそうです。

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今回は、多くの寺院が建ち並ぶ西陣から華光寺(けこうじ)を採り上げました。
西陣と呼ばれる地域は観光寺院が少なく、京都らしい雅な雰囲気はそれ程無いのですが、ラフで気さくな庶民的な雰囲気があり散歩するのが楽しい地域です。ほとんどの小さなお寺では人の気配が無くて、立ち寄ることをためらわせる雰囲気もあるのですが、今回の華光寺は本堂前に前庭が広がっていて親しみやすいオープンな印象のあるお寺です。また本堂の前に鳥居があるなど神仏混交の名残を感じます。


上京区出水通六軒町西入ルにある華光寺(けこうじ)は、山号を蓮金山(れんきんざん)という日蓮宗妙顕寺派の寺院です。天正十一年(1583)、妙顕寺(現・上京区寺之内通新町西入ルにある日蓮宗京都十六本山を総統する大寺院です。)の第十二世・日堯(にちぎょう)上人が、豊臣秀吉の援助を受け自身の隠居所として創建したと伝えられます。
本堂には本尊の十界曼荼羅をはじめ大毘沙門天や鬼子母神等を祀りますが、特に、本堂右に祀られている毘沙門天像は平安後期の作で、鞍馬寺の毘沙門天像と同木同作とも伝えられ、豊臣秀吉が伏見城に祀っていたものを華光寺の守護神として寄進したといわれています。江戸時代以降、この毘沙門天像は開運厄除けの神として信仰を集め、現在でも華光寺は「出水の毘沙門さん」と呼ばれ親しまれています。


京都府指定有形文化財に指定されている梵鐘は、高さ102cm、口径57cmあり、鎌倉時代の正応元年(1288)に丹波国愛宕山別院厳辺寺の鐘として、鋳物大工橘則弘が作ったという銘があります。境内墓地には幕末の京都町奉行与力で天皇陵の研究家として知られる平塚瓢斎、幕末の土佐派の画家宇喜田一恵の墓や、肥後熊本藩初代藩主の加藤清正の子孫一族の墓碑など三十数基があり、また火付盗賊改めとして活躍した西町奉行長谷川平蔵の父・長谷川宣雄の葬儀が華光寺で行われた時の葬儀記録も保存されているということです。


さて、上京区出水通の「出水(でみず)」という名前は、この周辺が大雨の度に水が溢れたことに由来するといわれます。前に「観音寺の泣く山門」というのを採り上げましたが、この地域周辺の寺院には、「出水の七不思議」という伝説が残っています。

幾つか諸説あるようですが、
○観音寺の泣く山門(伏見城の牢獄の門を移建したと伝えられ、夜には泣き声を発したと伝わります。)

○地福寺の日限薬師(小さな穴の開いた小石を奉納して、日を決めて祈願すると、耳の聞こえないのが治ると伝わります。)

○光清寺の浮かれ猫(絵馬の猫が、絵馬から抜け出して遊んだと伝わります。)

○五却院の寝釈迦(門の潜り戸の木目が釈迦が横たわる姿に見えるということです。)

○極楽寺の両袖の潜り戸(山門の潜戸が左右二つ有ります。)

○極楽寺の金谷水(秀吉が茶会に用いた勝負に勝つという名水)

○玉蔵院の円山応挙の幽霊掛け軸

そして、今回の華光寺には、時雨の松(秀吉の手植えといわれ、晴れた日でも枝から雫を落としたと伝わりますが、大正五年に枯死しました。)、五色椿(五色の花を付けたといわれます。)が数数えられています。
残念ながら二つ共、枯死してしまいましたが(松の切り株が鐘楼の下に置かれています(写真)
、境内の庭園では子孫の松や七種の椿が植えられているということです。その他、境内には、切り石を用いた鋪装道や池が整備され、可愛いお地蔵さん等も置かれていて小さな憩いのスポット的な親しみやすさがあります。

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上京区智恵光院通出水下ル分銅町にある松林寺(しょうりんじ)は、通称「やす寺(やすでら)」と呼ばれる浄土宗鎮西派寺院(総本山はもちろん知恩院)です。一見して普通の小さなお寺ですが、境内に豊臣秀吉によって築かれた聚楽第(じゅらくだい じゅらくてい)の遺構が残ることから歴史に興味のある一部の方には知られている寺院です。


松林寺は、江戸時代初期の慶長十四年(1609 慶長十三年(1608)とも))、清印上人によって現在の二条河原町付近に創建され、元禄(1688〜1704)の初年に現在の地に移転しました。
通称名の「やす」は、安産の「安」を意味しています・・これは、開基の清印上人が重病の母親の回復を祈願すると、薬師如来が現われて婦人病や安産に効験あらたかな秘薬の処方を伝授されたという伝説に由来していて、このエピドードからか戦前には寺で薬が販売されていたということです。現在は二十年程前の火災で焼失した後に再建された新しい本堂が建っていて、古い山門とは少しミスマッチな印象もあります。


さて、松林寺は、山門前の道路(新出水通)に比べるとかなり低い位置に建っています。
山門から本堂裏にかけてなだらかな坂となっています。さらに境内南にある墓地にかけて一段と低くなっていて、最大で道路からは約3mは低いようです。これは、松林寺の境内全体が、秀吉が造営した聚楽第の遺構(外郭の東西方向の堀部分)にあたるためで、平成九年(1997)に発掘調査され、部分的な外堀の一郭であったと推定されています。

聚楽第について少しだけ書いてみます・・・天正十三年(1585)に関白に任じられた豊臣秀吉は、さっそく自身の邸宅でもあり政庁でもある壮大な建物の建造を計画します。天下人に相応しい天守閣を持つ豪華な城郭風の邸宅を、京都の中心部、平安京の大内裏跡でもある内野(うちの)に建造するというものでした。造営は翌十四年(1586)二月から始められ、同十五年(1587)九月に完成して、聚楽第と名付けられました。(尚、「聚楽」とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)」めるという意味。)そして、天正十六年(1588)五月には、後陽成天皇の行幸を聚楽第に迎え、諸大名に天皇と関白秀吉への忠誠を誓わせています。
このように豊臣政権の権威を象徴していた聚楽第ですが、同十九年(1591)に、秀吉は甥の秀次を関白に就任させ、聚楽第も秀次に譲られることになりました。一方、太閤となった秀吉自身は、隠居後の住居として伏見城の建設を始めます。このまま秀吉と秀次の二元政治が順調に機能していれば、聚楽第のその後も少しは違っていたのかもしれませんが、文禄四年(1595)に秀次は謀反の疑により高野山に追放、切腹させられました。そして、秀吉は聚楽第を全て破却させ、その遺構の一部は,当時造営中だった伏見城に移されました。


聚楽第は徹底的に破壊されて、堀は埋められ石垣は崩されて更地にされてしまったために、現在でも不明な点が多いようですが、外郭範囲としては、北は元誓願寺通(もとせいがんじどおり)、東は堀川通、南は押小路通(おしこうじどおり)、西は千本通に至る東西約600m、南北約700mという大きさで、周囲には幅30m以上にも及ぶ堀をめぐらしていました。また内郭には本丸を中心に、北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸の曲輪が築かれていたと考えられています。
さらに堀の周辺には諸大名の武家屋敷が軒を並べていて、一部は現在の町名や通り名にそのなごりを留めています・・・山里町(やまざとちょう)、下山里町、如水町(にょすいちょう)、加賀屋町、浮田町(うきたちょう)、直家町(なおいえちょう)、田村備前町(たむらびぜんちょう)、福島町、主計町(かぞえちょう)、弾正町(だんじょうちょう)、日暮通(ひぐらしどおり),黒門通等があるようです。また聚楽第の遺構としては、大徳寺唐門や妙覚寺表門、西本願寺飛雲閣等があり、近年の発掘調査によって金箔瓦等が出土しています。



最後に、松林寺は熱心な幕末ファンにも注目されています。
新撰組と並んで幕末の京都で活躍した京都見廻組の与頭・佐々木只三郎が松林寺に寓居していたと伝えられるからです。佐々木只三郎は、慶応三年(1867)の近江屋での坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与していたとも言われていますが、佐々木はこの松林寺の宿で暗殺計画を部下達と計り、近江屋(中京区河原町通四条上ル)に向かったのかもしれません。

同じ京都の治安維持を担っても、農民や商人出身者を中心とした新撰組に比べて、京都見廻組の方は幕臣で構成された幕府の正規警備隊でした。また、担当範囲も新選組が祇園周辺の歓楽街を受け持っていたのに対し、見廻組は御所や二条城などの公的地域を警備していました。そのため、京都見廻組の屯所は、この松林寺からもそう遠くない二条城側にあったといわれていて、松林寺は佐々木只三郎にとっても宿として便利だったのかもしれません。
また、松林寺が佐々木を受け入れた背景として、松林寺が属する浄土宗大本山の黒谷の金戒光明寺(左京区黒谷町)に京都守護職の会津藩の屯所が置かれたことが関係していたといわれています。

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京都市上京区には、通常非公開の由緒ある門跡尼寺が数多く集まっています。
その中で一つだけ非常によく知られているのは、春秋に特別公開される「人形寺」宝鏡寺(ブログに採り上げています)です。宝鏡寺は「百々(どど)御所」とも呼ばれていますが、その他にも○○御所の異名のある門跡尼寺があります。

○宝慈院(千代野御所)

○三時知恩寺(入江御所)

○光照院(常盤御所)

○慈受院門跡(薄雲御所、竹之御所、烏丸御所とも)

○大聖寺(御寺=おてら御所)


今回は、慈受院門跡(薄雲御所)を採り上げます。
今年、平成二十年(2008)は、源氏物語が記録上で確認されてから一千年ということで、京都では「源氏物語千年紀」の記念事業が進められているようですが、それと関連して、昨年秋には門跡寺院ということで長く非公開だった慈受院門跡でイベントが行われ、「源氏物語ゆかりの寺院 薄雲御所と源氏物語」という掲示板が慈受院門跡の外壁にも掲示されました。
(尚、慈受院は、境内にある毘沙門堂のみが公開されていて、山門前に拝観謝絶と掲示されている非公開寺院ですが、特別なツアー等では拝観可能のようです。)


さて、上京区寺之内堀川東入百々町にある慈受院は、山号を広徳山(こうとくざん)という臨済宗単立の門跡尼院で、「薄雲御所」、「竹之御所」、「烏丸御所」とも呼ばれています。これらの通称名の由来は、慈受院の複雑な歴史が関係しているようで、やや長くなりますが整理しながら書いてみます。

室町時代の初期頃には、京都では、臨済宗の「五山(南禅寺・天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺等)」に倣って、「尼五山(景愛寺・通玄寺・檀林寺・護念寺・恵林寺)」が定められていました。これら尼五山は室町後期の戦乱の中で衰退して、本山と数十はあった塔頭寺院のその後については不明な点が多いようです。多くの寺院が廃寺となったり合併統合していく中で、景愛寺や通玄寺といった本山は名跡のみが残るだけとなり、実質は、宝鏡寺(人形寺)や大聖寺、曇華院といったその塔頭寺院が継承して現在に至ることになります・・今回の慈受院も、何とか現在まで生き残ってきた門跡尼寺のひとつになります。

さて、慈受院の創建ですが、室町時代の正長元年(1428 、応永三十四年(1427)とも)、室町幕府第四代将軍・足利義持の室、従一位日野榮子(日野大納言資康の女子)が、亡夫の遺言により、その菩提を弔うために建立したと伝えられています。日野榮子は、義持逝去(応永三十五年(1428)正月)の翌月に、相国寺の佛慧正續国師の弟子となって落飾し、法名を浄賢竹庭と称しました。
また、同じ日野榮子(浄賢竹庭)を開基として、総持院という門跡尼寺が同時期に創建されています。
こうして、浄賢竹庭尼は、尼五山の第二位・通玄寺の開基・智泉尼の法嗣となって、慈受院と総持院は、曇華院(どんげいん)と並んで通玄寺の三子院(塔頭)といわれ、通玄寺が衰退した後も存続していくことになります。
また、慈受院と総持院は、一世浄賢竹庭とその跡を継いだ二世桂芳宗繁(足利義持の娘)によって兼帯されますが、その後はそれぞれ住持を迎え独立します。そして、以下で触れますが、現在の慈受院は、明治時代に総持院が、衰退した慈受院と合併してその由緒ある名跡を継承したものになります。


少し話しは外れますが、慈受院と総持院の本山の通玄寺という寺院についてです。
通玄寺は、室町幕府の第二代将軍足利義詮夫人の紀良子の母・智泉尼が創建した臨済宗尼院でした。智泉尼は石清水八幡宮の神官了清に嫁いだ後、夢窓疎石に師事し出家し女性です。通玄寺は三条洞院(現・中京区曇華院前町の西一帯付近)にあって尼五山の第二位という大寺院でしたが、応仁の乱で衰退し、その後、塔頭の曇華院(智泉尼が晩年に通玄寺境内の東に庵を結んで「曇華」と号したことに始まります)が名跡を継承(臨済宗瑞雲山通玄寺曇華院)する形で合併しました。その後は、通玄寺自体が、「曇華院」と呼ばれるようになったということです。尚、この曇華院も応仁の乱で被災しますが、その後間もなく再建されました。
曇華院は現在も京都を代表する門跡尼院の一つなので、少し続けます・・大永七年(1527)に再び火災に遭いますが、天文二十一年(1552)後奈良天皇の皇女・秀聖尼が入寺して再興します。慶長八年(1603)にまた火災に遭い、寛文年間(1661〜73)後西天皇の皇女・聖安尼が入寺して再興します。宝永五年(1708)にも焼失、天明八年(1778)の大火でも類焼、元治元年(1864)の「蛤御門の変」の兵火で全焼しました。以後三条には再建されず、明治五年(1872)に嵯峨野へと移転して現在に至ります。(嵯峨北堀町、鹿王院の西にあり、「竹之御所」と呼ばれています。)




さて、慈受院に戻ります・・元々高倉中御門北にありましたが、応仁の乱や宝永五年(1708)の大火によって焼失し、烏丸寺ノ内、寺町荒神口下ルへと移転を重ねます(烏丸に移転した後は「烏丸御所」と呼ばれるようになったようです。)創建以来、足利家の息女や、伏見宮やその他公家からの入寺が続きますが、江戸時代初期の第七世の後西院女子・多喜宮瑞光女王(大圓宗悟)の死後は、その姉にあたる曇華院の大成聖安(館宮聖安女王)が慈受院を兼帯し、その後幕末まで慈受院は曇華院の兼帯となっています。

一方、総持院も創建以来、将軍足利家一族や、姻族近衛家の息女等が入寺して住寺しました。また第百一代称光天皇から「薄雲御所」の名を賜ったようです。応仁の乱で焼失しますがその後再建、天正十一年(1583)の伏見宮貞敦親王の息女が五世として入室以後、江戸時代には近衛、花山院両家より交互に入寺しています。また、宝暦年間(1751〜64)以後は比丘尼御所の号に列し、明和元年(1764)には、後桜町天皇によりまた由緒ある「薄雲御所」の号を拝受しています。 天明八年(1788)の大火によって焼失しますが、後に再建されますが、文化十年(1813)以降に無住となり、明治六年(1873)に、曇華院が兼帯していた慈受院と合併し、大正八年(1919)、総寺院から慈受院に改称し現在の地に再興しました。慈受院に掲げられている2つの伏見宮文秀女王(考明天皇の第一皇女)の扁額はこの時の記念に書かれたものです。(総持院は慈受院より広い敷地を持っていましたが、「慈受院」が、開祖の法号でもあり、寺格の高い由緒ある寺号であることから後世に残すべく、「総持院」の寺号を廃止して慈受院に改めたのでした。)

こうして、慈受院は、開祖の竹庭尼の一字「竹」から「竹之御所」と称し、また総持院や曇華院という同じく通玄寺の他の塔頭との関係から「薄雲御所」、「烏丸御所」等の由緒ある名前を継承しているようです。そして、寺宝として皇室ゆかりと伝える品々を所蔵しています。

慈受院で通常一般に公開されているのは、境内にある毘沙門堂ですが、ここには日本三体随一といわれる毘沙門天像が祀られています。後小松天皇が念持仏としていたこの尊像を足利氏に賜ったものと伝わり、明治時代までは一般公開もされていませんでした。また巨大な十三重塔は慈受院のシンボル的な存在でもあり、遠くからでも目立ちます。
また近年に整備された前庭は、浄賢竹庭(日野栄子)に因んで「竹」を主題としていて仏教伝来の地・明日香各地の遺石を配したものになっています。



最後に、「源氏物語千年紀」関係で、慈受院が「源氏物語ゆかりの寺院」として採り上げられている点についてです・・・
「源氏物語」第十九巻「薄雲」と慈受院(薄雲御所)の名前との関連だけでなく、「総持院(慈受院と合併)」が、一時寺町荒神口下ルに移転していた事とも関係があるようです。この荒神口周辺(現在は京都府立鴨沂高校がある辺り)には、かつて平安時代に太政大臣・藤原道長が建立した法成寺という壮大な寺院がありました。藤原道長は、「源氏物語」の愛読者でもあり、紫式部の才能を高く評価して、自身の娘で一条天皇の妃となった中宮彰子(しょうし)に仕える家庭教師に任じたことでも知られ、一説には源氏物語の主人公・光源氏のモデルともいわれます。
また、この法成寺旧跡からそれ程遠くない所には、盧山寺(上京区寺町広小路上る)がありますが、平安時代には紫式部の曽祖父・藤原兼輔の邸宅があった場所といわれています。紫式部この邸宅で育って結婚生活を送り、「源氏物語」や「紫式部日記」等はこの地で執筆されたものと考えられています。

道長ゆかりの法成寺の旧跡にあった総持院が「薄雲御所」と呼ばれていたことから、慈受院が再興される際に、この御所名も継承することになりました・・このような関係で慈受院は、(少し遠い繫がりではありますが、)「源氏物語ゆかりの寺院」として採り上げられているようです。


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