京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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椿のある風景(椿寺)

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お待たせしました。
この前に採り上げました、椿寺の「五色八重の散り椿」が現在、八分咲きだそうで撮影してきました。

このお寺は、椿(それと枝垂れ桜)が最大のセールスポイントなので、今の季節に訪問しないと魅力がわからないところがあります。大田神社のカキツバタとかもそうですが、1年である時期のみ輝くお寺の典型という感じですね。

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上京区の千本通鞍馬口下ル閻魔前町にある引接寺(いんじょうじ)は、正式には、光明山歓喜院引接寺と言い、高野山真言宗に属しているお寺です。本尊に閻魔法王を祀ることから一般に「千本ゑんま堂」と呼ばれ親しまれています。(昨年お盆の頃にも少し採り上げましたが、もう少しまとめてみます。)




引接寺の開基は、平安時代の歌人として知られる小野篁で、あの世とこの世を往来する神通力を持ち、昼は宮中、夜は地獄の閻魔庁に仕えたという伝説がある人物です。そして、「化野」「鳥辺野」と並ぶ平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたる、平安京の大通りの朱雀大路頭(現・千本通り北側)に篁自ら閻魔法王の姿を刻み建立したのが引接寺の始まりと伝わります。

小野篁は、閻魔法王から、亡き先祖の霊を再びこの世に迎えて供養する「お精霊(しょらい)迎え」の法儀を授かり、それを諸人に伝える現世浄化の道場として一堂を開きました。この法儀とは、卒塔婆供養と迎え鐘を用いるもので、以降、宗旨や宗派を問わない民間信仰として発展し、現在も「盂蘭盆会(お盆)」の行事として多くの人が参拝しています。
この「お精霊迎え」ですが、旧盆の8月7〜15日、先祖の精霊が、ゑんま法王の許しを得て各家庭に戻られるのをお迎えする行事です。参拝者は水塔婆を流し迎え鐘をついて、その音に乗ってこの世に帰られた「おしょらいさん」を仏壇の扉を開いてお迎えします。そして再び15〜16日には「お精霊送り」でお送りすることになります。前にお盆の風景としてブログで採り上げましたが、地元の方を中心に多数お参りされています。

さて、小野篁以後、寛仁元年(1017)、比叡山恵心僧都源信の法弟・定覚上人が、「諸人化導引接仏道」の意から「光明山歓喜院引接寺」と命名し寺院として開山しました。
本堂に祀られる本尊の閻魔法王は、創建時の像が応仁の乱で焼失した後、長享二年(1488)の定勢作と伝えられ高さ2.4mあり、左右に司命、司録を従えた姿で安置され、また堂内の壁には桃山時代の狩野元信筆閻魔王庁の図が飾って地獄の裁判庁舎を象っています。

また、境内の北側には、八月の「お精霊迎え」の「迎え鐘」「送り鐘」、大晦日の「除夜の鐘」で知られる鐘楼があります。この鐘は、南北朝時代の康歴元年(1379)の作で、京都市指定文化財に指定されています。(高さ148cm・口径82cm)






さて、境内の西北には、紫式部供養塔(高さ6m、幅・奥行き185cm、花崗岩製)があります。
この塔は、かって紫野にあった白毫院(びゃくごういん)という寺院にあり、白豪院が衰退したことにより天正年間(1573〜92)にこの地に移設されたものと伝わります。南北朝時代の至徳三年(1386)圓阿上人の勧進により建立したという銘があり、貴重な十層の石塔で国の重要文化財に指定されています。

この塔は、二重の宝塔と十三重塔の残欠を組み合わせた珍しい偶数の塔です。
一重目の円形の基礎石に十四体の地蔵小像が刻まれ、その上の軸部に薬師如来、弥勒菩薩、定印阿弥陀如来、釈迦如来の4仏坐像を刻んでいます。(像の横に至徳三年(1386)圓阿上人の勧進によって建立したとの銘があります)二重目は4隅に柱を立て、その中に鳥居を刻んだ円柱の軸部を置いています。その上に9個の笠石を置いて十重塔にしています。

紫式部のあの世での不遇な姿を見て成仏させようと建立した供養塔と伝えられますが、紫式部は源氏物語を書いたため虚言で人を惑わした罪で地獄で苦しんだという伝承があり、これが冥府の役人小野篁と結びついたのかもしれません(前に採り上げましたが、堀川北大路下る西側には、二人の墓があります。(江戸時代以降に並んだ形になったようです)





また、境内の桜は、「普賢象桜(ふげんぞうさくら)」、別名「えんまどうふげん」と言われる名桜です。花冠のまま落ちる珍しい桜で、白い花が咲き、花弁の中から双葉が出て茎が長く垂れ下がる様子が、普賢菩薩の乗った白象の鼻に似ていることからこのように呼ばれています。古くから銘木として知られ、これまでに何度か植え継がれて植え替えられてきました。

この「普賢象桜(ふげんぞうさくら)」は、古来2種あって嵯峨小倉山の山桜系の「二尊院普賢」、もうひとつが里桜系の「ゑんま堂普賢」ということで、この地は普賢桜の発祥の地ということになります。元々、平安京の朱雀大路頭になる船岡山麓に広く植えられ、この地に桜が千本あったことから、精霊供養の「千本卒塔婆」に因んで「千本」という地名が生まれたとも言われています。(房ごとに落花するため種も実もとれず、突然変異で生まれて来るのを待たなければならなかったため、出来るだけ多くの桜を植えるようになったという説もあるようです。)

当時は、桜と言えば、一重の桜しかなかったため、この豪華な花は人気を集めたようで、室町時代には多くの貴族がこの桜を見ようと訪れました。応永十五年(1408)、足利義満も後小松天皇に勧められて訪れ、感激して桜の頃に狂言を執り行うようにと、費用に米五十石を与えたと言うことです。また、船岡山は江戸時代には処刑場でもあったため、この桜の花の散る様子が、一ひらずつではなく花冠のまま落ちるという姿が、斬首される囚人の姿に似ているとして、京都所司代は、この花を獄舎の囚人に見せ、仏心を起こさせたとも伝わります。

最後に、このお寺で5月に行われる「ゑんま堂大念仏狂言」は、京都三大念仏狂言(他は清涼寺、壬生寺)のうち、唯一の有声狂言で京都市の無形民族文化財に指定されています。
庶民的な雰囲気がいっぱいの千本ゑんま堂ですが、貴族や武家の信仰を集めてきた現在の一流の観光大寺院とは違った、京都の庶民信仰の歴史を感じさせてくれるお寺です。

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上京区七本松通仁和寺街道上る一番町にある立本寺(りゅうほんじ)は西陣のほぼ中央に位置する大きなお寺です。これまでも、隠れた桜の名所という感じのお寺が幾つか出てきましたが、立本寺も桜の名所として知られます。また、本堂前には80種類80本もの蓮の鉢が並べられていて夏場もお勧めです。




さて立本寺は、妙顕寺、本圀寺(以上、大本山)、妙覚寺、本法寺、本満寺、頂妙寺、妙傳寺と並ぶ日蓮宗京都八本山の一つで、具足山と号し、大本山妙顕寺、本山妙覚寺とともに三具足山と呼ばれています。(尚、この八本山は、狭義の意味での「日蓮宗」ということです。このブログでも色々出て来ましたが、その他京都には法華宗等各派の本禅寺、本能寺、本隆寺、妙満寺、妙蓮寺、宥清寺、要法寺、實光寺の八本山もあり、合わせて京都十六本山と言います。)

創建に関しては諸説あって、日蓮上人の孫弟子・日像上人が妙顕寺を創建した時点をそのまま創建とする説と、後に妙顕寺の跡地に日実上人が新しく本応寺を建立したことに始まるという説があり、その時期に関しても諸説あるのですが、両説合わせた流れで書いてみます。

妙顕寺が創建された時点に溯ると、鎌倉時代末の元亨元年(1321)に日像上人が京都最初の道場として四条大宮(四条櫛笥)に開いた妙顕寺竜華院を始まりとします。
宗祖日蓮上人の遺言により、僅か13歳の日像上人は、「帝都弘通(ていとぐずう・京都での布教活動)」という大事業を遺嘱されます。仏教各宗派の勢力の強い京都での布教活動は、非常に困難で、数々の迫害に遭い何度も追放を受けながら、日像上人は妙顕寺を拠点に布教活動を行い、徐々に信徒を増やすことに成功していきます。(妙顕寺については別途書きたいと思いますので、妙顕寺と分裂して立本寺が誕生したという経緯から簡単に書きます。)

妙顕寺は、その後もしばしば比叡山延暦寺の攻撃を受けますが、四世日霽上人の時代、天寿四年(永和四年 1378)、内部対立から妙顕寺から離脱した日実上人が、明徳四年(1398)四条櫛笥に再建し「立本寺」と改名したとされます。(これが一応、正式な創建時期とされています。)
また、時期に関しては、応永二十年(1413)頃、五世具覚月明上人の時代、再び比叡山の衆徒の攻撃を受けて妙顕寺は破却され、月明上人が丹波へ避難している間、京都に留まったら弟子達が、応永二十二年(1415)に四条櫛笥の妙顕寺旧地に本応寺という寺院を建立したのが始まりともいわれ、その後月明上人が帰洛し、五条大宮に妙本寺(後に寺号を妙顕寺に戻す)を再建して両寺は対立することとなり、本応寺は比叡山の末寺という形で、立本寺と改称し分立したともいわれます。(比叡山の末寺というのはあくまで独立の口実と考えられているようです)このように、創建に関して諸説あるため、沿革を書くのが難しいお寺です。

その後、立本寺は法華宗の洛中二十一本山の一つとして栄えますが、天文五年(1536)の天文法華の乱でまたもや比叡山延暦寺の攻撃を受け破壊され、堺に逃れます。その後帰洛し、文禄三年(1594)に豊臣秀吉の都市改造により、寺町(京極今出川)に移転しますが、江戸の宝永五年(1708)の「宝永の大火」により焼失し、現在地へ移転再建されました。明治維新前は20の塔頭がありましたが、現在は正行院・教法院・光源院・大輪院の4院が残るのみです。





さて、立本寺の境内の約4〜5分の1は児童公園(立本寺公園)になっていて子供達の遊び場になっています。公園を除いても境内は広く、本尊十界大曼荼羅を祀る本堂(享保三年(1743)建造)、刹堂(鬼子母神堂 文化八年(1811)建造)、祖師堂、方丈等が立ち並んでいます。この内、本堂・刹堂(鬼子母神堂・客殿・鐘楼・山門(総門)が京都市指定有形文化財となっています。
特に、安産・子育て祈願で有名な子安鬼子母神(ご開帳は毎月8日)は「北野の鬼子母神さま」と親しまれています。
また、寺宝も多く、鎌倉時代の「紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図」、平安時代の「法華経并観音経」は重要文化財に指定されています。

庭園は、第五十世住職の日到上人により、天保十四年(1843)から嘉永三年(1850)の間に作庭されたもので、池を掘らずに築山を数多く築き、枯滝を配した江戸時代末期の記録の残る名園ということで、京都市指定の名勝に指定されています。この庭園は、長年荒れていたものが修復され、昨年秋、初めて特別公開されました。(多分、今年も公開されると思われます。要チェックです。)

また墓地には、江戸初期の豪商で島原の名妓として知られた吉野太夫の夫・佐野(灰屋)紹益の墓(写真)をはじめとする佐野一族(佐野瑩庵は確認できました)の墓や、石田三成の家臣であった島左近の墓があることでも知られています。





長くなりますが、島左近に関してだけ書いてみます。
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた島左近清興(友之・勝猛等)は、司馬遼太郎著「関ケ原」等の小説で伝説的なヒーローの1人として描かれることが多く、関ケ原で華々しく感動的な最期を遂げる・・というのが通説になっています。

今回、立本寺の島左近の墓を確認してみました。立本寺には皇室関係他多くの墓があるようですが、墓地の入り口には、「関ヶ原大軍師 島左近の墓」の石碑があり、島左近だけは特別扱いのような感じです。左近の墓は入り口から4〜5列程度西へ進み、そこから真っ直ぐ南へ歩いた地点に有ります。お墓の管理人も島左近の墓の位置だけはご存知でした(佐野家の墓はご存知無いようでした。)

墓碑には「妙法院島左近源友之大神儀」背面には「寛永九壬申年(1632)六月二十六没」とあります。(写真)墓から考えられることは、関が原で傷ついた左近は僧となって立本寺に見を隠して23年間密かに生き、推定93歳で死去したということになります。実際、立本寺の塔頭・教法院には位牌と過去帳も残されていて、今も子孫の方が供養されているということです。
つい最近、朝日新聞に掲載されていた記事ですが、司馬遼太郎「城塞」等にも登場し、大阪夏の陣で戦死したと考えられていた豊臣秀吉の黄母衣衆・伊木常紀が、大阪の陣の30年後まで生存していたことが、京都宮津の智源寺に位牌等が残されていることから判明したということです。歴史というのはそういう物かもしれません。

実際、島左近の生涯は不明な点が多く、後世の伝承によって様々に色付けされています。最後は、合戦中に消息不明となり、恐らく、戦死したと言われるのですが、死体は発見されていないようです。当時非常に多くの敗残兵が身を隠し、浪人となった点を考えると、僧に身を隠して生き延びたというのも有り得ることだとは思います。まあ、華々しく戦死しても、生き延びて人知れず影のように余生を送っても、戦国のヒーロー島左近らしい生き方ということになるのかもしれませんね。

東向観音寺

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今回は、上京区今の小路通御前通西入上る観音寺門前町、北野天満宮の参道西側にある東向観音寺です。
(以前に少しだけ採り上げたのですが、記事を削除していますので改めて書いてみます。ここはお寺のHPに詳細な沿革が書かれているので参照します。)




東向観音寺は、真言宗泉涌寺派の準別格本山寺です。
寺伝によると、平安時代の延暦二十五年(806)に桓武天皇の勅命を奉じた藤原小黒麿らが皇城鎮護のために創建したということで、当初は朝日寺という名前でした。
その後、この地には、巫女の多治比文子や近江比良宮の禰宜の子・神太郎丸に北野に社殿を造るようにとの菅原道真の託宣があり、天暦元年(947)に朝日寺の僧・最鎮と共に小さな祠を設け、これが北野天満宮の創建になります。

このように、朝日寺は北野天満宮の誕生に大きな役割を持ち、北野天満宮の神宮寺として一体化していくことになります。応和元年(961)には、筑紫(福岡県)の観世音寺より道真公作の十一面観世音菩薩を請来し安置します。その後、鎌倉時代の応長元年(1311)、無人如導宗師が中興し、この時に律宗に改めます。花園・後醍醐・光厳・光明の四天皇や足利氏の帰依を受け、筑紫の観世音寺に倣って「観世音寺」「観音寺」と改称し、「天満宮御本地仏」「北野神宮寺」「奥之院」とも呼ばれていたようです。そして、本堂が東を向くことから「東向観音」と呼ばれるようになったと言うことです。

かっては、東向と西向(一夜松の観世音菩薩を安置していたと伝わる)の両観音堂があったようですが、応仁の乱等で焼失し、慶長十二年(1607)に豊臣秀頼が北野天満宮を復興した際、東向観音堂のみ再建されました。その後江戸時代には公家の一條家の祈願所となり、一條家出身で明治天皇の皇后になった昭憲皇太后が結婚前に観音寺で勉学に励んだと言われています。創建以来、様々な名称で呼ばれてきた寺院でしたが、江戸後期に「観音寺」と定めました。





現在の本堂は、北野天満宮本殿の再建の際、豊臣秀頼によって再建された建物で、一重入母屋造・本瓦葺の本堂と、元禄七年(1694)建立の同じく、一重入母屋造・本瓦葺で礼堂を繋いだ権現造りのような複合形式の建物で、この本堂と礼堂は京都市の指定文化財になっています。
本堂には、道真公作と伝わる秘仏の十一面観世音菩薩が安置されています。この秘仏は25年に一度の御開帳で、次回の御開帳は平成三十九年(2027)になるということです。本堂には他に大聖歓喜天、束帯天神、無人如導宗師(中興開山)、賓頭盧尊者他を祀が祀られています。

境内には、元禄七年(1964)に建立された白衣観音堂があり、明国の陳元贇禅師より寄進されたと伝わる高王白衣観世音菩薩を祀ります。この観音像は、子供を抱いている珍しい物で、古来子授けや安産の信仰を集めています。
他に観音堂には、一條家から元禄年間に寄進された西国三十三所観音像三十三体も祀っていて、「洛陽三十三観音巡礼」31番札所になっています。
また厨子は徳川3代将軍家光の娘の千代姫が寄進したものと伝えられ、その他境内には、江戸初期の本堂再建時に奉納された岩雲弁才天や行者堂、鐘楼があります。





境内の南には、高さ4.5メートルという大きな石造の五輪塔「伴氏廟」があります。
この五輪塔は「北野の忌明(いみあけ)塔」とも言われ、かっては北野天満宮の境内の伴氏(ともうじ)社にあって、道真公の母・大伴氏の廟塔と伝えられてきましたが、明治四年(1871)の神仏分離令により観音寺境内の現在の地に移されました。室町時代には父母の死後49日の喪が明け後に、この塔に参る風習があったということから、「忌明(いみあけ)塔」と呼ばれてきたようです。(一説には、室町時代の守護大名だった山名氏清塔とも言われているそうです。)一見に値する巨大な石塔です。

「伴氏廟」の横には幾つかの五輪塔が置かれていますが、その中に屋根付きの祠のようなものがあり、石灯籠の残欠が収められています。これが「土蜘蛛灯籠」です。
「蜘蛛塚」とも呼ばれ、元は前に出てきました清和院(清和天皇ゆかりのお寺を参照)前にあったものですが、その辺りは、源頼光を悩ました土蜘蛛が生息していたという伝説があり、明治31年(1898)、発掘したところ石仏や墓標の破片とともに灯籠の残片(火袋)が出てきたということです。当時、これを貰い受けた人が庭に飾っていたところ家運が傾いたことから「土蜘蛛の祟り」といわれ、この観音寺に奉納したということです。

土蜘蛛というのは何なのか・・単なる妖怪伝説なのか、日本の先住民族の穴居住民族で、背が低く土蜘蛛のようだったとも言われ、弥生人以前の縄文人の子孫とか、アイヌ民族とかもちろん諸説ある歴史ロマンの世界です。前に上品蓮台寺の「源頼光朝臣塚(蜘蛛塚)」も採り上げましたが、古代平安京の魑魅魍魎とした世界を想像させますね。

椿寺(地蔵院)

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北区の大将軍川端町(一条通西大路東入ル)にある地蔵院は小さなお寺ですが、春には、名前通りの椿と、桜が美しくて観光スポットとしてお勧めできるお寺です。



昆陽山地蔵院は、境内に美しい五色散り椿があることから、通称、「椿寺」と呼ばれています。
寺伝によれば、地蔵院は、神亀三年(726)、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が大阪摂津の昆陽池の辺に創建したと伝わります。その後、平安時代に衣笠山の南に移されますが、室町時代の明徳二年(1391)、京都を舞台にした山名氏清よる明徳の乱が起こり、平安京の旧内裏跡で行われた内野合戦の際に焼失してしまいます。
足利義満は地蔵院の焼失を残念に思い、金閣寺造営の際の余材で、仮堂を建て、地蔵菩薩を祀ったということです。その後、天正十七年(1589)に豊臣秀吉の命により現在地(当時の一条紙屋川)に移ったということです。





地蔵院は、元は八宗兼学(この八宗は多分、奈良の南都六宗や平安二宗=天台・真言)だったのですが、江戸時代の寛文十一年(1671)に浄土宗となり、知恩院の末寺として、以前の本尊地蔵菩薩に代わって阿弥陀如来を本尊としたということです。この阿弥陀像は中国唐代の高僧・善導大師の作で、東大寺の俊重坊重源が招来したものと伝えられます。
地蔵堂には、元の本尊地蔵菩薩(鍬形地蔵、木納屋の地蔵と言われます)を祀っています。
この地蔵菩薩は創建時のもので行基菩薩の作と伝わり、また、堂背後の2枚の板扉は、北野天満宮にあった多宝塔の扉の遺構とされます。この地蔵堂は、霊元天皇の定めた洛陽四十八ケ所第十二番霊場になっています。
また観音堂には、平安時代の慈覚大師の作と伝わる木造十一面観音菩薩を祀っています。(元旦に開帳されるようです)この前に清和院について書いた時に出てきましたが、地蔵院は洛陽三十三ケ所観音霊場第30番札所になります。





さて、このお寺のシンボルは、豊臣秀吉が寄進したと言う「五色の八重散椿」です。
元々は、加藤清正が朝鮮出兵の際に、蔚山(ウルサン)城から持ち帰って秀吉に献上したもので、北野大茶会の際に、宿となった地蔵院に寄進したということです。白、赤、ピンク、絞り等に咲き分けて、また椿には珍しく花びらが1枚づつ散るのが特徴で、「五色散り椿」と呼ばれています。樹齢400年の当時の木は枯れ、いまは樹齢約百二十年の二世が本堂前に咲いています。
また、境内の墓地には、赤穂浪士の討ち入りの際、武器を買い揃えて手助けした堺の商人、天野屋利兵衛の墓があります。(写真)利兵衛は、晩年地蔵院に隠棲し名を松永土齋と改名し、剃髪して義士達の冥福を祈り73歳で死去したと伝えられます(利兵衛の木造が十二月十四日に公開されるようです)また、俳人与謝蕪村の師の早野巴人(はじん)の墓やキリシタンの墓(写真)もあります。





まだ、散椿は咲いていませんでしたが、枝垂桜も美しいので、機会があれば一度ご覧になってください。私も何とか椿と桜の写真を撮って更新したいと思っています。

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