京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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上京区御前通一条下がる東堅町にある回向院(えこういん)は、情報の少ない浄土宗寺院ですが、江戸時代後期の画家・長沢芦雪(蘆雪 ながさわろせつ 1755〜99)の墓があることで知られるお寺です。山門横には芦雪の墓があることが記された石標が立っています。(写真)


長沢芦雪は、円山応挙の弟子として「応門十哲」の一人に数えられ、近年、その独自な画風が再評価されている画家です。イラスト画を連想させる芦雪のほのぼのとした可愛い子犬や猿等の絵をご覧になった方も多いかと思いますが、経歴には不明な点が多い人物で、その出自も明らかではありません。 丹波国篠山藩(兵庫県篠山市)の武家の出身、また山城国淀藩(現・京都市伏見区淀本町)の藩士の上杉家に生まれ、長沢家の養子となったともいわれています。その後、年代は不明ですが円山応挙の弟子となり、独自の画境を開きました。

応挙の弟子は千人に及び、応挙が創造した写生画法を忠実に学びましたが、長沢芦雪だけは応挙の模倣では無く、応挙に学んだ優れた描写力に加えて、極めて大胆な構図と奔放な筆力で人を驚かす奇抜な作品を描きました。師の応挙は芦雪の才能を高く評価していたようで、天明六〜七年(1786〜87)にかけて、自身の代理に抜擢して、芦雪を南紀(和歌山)へ遣わしました。芦雪は和歌山でもその才能を発揮し、串本周辺の諸寺院(成就寺(古座町)、無量寺(串本町)、草堂寺(白浜町)、高山寺(田辺市)等)には重文に指定された多くの障壁画等が残されています。

独自の大胆な画風からも何となく感じられるように、芦雪の生涯は様々な真偽の不確かな破天荒な逸話も多いようです。性格は豪放快活で酒豪でもあり、天才肌で傲慢なところもあったようで、応挙から3度も破門されたという話も残っています。その最後も謎に満ちていて、46歳で謎の死を遂げますが、一説には毒殺されたともいわれています。毒殺の真偽は不明ですが、普通の死に方では無かったようで、応挙に才能を認められ自由な生き方をしたことから、他の弟子や周囲の嫉妬と反感を得ていたことも考えられます。

それはともかく、長沢芦雪は、伊藤若冲や曾我蕭白などと共に「奇想の画家」として近年人気が高まっていて、どことなくユーモアを感じさせるその画風は、今でも新鮮に感じられます。
短い生涯で持てる才能をフルに発揮した長沢芦雪は、回向院の墓地に静かに眠っています。

釘抜地蔵(石像寺)

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これまで、西陣周辺のお寺を数多く採り上げて来ましたが、この地区のお寺では、やっぱりこのお寺は良いなあ・・と再確認したのが、前に少し登場した上京区千本上立売上ル花車町にある石像寺です。
石像寺は通称「釘抜地蔵」として知られています。




石像寺は、正式には家隆山光明遍石像寺と号し、弘仁十年(819)に、弘法大師空海が創建したと伝えられます。創建寺には、真言宗で光明遍照院石像寺と号した八町四方の大きな寺院だったようです。
その後鎌倉初期に、法然上人の弟子で、東大寺を再建したことでも知られる俊乗坊重源上人が再興し浄土宗に改めました。また平安末から鎌倉初期にこの地には藤原定家や藤原家隆らが当寺に住んだとも伝えられ、藤原家隆の名前に因んで、山号を家隆山としたという少し信憑性の無い伝承もあり、この関係で境内には藤原定家や藤原家隆の供養塔もあります。






さて、地蔵堂に安置された本尊の石像地蔵菩薩像は、大きさ三尺六寸(約1m9cm)あり、大師が唐より持ち帰った石に自ら刻んだものと言われます。その後人々の信仰を集め、苦しみを抜き取る地蔵様として「苦抜地蔵」と呼ばれるようになったと伝わります。

当初「苦抜地蔵」と呼ばれていた石像寺が「釘抜地蔵」と呼ばれる様になった理由として、「くぬき→くぎぬき」と訛って広まったという説の他に、以下の伝説に由来しているとも言われます。
室町時代の弘治二年(1556)頃、堀川上長者町辺りに住んでいた京都有数の大商人・紀伊国屋道林という人が、40歳の時、両手が原因不明の激しい痛みに襲われ、治療をしても治らないため悩んでいました。そして霊験あらたかと評判のこの苦抜地蔵を話を聞き、さっそくお参りして願掛けをしました。
すると、道林の夢の中に、地蔵菩薩が現われて、「お前のこの度の痛みは病では無い。お前が前世で人を恨んで人形の両手に八寸の釘を打って呪った事がある為に、その罪がお前に返って苦しみを受けているのだ。お前が祈り救いを求めたので、私の神力で昔の恨みの釘を抜き取ってやろう。これを見よ」と2本の釘を示したと言うことです。道林が夢からさめてみると、両手の痛みが治っていました。道林が急いで地蔵菩薩にお参りに行くと、不思議な事に地蔵菩薩像の前には朱に染まった2本の八寸釘があったのです。道林はそれから100日の間日参し、その御恩の万分の一にもと感謝の気持ちを捧げました。その時よりこの地蔵菩薩は釘抜地蔵と呼ばれる様になったと言うことです。






こうして、「釘抜地蔵」として有名となった石像寺では、願いごとがかなってお礼参りに来られた方は、通常の絵馬と違った本物の釘抜きと釘が付けられた絵馬を奉納します。本尊のある地蔵堂の外壁にはこの釘抜きの絵馬で埋め尽くされています。(写真)
また、地蔵堂の後には、重要文化財に指定されている石像弥陀三尊像が安置されています。この阿弥陀像は、鎌倉初期の元仁二年(1225)に伊勢守佐伯朝臣為家によって彫られたという銘がある立派な仏様です。また本堂には行基の作と伝える観音菩薩像も祀り、弘法大師が自ら掘ったという京都三井の一つと伝えられる井戸があります。






釘抜地蔵(石像寺)の境内は、少し中庭のような感じもする空間になっていて、ほっこりした気持ちになる優しい雰囲気が漂っている気がします。この雰囲気の良さもあり一年中参拝者が多いのも頷ける気がします。庶民派の小さなお寺としては一番のお勧めです。

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西陣辺りを歩いていると、目立つ家があります・・上京区御前通西裏上ノ下立売上る北町にある奥渓家(おくたにけ)住宅は、京都市内に残る数少ない貴重な古民家として主屋・長屋門が京都市の有形文化財に指定されています。


奥渓家は、豊後の戦国大名でキリシタンとしても知られる大友宗麟の嫡男義統の次男に始まると伝えられます。奥渓家の初代・奥渓以三は、江戸で医業を修め、元和六年(1620)の後水尾天皇の皇后・東福門院入内の際に、侍医として上洛し一条烏丸角に屋敷を構えたと伝えられます。
そして、東福門院死後に家禄を返上して別宅(下屋敷)だった現在の地に移りました。第四代から七代までは仁和寺門跡の御典医を務め、その後は製薬を本業として、現在も、十二世梅軸軒奥渓以三薬房 (ばいじくけんおくたにいさんやくぼう)と言う名前で大友胃腸薬「たくま」を販売されています。(残念ながら住宅内は非公開です。)


さて、奥渓家主屋は、増改築により複雑な平面構成になっているようですが、木造瓦葺二階建の建物で、基本的には東西棟の台所と書斎部分の南側に、玄関と座敷棟が突出した形になっています。
また本玄関、中玄関、玄関、台所大戸口と規模の割りに出入り口が多いのが特徴と言うことです。
かってはより間口の広い貫禄ある建物だったようですが、造営年代は寛文六年(1666)から正徳六年(1716)の間に建てられた台所部分を原型に、増改築が繰り返され、幕末頃にほぼ現在の形になったと考えられています。
また、長屋門は享保九年(1724)の火災による焼失後、享保十一年(1726)に再建されたもので、戦後に南三間が取り壊されるなど多小の変更がなされていますが、市街地に残る茅葺の門として希少価値のあるものになっています。
旧御典医の住宅遺構として貴重な奥渓家住宅は、江戸時代の京都の歴史を今に伝えている小さな史跡です。

妙覚寺

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上京区新町頭鞍馬口下る下清蔵口町にあるのが、日蓮宗の具足山・妙覚寺です。


妙覚寺も前回の妙蓮寺等と同様に、日蓮宗系京都十六本山の一つで、妙顕寺・立本寺とともに三具足山と言われ、北龍華とも呼ばれます。妙覚寺も以前は境内自由のみのお寺でしたが、現在は本堂・庭園・祖師堂内部が一般公開されています。(ただし撮影のみに関心がある方、予約の無い団体客はお断りしますと張り紙が掲示されていますので、観光化と言うのは違うかもしれません。)まだまだ観光客もチラホラ程度という感じですが、紅葉の穴場としては知られつつあるようです。


さて、妙覚寺の創建ですが、また、宗祖日蓮上人より「帝都弘通(ていとぐずう 京都での布教活動)」という遺命を受けた日像上人が登場します。これまでに出てきた立本寺も妙蓮寺も、この妙覚寺も、日像上人が創建した妙顕寺から分立したお寺なので仕方ありません・・・とにかく日像上人は3度追放されながらも、最後には布教を許されて妙顕寺を創建し、後醍醐天皇より、法華宗の宗号綸旨を与えられ勅願寺となる成功を収めます。

しかし、その後、前回にも書きました妙顕寺の宗論及び後継者騒動から妙顕寺を出た日実上人が、永和四年(1378)、豪商小野妙覚の寄進を受けて四条大宮に妙覚寺を創建することになります。
その後、文明十五年(1483)に十二世日寮上人の時代に、将軍足利義尚の命で室町西二条押小路衣棚に移りました。この時代妙覚寺は大いに栄え、山内の塔頭は百を超え、全国に末寺が千を数えたと言われます。
しかし、天文五年(1536)「天文法華の乱(天文法難)」が起こり、比叡山延暦寺、南都僧兵、近江衆等の大軍に、京都日蓮宗二十一本山は全て焼き払われます。この時に妙覚寺貫主十七世日兆上人は堺へ避難する途中の鳥羽街道で流れ矢によってて死去(遷化)しています。

天文十一年(1542)、帰洛が許され、妙覚寺は天文十七年(1548)、旧地に復興しました。第十九世日饒(にちじょう)上人は、美濃(岐阜)の戦国大名斎藤道三の子だったという縁もあって、妙覚寺は元亀・天正の頃には、本能寺と共に織田信長(斎藤道三の婿)の宿所になっています。


ここで話が飛びますが・・妙覚寺と言えば、斎藤道三ゆかりのお寺としても知られます。
斎藤道三は司馬遼太郎の「国盗り物語」等の歴史小説の影響から下克上の典型的な人物として知られ、徒手空拳から美濃一国の主になった人物として、北条早雲や松永久秀と共に「戦国三悪人」等と言われてきました。しかし道三の伝記は江戸時代以降に書かれた戦記物語によっていて、歴史的資料が乏しく不明な点が多いため正確なことはわかりません。また近年は、北条早雲もそうですが、小説家が面白く描いてきたような成り上がりの劇的な生涯というより、実際はある種のボックボーンがあったと考えられ、道三については父と2代での国盗りだったとも指摘されているようです。

それはともかく、妙覚寺に伝わる伝承では、道三は若い頃に妙覚寺で修行していましたが、父は長井豊後守利隆というれっきとした武士の出身で、道三は妙覚寺の日諦上人に帰依していたと伝わります。また道三の弟の隼人正は日重上人の知人だったと言うことです。そして第十九世日饒(にちじょう)上人が若くして妙覚寺の貫主になったのは父道三の力によると考えられるようです。

さて、道三は弘治二年(1556)四月十一年に日饒(にちじょう)上人に遺言状を記し、翌二十日に子の義龍と戦って長良川畔で敗れ戦死します。妙覚寺では、この道三の遺言状が展示されています。(写真)斎藤道三の家紋「二頭立波(二頭波)」紋の下に掲示されいる遺言状には、美濃を信長に譲った事、子(日饒上人)の妙覚寺入りを喜び、自身は明日の戦いで死ぬ覚悟だと記しています。

「わざわざ申し送りし候意趣は、美濃の国大桑において、ついには織田上総介の存分に任すべきの条、ゆずり状信長に対して渡しつかわす。その節たらば下口出勢眼前なり。
その方こと、堅約のごとく、京の妙覚寺へのぼられたるはもっともに候。一子出家するば九族天に生ずといえり。かくのごとくととのい候。一筆なみだばかりなり。
よしそれも夢、斎藤山城ここに至って、法華妙躰のうち、生老病死の苦をば、修羅場において仏果を得る。うれしいかな。
すでに明日の一戦におよび、五躰不具の成仏疑いあるべからず。げにや、捨ててだにこの世のほかはなきものを、いずくかついのすみかなりけん 弘治二年四月十一年 斎藤山城入 道三 児まいる」



道三の死後、遺言状により美濃を譲り受けた織田信長は、斉藤氏を滅ぼしました。そして美濃を拠点に上洛を果たします。妙覚寺は信長が2度目の上洛をした元亀三年(1572)以来は定宿となり、天正元年(1573)、三年(1575)には妙覚寺で千利休の茶頭で大茶会が行われているようです。

また天正十年(1582)六月一日には信長の嫡男・信忠が妙覚寺に宿泊し、本能寺の変を知って手勢を集めて二条御所に立て篭もり応戦しましたが衆寡敵せずに御所に火を放って自刃しました。妙覚寺もこの時焼失したようです・・・この点について、妙覚寺のパンフレットでは「幸いにも妙覚寺は兵火を免れたと伝えている。」と記されています。その後、天正十一年(1583)に豊臣秀吉の洛中整理により、現在地への移転を命じられ、翌天正12年(1584)に再建されました。

この頃、伊達政宗が妙覚寺を宿としています。
伊達政宗は天正十九年(1591)に秀吉の厳しい命令により上洛し、3ヶ月間妙覚寺に滞在しました。その間政宗は、訪問してくる諸侯たちに自身亭主となって茶を勧め、徳川家康や千利休(結局、切腹する直前になりました)とも対面しました。結局、伊達政宗は従四位に叙任され聚楽第の秀吉を訪ね信任を得る事に成功することになります。


妙覚寺と言えば二十一世日奥上人も有名な人物です。
日奥上人は、日蓮宗の伝統的な基本原則「不受不施(日蓮宗の僧は他宗の者から施しを受けず、また、日蓮宗の信徒は他宗の僧に施しをしない)」を強く主張し、豊臣秀吉や徳川家康の怒りを買うことになります。日奥上人は、秀吉が方広寺大仏殿で行った仏開眼千僧供養会への参加を各宗派の僧に命じた時も、秀吉が日蓮宗徒で無いことを理由に出仕を拒否しました。

しかし、既にこの時代には「不受不施」の伝統は失われつつあり、受不施を主張する僧も多かったため、権力に逆らう行為に対し宗派内部からも激しい批判が起こります。
こうして日奥は妙覚寺を去りますが、その後も徳川家康が継続した千僧供養会に対しても出仕を拒否して、ついに家康は日奥上人を対馬へ配流ました。その後赦免されますが、再び受不施・不受不施をめぐる宗派対立が起こり、結局、寛永八年(1631)、幕府は受不施派を認め、不受不施派を弾圧しました。
日奥上人はこの時既に死去していましたが、中心人物として墓を暴いて遺骸を再び対馬に流したほどでした。この不受不施派に禁止により新寺の建立も禁止され、妙覚寺は大きな打撃を受け勢力は衰えました。

しかし本阿弥光悦の猶子の二十四世日充上人、伏見宮邦房親王の子二十五世日廷上人が公家の信仰を集め、特に霊元天皇の母・敬法門院が熱心な信者として宮中に信仰を広めたと伝わります。その後、天明八年(1788)の大火により、華芳塔堂と大門を残し焼失しましたが、同年に住持となった四十九世日遂上人以降の歴代貫首によって整備され今に至っています。



さて、境内を見てみると、本堂・祖師堂・華芳塔堂・華芳宝塔・大門の5棟が京都府指定有形文化財となっていますが、特に大門は聚楽第の裏門とも伝えられ天明の大火で残った貴重な表門です。本瓦葺の切妻造の薬医門形式の豪華な門です。桜とマッチして絵になることでも知られています。(写真)
境内中央にあるのが祖師堂(御影堂)です。宗祖日蓮上人坐像(京都府重要文化財指定)と、左右に日朗、日像両上人坐像を祀っています。(この内部も公開されています。)これらの坐像は等身大で桃山時代の作です。

本堂の北にある小さなお堂=華芳塔堂内も天明の大火で残った室町時代の貴重な建築です。
内部には日蓮上人が彫ったと伝えられる華芳塔が多宝塔内に納められて祀られています。(写真)これは若き日の日蓮上人が比叡山で学んでいた時、法華経一巻を石造りの塔に納めたもので、その後元亀二年(1571)の織田信長の比叡山焼き討ちの際、岩倉村の山本修理亮という者がこの石塔を見つけて持ち帰り妙覚寺に納めました。後にこの石塔を納める木造の多宝塔が造られ一堂も造られました。(石塔は華芳塔、多宝塔は華芳宝塔、掛堂は華芳塔堂と名付けられていて、京都府の有形文化財に指定されています。)寺宝として、重要文化財指定の日蓮上人筆の盂蘭盆御書(うらぼんごしょ)や先程の斎藤道三公遺言状等があります。


玄関、庫裡を通って、本堂の庭を鑑賞します。
この庭園は「法姿園」と名付けられていて、前庭・中央・奥庭の3つに分かれています。前庭は本堂前の唐門、大塀に囲まれた方形の庭です。(写真)
杉苔が一面に植えられ、楓を中心に松や桜も植えられています。シンプルという以外には説明が難しい落ち着いた庭で、特に秋の紅葉シーズンは見ごたえがあります。苔と木々だけの空間からは、余計なものはいらない・・ただ夫々の季節を鑑賞して欲しいという意図を感じます。

中庭は本堂と書院の間にある50坪程度の方形に庭です。ここには樹齢百年を超える五葉松、赤松等が植えられています。奥庭は石庭と茶庭で構成されています。
最後に少しはなれた境外墓地には、日蓮・日像・日朗の三聖人を祀る三菩薩目笠塔婆と言う供養塔があります。また狩野元信・永徳以下の歴代狩野家の墓があります。(写真)
中央は元信の墓で、それ以外は磨耗のため不明です。


妙覚寺は、まず大門の桜(写真)が写真ファンを集める場所です。庭はやや面白みに欠けますが紅葉は見ごたえがあります。全体にやや地味で観光的には知名度はまだ低く訪れる人も少ないので、お茶菓子を頂きながら静かな時を過ごせるかもしれません。

妙蓮寺

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前に芙蓉の花を採り上げました妙蓮寺です。見所の多いお寺なので今回は沿革その他書いてみます。

妙蓮寺は、これまでも境内自由でしたが、庭園や襖絵の拝観を始めたのは近年の事だと思います。
最近はこれまで寺宝や庭園を公開して来なかった寺院が、経済的な理由や公開を求める声等により、通年公開や期間限定の特別公開を始めています。観光名所が増えるのはありがたいですね。
妙蓮寺内でも観光寺院化の是非については色々議論があったようですが、庭園が復元されたことをきっかけに庭園と襖絵を広く一般に公開しています。(また事前予約で、重文指定の長谷川等伯の襖絵等も特別拝観可能です。)


さて、上京区寺之内通大宮東入る妙蓮寺前町にある妙蓮寺は、山号を卯木山という本門法華宗の大本山で、本尊は日蓮自筆と伝える十界曼荼羅です。
妙蓮寺の創建は、宗祖日蓮上人より「帝都弘通(ていとぐずう 京都での布教活動)」という遺命を受けた日像上人によって、永仁二年(1294)に創建されました。(京都の日蓮宗系の寺院の創建については同じような創建話を書くことになりますが、よろしくお願いします。)

日像上人は六老僧(日蓮聖人の六大弟子)の日朗上人の弟子でしたが、宗祖日蓮上人は、死の床で13歳の日像に京都での布教活動を託しました。その後、25歳になった時、日像上人は京都布教を決意し鎌倉から上洛します。
京都での日像上人の布教活動は、五条西洞院の大酒造りの柳酒屋の主人・仲興(なかおき)入道夫妻を帰依させました。そして主人死後、未亡人は邸内に一宇を建立して上人を請じ、(未亡人は自身、剃髪し妙連法尼と称します。)寺号を妙法蓮華寺(柳酒屋から柳寺とも言われます)と称したのが妙蓮寺の始まりと伝えられます。(柳の字を二つに分けて卯木山としたと伝えられます。)しかし、その後他宗派等の迫害により衰退し廃寺となりました。


ここで話が長くなりますが・・
日蓮宗は幾度か分派分裂の歴史を繰り返していますが、室町時代に幾つかの対立を生み出した原因の一つに法華経の内容に関する解釈論争がありました。
法華経の前半(第一から第十四の安楽行品まで)を「迹門」、後半(第十五の涌出品〜観発品第二十八まで)を「本門」と言いますが、この前半と後半の関係をどう見るかという、本迹一致か本迹勝劣かと言う「本迹一致・勝劣」論争という教義論争です。
日蓮宗はそもそも「本迹勝劣」の立場を基本としてきましたが、宗派内部で「本迹一致」を採る異論が起こったことから混乱を生み分派を生むことになります。(この問題は教義の内容を理解しないと書けない複雑な問題なので、知識も無く、またブログの趣旨とも違いますのでこれまでにします。)
以前に、妙顕寺の第五世・具覚月明上人の時代、比叡山衆徒の攻撃を受けて妙顕寺が破壊された時に、立本寺が分立したことを書きましたが、そもそも具覚月明が「本迹一致」を唱えた事が混乱を引き起こし、日隆、日慶、日存、日道らを妙顕寺から去らせたのでした。


さて、応永年間(1420頃)、この論争で妙顕寺を去った日慶上人は日隆、日存、日道らと妙蓮寺開祖・日像上人ゆかりの妙法蓮華寺(柳寺)を、大宮四条下るに本門八品門流の寺院として再興し卯木山妙蓮寺と号しました。その後、永享年間(1440頃)堀川四条に移り、宝徳元年(1449)皇室や伏見宮家と関係の深い日応僧正を別当職に迎えてから、皇族や足利将軍義尚等の参詣が増えました。
また公家の今出川家出身の日忠上人は、三井寺より改宗して妙蓮寺に投じ他人物で、学室道輪寺を創立し本化教学の道場を開き、こうして妙蓮寺は大いに栄え、京都の法華宗二十一本山のひとつとして発展したと言うことです。
しかし、天文五年(1536)の「天文法華の乱(天文法乱)」により、比叡山延暦寺をはじめとする諸宗の10万人によって襲撃され、他の本山と共に焼失しまし、堺に逃れます。

天文十一年(1542)に帰洛を許されて、大宮西北小路に復興し、その後、天正十五年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第造営のために現在地に移転しました。その当時は七堂伽藍が建ち並び塔頭27を有する大寺院でしたが、天明八年(1788)の天明の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなりました。翌寛政元年より復興を開始し諸堂を完成させ現在に至ります。(現在の塔頭は8院です。)


境内を見てみると、妙蓮寺の山門は文政元年(1818)に御所より拝領し建立したもので、両袖番所付という特徴があり風格を感じさせる門です。(写真)
また鐘楼は、天明の大火から逃れた江戸時代初期の貴重な鐘楼で、入母屋造本瓦葺の数少ない本格的な袴腰鐘楼です。(写真)
玄関・奥書院の襖絵は、長谷川等伯一派の作と言われる全42面の金碧画で、庭園の庭石と共に秀吉が寄進したものと伝えられます。奥書院の四間には、元々この重文の長谷川一派の襖絵がありましたが、保存のため昭和五十六年(1981)に完成した日本画家幸野楳渓筆の「四季の襖絵」に変えられています。こちらも親しみやすい四季の風景図です。
寺宝として本阿弥光悦の筆による「立正安国論」と後深草天皇御宸翰の「法華経」が重要文化財に指定され、他に松尾神社に伝わる「松尾社一切経」等があります。

枯山水庭園は江戸初期のもので、「十六羅漢の石庭」と呼ばれます。(写真)
白河砂に16の石を配置し、北山杉を植えた庭園です。桂離宮の造営を指図した妙蓮寺の僧玉淵坊日首の作庭と伝えられ、中央よりの大きな青石は、牛が伏せている姿に似ていることから臥牛石といい、豊臣秀吉によって伏見城から移された名石と言うことです。天明の大火等の火災により損傷が激しかっものを、近年に造園当時の姿に復元されたものです。

また境内の墓地には、赤穂義士四十六名の遺髪塔があります。(写真)
討ち入り後に切腹が決った際に、同志の寺坂吉右衛門が赤穂城下への帰路の途中に、京都伏見に住む片岡源五右衛門の姉宅に立ち寄って、遺髪を託しました。赤穂義士の遺髪は、主君の三回忌にあたる元禄十七年(1704)二月、この姉が施主となり菩提寺である妙蓮寺に遺髪塔を建立しました。しかし、歳月により老朽化したため、平成十四年に再建されたものです。



他に境内には、前に採り上げた芙蓉や、有名な「妙蓮寺椿」や「御会式桜」があり四季の花でも楽しめるお寺です。「妙蓮寺椿」は、室町時代の連歌師として有名な宗祇の写生と賛がある掛け軸の写しが残っていて、五百年以上の歴史がある由緒ある椿です。40年程前に火災で一世が焼失したようですが、その後二世が昭和五十六年(1981)から育てられていると言うことです。この苗が販売されています(写真)(6000円です。昨年はお茶関係者にまとめて売れたようですが、今年は売れ行きが悪いそうです。送料が8000円かかるそうです。)
また「御会式桜(おえしきざくら)」は、10月13日の日蓮大聖人御入滅の日前後から咲き始め、4月8日のお釈迦様の聖誕日ごろ満開となる珍しい桜です。(写真)





妙蓮寺では拝観者にガイド説明していただけます。行かれた方はご存知かと思いますが、時間が経過するにつれ光の角度が変わって襖絵が変わって行くとか、京都の魅力と色々面白いお話を聞かせてもらって、ついつい話し込んで長居してしまいました。その他、宿坊・席貸も受け付けていて、毎月12日には境内でフリーマーケットが行われています。
京都の日蓮宗系の寺院の中では堅苦しさが無くて、またふらっと境内の花などを覗いてみたい親しみやすいお寺です。


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