京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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上京区小川通寺之内下ル射場町にある報恩寺は、「鳴虎(なきとら)」の通称で知られるお寺です。
この珍しい通称は、報恩寺が所蔵する「鳴虎図」に因んでいます。境内にお寺の歴史についての表示板があるのでそれに基づいて書いてみます。


報恩寺は、正式には尭天山佛牙院鳴虎報恩寺という浄土宗寺院で、本尊は鎌倉時代の名匠・安阿弥快慶の作と伝わる阿弥陀三尊像です。

報恩寺の前身は明らかではありませんが、寺伝よれば、室町時代中期までは一条高倉付近(現在の京都御苑内、後に有栖川宮高松殿邸となりました。)にあり、「法園寺」または「法音寺」という天台・浄土等の八宗兼学の寺院だったようです。
その後、文亀元年(1501)に後柏原天皇の勅願により西蓮社慶誉(きょうよ)上人(一風明泉和尚)が堀川今出川の舟橋の地に再興し浄土宗寺院となりました。この時に寺号を報恩寺と改めて後柏原天皇より勅額を賜ります(この額は享保の大火により焼失しました。同じくその他、仏舎利、浄土変相、千体地蔵尊像、虎の図、興正菩薩の二十五条袈裟等の寺宝を賜って、現在当寺や京都国立博物館で保管しているということです。)

その後、天正十三年(1585)に豊臣秀吉の命により現在地に移り、天正十五年(1588)正月には、移転地での再建完成を前にして後陽成天皇より完成祝賀の御消息や六字名号賜っています。また、慶長五年(1600)には、大阪城城代だった備前国福山藩祖・阿部正勝が報恩寺に埋葬され、二年後には弟父子も葬られています。
さらに、元和九年(1623)には、九州筑前(福岡県)の大名・黒田長政が報恩寺で死去しています・・この年、徳川秀忠・家光父子が御所への参内のために上洛し二条城に泊まりますが、合わせて黒田長政も江戸から入洛し、この報恩寺を宿舎としました。しかし持病が悪化し、将軍からの見舞や大坂から呼んだ名医の手当ての甲斐も無く、八月四日報恩寺の客殿で死去しました。
(遺骸は筑前博多筥崎で火葬、埋葬されました。後の再建ですが報恩寺の客殿には黒田長政が死去した部屋もあります。)



ここで「鳴虎」の由来の面白いエピソードについてです・・・
「鳴虎」とは、文亀元年(1501)に後柏原天皇から賜った寺宝の虎の掛け軸のことです。
中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)という署名があり、宋〜明時代に画かれたと推測されています。山岳地域を背景に虎が谷川の水を飲んでいる様子を描いていて、背後の松にはカササギが止まり、虎の毛が一本一本描かれて立体図のように浮き出ています。また左からと右からとでは姿が違って見えるということです。

その昔、豊臣秀吉が報恩寺に来寺した際、この虎の図が気に入って聚楽第に持ち帰って床に掛けて楽しんでいた所、夜になると虎が吠えて一晩中眠れず、「これは鳴虎じゃ。早く寺に返せ」と翌朝早々に寺へ帰したところ、静かになったということで、この掛け軸は「鳴虎」として有名になり、寺も「鳴虎報恩寺」という称号を用いるようになったと伝えられます。
(この虎の絵は、寅年の正月三が日に限り特別公開されますので、後2年待ちたいと思います。)




さて、その後の報恩寺ですが、享保十五年(1730)の享保の大火のために、報恩寺は類焼しますが、本尊阿弥陀如来像、仁王像、地蔵尊像、絵画類、古文書等は難を逃れました。
その後、再建が始まります・・・享保十八年(1733)九月に本堂再建の祈願法要が行われ、元文二年(1737)十一月に本堂再建の上棟式、十二月に遷佛法要が行われます。元文三年(1738)四月には本堂の再建入佛大法要が行われています。寛保三年(1743)三月に快慶作と伝わる仁王像の修理が完了、開眼供養が行われました。延享三年(1746)十一月には、文亀元年(1501)に後柏原天皇から賜った鳴虎図の表装を改装修理、延享五年(1748)五月、賓頭盧(びんずる)尊者像の修理完了、開眼供養を行います。(昭和五十四年(1979)に塗り替え修理開眼供養)・・
こうして、徐々に再建されてきた報恩寺ですが、天明八年(1788)一月に全京都を襲った天明の大火によって再び類焼炎上しました。
享和元年(1818)四月にようやく客殿、玄関、内玄関が再建され、この客殿(方丈)に本尊阿弥陀三尊像を祀ります。しかし、本堂と庫裏は現在までも再建されないままになっています。




また、報恩寺で知られるのは、重要文化財に指定されている梵鐘です。
この梵鐘は、その由来は不明ですが、高さ123.5cm、口径73cm、素文の銅鐘です。高い笠形で肩すぼまりの形態、乳の形や八角素弁小形の撞座(つきざ)2個が龍頭(りゅうず)の方向と直交している等の奈良時代以来の古式を残す平安時代鋳造の鐘ということです。
昔から西陣の付近一帯の機屋は、この鐘の音を聞いて一日の仕事の初めと終わりの合図にしていたということですが、一名に「撞かずの鐘」、「撞くなの鐘」とも言われていて、悲しい伝説が伝わります・・・

ある織屋に仲の悪い丁稚(でっち)と織女(おへこ)がいましたが、ある時、報恩寺の夕方の鐘が幾つ鳴るかで賭けをしました。丁稚は八つと言い、織女は九つと言って争います。
悪賢い丁稚は密かに寺男に頼んで、今日の夕方だけは八つで止めてほしいと頼んで約束させました。何も知らない気の良い寺男は簡単に引き受けてしまったのでした。さて、夕方になり鐘は鳴り始めますが、丁稚の計画通り八つで終わってしまいました。

本来、鐘は百八つの煩悩を除滅することを願って撞くもので、百八が基準で、百八を十二の時で割って、九つづつ撞くのが正しいのでした。(十二分の一、六分の一、四分の一、二分の一等に分けて撞くこともあるようです。)この賭けに負けた織女は、悔しさと悲しみのあまり狂気となって、鐘楼で首を吊って自殺してしまいました。
その後、怨霊の祟りのためか鐘を撞くと不吉な事が生じるので、寺では織女の霊を厚く供養して菩提を弔い、また朝夕に鐘を付くことを止めて除夜と大法要の時のみに撞くことになったということです。(除夜には一般参詣者も一回づつ鐘を撞くことが出来ます。)



また、門前にある石橋は、慶長七年(1602)に秀吉の侍尼・仁舜尼から寄進されたもので、今は埋められた小川(こがわ)の名残を止める貴重な遺産でもあり、桃山時代の貴重な石造美術品として知られます。他に境内には、新しい地蔵堂、稲荷社、宮内庁が管理する後西天皇皇女・賀陽宮墓があります。

さらに、報恩寺は、観世流能楽、謡曲の家元の観世家歴代や志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺でもあり、報恩寺ゆかりの仁舜尼や福山藩祖・阿部正勝等の墓碑を併祠しています。その他、秀吉からの現在地への移転に関する下知状、後陽成天皇の御消息や六字名号、後西天皇の宸翰、有栖川宮、華頂宮の写経、名号等多くの書画を所蔵しています。
(桜の頃の写真も掲載しておきます)

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京都市上京区には、通常非公開ですが由緒ある門跡尼寺が数多く集まっています。
その中で一つだけ非常によく知られているのは、春秋に特別公開される「人形寺」宝鏡寺(ブログに採り上げています)です。宝鏡寺は「百々(どど)御所」とも呼ばれていますが、その他にも○○御所の異名のある門跡尼寺があります。

○宝慈院(千代野御所)

○三時知恩寺(入江御所)

○光照院(常盤御所)

○慈受院門跡(薄雲御所、竹之御所、烏丸御所とも)

○大聖寺(御寺=おてら御所)



今回は宝慈院を採り上げます。

上京区衣棚町通寺ノ内上る下木下町にある宝慈院(ほうじいん)は、知らない人は気が付かずに通り過ぎてしまうような静かに佇んだお寺です。山号を樹下山(じゅげざん)という臨済宗の尼門跡寺院の一つで「千代野御所(ちよのごしょ)」とも呼ばれています。

さて、前に宝鏡寺の時に書きましたが、鎌倉時代の弘安年間(1278〜87)、現在の上京区西五辻東町には日本で最初に女性として禅僧となったと伝えられる無外如(むげにょ)大禅尼が開山した景愛寺(けいあいじ)があり、宝慈院はこの景愛尼寺の塔頭の一つとして創建されました。
無外如大禅尼は、幼名を千代野(ちよの)といい、鎌倉幕府の有力御家人重臣・安達泰盛の娘と伝えられます。北条氏一族の金沢顕時に嫁いだ後、中国(南宋)より来日して臨済宗を広めた高僧・無学祖元に従って出家し、永仁六年(1298)、七十六歳で死去しました。生涯に不明な点も多いですが偉大な女性宗教者として語り継がれています。

さて、景愛寺の塔頭・宝慈院は、はじめは資樹院と称していいましたが、応仁の乱の後に宝慈院と改められたということです。そして、南北朝時代の光厳天皇の皇女・華林恵厳(かりんえごん)尼(宝鏡寺の創建者でもあります)が住寺の時に、無外如大禅禅尼の幼名に因んで「千代野(ちよの)御所」と号し、紫衣を許され、これ以降は宝慈院の住持は、皇族か公卿の女子と定まり、江戸時代には比丘尼御所の一つに列しました。
(尚、本山の景愛寺は、足利氏の庇護をうけ、「京都尼寺五山(景愛寺・檀林寺・護念寺・恵林寺・通玄寺)」の第一位として、南北朝時代には大いに栄えましたが、応仁の乱以降に衰退消滅します。宝慈院には景愛寺の貴重な寺宝が継承されています。)


現在の本堂は天明八年(1788)の天明の大火後の再建で、収蔵庫に安置されている本尊・阿弥陀如来像(重要文化財)は、平安時代末期の作といわれ寄木造で丈六(約2.8m)の大きな坐像で景愛寺の旧仏といわれています。また脇壇には木造仏光国師像と木像無外如大坐像(共に重要文化財)を祀っています。
また、定説ではありませんが、「千代紙」の名前の由来は、この宝慈院(千代野御所)で尼僧らが書いた絵から始まったために、「千代野御所」から「千代紙」と呼ばれるようになったという説もあります。

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多くの大小の寺院が建ち並ぶ西陣地域でも、中心的な大寺院の一つ、上京区浄福寺通一条上ル笹屋町にある浄福寺(じょうふくじ)を採り上げます。
浄福寺は、朱塗りの東門があることから「赤門寺(あかもんでら)」とも呼ばれ、広い境内が開放的で地域の人々に広く親しまれているお寺です・・・西陣散歩の際には、境内を東〜南へ抜けてみるのも良いでしょう。



さて、浄福寺は、山号を恵照山(えしょうざん)という浄土宗寺院です。
創建年代や由緒については不明な点が多いようです・・・元々は天台宗寺院で、延暦年中(782〜802)に、奈良興福寺の賢憬(けんきょう、けんけい、けんえい 奈良室生寺のを創建したことでも知られます)大僧都が、桓武天皇の勅願により唐から請来した釈迦如来像を安置する寺として、村雲の地(現・堀川今出川)に創建したと伝えられますが、一方で、寛平八年(896)に宇多上皇の生母・班子女王が創建し、定額寺に列せられ、浄福寺の額を賜って官寺の待遇を受けたともいわれています・・・「類従三代格」など資料的に、班子女王創建説の方が正しいと考えられています。

平安時代には二十五大寺の一つに数えられていたということですが、度々火災に遭い、鎌倉時代の建治二年(1276)に後宇多天皇の勅命によって一条村雲に再建され、以来、「村雲(むらくも)寺」とも呼ばれるようになりました。その後、室町時代末の大永五年(1525)に後柏原天皇より念仏三昧堂の勅号を賜って浄土宗を兼ねるようになり、後に知恩院に属しました。その後も火災により寺地は転々としたようですが、元和元年(1615)に相国寺門前北から現在地に移りました。享保四年(1719)の火災により鐘楼と南門を除く諸堂を焼失し、現在の建物の多くは享保十八年(1733)に再建されたものです。(天明の大火(1788)の焼失は逃れることができました。)また浄福寺は幕末には薩摩藩の屯所にもなっています。



広い境内の中心には、本尊・阿弥陀如来像を安置する本堂があります。
本堂は享保十六〜十八年(1731〜33)にかけて再建された堂々とした建物で、入母屋造の礼堂と寄棟造の仏殿を両下げ造の合いの間で接続した複合建築で、古式を残し変化に富んだ外観が特徴ということです。
また、本堂東側にある方三間堂形式の釈迦堂は、宝暦六年(1756)に再建されたもので、三国伝来と伝える釈迦仏を安置しています。その後方には玄関や庫裏、享保十九年(1737)の再建(明和元年 1764とも)と伝わる方丈、享保十九年(1734)に再建された書院が並んでいます。その他境内には、東と南に山門があり、南側には鐘楼が建っています。

この四方吹き放しの鐘楼は、寛永五年(1628)の再建で現在地に移転後の造営、また一間薬医門の南門は江戸初期の造営ということで、共に上京区では希な享保の大火で焼失を免れた貴重な建物です。また、東門は、江戸時代前期に現在の姿になったと考えられる四脚門で、現在の門は江戸後期の造営ですが、全体に朱塗りが施されていることから「赤門」と呼ばれています。
これら本堂以下の一連の建物は、江戸中期の浄土宗寺院の伽藍配置や建築様式をよく伝えている貴重な遺構として京都市指定有形文化財に指定されています。
他に寺宝として、鎌倉時代の「二十五菩薩来迎図二幅」と室町時代の延徳元年(1489)に土佐光信が描いたと伝えられる「十王像十幅」が重要文化財に指定されています。

その他、境内には2m近い地蔵菩薩を祀る地蔵堂、地蔵石像、弁財天社等があり、また赤門付近には護法大権現や十一面観音菩薩等を祀る小さな諸堂が集まっていて庶民的な親しみやすい雰囲気が漂っています。また境内墓地には、光格天皇皇女霊妙心院はじめ著名な公卿や殿上人の墓が多いということです。

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上京区の紫明通の南、堀川通の東西は、多くの寺院が集まっていて中々面白い地域です。
妙蓮寺、本法寺、妙顕寺、妙覚寺といった大寺院や春秋に特別公開される宝鏡寺(人形寺)等が建ち並び、また茶道家元の裏千家今日庵と表千家不審庵があることでも知られます。
大小ある様々な寺院の中でも、今回の大応寺(大應寺)はそれ程目立たない寺院ですが、「悲田院」跡という由緒ある地に建つ寺院のようです。


上京区堀川上御霊前上る扇町にある大応寺(大應寺)は、山号を金剛山という臨済宗相国寺派の寺院です。天神公園という児童公園内に山門があり、公園に入らなければお寺の存在に気づかないかもしれません。
元々この地は、九世紀初期に、熱心に仏教を信仰したことでも知られる檀林皇后(786〜850 嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子 たちばなのかちこ)が、「悲田院(ひでんいん)」を建てた地と伝わります。
悲田院というのは、仏教思想に基づいて、貧病人や孤児等の救済施設として作られた施設のことで、日本では聖徳太子が四天王寺に建てた「悲田院」が最も古く、奈良時代の養老七年(723)に光明皇后によって作られたものが有名です。その後、平安時代になると、京都に東西二カ所(九条三坊)に設けられたようで、一つは鴨川の三条河原付近にあり、鎌倉時代から室町時代初期に、現在地(上天神町・扇町・天神北町・瑞光院前町付近)に移転しました。この地の悲田院はその後、寺院として整備されていきます。

そして、室町時代の文明二年(1470)、第百二代後花園天皇が死去した際は、それまで東山区の泉涌寺で葬礼が行われていましたが、応仁の乱で寺が破壊されていたために、その遺骸はこの悲田院で火葬にされたと記録されています。しかし、その後も続く戦乱により、この悲田院も荒廃してしまいました。(尚、悲田院は、江戸時代の正保ニ年(1645)に現在の泉涌寺の山内に移されて今日に至っています。)
さて、その後、天正十四年(1586)、虚應(こおう)和尚が由緒ある悲田院の跡地を惜しんで建てたのが大応寺になります。大応寺は度々火災に遭って再建を繰り返し、現在の建物は文化五年(1808)以後の再建ということです。江戸時代には堀川通から小川通までの扇町一帯を敷地としていたようですが、現在では寺域は縮小して、昭和の地域整理によりかつての寺域に扇町公園が造られています。


本堂内には、本尊の釈迦如来像、脇侍の迦葉・阿難像を安置し、また後花園天皇の念持仏と伝えられる観世音菩薩像を祀っています。また、境内には大応寺の鎮守社の織部稲荷社があります。
この稲荷社は、織部流茶道の祖として有名な古田織部正が伏見稲荷大社から勧請したものと伝えられ、開運福徳の神、織物技術上達の神として西陣織物業者から信仰され、2、8、11月には織部稲荷奉賛会によって祭祀が行なわれているということです。


最後に、本堂の背後の堀川通沿いには、宮内庁が管理する後花園天皇の火葬塚があります。
後花園天皇がこの地にあった悲田院で火葬にされたという記録に基づいて明治以降に整備されたものですが、京都にある中世の多くの天皇陵や火葬塚の中では、最も信憑性のあるものといわれています。(尚、後花園天皇の御陵は、右京区京北京北井戸字丸山にある常照皇寺(ブログに採り上げています)内にある後山国陵(のちのやまくにのみささぎ)に葬られ、遺骨の一部は、京都市上京区の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ ブログに採り上げています)に分骨されています。)

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このブログでは、他の人なら無視するような京都の小さな史跡もフォローしていきたいと思っています・・今回は上京区出水通千本東入る西明神町にある桜宮神社を採り上げます。


桜宮神社は本社に天照皇大神、金刀比羅宮、春日大神、八幡大神、稲荷大神、愛宕大神、御嶽大神を、境内摂社に宗像三姫大神(大弁財天)を祀ります。

神社の創建伝説が中々面白いです・・平安時代の醍醐天皇の時代の延喜十年(910)、北野神社(現北野天満宮)右近の馬場の桜の大樹に紫雲がたなびいて、何ともいえない香りが漂い、日輪が降臨しました。この素晴らしい奇跡を記念して、一社を建立し(北野神社総門の外、南北に通る通り辺り)、太陽神である天照皇大神を祀ったと伝えられ、その後、洛陽朱雀の北、近衛の小路(現在地)に遷座しました。尚、創建時は桜宮日降神明と称し、桜葉明神、桜宮とも呼ばれていたようです。

平安時代末期の後白河天皇の時代には、桜町中納言成範が熱心に参詣して霊験があったため、歌を一首献上した記録があります。また、南北朝時代には、足利二代将軍義詮が子宝に恵まれないために桜宮に祈ったところ男子を授かりました。これが三代将軍義満であったために、義満は桜宮を崇敬し南北朝統一を祈念したということです。戦国時代の後奈良天皇の時代には、京の都に疫病が流行し、桜宮で病魔退散を祈念したところ多数の者が病気を免れたとも伝えられます。また、元禄七年(1694)、但馬国の住人・荒木氏の妻が、十年もの間難病に苦しんでいたのが、桜宮の霊験を知って祈ったところ忽ち全快したので拝殿を寄進しています。元禄十六年(1703)には、時の関白・鷹司兼煕(たかつかさかねひろ)が神社に参詣し、桜宮の縁起を記した一巻を奉納しています。(現在も社宝として納められているということです。)

現在は、地元の人以外は立ち寄らないような印象を受ける狭い境内の桜宮神社ですが、創建時以来の天照皇大神の霊験伝承に加え、後世に金刀比羅宮、春日大神、八幡大神、稲荷大神、愛宕大神、御嶽大神が合祀され、また摂社に宗像三姫大神(大弁財天)を祀られているように、これまでに多くの信仰を集めてきたことが想像できます。


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